油微塵流表箇条

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全6ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6]

[ 次のページ ]

この一台でお相手仕る

イメージ 1 イメージ 2 イメージ 3 イメージ 4 イメージ 5

イメージ 5

得物と獲物は違います。得物とは『自分が得意とする武具』のこと。そこから派生して『得意技』の意味となる。

江戸時代の剣術修行者の日記を見ていたら、さまざまな他流の道場を各地で訪ねると、『青天井』(屋根がない)だったり、下が泥の土間だったり。

それをまた、「これもよい修行になる」とぬかるんだ道場で練習試合をしたりしている。逆に、板の間で、長い竹刀を使っていたりすると、実戦の場では、板の間のようなすり足は出来ず、あのように長い刀では、その重さの為に,竹刀の時のような動きはできまい、道場での見栄えの為の姑息な技に終始している、と手厳しい。

昔の人は、それぞれ得意な武具はあったろうが、体格や自分の向き不向き、あるいは地位や年齢によっても得物を変えた。槍などが、敵の刀によって先が切り落とされたら、こんどは、その棒となった槍を、棒術として戦い続ける。技がまったく変わるわけだから、刀を持った敵はペースを乱され困惑する。


大将ぐらいになると、襲ってきた敵と刀を合わせることは、かなり格下の相手と同じ土俵に立つことになるので、軍配をもって、これを抑える。相撲で行事が持っているあの軍配で戦うというのは不思議な気がするかもしれないが、これも、そうとう練り上げられた技で、見ていて感心します。雑兵はそうした技など見たことがないでしょうから、技を見た時は自分がやられている。


うちへ定期的に来ている方のブログで、自転車の台数の話が出ていました。私は常々不思議に思うのだが、ヴァイオリンでもチェロでも、自分の楽器は一台だけです。何台も集めるひとはいない。ピアニストでもせいぜい3台ぐらいまでなのではないか?ベネディッティ・ミケランジェリなどは、いつも使っている特殊な調整のピアノ以外では演奏できなかった。

これは、たとえば木刀でも、いつも使う物は決まっているのではないか?

ところが、自転車の場合は20台とか、甚だしい場合は50台とか(歳の数だけ)持っている人がいる。たしかに、自転車は単一機能のものだから、数台必要なのはやむを得ない。しかし、多くの場合、マニアと呼ばれるタイプの人は、ほとんど同じものをいくつも持つ場合が多い。

まったく同じ寸法、まったく同じハンドル、まったく同じサドルで、変速器だけがサンプレのものとユーレーのものとか、変速器も同じでクランクがTAかストロングライトの2台とか、同じイタリアのレーサー
で、変速器もハンドルもホイールもすべて同じ、フレームだけが違うとか、かくして、なかには100台ぐらい持っている方もいらっしゃいます。

ここまでゆくと、自転車界のマリーアントワネットで、毎週末違う自転車に乗っても、全部違うのに乗るのに2年半かかる、、とか言う具合になる。つまり、2年半に一日しか乗らない車両は、いつまで経っても『馴染みのない、当たりの付いていない車両で、自分の得物にはならない』。つまり、いつ乗ってもビギナーの試し乗り、みたいな具合にならないか?

事実、室内自転車競技の人たちは、通常、ただ一台の自転車しか練習でも試合でも使いません。車両が変わったら調子が出なくなる。

私なども、もういい歳だし、これから体力も落ちて行くだろうから、どんどん得物を変えてきて、最近はもっと歳をとった時への対処用に、また一台、入れ替えようと思っている。そして、常に3台ぐらいにおさえる。

自転車の数が増えると言うことは、愛着の分母が増えることだから、1台のかけがえのなさが薄まると私などは思いますがね。

安楽の趣味

イメージ 1

自転車、それも体育会系の乗り物でないツーリスト系のものにメインに乗っているというのは、一言で言えば『楽』だからです。

満員の電車で立ちづくめで2時間かけて都心のはずれから帰って来ると、駐輪場で28号の一号車に乗るとホッとする。疲れているはずなのに、電車疲れを忘れ、そのまま1時間ほど乗ってから帰るというパターンが多い。

ぎっくり腰をやったときも、タクシーでクリニックへ行くのも大騒ぎだったのが、ループトップは乗れた。不思議といつもと大差なく乗れたので、それでクリニックまで行っていた。そのループのポジションが自分に『一切の問題なく安逸のところで出ていた』ということがあるのだろうと思う。誰にでもそうだとは言えないと思いますが。

