天の梯子

暑さも少し和らぎ、夏休みも終わり、夜更けに虫の声も聞こえるようになりました。疲れが出ませんように!

お忙しいですか?

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全1ページ

[1]

心配しました台風13号は私にとっては最悪のコースでしたが、

何事もなく過ぎました。あちこちにひどい災害の爪あとを残し、

亡くなられた方もおられ心が痛みます。一日も早い心の痛手のいやしと被災地の復旧を祈ります。

また気がかりでした、私の孫娘リンの運動会は台風当日でしたが、

小学校の体育館で行われ、無事終わりました。

私は数十年ぶりに運動会に引っ張り出され、低い平均台の上を走ったり、

蛙跳びをさせられた後、パン食いをするという競走に出場しました。

パンはサンドイッチ用の薄いパンでしたが、なかなか呑み込めず、大変でした。

みんな呑み込まないと次の人にバトンを渡せないということで、

最初のランナーでしたのであわてました。次の走者から一口食べればよい

ということにはなりましたが、楽しいひと時でした。

今日は運動会を終わった孫がついて行きたいということで、

二人で帰ってきました。海辺で砂遊びをしたり、アンパンマン(スーパーのこと)

に行ったりした後、昼寝をし、また遊び相手をしたりして、

今私の横で寝息を立てています。

私が書き込みをしないときも、ブログを読んでくださる方があり、感謝し励まされました。

今日は「お忙しいですか?・・・その4最終回)ですが、先ほど

ほとんど書き込みが終わるところだったのですが、うっかりEscキーに触れてしまい、

泣く泣く再書き込みをしています。

さて、それでは「お忙しいですか?」の最終回です。

イエスは「わたしを見た者は父(神)を見たのである」(ヨハネ14:9)

と言われました。私たちの限られた知識によれば、到底理解しがたい不思議な

ことですが、あの十字架の上のむごたらしいイエスに、神の愛、神の正しさ、神の愛が

表されているのです。

神はイエスの十字架の死と復活によって、わたしたちを生きるようにしてくださったのです。

イエスの死と復活という出来事によって示された神の愛は、私たちに惜しみなく注がれ、

わたしたちを生きるようにしてくださったのです。

イエスの死と復活は不安、失望、恐れに打ちのめされていた弟子たちを

死をも恐れぬ者と変え、ヨハネは島流しにされ、他の弟子たちは殉教の死を遂げたのです。

新約聖書コリント人への第1の手紙15章12〜19節に使徒パウロは次のように書いています。

使徒パウロは在世中のイエスを直接知らない人なのです。しかも、かつては

イスラエル社会のエリートの地位にあり、イエスを信じる人々を迫害し、投獄し、

死にいたらせていた人のなのです。そのパウロも殉教したのです。

そのパウロの言葉なのです。

「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、

死者の復活などないと言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、

キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、

わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、

わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、

復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。

死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、

キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、

あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、

キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。

この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちは

すべての人の中で最も惨めな者なのです」とパウロは書いています。


今日においても、わたしたちがイエスをとおして神の愛にふれる時、

ありのままの自分、他の人、物事を喜びをもって受け容れることができるように変えられていくのです。

なぜなら「神は万事を益となるようにしてくださる」(ローマ8:28)からです。

信仰とは決して気休めでもなければ、わけのわからないまじないでもなく、

ましてやご利益や葬式のためでもありません。

神をも人をも愛することのできない私たちを、あえて愛してくださる神を信じることが信仰です。

私たちの愛は神との関係、交わりを失っているときには、必ず自己中心的なものでしかなく、

互いにすれ違ったり、傷つけるものとなってしまうのです。

神の変わることのない確かな愛をもって愛されていることを知ってはじめて、

私たちは互いに愛し合うことができるように変えられるのです。

愛し合うということがどういうことであるかという誤解、共依存、共支配関係からも開放されるのです。

私たちが生けるまことの神を知らないとき、食欲、性欲、睡眠欲という本能をゆがめ、

ただ欲望を満たすことをむさぼり求め、刺激を求めたりして、

また、互いに愛し合いたいという本能をも汚し、また物を得ることによって心の不満、空洞、

霊的渇きを満たそうとして、ただ忙しくしていることが充実した生活、

生き方であるかのように錯覚してしまうのではないでしょうか?

そして、あの「お忙しいですか?」と互いに挨拶を交わすことにより

心の空洞を埋めようとしているのではないでしょうか?

パスカルは言いました。「神によって造られた人間の中には神のかたちを

もってする以外に決して埋まらない空洞がある」と。


あなたはどのように思われますか?

「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるものである」
                       (マタイ4:4)


「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、

わたしを信じる者は決してかわくことがない」(ヨハネ6:35)


新しい日になってしまいましたが、これで今日の書き込みを終わります。

神の平安がありますように!

