天の梯子

暑さも少し和らぎ、夏休みも終わり、夜更けに虫の声も聞こえるようになりました。疲れが出ませんように!

エジプト、トルコ旅行記

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私は1980年イスラエル、ギリシャを訪問しました。シナイ半島はエジプトの領土ですが、当時イスラエルが実効支配をしていることもあり、モーセの山といわれるシナイ山の麓にあるセントカタリナ修道院へエルサレムより飛行機でネゲブの砂漠越えで行ったことがあります。またギリシャはアテネとコリントを訪問しましたが、予定されて
いたマケドニア地方への訪問はできませんでした。そこで、私はかねてより、旧約聖書の世界であるエジプトと新約聖書の世界であるトルコを訪問したいと思っていました。エジプトについては世界遺産としてピラミッドや神殿などの遺跡がNHKにより紹介されていましたが、トルコについてはあまり知る機会がなく、荒れた岩山の国のように思っていました。使徒パウロはトルコをどのように旅をしていたのだろうかと思いをはせていました。人口7150万人で1200万人はイスタンブールに住んでいる国、ノアの箱舟が漂着した山はトルコのアララテ山(5156m)と伝えられています。私は2008年4月13日から25日までの13日間エジプトとトルコを旅することができました。やはりテレビで見るとは大違いで、自分の目で見て、歩き、触れ、そこで生きている人たちの顔を見て、おなじ空気を吸う旅は印象深い体験でした。参加された人たちは50〜70代のご夫婦ばかりで、単身の参加者は私を含めて3人で21人でした。まだ暑さもそれ程でない時期でしたが、疲れと食べ物の為か体調不良を起こされる方が多く出ました。私も一時下痢状態になりましたが、すぐに治まりました。常備薬の降圧剤を忘れたこともあり、気がかりな旅ではありましたが、他の人によれば私が一番元気良く走りまわっていたと言われてしまいました。たくさん撮った写真を添えながら見たこと、感じたことをご紹介したいと思います。
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トルコ最後の夜は増えた荷物や100ml以上の液体物、爪きり、毛抜き、かみそりなどを
セキュリティーチェックに引っかからないようにバッグに入れたりして10時30分就寝。
3時30分ごろ一度目覚めトイレへ行き、4時30分頃から二度寝。

エジプト、トルコの旅の最後のイスタンブールの朝は6時30分モーニングコールであけた。
天候にも恵まれ、なによりも疲れ、睡眠不足にもかかわらず健康が支えられたのは感謝!
この日はグランド・バザール、トプカプ宮殿を訪問し、3時間の観光のあと
イスタンブール発15時10分MS738便にてカイロに向かい、
カイロ発18時15分MS962便にて関空へ11時間の空の旅。

8時15分ローマの水道橋をくぐり、イスタンブールの城壁を横にしながらグランド・バザールへ
グランド・バザールの歴史は15世紀半ばコンスタンチノープルが征服された時代に始まる。
トルコ語ではカパル・チャルシュ(屋根つきの市場)といい、
迷路のような通りに4000軒もの店がひしめき合っているという。

先ず案内されたのはグランド・バザールの入り口にあるクドーさんの友達の店でカラスミの試食。
カラスミは珍味だというが生臭くて塩辛い鯔(ボラ)の卵の干物?の味は私にはわからない。
わが町の海で釣られるボラは嫌われモノらしく、よく捨てられているのが哀れ・・・
私は一度、三枚におろして、氷で冷やして酢味噌で食べたらおいしかったが・・・

まだグランド・バザールは朝早いこともあり人出は少なかったが、
真っ先にきらびやかなトルコ石や金銀製品などの装身具でギラギラしている店が一番目につく。
色とりどりの香辛料、カラフルな陶器やバッグやトルコの衣装や絨毯や革製品、ランプの店など
間口の狭い店いっぱいに溢れているお土産品の店をのぞきながら散策・・・
途中トルコの笛があったので記念に買っても・・と思って吹いてみせてと頼むが、
スースーというばかりで音がでない。売る人も笑いながらパス・・・
なぜか“やまもとやま”などとしきりに日本語で声をかけられるがなにも買わずじまい。
ウインドウショッピングの好きな女性にはワクワクするところに違いない。

