世相にひとこと

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全78ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

かまぼこ板の人生

老い行く母をみていて、自分が老いて行くこと、ひとの老いて行くことを考える。多くの高齢者をみていて、普通は、どんなに聡明な人でも、あたまがシャッキリしているのは90歳までぐらい。92歳頃から、聡明な人でも陰りが見えはじめる。もちろん、衰えの速い人は55歳ぐらいからすでに、頭の回転も記憶も澱み始める。

私のみるところでは、会話力とか議論のスピィドというのは、記憶とそれを呼び出せる速度と深くかかわっているようだ。『え〜〜っと、あれだよ、それだよ』と代名詞ばかりが出てくるようになったら危うい。

『かまぼこ板がない時代』、インドではヒンドゥー教も仏教も経典を暗記していたわけだが、これはその内容を縦横無尽に引用し、かつ、それが正確でないと論戦で勝てない、ということがあった。

仏教で『正念』というのは漢語のイメージに引っ張られて、違う意味に捉えられているが、元の意味はサティ、スムリティで『正しい記憶』である。『我』というのは『一種記憶の束』のようなもののわけだが、その記憶が誤っていたり、不正確であれば、正しい論理的な判断は下せない。

我々はおつりの計算などで暗算するとき、反射的に計算の答えを出すが、それは『しち・は・ごじゅうろく』(7X8=56)とか『く・ろく・ごじゅうし』(9X6=54)というのを暗記しているからできる。インドでは九九は2ケタまで覚える。彼らが計算に強い理由のひとつはそこにある。

マンダラの中のひとつの尊格は、一つの小宇宙と言ってよい個性と論理をもっているわけだが、コンピューターの基盤のなかに埋め込まれたチップは、まさにそれと似ている。マンダラと電子基板は論理に似たところがある。

さて、おなじみの電子かまぼこ板だが、これは『電卓を小さい頃から与えられて、暗算が出来なくなったこども』をつくるように、議論や会話、論理的な思考が苦手な人を作るように思える。実際、私のまわりでそういう人をずいぶん見かける。『記憶を掴んでは消して、さらにメモリー量を増やして、引き出し速度を速くするというのは、習慣と訓練ですから、生まれつきのせいにするのは言い訳に過ぎない。

これは私は高校生の時に、英会話のことでひらめいたこと。英会話は『必要な単語が瞬時に思い浮かばないと出来ない』。文法なんぞどうでもいいから、まず、必要な文章素材を即座に頭の中に浮かび上がらせないといけない。『え〜〜っと、え〜〜と』で30秒かかったら、もはや会話が成立しない。

『これは記憶だ』と気が付いて、『単語を覚えるときは、すべて文章で覚えるように切り替えた』。電車の中で単語帳を赤いセルロイドで覆って覚えようとしている学生を見ると、『ああ、効率が悪いことをやっているな』と思う。

最近では『かまぼこ板が翻訳してくれる』ようなので、ますます考えないで、スマホに話させたりする。これは暗算が出来なくなる少年と似ている。それでは、別の言語圏のひとの発想や感性を理解して、うまくコミュニケーションをとることは難しくなるだろう。日常の『用足し』で便利になるだけ。

この『記憶』とそれを引き出す精確性がいかに重要か?は、『貴女はインソマニアなんですってね。』という文章と『貴女はニンフォマニアなんですってね。』という2つの文章を較べてみればわかる。(insomniaとnymphomania)

これは記憶違いが大きな問題を起こす可能性がある(笑)。

さらに、あることへの評価とか、判断とかも、かまぼこ板の空間にある『雲をつかむ』わけで、意見そのものが煙のような雲のような場合が少なくない。

おととい、たまたま古くから知っている人と、そのようなことがあり、その人が大海原で電子かまぼこ板にすがって浮いているような生活をここ10年ばかり続けているので、ずいぶん知性が劣化したなと、正直思った。話の途中で、反論するわけにもゆかず、意見を撤回するわけにもゆかず、固まってしまった。昔は、そういう人ではなかったのだが、モーゼの十戒板のように(これも英語では『タブレット』という。ジョブズは旧約の『ヨブ』と同起源の名前だろう)かまぼこ板をあがめて生活していて、常に最新に買い替えていた。その先での知性のSHIをむかえ、議論の最中で、さすがに自分がおかしなことを言っていると気が付いて固まってしまっていた。

これは友人との議論ではなく、実際の人生の方向性であったらどうなのか?

