双輪生活

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旅道具として

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会社員時代からほとんど『旅が仕事』でした。それも一度出かけると半年家に帰ってこないことも珍しくなかった。

これは私の道具に対する考え方に少なからぬ影響を与えていると思う。

家から持ち出せないものや持って帰れないものは、うちでのんびりしている時にのみ使う。

イランを離れる時、洋服や靴のほとんどはホテルの人にどうするなりと処分してくれ、と残してきた。インドでも同様。手元には防弾チョッキと同じ生地で作ったカバンだけ。これより軽い旅行カバンはない。

軽いかさばらないカメラと、あとは経験を記憶した自分自身があればいい。

このカメラは、自分の場合、『雑誌の左右グラビア印刷の画質に耐える』というハードルがあり、ながらく機械式F-1とM-3を2台持ちで使っていたが、途中から重量が3分の一になるのでZEISSのジャバラにした。

いまはブログ用がメインなので、小型の初期のルミックスしか持っていない。大日本印刷のひとに以前、このカメラだと5cm×8cmぐらいのグラビアまでしか使えませんと言われたが、それでもB5変形サイズの本なら充分。ジャバラのZEISSは記録用の決定的なものが必要な時だけ登場させる。

道具は『運動会の借り物ゲーム』のようなところがある。

今自分で乗っている自転車は『こういう乗り味で使い勝手のもの』という、自分の欲しい物のイメージがあって作ったわけだが、いわば『自分が乗りたいもの』が根っ子にある。

このブログも開設から8年が経過した。ページはまもなく5000ページになる。

アップハンドル、キャリア付の自転車のライフスタイルの可能性は充分もう書いた。

道具はかなり生活の枠組みを決定しますから、ちょっと違う枠組みのためのサブ自転車も要るなと、このごろ思い始めている。

頭の中のどこかで、「いまは外国旅行をする時代ではなくなってきている」と言う思いがここ2年ばかり消えない。世界情勢がそういう雰囲気ではない。これは理屈ではなく、体感温度で感じるようなものだ。

もし、私がヨーロッパ在住であったら、列車にそのまま28号を積んで国境を超えてどこへ出も行けるわけで、良いのですが、国内旅行では、もっと出かけるハードルを下げて、「手荷物3.5kg」で自転車旅行をしたいと思う。それは3.5kgの自転車を作ると言うことではない。

前にE.H.さんが号令をかけて駅のコインロッカーに入る自転車というのを設計させたことがあるが、図面を見ただけで、とても乗って楽しいものとは思われなかった。

一方で彼は21世紀にイタリア製大型バイクにアルミタンクの改造をやっているのを見たが、地球環境的に私はそういうことはよろしくないし、ライフスタイルの創造とは遠いと考えている。

自転車は間に合わせで乗るものではない。

ライフスタイルを補佐するものでない、コスメティックなデザインはデザインの堕落というのが持論だ。

大型バイクで東名を走って東京から京都、翌日寺巡りと、新幹線と、ねこか飛脚にホイールと重量物をまかせて同じことをする旅行はどちらが楽でカッコ良いのか?得るものが多いのか?これは目的地が出雲、九州、あるいは東北と、遠くへ行くほど自転車の有利がモーターサイクルに対して決定的になる。

大型バイクを2時間半で東京から京都へ運ぶテレポーテーションでも開発されれば別だが(爆)。

私は『自転車に乗っている爽快感』が好きなのであって、折り畳みの『暫定的に、とりあえず走っている感じが大嫌い』なのだ。そうかといってA点からB点まで人力でできる限り速く移動というのではない。「旅」を求めているので、レーサーも私の中で却下です。

自動車輪行も、渋滞、走るフィールドに到着するまでの退屈さ、デポしたところへ帰ってこないといけない伝書鳩ルート、疲れたあとに運転して渋滞の中を帰ってこないといけない。自動車のマイナス面もそのまま取り込むことになる。運ぶ自動車が速ければ速いほど、渋滞時のストレスも大きい。