次の訪問地はトルコの旅のしめくくりにふさわしいトプカプ宮殿。
大きな鍋など調理器具が並んでいる宮殿の調理場やトルコの古い武器が陳列されている部屋には
日本から贈られたという鎧も陳列されていた。
また宝物館にはかつて王が身にまとったきらびやかな装身具の数々・・・

その日はちょうどトルコのこどもの日だったようで
たくさんの子どもたちがトルコの歴史を学ぶために来ていた。
私たちが日本人だとわかると男の子たちが“トルコは好きですか?”と声をかけてきたり、
女の子たちは私のメガネにつけたサングラスが珍しいのか寄って来てさわったり・・・人懐っこい。

また海を見下ろす宮殿の通路を歩いている時、海軍らしき制服を着ている二人の人に呼び止められた。
写真を撮って欲しいと頼まれているのかと思ったが、そうではなく、
日本人である私と一緒に写真を撮らせて欲しいということだった。
交互にふたりと一緒に写真を撮り、握手をして別れた。
クドーさんによれば海軍士官学校の士官候補生だということだった。

海軍士官候補生も子どもたちもトルコの歴史を学ぶ時、1890年9月16日日本を親善訪問した
オスマントルコのフリゲート艦エルトゥールル号が台風の為和歌山県串本沖で座礁し、沈没し、
乗員587名が死亡、69名が大島の漁師による懸命な救助によって助けられた事件を
知らされているに違いないと思われた。

そういえばウフララ渓谷の谷底から登る途中で子ども連れの60代らしい人に声をかけられた。
言葉がわからず最初は気づかずにいたが“日本人ですか”と言われて“そうです”というと、
その人は“私は日本人を尊敬しています”といい、続けて
“日本人は礼儀正しいからです”と言うのです。今の日本のことを思うと複雑な思いでしたが、
私は“ありがとうございます”と言って別れましたが歴史の重みを感じました。

そうそう1985年イライラ戦争の時のことです。
たくさんの日本人がバクダッドに取り残された時、トルコは日本人救出の為に
航空機をバクダッドに送り日本人を救出したのですが、それは120年前の
エルトゥールル号遭難事件のことを心にとめているトルコの人たちの
日本に対する深い思いを知らされる出来事だったのですね。
こうしてトルコの旅は疲れを忘れさせるほどの心地よさを感じながら終わりました。

それからトルコ・イスタンブールから再びエジプト・カイロを経由して
11時間の空路を飛び、日本へと帰途につきました。
こうして私の13日間にわたる旅は終わりました。

おしまいの写真は旅の世話をしてくださった添乗員の坂本さんです。
お世話になりました、少々ハードでしたがすばらしい旅をありがとう!

それでは神の平安がありますように!

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今日はエーゲ海岸沿いの町アイワルクからトロイを訪問し、フェリーでヨーロッパに渡り、
イスタンブールから始まったトルコ周遊の旅はいよいよゴールのイスタンブールに向かいます。
アイワルクからトロイまで150キロメートル、2時間30分。
トロイにて1時間の観光の後、トロイからダーダネルス海峡を30分の航海で渡り
イスタンブールまで345km、6時間30分のバスの旅。

朝6時モーニングコール、7時30分トロイに向かってバスは出発しました。
トロイは紀元前3000年から紀元400年まで繁栄と衰退を繰り返した都市ですが、
どこにあるのかわからず、その実在すら信じられていなかったようです。
ところがトロイの実在を信じて疑わなかったドイツの考古学者シュリーマンが
私財をなげうって発掘を続けた結果1890年発掘され発見されたのです。
発掘の結果トロイは9つの都市層が重なりあっていたのですが、
発掘された財宝?はシュリーマンがドイツに持ち帰り行方不明とか・・・

トロイの象徴である木馬が登場するのは紀元前1200年トロイとギリシャの戦争においてです。
ギリシャ王アガメムノンの王妃ヘレンがトロイの王子パリスに連れ去られたことによって
その戦争は始まったのです。

トロイに攻め寄せてきたギリシャ軍は難攻不落なトロイの城を前にして
10年もの激しい戦いをするのですがギリシャ軍はトロイを攻め落とすことができず、
そこでギリシャ軍は大きな木馬を残して逃げ帰ったように装うのです。

トロイ軍は罠とも知らず勝利のしるしとして木馬をトロイの城内に運び入れるのですが、
その木馬の中に潜んでいたギリシャ軍の兵士によって、夜トロイの城門が開かれ、
雪崩をうって攻め込んできたギリシャ軍にトロイは全滅してしまうのです。

この物語は良く知られていて、最近もブラッド・ピット主演で映画化されたのを見ました。
コンピューターの敵はウイルスですが、その中で最もよく知られているウイルスは
トロイの木馬ですね。いまも油断は禁物ですね!