おもちゃの使用レポートでyou tuberのこどもが十億円以上の儲けを手にしたとか、仕事屋スティーヴの伝記を読んで携帯ショップで取り扱いを教えていればいつかは自分も仕事屋スティーヴのようなマルチ・ミリオネアになれるとか、そういうのは『来週宝くじが3億円当たる』みたいな、雲をつかむような話だ。

そういうかまぼこ板とクラウドを掴んで、海を渡ろうとするのは、『みんなでレミング』だと思いますね。まあ、本物のレミングは飛び込まないらしいですが。

ひとつのことがらを見るのに、さまざまな『深さ』で見ることができるわけですが、日本の戦国時代の多くの武将が信じていた佛尊に摩利支天があります。

信じていた武将たちは徳川家康(静岡に社まで建てている)などもその一人。彼は或る時は光明山で、ある時は信長の前で、ある時は伊賀越えで、命を摩利支天によって助けられたと感じていた。ほかにも加賀の前田利家はお城の鬼門に摩利支天を祀って、明治時代まで加賀前田は無事だった。そのほか毛利家や香取神道流の宗祖、飯篠長威斎など、この佛尊を信じていた武人は多い。

ネットを検索してみると、『この佛を信じる者は姿が見えなくなると言われ、忍者がよくこれを信じて、、』などと、軽薄きわまりない俗説が流布されている。ネットでこれを読んで信じた人は、そこでおしまい。

これは、じつは古いインドの古代哲学と結びついていて、『見られるものと、見るものの関係』の哲学と深く結びついている。

簡単に言うと、たとえば、私が錆びだらけの日本の実用車(自転車)に乗って、パンクも直せない、自転車のことをまるで知らないオヤジのフリをすることも可能なわけです。あるいは『英国ではこういう紅茶を飲むんですね。なにしろ私は英語が全然できませんでね。二ホンから出たことが無いもので。』とやることも可能なわけです。『本質を見せようとしなければ、人間はいくらでも本音を隠せる。』

また、雑誌『ニュートン』などで、2重スリットによる電子の実験とか、光の特性などの号を読めば書いてありますが、最新の物理科学の世界では、観察者によって、電子や光子の動きが変わることが知られています。つまり、世界は観察する者がいるか?いないか?で現象が変わるというのが最新の科学。

『量子もつれ』などということの理論の先に、いわば、離れたところにものが伝わることがなぜかわからずにも存在することが知られていて、量子テレポーテーションとして、海中の潜水艦同士の通信として、現在開発がすすめられている。まだ100〜300mの間でしか交信できませんが。

この現象世界と観察者の関係、宇宙はもともと一点からビッグバンによって広がって来たことから、宇宙のすべての物はもともと、どこかでつながって、関係しているというオランダのライデン大学らの研究もある。

意外とそうした仏教の思想と云うのは、現代科学と矛盾しない。

その人のこころの奥底の本音というのは、見せようと思うか思わないか、でその人しだい。また、摩利支天を信じる者は、決して欺かれない、ともお経に書いてある。これも、どういうことかと考えると、じつに深い話なのです。

さて、自分のほんとうに考えていることが悟られず、また自分は敵の攪乱しようとする言説にまどわされず、常に相手の本音がみえたら無敵だろう、と日本の戦国武将たちは考えたわけです。

これは現代の世界政治の場でも、今の日本人は考えないといけない。

私がかつて、高校時代の漢文の先生が美人で、しゃにむに漢文を勉強したことは前に書きましたが、じつは私はもうひとつのほうのお隣さんの言葉も、今後必要になるかもしれない、と会社員時代に勉強したことがある。その当時、お隣さんSつまりK國のセーフ関係のところが精密機械を買っていたので。その関係もあって、年に1〜2回、訪れることがありました。

