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もう、このところどんどん『健康状態から離れる食事は嫌だ』と思うようになっている。

日々の食事はある意味驚くほど単純明快で、缶入り瓶入りドリンクなども飲まない。果物は生で食べるか、搾って飲むので、パック入りの野菜ジュースなどは飲まない。たまにパック入りを飲むと、『変な味だな』と感じることが多い。

健康度が変わって、味の好みが変わる。

このあいだ、たまたま、のどが渇いて、コンビニでビタミンCの飲料を買ったのですが、べとべとに甘い。なんでも、あとで調べたら、ひと瓶に角砂糖数個分が入っているらしい。自宅ではあんなに甘いものは飲まない。

朝のお茶も日本茶であっさり。フランス式の甘いパンなどは食べない。この写真の『怪しいもの』がピンと来たら昭和20〜30年代生まれなのではないかと思う(笑)。『味噌甘食パン』です。いや〜〜。40年ぶりぐらいに見た(爆)。

昔、うちの隣にいたお年寄りが玄米派で、『白米は栄養になるところをみんなとっちゃっている』とさかんに白米より玄米と言っていた。『白米ってのはさ。米を白くして粕(カス)になったもんだ』とシャレを言っていた。

たしかに洗練されるほど、味の上でも単純でつまらなくなってゆく。『蒸留水がうまくないのと同じ』。

これは酒でもそうで、今をときめく大吟醸の有名酒がまったく面白みのない単純な味だったりする。

友人が実に美味い酒粕を送ってくれた。ここのはじつに美味い。しかも、さすがわかっていらっしゃる。お酒用の麹米を一袋一緒に送ってくれた。

この米をお湯で煮る。そこへ酒粕を徐々に加える。もう、それだけでほのかに甘い。『複雑な味とコクにする』ために、上白糖などは決して私は使わない。

私は『黒糖かちわり』を少し足すのだが、沖縄の黒糖かちわりは、同じさとうきび100%でも、島によって味が違うのが面白い。私は3種類使い分けている。甘酒には多良間島のものを使っている。2つ目は粟国島のもの。

3つ目は、濃い目のエキスプレス珈琲(エスプレッソはイタリア式で、フランスのエキスプレスとは味もローストもまったく違う。ヨーロッパに住んだことがある方なら当然ご存じ)などには珈琲の邪魔にならない波照間島のものを少し入れる。適材適所。あと、鹿児島の喜界島のものも常備している。数種類あると楽しい。

こうしてできた甘酒はうまい。麹米の舌触り、ほのかな甘さにミネラルの多いかちわりがパンチを出す。

どの器で飲もうか?妙に気に入っている『マンガの元祖、鳥獣戯画の蕎麦猪口にMIKIMOTOのソーサーを組み合わせる』。たまりません(笑)。こういう日本にかなうところは、世界にもあまりない。

そして、外食でも、野菜をきちんととれるような、健康的なところへ行く。それとて、たいした金額ではない。ラーメン2杯分にすぎない。

健康で、美味満足、たいして高価でない、この3つは相反することでは決してない。考え方と、贅沢なことのコンセプトを練ることで、達成できると思う。

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頭は考えない

『頭は考えているようで、実は考えていない』(爆)。こんなことを歳を取ってから考えるようになった。

『あと数日で給料日、、昼飯代はああして、こうして、床屋へ行って、、』などと考えているつもりでいる。しかし、これはじつは、潜在意識が情報処理をしているだけ。こうしたことに『自分が意思で決定した』と、ほとんどの人が思っているが、脳波を調べると、意識が決定するより前に、潜在意識が決定して指令を出しているのが近年の研究でわかっているという。

そんなことを考えるようになったのは、ある年齢に達した時、それまでの自分の人生での成功も、失敗も、『決まったパターンがある』というのに気がついたからだ。

なんとか、そのパターンを打ち破ろうと、アメリカのTVせんきょー師のように、偽善的に笑いを絶やさず、何があっても腹を立てず、、、とやってみたことがある。ある程度まではうまくいった。

