天の梯子

暑さも少し和らぎ、夏休みも終わり、夜更けに虫の声も聞こえるようになりました。疲れが出ませんように!

祝福、成長、自立の原則

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信仰による自立の原則

先の信仰による成長の原則についての書き込みにおいて、
主を待ち望むことの大切さについて述べました。そのことについて使徒パウロは
「わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させてくださるのは神である。
だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、
成長させてくださる神のみである。」(新約聖書コリント第一の手紙3章6,7節)

と書いています。

また旧約聖書イザヤ書40章31には「しかし、主を待ち望む者は新たなる力を得、
わしのように翼をはって、のぼることができる」
と書かれています。

この言葉は成長をさせてくださるのは神であると述べ、人はその神を待ち望むとき、
成長することができると約束している言葉です。

私たちが神を信頼して
私は主が常に私を愛し、最善の計画と全能の御手をもって、
全ての状況を統べ治め、私を守っておられることを認め受け入れます。
なぜなら、「神は神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、
万事を益となるようにして下さる事を、私は知っているからです。」(ローマ人への手紙8章28節)

と信仰による祝福の原則を告白しつつ、待ち望むなら、神は私たちの心の殻がどんな厚くとも、
時間がかかろうとも、必ず心の殻を砕き霊的脱皮を助け、成長させてくださいます。

そのとき、神の助けとみわざを妨げることは人が自分の力で生きようとすることです。
神なき自我は待つことができません。待つことには時間がかかり、危険もあります。

わたしたちが待ち望むべきは力ではなく、主ご自身なのです。

わたしたちが主を信頼し、待ち望むことができない理由はなんでしょうか?
じっと静かに、待ち望むことのできない理由はわたしたちの外側にあるのでしょうか?
あのことやあの人にあるのでしょうか?

過去の体験で傷ついたわたしたちの心はそう主張するでしょう。
しかし、神はわたしたちの過去も現在も、将来をも統べ治めておられるのです。
もし、私たちが、過去の体験を通して傷ついた心の責任をあのこと、あの人のせいにして、
責めているなら、それは人を責めているのではなく、神を責め裁いているのです。

神は過去のすべての出来事、それが私たちに受け入れがたい、痛みや、
悲しみを与えたものであろうとも、そのことをとおしてわたしたちを導いておられたのです。

「あなたは善にして善を行われます。あなたの定めをわたしに教えてください。」(旧約・詩篇119篇68節)

人はだれもイエスが人の期待に反して、苦難の道、十字架の道を歩まれた意味を理解できませんでした。
ペテロがイエスに対して、はじめて「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と信仰を告白した、

「この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、
「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。
イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。
あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。(マタイ16章21〜23節)

とペテロを厳しく叱っておられます。

私たちには、神の御心、みわざが理解できないのです。
イエスはご自分の死を前にして「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。」(ヨハネ16章12節)
と弟子たちに言っておられますが、
それは私たちにも語っておられる言葉でもあります。

ですから、わたしたちは過去のいかなる人の言葉や行動のために、心が傷つけられ、
怒りや恨みを抱き続け、人を責め、神を裁いているなら、心の殻は決して砕かれることがないのです。
それが成長と自立を妨げてしまう心の殻なのです。

それは自分を義とし、他の人のせいにして、自分を守る鎧なのですが、
鎧は重くて自由と力を奪ってしまいます。

少年ダビデは鎧を脱ぎ捨て、羊を守る武器、石投げによって、巨漢ゴリアテを打ち倒したのです。(旧約聖書サムエル記上17章31〜49節)

それでは信仰による自立の原則を書きましょう。

『わたしは自分の思い、感情、言葉、行動には自分に責任があることを
認め受け入れ、決して他の人のせいにして責めたり、裁きません。なぜなら
「主は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである。』(新約・ペテロの第一の手紙5章5節)』


自立の要件は自由と責任です。
わたしたちが共依存関係による自他未分化の状態にあることに気づき、
私たちの心の殻を砕かれてはじめて自由になるのです。

神との関係と交わりが回復されたとき、わたしたちは自立した人として、他の人と健全な
境界線のある関係を確立することができるのです。そのとき
蝉や蝶が硬い殻から脱皮したのち大空を飛び翔るように生きることができるようになるのです。

