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神は天地万物を無から創造し、全てを統べ治めておられます。
神は人格と命の源であり、永遠なるお方であり、不変であり、無限であり、遍在しておられます。
神は全知であり、全能であられ、また聖であり、義であり、愛なるお方です。
神は喜怒哀楽をもち、涙を流される方です。
人は神によって、神のかたちに造られ愛されています。
にもかかわらず、この世界には理不尽としか思えない苦しみや悲しみ、悩みでいっぱいです。
なぜ?どうして?と誰もが叫びたくなる時があります。
神の御子であり、神の計画によって、この世に遣われたイエスでさえ、
家畜小屋で生まれ、時の王ヘロデに命を狙われ、エジプトへ逃げなければなりませんでした。
ヘロデ王の死後、ふるさとへ帰ってきたものの寒村ナザレでひっそりと暮らし、
父ヨセフは若くして亡くなり、イエスは長男として、
母マリヤと5人の兄弟たちの暮らしを支えなければなりませんでした。
30才のとき、忽然と家族のもとを出られ、公生涯、宣教の道を歩みだされますが、
家族からは気が狂ったと思われ、イスラエル社会の指導者からは神を汚す者、
人を惑わす者と見られ、常に命を狙われました。
イスラエルの王として、支配者ローマからの解放を期待した人々の期待に応えようとされないと、
人々は離れ、十字架につけよと叫び始めたのです。
そして神を愛し、人を愛された道は十字架の道だったのです。
その生涯の終わりの言葉は
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイによる福音書27章46節)
という叫びでした。
いったい、なぜ、神の御子が、罪なくして、十字架につけられ、殺されなければならないのか?
肉親にも、弟子たちにも、だれにも理解されない苦しみ、孤独。
それが、愛なる神の御心からおこっていることだと誰が信じられるでしょうか?
罪なき神の御子イエスにさえ、そのような過酷な道を歩ませる方が、果たして神であろうか?!
神は本当に愛であり、聖であり、義であり、全知全能であろうか?!
人は自らの罪によって悩み、苦しんでいる時でさえ、神を呪い、神なんかいない、
神が愛なんて信じられないと心のうちに叫び、心を人に、神ならぬものに心を売り渡す。
旧約聖書イザヤ書45章7節には次のような言葉がある。
「わたしは光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する。
わたしは主である。すべてこれらの事をなす者である。」
続けて、イザヤ書50章10節にはこのような言葉もある。
「あなたがたのうち主を恐れ、そのしもべの声に聞き従い、暗い中を歩いて光を得なくても、
なお主の名を頼み、おのれの神にたよる者はだれか。」
イエスは十字架の苦しみの中で、なぜ!と叫ばれました。
しかし、イエスの最後の言葉は「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」(マタイ27章46節)でした。
“すべては終わった”かに思われました。
しかし人類の歴史に新しい歴史が始ったのです!
“パッション”という映画をご覧になりましたか?
イエスの受難の最後の時がどのような出来事であったかを知らされます。
最も心に迫るシーンは、イエスが十字架の重さに耐えられず、倒れられると、
あまりの惨たらしいイエスの姿に母マリヤが駆け寄った時、
イエスがマリヤに《新しい時代が始るのです》と苦しみのなかで語られた姿でした。
イエスの誕生によって人類の歴史は
BC(Before Christ)とAD(Anno Domini主の恵みの年)に二分されています。
わたしは昨日ある家族をたずねました。30年来の信仰の交わりを持ってきた家族です。
今、その家族が大きな苦しみ、困難に直面しています。
ただひたすら信仰の歩みをしてきたことを私は知っています。
それでも、なお神の愛と真実を信じて歩もうとしていますが、
これまでの家族の絆が切り裂かれようとしています。
まるで、これまでかけがえのないものであったすべてを手放さなければならないような
瀬戸際に立たされている。
このような苦しみ、問題のなかにも神は神の愛と信実をもってすべてを支配しておられるのか?!
その中にも神の最善の計画が隠されているのか?!
その苦しみや問題の原因を誰かのせいにすることは容易であり、だれもがそうしたくなります。
まさにイエスの「わが神、わが神、どうしてわたしを・・・」との叫びが迫る時です。
神はイエスの苦難によって、人類の歴史を二分し、
すべての人が神の愛と祝福の道を歩むことができるようにしてくださいました。
聖書の冒頭にかえって、神と人との原点を確かめてみたいと思います。
神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを作られた。
神はこれを見て、良しとされた。
神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、
空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、
地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(創世記1章25〜28節)
神は神によって造られたすべてのものを良しとされたあと、
人をご自分のかたちにかたどった人を創造されました。
人は神の恵みと祝福の中で生かされる者として創造されたのです。
しかし、人が神の言葉にそむき、食べてはならないといわれた善悪を知る木の実を食べた後、
神は祝福に変えてのろいを次のように宣告されました。
神はアダムにむかって言われた。「お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。
お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
お前に対して土は茨とあざみを生えいでさせる。野の草を食べようとするお前に。
お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。
お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」(創世記3章17〜19節)
しかし、神は宣告されたのろいを再び祝福にかえるために、アダム契約、アブラハム契約、シナイ契約、
ダビデ契約とイエスによって成就される契約を更新されました。
神の時が満ちて、神はイエスをこの世に遣わされ、その死によって、
のろいの原因である罪から人を解放してくださったのです。
新約聖書ガラテヤ人への手紙3章13〜14節には次のように書かれています。
キリストはわたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから
購い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。
それはアブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、
また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。」
また新約聖書へブル人への手紙11章6節には次のような言葉があります。
「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、
また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、
信じなければならないからです。」
カインのささげ物ではなく、アベルの献げ物を神が受け入れられたのは、
それが信仰による献げ物だったからです。
「時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。
アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、
カインとその献げ物には目を留められなかった。」
神の祝福を体験する原則は信仰なのです。
さて、それでは信仰による祝福の原則の言葉をご紹介します。
『私は主が常に私を愛し、最善の計画と全能の御手をもって、全ての状況を統べ治め、
私を守っておられることを認め受け入れます。なぜなら、「神は神を愛する者たち、すなわち、
ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる事を、
私は知っているからです。」(新約聖書ローマ人への手紙8章28節)』
この言葉を信仰をもって、いつも、いかなる状況においても告白しましょう。
神は常に私たちにとって最善をしておられることを体験することができるでしょう。
ですから使徒パウロは次のように書いています。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい。
これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」(新約聖書第2テサロニケ人への手紙5章16〜18節)
また、旧約聖書箴言3章5〜6節には次のような言葉があります。
「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。
すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」
神の平安がありますように!
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