ところが『揺り返し』がすごい。『おい!sonny。ナマ云うんじゃねえぞ』みたいな、テリー・サバラスの刑事コジャックのようになってしまう(爆)。

マカロニウエスタンのように我慢に我慢を重ね、最後に噴火する。この噴火させないことの重要さを歳とともにしみじみと考える。

頭の中で、あれかこれか?と考えていることは『考えているつもりの情報処理ユニットが働いていて、ほんとうのところ、処理をしているだけで、考えていない』。

その情報処理ユニットが『誤った直観』を使わないようにして、ほんとうの智慧を働かすことが必要なわけだが、これが、なかなかどうして簡単ではない。

私の英国の親友が脳溢血をやった時、しゃべることも、記憶もすべてやられたようだった。ただし、食べることはできた。その友人が、突然、無言で大きいテーブルのまわりを、へりにつかまってつたい歩きをする。みんなそれをいぶかったのだが、私にはピンときた。

『体力を落としてはいけない』という考えと、伝い歩きをしているうちに、身体が戻るかもしれない、という思いがどこかに残って、身体を動かすようにどこかが指令を出しているのだと思った。

司令塔の脳が脳溢血でやられても、身体も脳も治そうとしている。

私はうしろから両肩をつかんで、『今日はもうこのぐらいにしよう。充分動いたよ。』そういうと、うなづいて動きをとめた。

この歳になると、他の人の行動パターンをみて、その人が智慧で動いている人か、潜在意識の底の衝動でうごいている人か、すぐわかる。

『マニュアルで行動する人は自分は出来る人だと錯覚している人が多い』。ところが、マニュアルで行動すればするほど、智慧を使うことはなくなる。スマホはマニュアルによって展開するようにできており、期待に反する結果を出してくることはない。

最近よく聞く『結果を出す』というのは、典型的な『マニュアルあたま』の人の使う語だ。歴史的にすべての偉大な仕事は結果がでていない。ダ・ヴインチの絵画も、すべての哲学も、未完であるのがほとんど。音楽ですらバッハのフーガの技法も未完だ。それは『ノルマ達成に追い立てられている人の口にする言葉』だと理解するとわかりやすい。

スマホで調べまくり、自分は効率がよい、素早い知性の持ち主、これを使わない奴は遅れているバカと錯覚しているのかもしれないが、じつは智慧の発動回数は限りなくゼロに近い。

自分の頭を使っていないことが意識できないのだろうか?

私は多くの高齢者と身近で接して感じるのだが、ある程度の老化がすすむと、昔の人は『情報処理ユニット』があまり出てこなくなって、智慧が前面に出て来る人がけっこうな割合いた。

スマホにどっぷりで20年、30年、40年でどうなりますかね?私はそういう人は、65過ぎたあたりから、『智慧は発動せず』、『自分が生まれながらにして持っている情報処理ユニット・システムが壊れ』、『生きていながら、生きている実感が薄い、意識の薄い、頭が混濁した感じの人になるのではないか?』と私は思う。

『スマホ世代、70歳までに知性ふにゃほにゃ説』を私はここに出して置く(笑)。

私がこのあいだ携帯を2つ折りのものに替えた時、スマホ人間が『まさかのガラケー?』と馬鹿にしたように言ったので、『オレは巨大タンカーや軍艦の航海用コンピューターや、気象観測システムの統合コンピューターをやっていたから。スマホごときのことで、貴方に馬鹿にされるいわれはない。』と答えた。

関節技、技あり一本(爆)。

コンピューターの検索は『入力しないかぎり出てこない』。これは孫悟空に出てくる『名前を呼ばれて答えると、吸い込まれるヒョウタンのようなものだ』。あるいはオデユッセウスが一つ目の巨人の島に漂流し、囚われた時、名前を訊かれて『ウーティス(誰でもない)』という名前だと答えたのに似ている。

その、何を入力したら答えが出そうだと発想すること自体が、医学的に潜在意識のはるか深いところから出て来ているとしたら、たとえ、コンピューター時代になっても、本質的な頭の使い方、鍛え方は2000年前、3000年前とたいして変化していないように自分には思われる。

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嫌な人物のいない村

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このタイトルはひどく『剣呑』なのですが、昔からぼんやりと考えていて、歳をとるほどに、いよいよ真剣にそう考えるようになった(笑)。

