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思想ありや?

仏教でもヨーガでも、我というのはほんとうはない。多くの人が『真我』といつも『意識』というかたちで存在している『自分』(我)は別のものなのに気が付いていない。

ほとんどの人がこれを混同しているから悩みも苦悩も生じると考える。

自分というのは、過去の記憶の束ねたようなもので、そこに知識で誤っているものがあったら、ジャンジャン抜いて捨てて、正しいものに入れ替えて行くべきだろう。

そうしないと『こころのぬか床が腐って、そこへ疑問を沈めても良い答えが良い漬物として出てこない』(笑)。

まあ、今日は新聞でもネット上でも、さまざまなニュースや記事がでている。思うところは多い。私の親しかった高校の先生にトッコータイだった人が2人いた。自分が出て行く数日前に今日の日がきて、その後,お一人は経済学者になり、もう一人の先生は哲学の道へ進んだ。お二人とも当時の社会ややり方がよいとは言わず、憎悪していました。

いよいよの時が迫って来たとき、煙草をもらったという話をされていました。そういう時、『ひとの煙草の煙をかき集めて吸い込んでいるような、あさましい姿も見受けられた』と言っていた。そして仲間で果てたもののところには、手袋をはめた人によって落雁が家族に届けられたのを記憶していると言っていた。

経済のO先生は『落雁だったんですよ。人の命が』とぽつりと言ったのを覚えている。

将棋で負けてきたら、赤い紙を送れば駒がもらえる?とられて盤面から消えたら落雁?

さて、古代インドでは、輪廻のさい、無数にいる生き物が、次は何になるかをいったい誰が決めるのか?という議論があった。これはなかなか面白い議論です。すごいコンピューターがあって、自分の一生の善い行い悪い行いがブラックカードの磁性体に焼きこまれていて、改札を抜ける時に判定が下る?(笑)

『ピンポン、このカードでは人間プラットフォームには入れません。昆虫になるゲートへ行ってください』(爆)

同様に、GUん神になるかどうかは、誰が決めるのか?ダイ・ホン・エーじゃなかったのかな。昔はまわりはすべてGUんの施設に囲まれて、GUんがあそこを管理していた。明治時代からのSHIN/トーに閻魔大王はいませんからね。こういう点をどう考えて、説明するのか?

明治時代、大正時代の洋行した人の日記を見ると、みんなアンヴァリッドのナポレオン1世の眠るドーム教会へ行っているのに気がつく。あそこにはGUN-JI博物館がついている。そのやりかたを真似たんだろう。英国ではウェストミンスター寺院には偉人達が眠る。シェークスピアからスティーヴンソン、果てはスティーヴン・ホーキング博士まで。ああいう場所が欲しかったんだろうな、と思う。北斎や文化人ではなく、当時を反映してGUN-JINファースト、GUN-JINオンリー。私はそう見ている。

そういう思想はあまり議論されたことが無いのではないかな。


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