双輪生活

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武蔵野のたそがれ

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木曜日は金属粉を吸い過ぎて具合が悪かった。昼時に食事に出たらなぜかビジネスマンの姿がなく、家族連ればかり、「アッ!祝日か!」なんだか損をした感じになった。

金曜日は午前中に突然、イタリアの乗り物デザイナーの友人から連絡が入った。木曜日の埋め合わせに午後は職場放棄を決める。

4時ぐらいまで近況報告と最近の仕事の話のあと、別れて、私はそのまま3時間ほど自転車に乗った。

夏の武蔵野散策はたそがれ時にかぎる。なにより風がある。今の時期、午後4時ぐらいから、刻々と音世界も自然の表情も変わる。

まずは法師ゼミの声がヒグラシに変わって、やがて寝言のような、思い出したようにジワッ、ジワッと鳴くアブラゼミ。そこを突き抜けるヒグラシの声。

日が落ちる間際には蝙蝠がたくさん飛び、日没後には今の時期エンマコオロギが鳴き始める。

国木田獨歩の「武蔵野」には、武蔵野の個性は栗の木、クヌギの木、それらの林に加えて野原だと言うことが書かれている。面白いことは、古来日本の文学には松林はよく出てくるが、クヌギや栗の林は出てこないと獨歩は書いている。たしかにクヌギ林のことがうたわれているのは北原白秋の「つるばみ」ぐらいしか自分も思い浮かばない。たぶん、明治以降に主題になり始めた風景なのだ。

林や野原が互い違いに混在しているなかに農家が点在し、澄んだ湧き水と小川があるのが武蔵野の原風景だろう。残念ながら、そういう武蔵野はもはやほとんど残っていない。似たような場所はありそうでない。

国木田獨歩も、深い林や広い林は北海道などでもあるだろうが、武蔵野の林の風情とは違うと断言している。獨歩は広島と山口、岩国で育っている。

『ただ、このみちをぶらぶら歩いて、思いつきしだい、右し左すれば、随所に我らを満足させるものがある。、、、武蔵野をのぞいてこのようなところがどこにあるか?北海道の原野には無論のこと、奈須野にもない。』

『されば、君もし、ひとつの径を行き、たちまち三條にわかれるところに出たなら、困るに及ばない。君の杖をたてて倒れたほうへゆきたまえ、、』
このあたりは名文なので、私の簡略化された現代文でなく、ぜひ原文で読むのをお薦めする。ここのくだりは手塚治虫もお気に入りだったようで、鉄腕アトムのなかで、ヒゲ親父がこの一節を口ずさみながら歩くシーンがあった。武蔵野の沼を埋めたてようとする人間に、毒を吐く巨大なイモリ(トカゲか??)たちが復讐する話だった。

夏の日に武蔵野をのこのこ歩くのを「愚かだと思う人」もいるだろうが、「それは武蔵野の夏の光を知らぬせいだ、」と獨歩は言う。

『空は蒸し暑い雲が湧き出でて、雲の奥に雲が隠れ、雲と雲の間の底に蒼空が現れ、雲の蒼空に接するところは白銀の色とも雪の色ともたとえがたき純白』がかすかに色が染まって、たとえようもなく美しい。

ちょっと二〜三時間、そういう場所を自転車で徘徊して気分転換をはかるのは何よりも楽しい。獨歩の時代のように、杖の倒れた方角へどこへ行っても楽しいとは今は言えないが、それでもところどころに、地面が乾く寸前の水たまりのように、良い場所はほんの少し残っている。

今となっては歩いてそういうところを巡るのは難しい。点在しているところから次の『水たまり』までがあまりに遠いのだ。そうかといって自動車では無理。スクーターやカブでもうまくゆかない。

この楽しみはどんな他の乗り物を持ってきても味わうことのできないものだ。

夕暮れ時、武蔵野の湧き水はいよいよ時間を吸い込んで澄みきって来る。英国英語では『ジンのように透明だ』と水を表現するが、時間と自然に濾過された水の透明感は、蒸溜されたように澄んでいる。