その当時、彼の地で私がよく聞いた話は、『世界中が、A國もC國もヨーロッパもNとSがくっつくことを望んでいない。それは世界のバランスが崩れるからで、Nには、世界でも南アフリカとNでしかとれないジェットエンジンを作るのに不可欠のREア金属がある。Sには西側の技術がけっこう入っている。それが結びついて、新たな勢力ができるのを世界は嫌がるのだ』、ということを話す人にけっこう会った。

だから、Nが『飛ぶ美沙子ちゃん射る』をこそこそやっているのをSは本気ではとめないだろう。2つが一緒になったら、それは強烈なカードになるわけだから。また、そういうところに特化したかたちで出た技術や、REア金属は、また別の交渉カードになるだろう。

いうまでもなく、C國はアフリカでのREア資源を押さえるのに相当,攻勢にでている。A國のトランペットさんもその危険は重々承知だろう。SとNは、どうでしょうね、最終的にA國が弱まると踏んで、日本も一緒に地盤沈下すると読み、C國の経済圏で上昇することを計画しているのではないか?

それをさせじと、トランペットさんはC國に『兵糧攻め』のカードを切って、さらにHONGコングのほうを後押しする。これは1960年代の『れー戦』以上の、10年後30年後を読んだすごい綱引きが行われていると読むべきで、日本のほーどーの読みは『中学校の、みんな仲良くしましょう的』な甘いものだと私は思いますがね。

そもそも『全体SYUGI-國、計画けーZAI國』が自由貿易を主張って、それはなに?おかしいと思わないのか?トランペットさんは問題が多い人だが、私は彼の問題よりもスコッチテリアみたいなヒゲの『ぼる豚』さんが問題アリだと思っている。

まあ、例によって検索避雷針のついた文章ですので、よろしくご判読あれ。

私の個人的な経歴をご存じな方は、思い出してごらんになるとわかると思いますが。

『R&Fは沈没する船のネズミのように危険を察知する』(笑)。

会社員時代、急激な円高の気配があって、『これは機械の輸出が難しくなるな』と思い、ボルチモアの展示会で、『自動車に積むGPS装置』を見つけて、『これを今度うちでやろう!』と騒いだ。1980年代なかばのことです。その当時、海上ではセレスティアル・ナヴイゲ―ションが、ローランシステムにやられはじめていた頃で、次世代はGPSだと読んだ。長距離トラックやバスに取り付けるものでした。

会社で上司にはずいぶんバカにされました。『広いアメリカだから、GPSの装置が必要なんだ。この狭い日本で、そんなシステムを買うモノ好きがいるものか!謝罪して契約はなかったことにしてもらってこい!』と満場一致で一蹴された。

当時、自動車メーカーのHがジャイロスコープを使ったナビを試作し、仮想の固定点を定め、地図を巻き取るシステムをやっていたが、精度が出なくて苦戦していた。

その日本での独占使用権をゲットしてきたのだから、私は凱旋パレードものだと思っていたのですが(笑)、『狭い日本で、、、』。

私はその後しばらくいて、チェルノブイリの事故の汚染測定の機械の仕事を終えてからフリーになった。私が辞めてしばらくしてから、その会社は吸収されて消滅した。輸出は、最後は10分の1まで落ちたという。

いままで、づ〜〜っとそんな具合でした。放電機械のメーカーはバブルの時の土地投資の失敗で潰れた。鉄のところもウナギをやったり、ワインの輸入をやったり、宇宙船を買ってテーマパークをやったりして、ことごとく失敗した。

私は、だいたい、なんだかおかしなことをやっているな、これはアブナイな。と思うとそこから離れる。

雑誌もそうですよね?N/Cは私が書いていた時、じつは瞬間風速で最大発行部数を記録している。私が抜けてあと凋落し、なくなった。これはバイク雑誌もそうで、1誌残っているが、厚さは3分の1以下になっている。別冊のムックも売れたから、あのころは年間6〜8冊出していた。『ジテンシャ奈琵』もそうで、創刊号をよく見ると、あれには『別冊』と書いてあります。あまりに売れたので独立の雑誌にした。しかし、私が抜けてからはふるわなくなった。