痛風が出た時、反対側の足に力がかかって、左右のバランスが悪くなり、片方は痛風で、もう片方は筋肉痛でたいへん歩くのに苦労していましたが、自転車に乗って、『痛い方の足を停止の時に着くな、こぎだしは痛くないほうでゆけ』と念じつつ、買い物も郵便局へ行くのもドア・ツー・ドアで行けた。

体調が良い時は、一日150km〜240km走って、翌日局部的な痛みが残らない。

日常生活では、普通に生活している感じで、運動をしているという意識も出ない。だいたい、私はつらい運動が嫌いだ(笑)。『ライオンや虎は、ジョギングで鍛えたりはしない』。『ライオン用の回転式ルームランナー』とかは見たことがない(笑)。人間は運動に熱心だ。

昔、佐保田鶴治さんのヨガの本を読んでいて、『一日10分で体調も、気力も、性格すらも変って行く』と書いてあって、ほんとかいな?と思いましたが、最近は『そうだろうな」と納得する。

洋の東西を問わず、牧師も神父も僧侶も神主も、毎日の習慣で、それらしい人になってゆく。

自転車も毎日乗っていると、『自然と寄り添った生活』によって、だんだん自然の中で生きていた人間本来の安定した気持ちが取り戻せるように思う。

現代生活では、会社や社会からのさまざまなプレッシャーと不安な考えで、『ヒモで縛られたロースハム』のようにこころが痛めつけられている。『その自分の呪縛的な考えで、自分自身の生み出した糸やヒモで身が切られる』ような感じがする。

自分の考えで自分が痛めつけられているイメージだ。

ヨガをやったり坐禅をやっていると、そういうがんじがらめのこころがほどける。坐って『空気と時間の温泉でほわ〜〜』としている感じ(笑)。

坐禅はなかなかそういう『安楽の法門』という実感がわくまでは、ある程度続けて、自然な習慣になるまでにならないといけない。ヨガもそうで、ある程度やって、自然の中で時間の感覚が消えるくらいでやるとほんとうにほぐれる。

自転車もじつはそうで、キリキリして、負けまいと走ったり、心拍数をもう少しあげて鍛えようと思ったり、お茶を飲みに入っても、キズを付けられないだろうか、とか盗まれやしないか、とかさまざまな不安を抱えていると、この『ときほぐし』の安楽が楽しめない。

『無一物中無尽蔵』という言葉があるが、自転車の高価な部品のこともフレームのことも忘れる。自分と自転車が2つの別の物で、その自転車を最高級も持って自分を高めようなどという気負いも捨てて、自然体で行く。『両忘』というやつです。

自分と自転車がひとつ。健康であるとか不健康であるとか、今の自分の実年齢が嫌だ、若くありたいとかいう考えも忘れる。これも『両忘』。

そして自転車で逍遥して、自然と自分の垣根も消えて行く。これも自然と自分との『両忘』。

肩書も、預金通帳の残高も、住んでいる家のことも、経歴も、学歴も、年齢も、すべて忘れる。そこで確認できる生きている楽しい自分、、これを感じる自転車逍遥は愉しい。

毎日かかさず

イメージ 1

イメージ 1

私の年齢になると「毎日必ずやることの底力」というものを信じるようになる。

たとえば、歩行などということも、じつはかなり習慣的な動きの部分が多い気がする。意識的に姿勢を正していると、ある時、「気が緩んでもしゃんとして歩いている自分を感じる」。

うちの祖母がたいそう姿勢が良くて、まったく老人的な猫背がなく、密かに、それはたぶん、首や腰への負担の少なさとして、ずいぶん役に立っているのではないか?と若いころに思った。

画家や演奏家が長命なのは、いつも節制していること、ある程度成功するとストレスがたまりにくい生活になること、毎日、同じ時間に練習したり、同じ時間にアトリエに入ったり、日々のペースに大きな変化がなく、毎日欠かさず同じようなペースを保てるからではないのか?とよく考えた。

ピカソが、画風を変えたいときは、まず、毎日書いている字を少しづつ変えることだ、とどこかで言っていた。生活の細部からしか、大きい部分は変えようがない。

『どうやったら英語が出来るようになりますか?』とよく訊かれる。私は若いころ、毎日英文を5つ丸暗記するようにしていた。英語は単語をたくさん覚えても、決して間違いなくうまく単語群をつなげるようにはならない。