その小川の中で遊ぶこどもの声までが大雅堂の墨絵のようだ。

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私が小学校の頃、自転車で隣り町へ行くのも冒険でした。やがて、さらに遠くの地図でしか知らないところまで自転車で行ってみた。

途中の光景まですべてが新しい世界。ロマンがあった。

私の世代の自転車好きはほとんどがそうだと思いますが、小学生の多くは実用車をそのまま小さくしたようなこども車に乗っていた。荷台も完備していて、いろいろな物が積めた。しかし、発電式のランプだけがこども車にはなかった記憶がある。

こどもの荒い扱いでは壊してしまうと思われたのか、こどもは夜乗らないと思われたのか。多くの場合、差し込み式のバッテリーランプを持っているこどもが多かった。それとても贅沢なものだった。

『自転車という1分の1のおもちゃが走る不思議』。『それに乗って見知らぬ街へ冒険へ出かけて発見する不思議』。世界は不思議に満ちていた。

小学校も高学年になるとアルセーヌ・ルパンなどを読んだ。出てくる少年探偵は軽量自転車に乗っていた。

まだ見ぬフランス。手っ取り早くそのロマンを満たすには、ヘッドランプとテールランプをフランス製に取り換えることだった。

もう小学生の時分から中学卒業までどのくらい買ったかわからない。逆にいうとそのくらいよく壊した。

Zのおじいちゃんのところへよく井の頭公園を抜けてランプやテール、ウィングナットを買いに行った。いまだに覚えているのは表のケースにはソービッツがならび、なかでも大型のキャタラックス6はそうとうの高級品でかなりの決断力を買うのに必要とした記憶がある(写真左端)。

一番奥はソファーがあって、重要な客だまりになっていて、そこのガラスのケースの中にはマファックを写したオリジナル・カンティ・ブレーキとか、ルクソールの珍しいテールがあった。

ある時、意を決して「奥にあるルクソールは売り物ですか?」と訊いた。「売り物だけれども、、あれは難しいぞ。まとまらないだろう」と言われた。たしかにZの車両でルクソールを付けているのを見たことがなかった(写真中央)。

買って付けてみたのですが、テール・ランプが自転車の全体にとけこまない。そこだけがとってつけたように浮いてしまうのです。

以来、引き出しの中で眠っていた。いまだにほぼ新品です。あれが似あう自転車というのはそうとう考えなければいけない。

古いメルシェなどを後年入手した時、のちの時代のもので綺麗な物を入れてみたのですが、やはり、同じ形状で、反射鏡が古いつぶつぶのものから平面のものになっただけでも全体の風情が変わってくる。難しいものです。

『自転車のまとまり』の問題は深い。

あの時代の自転車のテールランプは単なる機能の問題だけではなかった。電気が入って光る不思議。走り去る自転車の尾灯のロマン。

いまのテールにはその種のロマンを私は感じない。全世界どこにでもあるデザインになってしまった。

昔、城達也のジェット・ストリームという番組のなかのナレーションで、「遠ざかる飛行機のランプの点滅は、やがて星のまたたきと見分けが付かなくなり、、」というくだりがあった。

家路につく友の自転車の後ろ姿のテールランプの光には美学が感じられた。そのテールが一台づつカタチが違い、メーカー車でも宮田とBSではテールで一目でわかった。

ああいう時代は再び来ないだろうと言う気がする。

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旅人はいずこへ?

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休日に川沿いを走っても旅人を見なくなりました。運動で走っている人がほとんど。GPSの付いたスマホもあるし、そこにはなんら冒険的なもの、一生に一度ひろがってくる眼前の新鮮な道もない。

これは遠くでなくてもよい。はじめての道ならけっこう楽しい。

人間の記憶力というのはたいしたもので、2度目に行くと『ああ、ここは来たな』と新鮮味が薄れる。四季折々の変化を楽しみのうちに入れても、それでも常に新鮮な気分に保つには工夫が要る。