『嫌な人物』というのがどういう人か?というのは大きい問題だが、私の中では『血縁なき家族のグループに入れたくない人』というところか。

『では、どういう人を血縁なき家族に入れたくないのか?』というと、これもまた難しい問題だ。

血縁者でも、ほとんど何の興味関心も感じず、このまま一生会わなくても良いという親戚もいる。このごろよく妄想するのは(爆)、自分が無限の富をもつ地主かなんかだったら、あの醜悪な建売6軒をすべて壊して、更地にして、こういう感じの多目的ホールを建て、その隣に高級旅館かお寺の庭のような、日本庭園をつくり、そこはバリアフリーで、高齢者向きの、味の良い、高栄養、嚥下の楽な工夫食品メニューが大途屋価格で食べられるようにしたい、とか思う。

ウェイトレスには、あそこのコンビニにいる『年寄にやさしいイケダさんがいいだろう。スカウトせねば』とか勝手に妄想する(爆)。何か起こって老人がぐあいが悪くなった時は、あそこの病院に木曜日に当直になっている看護婦のフセさんをレストランの監督役にすればいい、とか考える。

娯楽に、塗師には時代劇のDVDの分類と上映会の主任に、隠居してなってもらう。英国だとマーケットには曜日によって来る業者が違ったりする。水曜日には古本屋と古着屋、木曜日にはチーズ屋とパン屋とか、そういうローテーションがある。日本の村もそうしたらよい。

水曜日には椿屋に古本を持ってきてもらい、『編み物の本』とか言うと『では来週みつくろって何か持ってきます』という具合。木曜日には鉄仮面ねこ屋に黒パン、キャラウェイ入りパンととりまぜて持ってきてもらう。

個人の菜園とかはあってもよいが、別に村人の共有地、英国で言う『コモン』を果樹園にする。ブルーベリーもラズベリーも、ひのたまはちおうじは柑橘がとれるので、柑橘類も良いだろう。それはジャムにしたりして、村の収入と村人の消費にする。

漬物と梅干は、『ミズタニカンノンさま』に若者を指導してもらおう(笑)。

英語と自転車は私が後進にやりかたを教え、『ボンネット・バスの走る夕焼け村』のように、その村に入ると自転車は大正・昭和の国産自転車しか走っていない(爆)。

村人はみんなのんびりお茶を飲んでいて、その茶器がけっこう良かったりする。村のカフェはやけに本格で、ミス・マープルの行き付けの店のようだ。丸いトライポッド・テーブルにベージュのアイリッシュ・リネンのテーブルクロスがかけられ、へりはベルギー製のレース。カップこそロイヤル・アルバートの安いカップだが、紅茶は本格。スコンもしっとりした本格。クリームとジャムの載せる順番はデヴォン式。サンドイッチは、チーズサンドを頼むと煮込んだピクルスと混ぜたのが出てくる。卵サンドはクレソンが混ぜてある。このあたりは、レィチェルにまかせよう。

週に一度はカレー。そのためには、アシスを住まわせないといけない。

あとはサブレを焼いたり、シャルトリューズを作ったりする修道院があったり、納豆を作るお寺があったり(笑)。

村の美術館は、かつてのケンブリッジのフィッツウィリアムス美術館のように入場無料。金のある人がガラスの献金箱に入れる。中には50ポンド紙幣の束などが入っているのを見た。

こう考えてくると、妄想も甚だしいが、私は世の中がどうしてそうならないのか、不思議でならない。

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古物を好きで持っていたりすると、ふとしたとき、自分が『昔の人と同じになった』と感じる時がある。

『ああ、この道具は具合がいいな』と、工具でも椅子でも、食器でも、あるいは文房具でも刃物でも、いや、服ですらそう思う時がある。

私などは、各時代の『その具合の良い感覚』を求めて食器でも乗り物でも、ずいぶん遍歴を重ねた。

新しいものでもたまにそういう作り手に自分が重なる場合があるが、大量生産が進むほど、その一致する感じが薄い。それは『不特定多数の誰にでも合うように作って、できるだけたくさん売る』というのが基本になるので、ピッタリ感はぼやけている。