細かく、もっと例を挙げられないのが残念だ(笑)。

私は、正直なところ、自転車趣味の世界は大転換期に来ていると思いますね。団塊の世代のコアなマニアがすでに終活にはいっている。その上の職人たちは、年齢的な限界に来ている。その世代がごっそりいなくなり、『いま作っているものしかチョイスがなくなった時点』で、趣味世界がそうとう痩せると思う。

50歳以上のマニアは、ネットオークション上にある古部品を入手して、細々と続けるだろうが、若い世代との感性のギャップは埋められない。若い人口も増えづらくなるだろう。

街を走っていて、凝ったおしゃれな自転車を見なくなった。それは、徐々に実用品、ジェレミー・クラークソン的に表現すると、『感動のないキッチン家電と同様の乗り物』になってきている。

そうした感動のない自動車でも、全世界でたいへんな数が売れたりする。自転車もそういうメガ大量生産品はなくならずに生き延びるだろう。

しかし、趣味性の強い自転車は消えてゆくだろうと思う。また、日本での道路事情、都市づくりの事情、貧弱な街路樹の激熱な道路、都市部の砂漠気候化、ゲリラ豪雨、花粉症、大気汚染、も、これから大都市では状況悪化するのではないか?

そして、普通のショップがどんどん消えていて、他店で買った自転車はパンクも何も一切やらないところが増えている。気に入った物を買っても、自分でメンテ出来ず、店でもやってもらえず、一つのパンクや故障から、ほこりをかぶり、乗られなくなる。そういう女性を何人か知っている。その趣味をやめてしまうのです。

この暑さで、うちの仕事をやってもらっている職人さん2人が具合が悪くなった。年齢的なこともある。たぶん、よそも同じだろうと思います。

趣味世界が蒸発するのは、じつに早い。フィルム・カメラがどうなったか?モーターサイクルの人口激減はどのくらいの期間ですすんだのか?オーディオマニアがどのくらいの期間で激減して、レコードやCDの店が消え、数万円のヘッドフォーンばかりになったのか?

これから1〜2年の間に、趣味の自転車は似たような道をたどるだろうと思いますね。

イメージ 1 イメージ 2 イメージ 3 イメージ 4 イメージ 5 イメージ 6 イメージ 7

イメージ 7

1990年代だと思うが、日本での車間距離の詰め方が奇妙な具合になった。1988年から1992年ぐらいから、車間距離があるとそこへ割り込んでくる奴が目立つようになった。『入れさせまい』ときわめて車間距離を詰める。

私は1960年に『助手席』に乗り始めた(笑)。それまでは後席でしたが。そのクルマはエドセルの設計のリンカンのハードトップ。あの時代、今からみると道路はガラガラだったし、クルマはその存在意味が少し違っていた。その当時、ギスギスした感じで運転する人はいなかった。箱根でも大弛峠でも出かけて行けばかなり速く走れ、逆に都市部では粛々、悠然と走っていた。

今の人には信じられないだろうが、昭和30年代、方向指示器は横へ光るものさしみたいなものがドアピラーから出るようなものもけっこうあった。いまなら引っかかってあぶないだろう。当時はそれでも平気なほど左右の車間距離もあけてみんな走っていたということだ。

ある程度の高級車にはうしろにカーテンの付いたものもあり、驚くべきは、室内に『ニンジン型の花瓶』が付いたものもあった。今のせき込むほどの芳香剤ではない。ほんものの花を一輪挿しした。

古いCGで、イタリアの330か何かの記事が載っていたのを、うろおぼえで思い出すが、その人が何かのはずみで、そのクルマを売ろうとして、どうしてもエンジンがかからなくなった話があった。『売って、面白くないけれどPでも買うわ』ということだった。結局、運ぶのにどうしてもエンジンがかからず、売るのを踏みとどまった。その人が記事の中で『60年代でクルマは終わっている』というコメントがあって、私は深く納得した。これはリアルタイムでその時代の乗り物をみていないとわからないだろう。

