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心配しました台風13号は私にとっては最悪のコースでしたが、
何事もなく過ぎました。あちこちにひどい災害の爪あとを残し、
亡くなられた方もおられ心が痛みます。一日も早い心の痛手のいやしと被災地の復旧を祈ります。
また気がかりでした、私の孫娘リンの運動会は台風当日でしたが、
小学校の体育館で行われ、無事終わりました。
私は数十年ぶりに運動会に引っ張り出され、低い平均台の上を走ったり、
蛙跳びをさせられた後、パン食いをするという競走に出場しました。
パンはサンドイッチ用の薄いパンでしたが、なかなか呑み込めず、大変でした。
みんな呑み込まないと次の人にバトンを渡せないということで、
最初のランナーでしたのであわてました。次の走者から一口食べればよい
ということにはなりましたが、楽しいひと時でした。
今日は運動会を終わった孫がついて行きたいということで、
二人で帰ってきました。海辺で砂遊びをしたり、アンパンマン(スーパーのこと)
に行ったりした後、昼寝をし、また遊び相手をしたりして、
今私の横で寝息を立てています。
私が書き込みをしないときも、ブログを読んでくださる方があり、感謝し励まされました。
今日は「お忙しいですか?・・・その4最終回)ですが、先ほど
ほとんど書き込みが終わるところだったのですが、うっかりEscキーに触れてしまい、
泣く泣く再書き込みをしています。
さて、それでは「お忙しいですか?」の最終回です。
イエスは「わたしを見た者は父(神)を見たのである」(ヨハネ14:9)
と言われました。私たちの限られた知識によれば、到底理解しがたい不思議な
ことですが、あの十字架の上のむごたらしいイエスに、神の愛、神の正しさ、神の愛が
表されているのです。
神はイエスの十字架の死と復活によって、わたしたちを生きるようにしてくださったのです。
イエスの死と復活という出来事によって示された神の愛は、私たちに惜しみなく注がれ、
わたしたちを生きるようにしてくださったのです。
イエスの死と復活は不安、失望、恐れに打ちのめされていた弟子たちを
死をも恐れぬ者と変え、ヨハネは島流しにされ、他の弟子たちは殉教の死を遂げたのです。
新約聖書コリント人への第1の手紙15章12〜19節に使徒パウロは次のように書いています。
使徒パウロは在世中のイエスを直接知らない人なのです。しかも、かつては
イスラエル社会のエリートの地位にあり、イエスを信じる人々を迫害し、投獄し、
死にいたらせていた人のなのです。そのパウロも殉教したのです。
そのパウロの言葉なのです。
「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、
死者の復活などないと言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、
キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、
わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、
わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、
復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。
死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、
キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、
あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、
キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。
この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちは
すべての人の中で最も惨めな者なのです」とパウロは書いています。
今日においても、わたしたちがイエスをとおして神の愛にふれる時、
ありのままの自分、他の人、物事を喜びをもって受け容れることができるように変えられていくのです。
なぜなら「神は万事を益となるようにしてくださる」(ローマ8:28)からです。
信仰とは決して気休めでもなければ、わけのわからないまじないでもなく、
ましてやご利益や葬式のためでもありません。
神をも人をも愛することのできない私たちを、あえて愛してくださる神を信じることが信仰です。
私たちの愛は神との関係、交わりを失っているときには、必ず自己中心的なものでしかなく、
互いにすれ違ったり、傷つけるものとなってしまうのです。
神の変わることのない確かな愛をもって愛されていることを知ってはじめて、
私たちは互いに愛し合うことができるように変えられるのです。
愛し合うということがどういうことであるかという誤解、共依存、共支配関係からも開放されるのです。
私たちが生けるまことの神を知らないとき、食欲、性欲、睡眠欲という本能をゆがめ、
ただ欲望を満たすことをむさぼり求め、刺激を求めたりして、
また、互いに愛し合いたいという本能をも汚し、また物を得ることによって心の不満、空洞、
霊的渇きを満たそうとして、ただ忙しくしていることが充実した生活、
生き方であるかのように錯覚してしまうのではないでしょうか?
そして、あの「お忙しいですか?」と互いに挨拶を交わすことにより
心の空洞を埋めようとしているのではないでしょうか?
パスカルは言いました。「神によって造られた人間の中には神のかたちを
もってする以外に決して埋まらない空洞がある」と。
あなたはどのように思われますか?
「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるものである」
(マタイ4:4)
「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、
わたしを信じる者は決してかわくことがない」(ヨハネ6:35)
新しい日になってしまいましたが、これで今日の書き込みを終わります。
神の平安がありますように!
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