『新しい単語は必ず文章で覚える』。

不思議なもので、これは必ず『まっさらなところへ覚えないといけない』。5回迷ったら、正しい方と、迷った間違った方と、両方脳が覚えてしまう。英語がモノになる人とならない人の差はここにあると私は考えている。

最近は裏の白い新聞広告などほとんどありませんが、私は10代、20代には、広告の白いところに文章を書きまくっていた。ある程度覚えたら、こんどはタイプライターで打ちまくった。そのおかげというか、貯金というか、ブログの記事をジャンジャン書くのがさして気にならない。

或る時、英国で『貴男、昔、若いころにアメリカ人の先生に付いたでしょう?』と言われた。そうとう正確に英国英語を話しているつもりだったのだが、母音2つとRの発音で見破られた。半年か8か月ぐらい、毎日30分、舌がすり減るほどそればかり発音練習した(笑)。

今は何をやっているか?というと、寝る前に1時間、必ず臨書をしている。字だけを書いていても飽きるので、お経を書き写したりしている。一年で365時間(笑)。どういう差を生み出すのかワクワクする。

ついでに小ぶりの紙に書いたものをポケットに忍ばせておき、座れない、本が読めない電車の中で、チラチラ見て、半端な時間を使って暗記している。それがどうした?というところかもしれないが、暗記したものを臨書すると、『出来に差が出る』。一字づつ追いかけたものでは決して仕上がらないものが書ける気がする。

どんなに発音がよくなろうが、字が上達しようが、暗記しようが、すべては私がいなくなったら消え去る。それでもいいのです。

そういう『無形のものが上達進歩し、ああ、最後の最後まで追及できて、楽しかったな』と生を肯定するところの先で、おしまいもまた、肯定できるのだろう』と考えるからだ。これは「空」というものを「無」と考えてはいけないという、「虚無空見」こむくうげんになってしまってはいけないという思想を簡単に言ってみたわけです(笑)。

私は自転車に乗る時は、『自転車を操縦している』という気分はまったくない。自分がこれでいいはずだと作った自転車に私が乗ることで、自転車はちゃんと動き、自転車がちゃんとパンクしておらず、ブレーキも効くので私は正しく乗れる。両方が双存しているのを仏教的に難しく言うと『中道第一義』という。じつは、このあたりのことから『油微塵流双輪術』という名前は付けられている。まあ、日曜日だし、そんな難しい話はどうでもいい(爆)。

自分が考える科学的、理性的現実、あるいは経済的・社会的なちからのみを追いかけて、頼っていた人で、最後の最後の時は気丈な人が泣きじゃくっているのを何人か見た。『何も信じないということを信じている人の最後は、どうも精神がもたないようだ』。

芸術をやっている人は、だいたい立派に終える。武芸をやっている人もそうだ。平然と20世紀に辞世の句まで書いてニヤリとした人を知っている。

北斎は晩年、毎日魔除けの虎とか龍とかを描いていた。

自分の人生が、かどが緩まないように見張るということは意味のないことではない。それは神棚に水を毎日あげるのでも、寝る前に写経でも、カール・ヒルティの「眠れぬ夜のために」やモンテーニュの随想録や聖書とかでも、その人のピンとくるものでいっこうにかまわないとこのごろは思う。

自然に行く

イメージ 1

タイトルはダブルバウンドで意味がある。まわりを見渡して、自分の年齢になると、食事のあとに薬を飲んでいる人がけっこうな割合でいる。幸いにして、自分は定期的に病院へ行って順番を待たなくてよい。これはかなり意識的に30代後半から狙ったことで、ものすごい超健康体でなくても、薬を飲まなくてよい状態をキープしたいと思ったことによる。

10代では誰もそれほど深刻な問題はもっていない。20代は若さでなんとかもって行ける。日が陰りはじめるのが30代半ば過ぎ。この時点でかなり身体を酷使した状態であっても、ここからの身体の使い方で「なんとか長持ちさせる」(笑)方向で生活を改めれば、遅すぎるということはない。

これはじつは、50歳でも60歳でも遅すぎることはないのかもしれない。

秀吉は若いころから戦に明け暮れ、当時は野営が当たり前で、近代的なテントはなく、行軍などは駆けつける時間の1時間2時間が勝負を左右したであろうから、ほとんど馬に乗れるほどの出世をしない限りは、年がら年中フルマラソン状態であっただろう。かくして、秀吉は比較的若死にした。虎の肉の塩漬けまで送ってもらって強壮剤としようとしていたが、身体は持ち直さなかった。