自転車だって、昭和20年代から昭和30年代の運搬車、実用車は昭和45年以降の実用車とはくらべ物にならない。実用車の地位が違った。泥除けなどのプレスの飾り小物も、明治になって失業した刀の装飾部品の職人の技に通じるものが、昭和30年代までは生きていたのを感じる。

クルマは乗り物としての、そのカテゴリーが変っても、『ボディの皮一枚』と『性能」に目をくらませられて、『存在意味が変わったことにはみんな気が付かない』。

病米利香で『ワイルド速度』のような映画が作られる背景を考えてみるとよくわかる。オードリー・ヘップバーンの『サブリナ』に出てくるクルマ。『バークにまかせろ』に出てくるRR。あるいはイタリア映画『昨日、今日、明日』に出てくるクルマ。飛ばすとか、破壊的な乗り方は一切無い。そういうことをするのはギャング映画ぐらいなものであった。私は『病理』が出ていると思いますね。

ボンド映画でカーアクションが出てきたとき、ドクター・ノオでは古めかしい『レー級シャ』は壊したが、サンビーム・アルパインは無傷だった。ゴールドフィンガーではテリー・マスターソンのマスタングが壊され、DB5も工場で壁に突っ込む。あとは古くさく見える勉津が次々と炎上。ここは重要な点で、『悪役たちがドイツのものに乗っている』ことで、ゴールドフィンガーは、本来持つべきではないすごい悪党が最高に趣味性の高いRRに乗り、英国の名門ゴルフ場を所有しているということが伏線なのだ。

裏返すと、『金がうなっていても、アイツには持たせなくない』というものの存在があったことが感じられる。いまは、よろしくない運転をする人でも容易に誰でも乗れる。

やがて、アメリカで『ヴァニシング・ポイント』が作られる。ダッジ・チャレンジャーだったかダッジ・チャージャーだったか(たぶんチャレンジャーだった)で、けーさつから逃れる話。たぶん、これはその後の米国映画のクルマの扱いに大きい影響を与えている。リメイクでは、GPSやヘリコプターをはじめとするあらゆる監視体制で、もはや逃げ場が砂漠でもないことが描かれていた。これが病的な感じでエスカレートして、うっぷん晴らしのアクションにのめり込むと『ワイルド速度』に行き着くのだろう。

これは、私は『戦闘機メンタリティ』と呼んでいる。最近の500馬力、2000馬力とか、無意味なパワーがあると、自分は『宇宙戦争』でヘロヘロに病気になって、円盤から降りて来る火星人のようにひ弱でも、クルマはそういう人には一種のパワースーツなので、欲しいと思うんでしょう。

これはロードレーサーも似たようなところがある。普通の人は電動アシストに乗り、それを追い越して『オレは強い〜!』と雄叫びをあげる。ツーリング車に乗っている人は、もとより競う考えはない。目的地に無事につく、最晩年まで元気で乗る、それしか考えていない。それを追い越して『オレは強い〜!』もないものだ。

あおりも似たようなもので、『オレは巧い〜!』だったり『オレは速い〜!』だったり、乗り物によって自我肥大しているのだろう。

倉庫で物を探し、戻ってきて、あまりに熱いので、まあ、近くに喫茶店もなかったので、マックへ入った。自転車を駐輪場に停め、中に入ろうと歩いていると、そのマックは歩道とドライヴスルーの道の区別がない。そこを後ろから3発クラクションを鳴らすクルマがいた。運転しているのは30代の女性。
『ここは歩道とドライヴスルーの道の区別がないのが見えないのか。歩行者が10m歩くのを待てないでクラクションを3発ならすくらい余裕がない運転なら、クルマなんかに乗るな!免許を返上しろ!』と怒鳴った。