招かれざる客が近づいています。台風13号です。

秋雨前線のため、佐賀では大雨のため土石流の被害が出ています。

“非常に強い台風13号”が最悪のコース九州の西北か直撃コースを進んでいるようで気がかりです。

それに、私にはもうひとつ気がかりなことがあります。

それは明日の日曜日、孫娘リンの運動会なのです。

午前中は大丈夫でしょうからと保育園の人は言っていましたが大丈夫かな〜。

わたしも運動会にはぜひとも行こうと思っていますので、

少し早めに書き込みをして行こうかなと思っています。

行くとなればきっと明日の書き込み、あるいは明後日は私用もありますので

書き込みができなくなるかもしれませんので、あらかじめお話しておきます。

それでは今日の分の書き込みをしましょう。


「お忙しいですか?・・・その3」です。
 
 わたしたちが本当に生きがいのある充実した人生を、自分のものにするためには、

どうしても私たちの本能を満足させなければなりません。

なぜなら、本能とは人間が生きていくための基本的な欲求だからです。

本能はそれがどのようなものであれ、否定したり、抑圧されたりすると

必ず心身に障害を招いてしまうのです。

今日心身症といわれる病気が多くの人を苦しめていますが、

どのような症例があるかについては昨日書きました。

さて、本能は次の三種類に分けることができると思います。

第1に体に関する本能として食欲、性欲、睡眠欲などの欲求です。

第2に心(魂)にかかわる本能として互いに愛し合いたいという欲求です。

第3に霊にかかわる本能で生けるまことの神を求める欲求です。

これらの本能はそれぞれ独立したものではなく、互いに関係し調和しなければならないのです。

これtらの本能が調和し、満足させられてはじめて、試練や困難がなくなってしまう

という訳ではありませんが、人は本当に充実した幸せを感じることができるのです。

これらの本能が人は三位一体の神にかたどって造られたことを証ししているのです。

これらの本能のうち私たちが人として生きていくうえで、もっとも

大切な本能が霊にかかわる本能であって、人を宗教的な存在としている欲求なのです。

ですから、宗教は弱い人間の夢、たわごと、気休めではありません。

また科学が進歩し生活が豊かになれば消え去ってしまうような幻想に過ぎないと

言われてきましたが、決してそうではありません。

神によってさずけられた本能ですから、消え去ることもありませんし、

否定することもできないものなのです。

私たちが変わることのない愛を求め期待したり、正しいことを願ったり、心の安らぎを求めたり、

死を恐れ救いを求めたり、何事につけ不確かであることに不安を覚え、

拠りどころを求めたりしていることの中に神を求める霊的本能が働いているのです。

この神を求める霊的本能こそが、人は神によって造られたことの確かなしるしなのです。

「神はご自分のかたちに人を創造された」(創世記1:27)のです。

生けるまことの神は、人間の考えや願望、想像の産物ではありません。

私たちがその神を信じるとき、生きる意味、目的を見出すことができるのです。

「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、

そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。

あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ

陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、

親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。

彼らはこのようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、

自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。」
                 (新約聖書ローマ人への手紙1:28〜32


それでは今日はこれにて終わります。

神の平安がありますように!

いつもお読みくださりありがとうございます。

本当は三位一体の神と人、人と人との関係が正常な図と

神との関係が損なわれ、神と人、人と人とを結んでいた正三角形の三本の辺(線)

が消えてしまった結果、人と人とを示していた二つの三重の同心円が

重なり合ってしまった図を示し、比較して、それがどういうことを意味するのか説明したいのです。

できれば図を書いてデジカメで撮り、載せたら良いのですが、

私はまだそれができるほど器用ではない!(残ね〜ん!)

私の手元に河合隼雄著「日本人の心のゆくえ」(岩波書店、1998初版、2001年8刷)がある。

河合隼雄さんは通常はとても日本人の良き理解者であり、また心理療法家として、

一般的に楽観的な姿勢を持ち続けてこられたようですが、この本では

現在の日本人の深い「魂」の傷をいやすむずかしさに対して、

あきらめと悲しみを感じておられるような強い印象を受けます。

ハッキリした答えを見出し得ない戸惑いを感じるのです。

私はこの深刻な問題に聖書を通して、イエスによる光を当て、

問題の本質と解決の道があることを示したいのです。

あまりにも大きな深い事柄のために、今どのように言葉で説明できるのか戸惑っています。

そのテーマに取り組む前に一呼吸したくて、

「お忙しいですか?」をご紹介しています。

きょうは「お忙しいですか?・・・その2」ですが、「その4」までつづきます。


 昔行われた拷問で一見なにも苦痛に見えないようで、実はもっとも

苦痛になる拷問が行われたと、ある本で読んだことがあります。

それは、ひとつのバケツに入っている水を、もうひとつの空のバケツに移し、

そして、また、空になったバケツに水を戻すという単純な繰り返しを行わせるものだそうです。

それは初めのうちはなんでもないことのように思われますが、

いつ終わるとも知れない、その行動を繰り返しているうちに、人は肉体的な苦痛を訴える前に、

精神的にまいってしまうということです。

それは、今していることに何の意味も目的もなく、しかもいつ終わるとも知れないことだからです。

私たちの日常生活の中にも、これと同じようなことがあるのではないでしょうか?