私はいつも、ジョギングのやりすぎで膝を傷めるとか、ロードレーサーの乗りすぎで膝や腰や首をやられた人の話を聞くと、「常にカチで行軍していた足軽の健康状態を連想する」。運動のやりすぎはよくないでしょう。

自転車の世界を眺むれば、『自転車乗ってるから健康だ』とか言って、コンビニでジャンクフード食べまくりの方がいますが、ここ2年ばかりで完全にすごいお爺さんになっているので、写真を見てビックリした。

英語に「最後のワラ」という表現がありますが、ラクダの背中に藁を積んでゆくと、最後の藁1本を乗せた時に駱駝の背骨が折れる、、という考えからこの表現が出来た。The last haystack。中には背骨や頸椎や腰をやられて自転車に乗れなくなるか、乗って鍛え続けるか、という厳しいせめぎあいの中にいる人もいるようだ。もう還暦のはるか手前で、首をやってしまって乗れなくなっていたり、フォアグラやら肉料理、ワインやらの摂取しすぎで、血管ボロボロで、50歳前に自転車に乗れなくなってしまった方もいる。

酒の飲み過ぎで、眼底出血で眼が見えなくなってたいへんだった自転車乗りも何人かいる。

「運動しているから大丈夫」というのではない。「運動しているからこのくらいは無茶をしても平気だろう」というのがじつは通用しない。

あるいは無理やり、身体能力の限界を目いっぱい引き上げておこうというのが、無理なストレスになっているケースをよく見かける。

逆に、そういう限界点が高く引き上げられている人は、最期のとき苦しみも長いのではないか?

年老いて行くことを平然と受け止め、自らの役を果たしてゆく古武士のようなのがカッコ良いと思うが、なかなかどうして、生活に追われる現代人には難しい。

単なる寿命の問題でなく、社会的、経済的成功でなく、体力や外観の美醜の問題でもなく、土の中からミケランジェロの大理石の彫像を彫り出すように、自分自身を人生で彫ってゆくことが、体力増強とか以上に重要な気がする。

社会的栄華を駆け上った戦国武将がみんな早死にしている中で、飯篠長威斎先生は60歳を区切りに山にこもり、1千日の修行ののちに自らの流派をたて、100歳を超える天寿を全うした。

武芸にはスポーツとまったく違う身体的アプローチがある。

それを自転車の世界でやるとなるどうなるのか?自分の歳になって、このあたりへの興味は尽きない。その意味でレース系の世界とは、自分はずいぶん離れたところにいると思う。

イメージ 1 イメージ 2 イメージ 3

イメージ 3

今年のツールはあまり盛り上がっていない。新聞記事もほとんど見ないし、沿道のギャラリーも全盛期の半分とか3分の一ぐらいに見える。

アームストロング以降、致命的なダメージをそのイメージに受けた感じがする。

不思議なもので、私は自動車とかバイクとかのレースにもほとんど興味がない。まわりを見回すと、ここで大きくタイプが2通りに分かれる気がする。

これはどんなに仮面をかぶっていても、潜在的にそう云う傾向を持っている人は、どこかでそれが知れる。

たとえば、シトローエン2CVのシルクロード走破には勝ち負けはなかった。あれは遺跡や地理学上の調査も兼ねていた。しかし、21世紀の今でもあのルートを走り切った現代車は無い。

ハイキングや登山も勝負は無い。釣りも「一匹もつれなくても成立する」。こういうものはサーキットでのバイクレースやF1などとの究極の反対側にある。

私は2CV派、山派で、F1などにはむしろ嫌悪を覚える。サーキットにも行ったがあの音が我慢できない。地球環境的にも最も許されないことのはずだ。

私は『画家』のことをそれに対比して考えるのですが、『画家にも一部に、コンクールなどで1番になろうとする人がいる』。秘められたる権力欲・権威主義がカタチを変えて現れている。外部の基準は他人が決めることですから、そこで勝とうと言うのは、すべてが自立性から遠ざかってしまう。そうかと思うと『自分の絵を描く』ことに一生を捧げる人がいる。『エカキ』と言えば、一切の権威や集団、組織から離れて、自分の純粋な美に感動するこころだけで気の向くままに描いている人のことを言う。

私の敬愛するジョルジュ・ブラックは、ピカソとやっていたキュービズムを『世の中に知られたくない』とすら思っていた。そしてそれが世の中に流行すると多くの数知れぬ2流のキュビストたちが現れることになった。