私たちが人を恨み、神を裁いているなら、自分にはそれがどんなに正当だと思えても、
責め裁いている相手にわたしたちの心は支配され、縛られ、罪の束縛の下にあるのです。

ですから、まず神はわたしたちを赦し、愛していることを示すために、イエスをお遣わしくださり、
十字架の死をもって、私たちの罪をあがなってくださったのです。

『私は他の人や自分を恐れ、また過去や今の状況、あるいは将来に不安を感じ、
積極的、建設的に生きることができない時、勇気をもって自分の心を縛っている無意識の
抑圧された傷ついた情緒、感情を認め受け入れます。なぜなら「主は心いためる者をいやし、
捕われ人に放免を告げ、縛られている者に開放を告げられたからです。」(イザヤ書61章1節)』


人を恨み赦すことのできない私たちの心を自由にして、その自由にされた心に聖霊をそそいで、
人との和解に導き、神による真の自由と責任を備えた自立した人へと導いてくださいます。

私たちの心の渇きはいやされ、神の愛による平安が心を支配するようになる時、
人は神のかたちに造られた、本来の人としての姿と生き方を回復することができるのです。
これが福音なのです。喜びのおとずれなのです。

イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、
「もし私の言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。
また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう。」(ヨハネによる福音書8章31節)


「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、
わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」(新約・ヨハネの第一の手紙4章9,10節)



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信仰による成長の原則

孫娘リンは怖いといいながらも虫が好きなようです。
家の中にも団子虫がいますから、目ざといリンはすぐ捕まえます。
丸くなった虫を見せて、虫さんバイバ〜イ、元気ね〜といいながら外に逃がしています。

家の前が広い公園ですから、一緒に行きます。
夏の盛りには蝉の声がにぎやかですが、道端に蝉の抜け殻が落ちています。
初めは怖そうにしていましたが、手に持って、蝉さんイタイイタイね〜といいます。
蝉の抜け殻の背中にあるふかく切り込んだきず口を見ているのです。

いつか蝉の脱皮の様子をテレビで見ました。
長い時間をかけて、もがきながら殻を脱ぎ捨てようとしている様子を見ていると、
つい手を出して助けたくなりますが、もし助けると飛び立つ力がつきません。

あの傷口が内側に切れ込んでいなくて、外側に開いていればとも思います。
殻のなかの蝉のからだはやわらかく、傷つきやすいようですが、
だから、あの鋭い切り口から抜け出ることもできるのでしょう。

殻を脱ぎ捨てた蝉のからだは柔らかく、すぐには飛ぶことができません。
ほかのかまきりなどの虫に見つかればひとたまりもありません。
だから暗いうちに土の中から木や草に這い登り、時間をかけて脱皮をするのです。
脱皮の痛みと危険にさらされながらの命の営みです。
長い長〜い土の中から大空を舞う短い時間のための命がけの姿には心惹かれる姿があります。

先に信仰による祝福の原則について書き込みをしましたが、
現実には、弱さのゆえに、自分のうちの信仰を解き放つ力のなさを感じます。

殻を脱ぎ捨てた蝉は危険がいっぱいの中で、ぬれた羽や体が乾き、
力強く飛び立つために静かにその時を待っています。
待つことができないで、無理に飛び立とうとすれば、たちまち落ちてしまい、
群がる蟻の餌食となってしまいます。

「しかし、主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、
のぼることができる」(旧約聖書イザヤ書40章31節)


人が自分の力で生きようとすれば待つことができません。
待つことには時間がかかり、危険もあります。
わたしたちが待ち望むべきは力ではなく、主ご自身なのです。

わたしたちが主を信頼し、待ち望むことができない理由はなんでしょうか?
じっと静かに、待ち望むことのできない理由はわたしたちの外側にあるのでしょうか?
あのことやあの人にあるのでしょうか?