トロイに着くと1975年、当時の大きさに復元されたという木造のトロイの木馬に迎えられます。
胴体の部分に5つの窓と背に二つの窓があり、階段で登ることができます。
発掘されたままでまだあまり整備されていないような遺跡は
9つの地層がむき出しにされ番号がつけられています。
音楽や演劇、会議が行われていた小劇場跡や祭壇らしき跡を見ることができます。

フェリーの時間もあり、あまりゆっくり出来なかったのは残念でしたが、
遺跡としてはまだ整備中ということでしょうか、草が深く生い茂り
新しい日干し煉瓦による修復されたところも目に付きました。

トロイ観光が終えると、あとはダーダネルス海峡をフェリーに乗り継ぎ、ヨーロッパ側に渡り
マルマラ海の海沿いの道をただひたすらイスタンブールに走り続けました。
途中昼食に立ち寄ったレストランは多くの観光客で混み合っていて、
あわただしく食事を終え、いざトイレに行こうとすると
なんとトイレが1階と2階に男女用トイレがそれぞれ一箇所しかないということもあり大慌て・・・
苦情を言うと、すぐ大きなガソリンスタンド、レストランで
大きなトイレのあるところにしばし停車しゆっくりし・・・再び一路イスタンブールへ

夕刻イスタンブールに着き、城壁沿いのレストランで夕食を済ませ、
イスタンブールの古い城壁を見ながらバスは旅の最終のホテルに向かいました。

もうやがて旅を終えてから2ヶ月になろうとしていますが、
私のエジプト、トルコの旅を思い出しながら一人旅を続けてきましたが
少し旅の疲れも新たに味わったような気がしています。

それでは神の平安がありますように!

エペソの遺跡群

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エペソの遺跡にはエペソ騒乱の舞台だったかもしれない24000人収容の大劇場?や小劇場跡、
当時の便座式の水洗トイレ、120万冊の蔵書があったといわれる図書館、
勝利の女神ニケのレリーフ(Nike・スポーツ用品のブランド名はこの女神の名前です)、
ドミチアン神殿、ハドリアヌス神殿、十字架が刻まれた門は教会跡?など・・・
目を惹く遺跡群でいっぱいです。
便座式の水洗トイレは家の中ではなく談笑しながら使う公衆トイレで、
長いベンチにいくつもの便座の穴が開いていて、足元には手を洗う為の水が流れる溝があり、
便座の下には深い溝が造られていて水が流れていたようです。
通りは大理石で造られ当時の繁栄が伝わってきます。

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パムッカレの朝のモーニングコールは6時。
私にとってこの旅行のハイライトエペソ訪問の日です。
パムッカレから7時30分出発、バスで3時間、185kmの地にエペソの遺跡があります。
エペソを訪問したあとペルガモの革製品のお店を訪問し、バスで3時間30分、
250km走り、アイワルクへ向かいます。今日も強行軍です。

さてエペソの歴史は紀元前750年頃ギリシャから移り住んだイオニア人により
エーゲ海、地中海沿岸に都市国家が形成され始まりました。
しかしかつてのエペソはたびたび川から運ばれた土砂のために港が埋まり、
移転を繰り返し、海から4.5kmはなれた現在地に移されたのです。

エペソが最も栄えたのは紀元前130年頃ローマの支配下にある頃と伝えられている。
人口15万人で、当時はローマ、アレキサンドリアについで3番目に大きな町でした。
イエス・キリストの死後、イエスに母マリヤを託された使徒ヨハネが
マリアと共に移り住み過ごしたところといわれています。

世界の7不思議といわれるアルテミスの神殿は
アテネのパルテノン神殿の倍の大きさに建設され、巨乳ではなく多乳の
豊穣の女神アルテミスが祀られていました。神殿によって商売をしていた人が多く
使徒パウロによるエペソでの伝道によって引き起こされた騒動について使徒行伝には
次のように記されています。