人間のメモリーはいったいどのくらいあるのか?とあきれるばかりです。

同じ公園、同じ神社仏閣へ行くのも、それは毎日同じ八百屋へ野菜を買いに行くのと同じでルーティーンになってくる。

刺激が『物』から来ている人たちも、やがては物にあきてくる。すべてを見尽くした感じ。

今月はひのたまはちおうじのほうで大きなお祭りがありますが、地元の人でも50〜60回観て人生が終わりなのではないのか?80回見る人は少ないだろう。

高齢になるほど「ルーティーン」になってくるものが多いのではないか?なにか新鮮なものが欲しい。

ここ数年、旅のスタイルから「こういう自転車」という風に考えることが多くなった。

今日、たまたまリアキャリのことをお客に訊かれ、問屋に問い合わせたところ、メーカー切れで12月以降でないとはいってこないということでした。たしかにそう云うリアキャリアを付けている人を最近見ない。

しかし、こうして写真を並べてみると、どう見ても昔の旅スタイルの方がエレガントに私には見える。最近の旅行用機材はどんどんジョギングと同じ範疇のものになってきていて、『旅』というのとはちょっと違う気がする。

荷物を積んでどこかへ旅に出る、、という人が減り、『ルーティーンで同じコースを走る人たち』が主流になっているのかもしれない。

昔の写真を見ていたら、よくまあ、サドルバッグひとつで八ヶ岳まで東京から行っていたなと感心する。着替えは別に送っていた記憶がある。

荷物を増やすほど、乗っている時の楽しさは減るわけだから、ほんとうは荷物を減らすことを考えたほうがよい。左から4枚目の写真でも、私の世代ならリアにあれほどの荷物を積むことは考えられない。乗って不愉快なだけだろうと思う。

私が10代のころ、今の時期はキャンピング車をよく見かけた。最近はぶっそうだし、勝手にテントを張っていると怒られるし、実際、不可能になりつつある。左から3枚目のリア・キャリアは寝袋を積むために天板を長く伸ばしてあるのが泣かせます。

キャンピング車は自分の家の玄関からいきなり走って出かけて行く車種だから、つまらないところも走らざるおえない。現代ではこれもマイナス要因だろう。

四国へ行った時、東京湾のフェリーの桟橋まで自走したが、その区間が一番つまらなかった。

『旅人心を、すっと、りきまずに満足できるスタイル』、それを考えると、シンプルでミニマムな道具の重要性がきわだってくる。分解にも持ち運びにも手間取る複雑な物は嫌だ。

こうしてみると、サドルバッグも大中小、いろいろありますが、泥除け無しなら意外に輪行が簡単です。1〜2分で袋に入る。

右端の写真は、遊び場所としては良いのですが、こういうところを走っても『旅は成立しない』。それはサイクリングロードや有名な橋などもそうだろうと思うのです。

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初夏の森林浴

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こちらのあたりでは、まだうぐいすが盛んに鳴いています。夕方にはホトトギスの声も聞こえた。

私はいつも思うのですが、脳の現実認識と人の意識が、常に人工物と画面上の仮想世界に依存していると、現実認識が危うくなって来るのではないか?

夢の中で見たことも、ネットで読んだり見たりしたことも、実際に体験したことも、霧がかったようにうすらぼやけ、すべてのことにハッキリ見える輪郭線がなくなってゆくのでは?

たまに、私に会って、私がブログに書いたことを、『そのまま、自分が考えたこととして』、私に言って聞かせる人がいる(笑)。仮想世界と現実世界の境界線がぼやけているのだろうと思う。

林の中で聞いた鳥のさえずりは生々しく、昨日訪ねてきた28号のオーナーを連れて行ったあたりは、PCの画面で見るよりはるかに自然が大きい。あの現実感はPCの画面では伝えられない。

もちろん、道にたちこめるヤマユリの香りも。

現実がもやもやした感じに思えたら、自転車で自然の中に入ってゆくことをお勧めします。

昨日もたった2時間半だったのですが、ずいぶんリフレッシュされた気がする。夕方はおすすめの店で食事、別れ際は川のほとりでシャッキリさせる珈琲を飲んで別れました。

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退屈からの逃避

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人生さまざま倦怠と退屈がありますが、いままでの人生の経験から、『人生が楽しくて仕方がない』時はさして『逃避』は必要ない。ちょっと忙しい流れをせき止めて、川の底の小石をチェックする感じ。飛ばし過ぎて燃え尽きるのを防ぐ意味合いもある。