過去の体験で傷ついたわたしたちの心はそう主張するでしょう。
神はわたしたちの過去も現在も、将来をも統べ治めておられるのです。

わたしたちが信仰によって成長し、心を縛っている傷から解き放たれ、
神の恵みと祝福の世界へ飛び立つための原則をご紹介します。

信仰による成長の原則です。
『私は他の人や自分を恐れ、また過去や今の状況、あるいは将来に不安を感じ、
積極的、建設的に生きることができない時、勇気をもって自分の心を縛っている無意識の
抑圧された傷ついた情緒、感情を認め受け入れます。なぜなら「主は心いためる者をいやし、
捕われ人に放免を告げ、縛られている者に開放を告げられたからです。」(イザヤ書61章1節)』


神がすでにイエスの死とよみがえりによって、成し遂げてくださった罪の赦しを
信仰をもって受け取るなら、注がれた新しい命である聖霊のみわざが私たちのうちに働き始めるのです。

新約聖書ヨハネの第1の手紙1章9節には次のような言葉があります。
「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、
すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。もし、罪を犯したことがないと言うなら、
それは神を偽り者とするのであって、神の言葉はわたしたちのうちにない。」


また
>新約聖書マルコによる福音書4章26〜29節には次のような言葉があります。
また言われた、「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。夜昼、寝起きしている間に、
種は芽を出して育っていくが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。地はおのずから
実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。実がいると、
すぐにかまを入れる。刈り入れ時がきたからである。」


蝉は土の中に7年間幼虫の姿で、その時を待っています。
種は厚い殻で中の命が守られています。その種が土にまかれると、
土は厚い殻をやわらかくして、種の中の命は浸み込んでくる養分で育ちます。
卵の中の雛が育ち、まさに生まれでようとする、その時、親鳥が外から厚い殻を突き破るように、
種の厚い殻は砕かれ、芽が出るのです。

私たちのうちに注がれたイエスの愛といのちは私たちの心の厚い殻が砕かれる、その時まで、
イエスと共に土の中に葬られているときが必要なのです。
それが信仰による待ち望みの時なのです。

さまざまな困難や苦しみ、悲しみの中で、主を待ち望むなら、
必ず霊的脱皮の時が過ぎ去り、大空高く舞い上がる時が来るのです。

「しかし、主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、
のぼることができる」(旧約聖書イザヤ書40章31節)


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信仰による祝福の原則

神は天地万物を無から創造し、全てを統べ治めておられます。
神は人格と命の源であり、永遠なるお方であり、不変であり、無限であり、遍在しておられます。
神は全知であり、全能であられ、また聖であり、義であり、愛なるお方です。

神は喜怒哀楽をもち、涙を流される方です。
人は神によって、神のかたちに造られ愛されています。
にもかかわらず、この世界には理不尽としか思えない苦しみや悲しみ、悩みでいっぱいです。
なぜ?どうして?と誰もが叫びたくなる時があります。

神の御子であり、神の計画によって、この世に遣われたイエスでさえ、
家畜小屋で生まれ、時の王ヘロデに命を狙われ、エジプトへ逃げなければなりませんでした。
ヘロデ王の死後、ふるさとへ帰ってきたものの寒村ナザレでひっそりと暮らし、
父ヨセフは若くして亡くなり、イエスは長男として、
母マリヤと5人の兄弟たちの暮らしを支えなければなりませんでした。

30才のとき、忽然と家族のもとを出られ、公生涯、宣教の道を歩みだされますが、
家族からは気が狂ったと思われ、イスラエル社会の指導者からは神を汚す者、
人を惑わす者と見られ、常に命を狙われました。

イスラエルの王として、支配者ローマからの解放を期待した人々の期待に応えようとされないと、
人々は離れ、十字架につけよと叫び始めたのです。
そして神を愛し、人を愛された道は十字架の道だったのです。

その生涯の終わりの言葉は
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイによる福音書27章46節)
という叫びでした。

いったい、なぜ、神の御子が、罪なくして、十字架につけられ、殺されなければならないのか?
肉親にも、弟子たちにも、だれにも理解されない苦しみ、孤独。
それが、愛なる神の御心からおこっていることだと誰が信じられるでしょうか?
罪なき神の御子イエスにさえ、そのような過酷な道を歩ませる方が、果たして神であろうか?!
神は本当に愛であり、聖であり、義であり、全知全能であろうか?!