自分に理がないと思ったのか、反論せず、ふてくされた顔でこちらを見もしないで正面を見ている。
『2mぐらいのところで怒鳴られて聞こえないくらい耳が悪いのなら、やっぱり免許を返上したほうがいいぞ!』とさらに怒鳴った。追い打ち(笑)。

ひと月ほど前は信号無視の高齢者のクルマを追いかけて、次の信号で窓をコツコツと叩いて、
『アナタ、今の信号で、堂々と信号無視しただろう?こっちは青信号で渡っているのに、引っ掛けられそうになったじゃないか。信号も見えないなら、免許を返上しろ!』と怒鳴った。

その高齢者もこちらを見ないで、助手席のおばあさんが手を合わせて謝っていた。

こういう状況は、全世界的に起きているようで、ロシアでもヨーロッパでも、アメリカでもひどくなっている。これはドブネズミ走りが巧みにできるようになったクルマが、人を変えているのではないかな?と思う。運転して見ればわかりますが、2CVやパブリカ800で煽ろうと思っても出来ませんからね。

こういう時代にはあまり運転したくないものだ。するならばドライブレコーダー以外の物も欲しい(笑)。

『Q! Give me something ! I need few optional extras installed. 』

対抗手段をやっているあいだに同類か(爆)。

思想ありや?

仏教でもヨーガでも、我というのはほんとうはない。多くの人が『真我』といつも『意識』というかたちで存在している『自分』(我)は別のものなのに気が付いていない。

ほとんどの人がこれを混同しているから悩みも苦悩も生じると考える。

自分というのは、過去の記憶の束ねたようなもので、そこに知識で誤っているものがあったら、ジャンジャン抜いて捨てて、正しいものに入れ替えて行くべきだろう。

そうしないと『こころのぬか床が腐って、そこへ疑問を沈めても良い答えが良い漬物として出てこない』(笑)。

まあ、今日は新聞でもネット上でも、さまざまなニュースや記事がでている。思うところは多い。私の親しかった高校の先生にトッコータイだった人が2人いた。自分が出て行く数日前に今日の日がきて、その後,お一人は経済学者になり、もう一人の先生は哲学の道へ進んだ。お二人とも当時の社会ややり方がよいとは言わず、憎悪していました。

いよいよの時が迫って来たとき、煙草をもらったという話をされていました。そういう時、『ひとの煙草の煙をかき集めて吸い込んでいるような、あさましい姿も見受けられた』と言っていた。そして仲間で果てたもののところには、手袋をはめた人によって落雁が家族に届けられたのを記憶していると言っていた。

経済のO先生は『落雁だったんですよ。人の命が』とぽつりと言ったのを覚えている。

将棋で負けてきたら、赤い紙を送れば駒がもらえる?とられて盤面から消えたら落雁?

さて、古代インドでは、輪廻のさい、無数にいる生き物が、次は何になるかをいったい誰が決めるのか?という議論があった。これはなかなか面白い議論です。すごいコンピューターがあって、自分の一生の善い行い悪い行いがブラックカードの磁性体に焼きこまれていて、改札を抜ける時に判定が下る?(笑)

『ピンポン、このカードでは人間プラットフォームには入れません。昆虫になるゲートへ行ってください』(爆)

同様に、GUん神になるかどうかは、誰が決めるのか?ダイ・ホン・エーじゃなかったのかな。昔はまわりはすべてGUんの施設に囲まれて、GUんがあそこを管理していた。明治時代からのSHIN/トーに閻魔大王はいませんからね。こういう点をどう考えて、説明するのか?

明治時代、大正時代の洋行した人の日記を見ると、みんなアンヴァリッドのナポレオン1世の眠るドーム教会へ行っているのに気がつく。あそこにはGUN-JI博物館がついている。そのやりかたを真似たんだろう。英国ではウェストミンスター寺院には偉人達が眠る。シェークスピアからスティーヴンソン、果てはスティーヴン・ホーキング博士まで。ああいう場所が欲しかったんだろうな、と思う。北斎や文化人ではなく、当時を反映してGUN-JINファースト、GUN-JINオンリー。私はそう見ている。

そういう思想はあまり議論されたことが無いのではないかな。

全78ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事