そのころ、この道について容易ならぬ騒動が起った。
そのいきさつは、こうである。デメテリオという銀細工人が銀でアルテミス神殿の模型を造って、
職人たちに少なからぬ利益を得させていた。

この男がその職人たちや、同類の仕事をしていた者たちを集めて言った、
「諸君、われわれがこの仕事で、金もうけをしていることは、ご承知のとおりだ。
しかるに、諸君の見聞きしているように、あのパウロが、手で造られたものは神様ではないなどと言って、エペソばかりか、ほとんどアジヤ全体にわたって、大ぜいの人々を説きつけて誤らせた。
これでは、お互の仕事に悪評が立つおそれがあるばかりか、大女神アルテミスの宮も軽んじられ、ひいては全アジヤ、いや全世界が拝んでいるこの大女神のご威光さえも、消えてしまいそうである」。

これを聞くと、人々は怒りに燃え、大声で「大いなるかな、エペソ人のアルテミス」と叫びつづけた。
そして、町中が大混乱に陥り、人々はパウロの道連れであるマケドニヤ人ガイオとアリスタルコとを捕えて、いっせいに劇場へなだれ込んだ。

パウロは群衆の中にはいって行こうとしたが、弟子たちがそれをさせなかった。
アジヤ州の議員で、パウロの友人であった人たちも、彼に使をよこして、
劇場にはいって行かないようにと、しきりに頼んだ。
中では、集会が混乱に陥ってしまって、ある者はこのことを、ほかの者はあのことを、
どなりつづけていたので、大多数の者は、なんのために集まったのかも、わからないでいた。
そこで、ユダヤ人たちが、前に押し出したアレキサンデルなる者を、
群衆の中のある人たちが促したため、彼は手を振って、人々に弁明を試みようとした。

ところが、彼がユダヤ人だとわかると、みんなの者がいっせいに
「大いなるかな、エペソ人のアルテミス」と二時間ばかりも叫びつづけた。
ついに、市の書記役が群衆を押し静めて言った、「エペソの諸君、エペソ市が大女神アルテミスと、
天くだったご神体との守護役であることを知らない者が、ひとりでもいるだろうか。
これは否定のできない事実であるから、諸君はよろしく静かにしているべきで、
乱暴な行動は、いっさいしてはならない。

諸君はこの人たちをここにひっぱってきたが、彼らは宮を荒す者でも、
われわれの女神をそしる者でもない。
だから、もしデメテリオなりその職人仲間なりが、だれかに対して訴え事があるなら、
裁判の日はあるし、総督もいるのだから、それぞれ訴え出るがよい。
しかし、何かもっと要求したい事があれば、それは正式の議会で解決してもらうべきだ。
きょうの事件については、この騒ぎを弁護できるような理由が全くないのだから、
われわれは治安をみだす罪に問われるおそれがある。」(使徒行伝19章23〜41節)


長々と引用しましたが、私は今立っているこの地で当時の出来事を思い描くことができました。
このアルテミスの神殿は放火によって完全に崩壊し、現在は円柱一本を残すのみである。
広々とした神殿跡にぽつんと立っている柱に世界の7不思議といわれた面影はどこにもない。
また神殿に祀られた豊穣の女神アルテミスの像はエペソの廃墟の中にひっそりと隠れ、
まるで囚われた女神のように金網の中に立っていました。

また街の大理石通りに道案内の標識がありました。
足は方向、十字は十字路、女性は娼婦、ハートは愛を表しているそうですが不鮮明。
アルテミスの女神は豊穣の女神で、神殿には数千人の娼婦がいたと伝えられています。
これは神殿参拝者を娼館へ案内する標識だといわれています。

私はこの標識を見た時、線が細いのにあまり風化されていないように見えましたので、
ふとこれは話題をつくる為に後日彫られたような気がしましたが・・・?

それでは神の平安がありますように!