人は自らの罪によって悩み、苦しんでいる時でさえ、神を呪い、神なんかいない、
神が愛なんて信じられないと心のうちに叫び、心を人に、神ならぬものに心を売り渡す。

旧約聖書イザヤ書45章7節には次のような言葉がある。
「わたしは光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する。
わたしは主である。すべてこれらの事をなす者である。」


続けて、イザヤ書50章10節にはこのような言葉もある。
「あなたがたのうち主を恐れ、そのしもべの声に聞き従い、暗い中を歩いて光を得なくても、
なお主の名を頼み、おのれの神にたよる者はだれか。」


イエスは十字架の苦しみの中で、なぜ!と叫ばれました。
しかし、イエスの最後の言葉は「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」(マタイ27章46節)でした。

“すべては終わった”かに思われました。
しかし人類の歴史に新しい歴史が始ったのです!

“パッション”という映画をご覧になりましたか?
イエスの受難の最後の時がどのような出来事であったかを知らされます。
最も心に迫るシーンは、イエスが十字架の重さに耐えられず、倒れられると、
あまりの惨たらしいイエスの姿に母マリヤが駆け寄った時、
イエスがマリヤに《新しい時代が始るのです》と苦しみのなかで語られた姿でした。

イエスの誕生によって人類の歴史は
BC(Before Christ)とAD(Anno Domini主の恵みの年)に二分されています。

わたしは昨日ある家族をたずねました。30年来の信仰の交わりを持ってきた家族です。
今、その家族が大きな苦しみ、困難に直面しています。
ただひたすら信仰の歩みをしてきたことを私は知っています。

それでも、なお神の愛と真実を信じて歩もうとしていますが、
これまでの家族の絆が切り裂かれようとしています。
まるで、これまでかけがえのないものであったすべてを手放さなければならないような
瀬戸際に立たされている。

このような苦しみ、問題のなかにも神は神の愛と信実をもってすべてを支配しておられるのか?!
その中にも神の最善の計画が隠されているのか?!

その苦しみや問題の原因を誰かのせいにすることは容易であり、だれもがそうしたくなります。
まさにイエスの「わが神、わが神、どうしてわたしを・・・」との叫びが迫る時です。

神はイエスの苦難によって、人類の歴史を二分し、
すべての人が神の愛と祝福の道を歩むことができるようにしてくださいました。


聖書の冒頭にかえって、神と人との原点を確かめてみたいと思います。
神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを作られた。
神はこれを見て、良しとされた。
神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、
空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」

御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、
地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(創世記1章25〜28節)


神は神によって造られたすべてのものを良しとされたあと、
人をご自分のかたちにかたどった人を創造されました。
人は神の恵みと祝福の中で生かされる者として創造されたのです。

しかし、人が神の言葉にそむき、食べてはならないといわれた善悪を知る木の実を食べた後、
神は祝福に変えてのろいを次のように宣告されました。

神はアダムにむかって言われた。「お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。
お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
お前に対して土は茨とあざみを生えいでさせる。野の草を食べようとするお前に。
お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。
お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」(創世記3章17〜19節)


しかし、神は宣告されたのろいを再び祝福にかえるために、アダム契約、アブラハム契約、シナイ契約、
ダビデ契約とイエスによって成就される契約を更新されました。

神の時が満ちて、神はイエスをこの世に遣わされ、その死によって、
のろいの原因である罪から人を解放してくださったのです。

新約聖書ガラテヤ人への手紙3章13〜14節には次のように書かれています。
キリストはわたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから
購い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。
それはアブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、
また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。」


また新約聖書へブル人への手紙11章6節には次のような言葉があります。
「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、
また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、
信じなければならないからです。」


カインのささげ物ではなく、アベルの献げ物を神が受け入れられたのは、
それが信仰による献げ物だったからです。

「時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。
アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、
カインとその献げ物には目を留められなかった。」


神の祝福を体験する原則は信仰なのです。
さて、それでは信仰による祝福の原則の言葉をご紹介します。

『私は主が常に私を愛し、最善の計画と全能の御手をもって、全ての状況を統べ治め、
私を守っておられることを認め受け入れます。なぜなら、「神は神を愛する者たち、すなわち、
ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる事を、
私は知っているからです。」(新約聖書ローマ人への手紙8章28節)』


この言葉を信仰をもって、いつも、いかなる状況においても告白しましょう。
神は常に私たちにとって最善をしておられることを体験することができるでしょう。

ですから使徒パウロは次のように書いています。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい。
これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」(新約聖書第2テサロニケ人への手紙5章16〜18節)


また、旧約聖書箴言3章5〜6節には次のような言葉があります。
「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。
すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」

神の平安がありますように!


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