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私の一週間のハワイ滞在記も今日で終わりです。
21日の朝、目覚め、顔を洗って手洗いを出ると、Rちゃんが荷造りしていた。
MさんにRちゃんもどこかにいくのですかと聞くと、感謝祭の休暇をとってアイオワへ行くとのこと。
私はアイオワの友達のところで休暇を過ごすんだなと思って、
感謝祭は州によって過ごし方が違うのですかと聴きましたが、同じですよとのこと。
それからMさんとRちゃんの3人で最後の食事を一緒にしていると、
Rちゃんが私にハワイに来て、どこに行ったのですかと聞くので、
私はhawaikaiとアリゾナ・メモリアルとDoleのPine-Apple園などに行ったよ、と言うと
たったそれだけと言うので、私はハワイは2回目だから、
今度は元気なRちゃんと会えただけでも十分だよと言うと、あまり笑顔を見せないRちゃんが微笑んだ。
それからマウイ島のパインアップルは最高だからお土産にと勧められた・・・。
それからRちゃんが先にアイオワへ行くというので、私は車まで見送るために一緒に行った。
Rちゃんの車は少し離れたところにあったので、家まで送るからと私を乗せてくれた。
Rちゃんと別れて家に入ると、Mさんが突然不可解なことを言った。
Rちゃんは・・・・・・・・・と言うのである。
私はそれがどんな意味か理解できないでいると、Mさんがさらにアイオワには
友達に会いに行くのではなく、・・・・・・と感謝祭を過ごすために会いに行ったのだという。
どうやら2年間Rちゃんが家を出て、音信が途絶えていた間、
考えられないことが起こったことがわかり、私が初めてRちゃんを見たとき、
気づいたことをMさんに聞くと、それもショックだったと言ったあと、
Rちゃんは・・・・・をアイオワの人・・・・・・しまっていたと言うのである。
アメリカでは両親の了解もなく、子供がそんなことができるんですかと聞く私に
Mさんはできるんだと答えられた。そこまで行ったのだとMさんは静かに言った時、
私はあまりのことに言葉を失ってしまった。
あまりにもショッキングな言葉に呆然としていると、Fさんがやってきて
真相を知って驚いたんでしょうと言う。
なにがあったから、そんなことになったのか聞くこともできず、私は沈黙するほかなかった。
(今はアメリカという国は1人の人の意思を大事にする国なのだと思うが・・・)
これから空港に向かおうとする直前、祈りましょうということになったが、
あまりのことに私は涙がこみ上げてくるばかりで、祈る言葉が言葉にならなかった。
Mさんは今はこのことも感謝していますと言われたが、でも私は言葉にならず・・・。
Mさんは私があまりのショックで祈れそうもないからというので、Fさんに祈るように勧めた。
Fさんが祈ったあと、私も祈ったが、ただどのようなことがあったのか、私にはわかりませんが、
どのようなことも、あなたの許しなしには起こることはないのですから、
心痛むこのことも必ずDさんとMさんにも、Rちゃんにとっても、
必ず最善の結果になることを信じて、あなたの御手におゆだねします、としか祈る言葉がなかった。
それからあわただしくホノルル空港へむかったが、わたしの心は重かった。
FさんはRちゃんが帰ってきて、まだ6ヶ月ぐらいだけど、それまでのMさんは大変だったと言う。
私も17年前のMさんはもっとよく話していたのに、今度はあまり話さないと感じてはいたが、
やはりこんな理由があったからだとわかり、ただ呆然とするばかりだった。
空港での搭乗手続きのとき、係員の方があなたの席が他の乗客の間になったので代えましょうと言って、
空いている席に変えてくれたのは感謝だった。そのため私は機内では横になることができた。
心の動揺は収まらないままセントレア空港についた。
乗り換えて我が家へ着いたのは21時ぐらいだったか。
翌日の朝、無事に着いたと電話をすると、Rちゃんからもアイオワに着いたと
電話がありましたとのことだった。
かくして私の17年ぶりのハワイ滞在は思いもよらない幕引きとなりました。
私はDさんとMさんとRちゃんにクリスマス・カードを送り感謝の言葉を記した。
「こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。
信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。
あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。
あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。
また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、/「わたしの子よ、/主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。
主は愛する者を訓練し、/受けいれるすべての子を、/むち打たれるのである」。
あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。
だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。
その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。
肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。
すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。
それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい。
また、足のなえている者が踏みはずすことなく、むしろいやされるように、あなたがたの足のために、まっすぐな道をつくりなさい。」(新約・へブル人への手紙12章1〜13節)
それではこれにて・・・
神の平安がありますように!
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