これは身体を動かすことでもそうで、『あっ!出来た』と思った時、そこには昔、その技を生み出したり、その技を駆使した先人と自分が重なっているのを感じる。

これは音楽でもそうだし、演劇でもそういう瞬間がある。さらに言うと、これは宗教ですらそうで、昔、名優チャールズ・ロートンの聖書の朗読を聞いて、そう思った。彼が画家、レンブラントの生涯を演じた映画『描かれた人生』の中に、彼が聖書を読む場面があるのだが、なかなかず〜〜〜んとくるものがある。

若いころチャールズ・ロートンの『ノートルダムのせむし男』をみて感心し、やがて彼の旧約聖書の朗読のLPを買いこんで、チャールズ・ロートンとまったく同じに読めるようになるまで、毎日朗読を練習したことがある。

そんなことは黙っていたのだが、ある時、英語圏からの人の教会で、日曜日の礼拝中にレクターンのところで旧約の一節を英語で読んでくれと何度か頼まれることがあった。

それがいまや、桃山時代の戦国武将の信奉していた佛尊のお経を、誰も読まないし、読めないので、ほかのお経と照らし合わせ、オリジナルの音と読み方を探り当て、リズムが出てくるまで読んでみたりしている。その佛尊を祀る京都の古刹でも、年に一度の大祭の時でもそのお経は読まれない。

『自分が同じになった感覚』というのは、体操をやっていた人や武道をやっている人、書をやっている人などはかなり的確に持つと思うが、私が最近気になるのは相撲の行事の呼び出しで、私がこどもの頃に聴いたものとは、『ほぼ同じように似ているけれど,コブシの利かせ方が違う別物』な感じがする。

世界的に名の知れた音楽家たち何人かのゲネプロで『ちょっと聴いてチェックして欲しい』とあちこちで頼まれ、やがてステージマネージャーまがいのことまでやったので、耳には自信がある。

これはじつはお寺でもそう感じる。世襲僧侶が感動なくやっているせいか、『う〜〜ん。それは違うんじゃないか』という読経が、ここ25年ほどで激増した気がする。いま、ほとんどのところで聴く九条錫杖が音程を外した音痴な読経に聞こえて仕方がない。

先週末、自転車が一台お客のところへ行き、今朝『まったくの別の乗り物です』というメールが入っていた。うちは、それだけを楽しみにやっているわけで、その『乗り味は何か?』と言えば、それは私一人が生み出したものではない。いままで6000台か7000台か、果てしない数の歴史的自転車に乗り、そのなかでしっくりした感じを、『雲から団子を作るように』まとめて今の材料で作ろうとしている。

そこへ『あそこの部品は〜〜にしてくれ』というのは、それは私のあずかり知らないもので、そんなことで『もっと良いものが出来ると考えるのは大間違い』。どれをとってもみんな台湾、ミャンマー、マレーシア、ヴェトナムの下請け生産のものを組みたてて、選ぶところのないものを、部品のグレードで差別化しようとする世相に、知らず知らずのうちに毒を盛られている。

そういう自転車も、たぶん、私の世代で作りても最後になるだろうと思う。

"Sanctuary!" Chharles Laughton 'The Hunchback of Notre Dame "

この特殊メイクはすごい。いかなるリメイク映画もこれにはかなわない。

Charles Laughton Chartres Cathedral

彼が彫刻家ヘンリー・ムーアのことを語っている。彼の語りはひきこむ求心力がものすごいと思う。

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ほんものの自分

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こどものころから『本来の自分でない人』をずいぶんたくさん見た。商店街のこどもなどでボスの子分になっているのがいたり、群れの中に入るのがいた。一方で、そういうのを嫌って、一匹狼になるのがいた。

自転車というのは基本、一人で完結する遊びなので、一匹狼が圧倒的に多い。モーターサイクルは決定的に2つのタイプに分かれる。一匹狼派は3人ぐらいが限界。それ以上の人数では面白くない。

この『集団』と『個人』の問題はじつは一般に考えられているよりはるかに深い。

ある種の集団は、『集団に入れ』と圧力をかけて来ることがある。これを拒む者は決して容赦しなかったりする。

私の友人の何人かはミッション・スクールで教えていたが、さまざまな見えざる圧力を受けた。『熱心な信徒であることを表明するために』さまざまなことに参加せざるを得なかった。そのなかの2人がいまは仏教をやっているのが興味深い。