忙しすぎるのも、毎日同じようなことを繰り返しているのも、倦怠と退屈につながることがある。

私などは飽きやすい方で、小学校の通信簿には『飽きやすく、授業中でも歩き回っていることがある』と書かれていました。今でも突然『ゲームチェンジ』をしたくなることがある(笑)。

どういうわけか、私は昔から一風変わった気晴らしと余暇の過ごし方をしてきた。世間一般のレジャーと言うのでは気が晴れない。

ゲームと言うのも面白いと思わない。混雑した観光地に行ってもしらけるだけ。『何を求めて、人はそう云う行動をとるのか?』考えてみると面白い。

レジャーとか余暇というのには2重性があると思う。

きわめてストレスを多く受ける仕事している人が、社会的成功者で、金額に糸目を付けずで休養を求めて行くリゾート、そういうものがあったとする。そうすると、一方で1年間無理に無理を重ねて、そういう場所へ行ってみようと、馬車馬のごとく働く人が、同じ場所のかなり格落ちのところへ行く。

漠然とした思いですが、脳には達成感を求める部分と向上心がプログラムされているのではないか?

達成するものが何もなく、ただいたずらに人生を消費してしまうことへのやましさが虚無感につながるというか。

同じ場所で、一方は完全休養し、もう片方は「そういう超一流の場所へ行ったぞ〜!」という達成感のためにクタクタになりに行く。

私は旅が好きなのですが、一番面白いのは初めての人と会うことなのです。名所、旧跡はそのつぎ。人に会うことは旅先でのなによりもの刺激になる。

そのため、同じ場所に定期的に行って、ひとりでグルグル自転車で一回りして、、というのは飽きる。

『慣習』は常に『因習』に落ち込む危険がある。『信仰』が『迷信』になり『迷妄』になったり。

表面は似ていても非なるものがある。古い日本が残っていると言われて行ってみると『しなびた干物』であったりすることは少なくない。

実際、このところ、輪行してあちこち行ってみたいところがたくさんある。シングルスピードの英国車を処分してから、輪行はほぼまったくしなくなっている。

そのための自転車をこのところさかんに考えているわけです。かなりどんどん切り詰めて、最後に何を、どう機能を残せばいいのか?それでどういう遊び方をすればよいのか?逆にそうした単一機能のものでしか出来ない旅行スタイルがある。

そこに、世の中のよく言われる高級志向は入りこむ余地がない。

西洋の銃は誰が持って使っても、その人の力を果てしなく増大させて、相手を倒すという、ある意味もっともくだらない目的に使わせる。これは、戦闘機やF1マシーン、快速自動車もそうでしょう。運転技量を問わないコントロール性が高まるほどに、乗り手の質は問われなくなって来る。良いものを買った人が勝つ。

日本の刀はどうでしょう?これはいかに名刀を手に入れても、技量がない人が持てば、その力はゼロに等しい。

楽器も同様で、世界に名を知られるヴァイオリンの名器を手に入れても、「咲いた、咲いた、チューリップの花が〜♪」をたどたどしく弾けるだけでは道具は何の意味も持たない。ベーゼンドルファー・インペリアルを2歳児がげんこつで鍵盤をゴンゴン叩いていても音楽にならない。

自転車は本来楽器に近いものだと思う。技量がある人がリサイクル屋で買った楽器で本領発揮できないように、技量のある人には、そういう機材が必要だ。

使い方を考えるソフトウエアを練る工夫も必要でしょう。

自転車も長年やっていると、『ここまでの機能も性能も必要ない』という部分がたくさんある。それらをそぎ落として、乗りよく、使いよく、輪行が簡単という達人向けというのは、大メーカーでは決して商品にまとめられないだろう。

外観に関しては、『自分はこういう人だ』という人柄の反映で充分で、プレステージは必要ない。そういう道具も必要だろうと、このところ毎日想を練っている。

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