そして、ピカソもブラックもそこを捨てて次の境地へ行った。

私は『自分の絵を描いている人を尊敬する』。これはさらに言うと、『自分の人生を描いている人を尊敬する』。

自分の人生を描くとか、自分の絵を描くには、かなり自分をクールに見ないと出来ない。

人の絵を引き写しているだけの人は、自分の人生が残らない。鉄斎はおびただしい量の贋作があるので有名だが、彼の贋作を作っていた人たちの人生は知る由もない。いきているうちからかげろうのような人生。死んでのちは足跡も残さず。

私淑するのはよい。弟子となるのも良い。しかし、『中に入って流派を割る者は外道』だろうと思う。

そういう人には強い『我』があるわけだと思うが、東洋的に言えば『我』はいらない。神社に鏡があるのは「か」「み」の間に「が」があって、そこを無心にして神気で満たすことを意味すると言われている。

悪悟りの『我』をもって流派を割る人はそこでおしまいだろう。

柳生石舟斎の古文書を読んでいた時、「ふたごころあるべからず」というのをみつけて唸った(疎意表裏別心あるまじきこと)。またこの流派で会得したことをむやみによそへ行って『毛頭他言指南これあるまじきこと』とあった。

軽々しく『受け売りをするな』ということ。

つまりその流派のおかげをもってあるところに到達したのに、それを自らがはじめたかのごとくによそで吹聴するのはよろしくない。それに対しては神罰が下るとまで書いてあった。香取神道流が「去る者は追わず」というのは多重の意味があると思う。江戸時代、ほんのすこしのところを変えて、100,200と分派したが、王道は決まっている気がする。

剣術の『奥義』と言われる技が、意外と単純であっさりしていて「どうしてこれが奥義?」というくらいあっけないもので驚くことがしばしばあった。ただ抜いて切るだけとか、上へ一文字に突き刺して、片手で刀を回し円を描き、そののちに両手で斬るとか。そういうものを6年の稽古ののちに、ある一定水準に達した者にだけ見せたという。他の人に見せることは一切禁じられた。

そこに『神妙』というものが見えるかどうか?

それはさりげないなかに技を隠してある。凡眼には見えない。そこから先のすべてがその単純な中にたくみに隠されている。

まったく同じことを、私はオリンピック3冠王のジャン・クロード・キリーの本の中に感じた。キリーは、この本の中の写真、図、文章を深く味わってほしい、その単純ななかに大きい扉を開くカギがちゃんと隠してある、と言っていた。

よくできた童話はこどもからおとなまで楽しめる。ある意味、すべての奥義に通じるものはそうした構成になっている。

ある方が、私の本が『あれは初心者向けで、、もっと高度な専門的なものを、、』とケチを付けてきたことがあった。そこに出ているカゴやバッグ、キャリアのことひとつでも、その方は本の写真のもののレベルに達していないのに、どういう高度な専門的なものを求めているのかな?と不思議な感じがした。

そういう中に、本人も気が付いていない自分の我との競争、確執があると私は見る。

私は室内競技の方の自転車のチャンピオンと話していて、『自転車に乗れるというだけでじつは点数になっています』というのをきいて、それもまた奥義だな、と感心した。

自転車に何をもたせるか?

人より良い部品を付けるのも、良い車両を持ちたいのも、じつは姿を変えた『競争』であり、『我』の虫がおさまらないことなわけです。

私は最近、こころのどこかで、『自転車などはシングル・スピードで、変速器なんか内装も外装も要らないのではないか』と言う声がしだいに大きくなってきている。

それで自転車の旅は成立する。昔のツールはシングルスピードだったではないか。

柳生石舟斎の自筆の兵法百歌に次のようなものがある。
『兵法を知らざる人は差し刀 長きを好む由や理』(へいほうをしらざるひとはさしがたな ながきをこのむよしやことわり)「兵法を知らない人ほど、だいたい長い刀を好むという法則がある」

長い刀に相当する自転車とはどういうものか?(笑)

競争を捨て、自分のスタイルを描くことで見える妙というものを考えるべきだろう。

全6ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6]

[ 次のページ ]


.
raijin&fuujin
raijin&fuujin
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(4)
  • みにゃのつれづれ日記
  • 雅 幸 画 房
  • sasuga
  • dai**n09
友だち一覧

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

標準グループ

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事