これは『ある種の仏教でもそうだろう』集団への『融け込み』を要求してくるところはいくつかある。

中東などでもそうで、異教徒は居場所が無かったりする。この『自分のほんとうの考えを隠して生きるほどつらいことはない』。

ある時、日本へ数億円の工作機械の取り扱いを学びに、講習会に来たグループがあった。私はその取扱いを英語でやって見せる仕事をやったのだが、昼休みに会話が思わぬ方向へ行った。
『休みの日はどうしているんだい?』
『おとなしくして、聖典を勉強し、遊んだりはしない。西洋音楽を聴いたり酒を飲むなどもってのほかだ。』
『ふ〜〜ん。それではもっと長い3日間とか1週間とかの長期の休みはどうしているのかな?』
『巡礼をして、聖典を読み、偉い指導者の人たちの説教を拝聴しすることになっている。それが我が国の指導者の考えておられることだ。』
そう言った後、彼は爆笑した。
『いや、話題が危険な方へ言ってしまった。だから、ここにいる間はビールをか〜〜〜っと飲むのが、息抜きであり幸せなのだ。』

これはヨーロッパでも『スペインの異端審問』であるとか、『ドイツの魔女狩り』であるとか、アメリカでも『フランクリンの避雷針は人類に天罰をもたらす』という騒ぎがあったりした。日本でも異端がいないように檀家制度で監視システムがあった。

ダ・ヴインチも『鳥の飛翔に関するノート』は公表できなかった。

英国へ、アムネスティ・インターナショナルに助けられて亡命した芸術家を知っていたが、彼は政府を批判する雑誌を出していた。彼らの思想からすると、『政府を批判するなどというのは頭がおかしい』わけで、彼は東ヨーロッパのある国で、病院に監禁されていた。恐ろしいことだ。その国はもう転覆して存在しませんが。

これは宗教ばかりでなく『ひとつの思想が、そういう弾圧をすることがある』ということを示している。日本のすぐそばでも、自分がほんとうに考えていることを隠して生きないといけない国がある。

21世紀に入って、この様相はさらに巧みに変装したように見える。カタロニアに対して、ポーランドなどに対して、EUはかつてのソヴイエトのように弾圧をしている。ブリュッセルのEU本部の人たちは、カタロニアやポーランドや英国の人々が民主的な選挙で選んだわけでもないのに、である。

これはたくみにカヴァーされた新種のソヴイエトだろうと私はみている。

さて、一方でそうした国の枠組みを巡る動きがあり、もう一方で『仕事』が巨大多国籍企業や超巨大企業に動かされ、社会もそういうところが動かすようになってきている。

今月の21日で、友人の自転車店が店を閉める。インターネットで見ると星4つ半。サービスも良い。技術も良い。駅から80m。駐輪場の真ん前。いつも満員。それでもやってゆけない。

近くには自転車の安売りスーパーがいくつもあり、今年から急行で次の駅に家電量販店が自転車の安売りを始める。防犯登録の申請で見ると、年間売り上げ計画は5000台ということだ。

そういうところが、自転車文化の未来を作ると思うと、どうにも暗澹たる気持ちになる。『儲かるから』安い自転車があるから、乗り捨てるような人たちが買いに来て、ほかのものも買ってくれる、、そういう思想しか感じられない。

現代においては『会社に入るのも、宗教団体やある種の全体主義国家に属するのに似ている』。自分の考えや本音をまわりに気づかれないように隠して、虫のように働く。

何十年も『いらっしゃいませ、こんにちは〜』と繰り返し。それでいてたいした金額の給料をもらっているわけではない。家に帰ればテレビのお笑いとバラエティの内容をフィードしていれば、10年もすれば、知的な一打逆転も打てなくなる。それは完全に「反乱も逃亡も出来ない奴隷」なのだが、多くの人は気がつかない。

会社の為でもない、仕事の為でもない、持っているものの持ち主でもない、『ほんとうの自分は誰?』。これが掴めない人は、最晩年はだいたい悲壮な感じになっているようにみえる。これはいかに物理的に長生きしても、その空虚感は埋められない。

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