毎日学校へ行くこと、毎日職場へ行くこと、また炊事、洗濯、掃除、片付けなどという具合です。

こうした毎日続く単純な繰り返しで私たちの生活は成り立っていますし、

またこの繰り返しによって助けられてもいます。

物事がうまく運び、からだも健康であれば、大して苦痛にもならないことですが、

ちょっとしたことで、私たちの心身に大きな負担や苦痛ともなってしまうのです。

しかし、生活のため、食べるため、子供のため、将来のため、

それをやめることができないということによって、私たちの心を抑圧し、いらいらさせてしまうのです。

そのようなストレスが、体や心にさまざまな障害をもたらしてしまいます。

心身症といわれるものは多くあります。

心身症に多い病気は、胃潰瘍・十二指腸潰瘍・過敏性腸症候群・自律神経失調症・摂食障害

・円形脱毛症・頭痛・気管支喘息・高血圧症・心筋梗塞・狭心症・ジンマシンなどで、

身体のあらゆる部位が対象となります。

そのため日常的な繰り返しや人間関係はわずらわしいものとなり、

また自分をそのような環境に縛りつけようとするものに対して、ストレスを感じ、

腹立たしくなり、ある人は不安や怒りを抑圧し怒りっぽくなってしまい、

ほんの些細なことにも堪えられず切れてしまうのです。

その結果、悲惨な痛ましい出来事が繰り返されています。それは深刻になっていくばかりです。

現実逃避のため、衝動的に蒸発したり、自殺したり、人を簡単に殺したり、

傷つけることは、今や日常茶飯事となっています。

人を本当に豊かにするものを見失い、お金やものの豊かさを追い求めた結果なのです。

政治は物事の表面だけしか扱うことができないのです。

問題の解決は失われた神との関係と交わりを回復することにあるのです。

その解決を私たちすべての人に与えるために、神はイエスをお遣わしになったのです。

「神は、ひとり子を世にお遣わしになりました。その方によって、

わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちのうちに

示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、

わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。

ここに愛があります。」(新約聖書ヨハネの第1の手紙4章9,10節
)


今日はこれまでとします。

神の平安がありますように!

今まで三位一体の神と神のかたちに造られた人との関係について説明してきましたが、

人が三位一体の神のかたちに造られているということに触れていますので、

今日は一休みしたいこともあって、私が25年前?ぐらいに書いたものをご紹介したいと思います。

そのころはまだバブル期で日本は世界でもっとも豊かな国であると言われていました。

17年前にハワイに行きましたが、ハワイは日本に買い取られ、植民地のようだといわれていました。

21世紀は日本の世紀だと言われ、その言葉をだれもが信じていたときでもあります。

そのような時、書いたものですが、題は“お忙しいですか?”です。


◎「お忙しいですか?」と挨拶されたらどのように挨拶を返されますか?

「はい、おかげさまで」とか「まあ、どうにか」とか「いや〜ヒマですね」

というふうに挨拶を交わされることでしょう。

「忙しい」ということには物事が順調にいっているよい意味があるようです。

反対に「ヒマ」であることには良くない意味があり、そのために「ヒマ」で

あることを、ひそかに恥じたり、恐れたりしているのではないでしょうか?

しかし、「忙しい」の「忙」という漢字には“心を亡ぼす”という意味があるのですが、

あなたはどのように思われますか?

私たちは誰でも一度ならず、人は何のために生きているのだろうかと

考えてみたことがあると思います。

真剣に生きようとしている人、困難に直面された人ほど悩まれたと思います。

こんなにあくせくと苦労してまで生きる理由があるのだろうかと。

私たちがいつもしていることには、必ず意味や目的があります。

もし私たちが生きることの意味や目的がハッキリしていないとしたら、

いずれ、今、自分のしていることがむなしくなってしまうのではないでしょうか?

そして、手近かな楽しみばかりを追いかけ求めるようになり、そのうちに

真剣に生きることを忘れてしまったり、投げ出してしまうのではないでしょうか?、

なんとなく毎日を過ごし、思うように行かないと人が悪い、

社会が悪いなど、自分だけどうしてと自己憐憫に陥ってしまったり、

不平をこぼしたりして、井戸端会議や酒屋談義

賑やかにしているのではないでしょうか?

(最近は人と人との関係が希薄になって、こういうことも少ないように思えます)

でも、私たちの心はそのような生き方には決して満足できませんし、

本当の喜びを感じることはできないのではないでしょうか?



今日はこれにて終わります。明日続けます。

お読みくださりありがとうございます。

神の平安がありますように!

全1ページ

[1]


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

お肉、魚介、お米、おせちまで
おすすめ特産品がランキングで選べる
ふるさと納税サイト『さとふる』
いまならもらえる!ウィスパーWガード
薄いしモレを防ぐパンティライナー
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!
いまならもらえる!ウィスパーうすさら
薄いしモレを防ぐ尿ケアパッド
話題の新製品を10,000名様にプレゼント

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事