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写真は順番に青い屋根の下にメヴラーナ教の創始者の柩があり、またムハメッドのひげが収められた小さな箱があった。次はメヴラーナ博物館の中庭です。3枚目は入り口で結婚式を終えた新郎新婦がメブラーナに報告の参拝に来たところです。下の3枚はパムッカレの石灰棚です。

コンヤは1037〜1261年セルジューク朝の都として栄えた古都。
(1326〜1924年オスマン帝国時代、明治二十三(1890)年九月十六日夜、当時のオスマン・トルコ帝国最初の親善訪日使節団が明治天皇との謁見し、軍艦エルトゥールル号が座礁沈没)、
現在は人口80万人。
白い衣装で円を描きながら廻る旋回舞踊で知られているメヴラーナ教の総本山がある。

コンヤで訪問するのはメヴラーナ博物館と1267年イスラム神学校として造られ、
現在は彫刻博物館であるインジェ・ミナーレ神学校。
その後世界遺産・パムッカレヘ410km、5時間30分のバス移動!フーッ!

コンヤは中央アナトリア地方ですが、パムッカレはエーゲ海地方になる。
ヨハネの黙示録に登場する7つの教会はエーゲ海地方にあるが、
残念ながらその中心であるエペソだけを訪問することになる。
エペソは十字架の上からイエスに母マリヤを託されたヨハネが
マリヤと生活した所と伝えられています。

パムッカレとはトルコ語で「綿の白」を意味するが、その名のとおり温泉の石灰分が凝結し、
石灰棚の景観を造っているところである。パムッカレの街を見下ろす丘の上にあり、
この地域の温泉水に多く含まれる炭酸カルシュームが水中の酸素と結合して沈殿し、
長い時を経て凝結し形成されたものである。
石灰棚は長さ3km、厚さ300メートル、麓の平地からは100メートルの高さがあるという。

石灰棚には水が溢れ、遊歩道は石灰棚保護の為裸足で歩かなければならない。
脱いだ靴を袋に入れて足拭き用のタオルをもって入ると足湯程度の深さである。
ぬるい温泉水が流れるところを裸足で歩くと長旅の足の疲れがとれるよう。
今は流れる温泉水の水量が調節されていて乾いた皿のようなところも多い。

きっと使徒ヨハネや使徒パウロもトルコ伝道の道すがらこの温泉水に足を浸したに違いないと思う。
ヒエラポリスを背景にしながら足を浸していると当時の情景が思い浮かぶようでした。
黙示録の3章で7つの教会の最後に出てくるのがラオデキヤ教会であるが、
ヨハネはその教会の人々には次のように書いています。

ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。
『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。
むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、
なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。
あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが
実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、
裸な者であることに気がついていない。(新約・ヨハネの黙示録3章14〜17節)


このような聖書の言葉もヒエラポリスやパムッカレに来て見ると、
その言葉の背景と意味が良く分かります。

ラオデキヤはパムッカレの温泉水が流れる下流にある町なのです。
きっと聖書が書かれた当時はもっと温泉水は熱かったにちがいありません。
その温泉水が下流のラオデキヤに流れ着く時は生ぬるくなっていたのです。

このことによって生ける神への信仰は生ぬるいものであってはならない、
むしろ熱いか冷たいかであれという勧めをしているのです。
またパムッカレに隣接しているヒエラポリスやエペソは繁栄した街だったのです。
その遺跡が当時の繁栄を今もはっきり伝えています。

いつもの生活は立派な家に住み、きらびやかな衣を着ていても
誰でも温泉に入るときには裸になります。そのはだかの姿が自分の本当の姿なのです。
ローマの権力でからだを包み、その繁栄を享受していても、
ローマが滅亡してしまうとはだかなのです。
今もそのことに気づくことは難しいようです。

ヒエラポリスもエペソも廃墟となって目前にあり、その廃墟の中に、
かつてキリスト教を撲滅しようとしたトラヤヌス、ハドリアヌスという
その権力をほしいままにしたローマ皇帝の像が崩壊した瓦礫の中に立っている姿は
ヨハネが黙示録に書いたことばの真実を証明しています。
その言葉は今も私たちに語りかけられている言葉です。

パムッカレはやはり使徒行伝に登場するヒエラポリスに隣接しています。
ヒエラポリスは1世紀地震で崩壊し、皇帝ネロの時代から急速に再建され、
2〜3世紀には人口10万人を超えていたローマの地方都市だった。
トルコ旅行で私の一番楽しみとしていたところでした。

それでは神の平安がありますように!

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