列車での輪行なら、道すがら珈琲を飲んで目的地の歴史に関する本を読んでいても到着できる。

多くのフォールディング、あるいはセパラブル・自転車はミシミシ・ギシギシいっている。乗って楽しい乗り味では私にはない。距離も伸びない。

出先で輪行しようかな、と思ってもロードレーサーでさえ、面倒だからそのまま乗って帰ろうとなる。その意識が逆転する道具が欲しい。

乗って28号とほぼ同じか80%ぐらい。30秒でたためる。これが今年の後半の自分の課題です。

私は濃厚に旅マインドなので、東京の西半分の川や池の水辺だけ走っているのでは日常生活の延長に思える。日常が充実しているのはまず一歩で、そこから先の旅が必要なのだ。

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修と証

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半年ぐらい前、うちへよく来る若い自転車乗りが面白いことを言いました。
「なんだか、いろいろと雑誌の言う通りに調整して、身体を鍛え続けていれば、ある日突然股間の痛みも、首の痛みも、腰の痛みも、親指と人差し指の間の痛みもすべてまったくなくなるって信じているうちに、そうならなくて自転車をやめてしまう人が多いのでビックリしています。」
私は爆笑したのですが、半面残念なことだと思う。

インドで地面の中に管をくわえて頭をうずめている『行』をみましたが、正直、虚しいなと思った。インドでほかにも、何年も片足しか使わないで歩くとか、いろいろなタイプの『荒行』を見た。

お釈迦様はそういう苦行の意味のないことに、自分自身断食を続けていて、動けなくなって、村娘の介護を受けて助けられ、気が付いたと言われている。

禅では「人はみな、それぞれが夜(比喩的に光がさしてこない闇)のなかで光る玉を持っている」と考える。

その玉がいまだに光らなくても、それを手にしているのに、どうして迷うことがあるのか?

ふと、自分のこころでたしかにものが見えるようになった時、空の谷には神の声がとどろくごとくに見え、すべてのものは千の太陽に照らされたかのごとくあきらかに見えてくる。

そのように見えてこない修行は間違っているとすら言う。道元は、渓流の水も松や竹をわたる風の音も毎日、途切れることなく我々に教えてくれていると言った。『もろびと、聴得すや?もし聴かずといわば、五戒も持たず』。

名利とか、人より速く走ろうとか、たくさんの宝のごとき自転車を集めて世に知られようとか、私はそう言うことに興味はない。

禅的にいえば、「修」の外部のどこかよそにある「証」などには私は関心がない。

毎日身体を鍛えて、人より速くなろうと思ったところで、どこか未来で何かが手に入るものでもない。どんなに鍛えても『老い』は必ず追いつく。

自転車で水辺へ行く。自分自身のカタチを持たない水は地形により、どんなカタチにもなる。池になったり沼になったり、川になったり。その表が静かならば、大空をも映してとりこむ。

頭の中にふつふつを沸き起こる世事のさまざまなことを払い落し、水面を眺むれば、自分の有限な一生の10分、15分などという時間枠が消える。

空と自分と水にわけへだてはなく、自然と一体となったやすらぎがある。

たぶん、人がこの世を去る時に思うべきは、この自然の懐へもどる感覚なのだろう。

それこそが自分が自転車に乗る理由である。

自転車に乗ることを荒行のごとく、あるいはそれを続けていれば、どこかで悟れるというのは少々おかしくはないか。私は自分が乗って楽だと思うものに乗って、美しい自然の中へ日常的に出かけて行くだけである。そこで自然に自分をととのえてもらい、パワーをもらって来る。

その自然の本体と自分が一体と感じることこそが「証」であり、果報と私は考えている。「証」は「修」を続けるかぎり手の中の珠のようにそれを楽しめる。

その珠を見つけ出す方法と、それを維持するやりかたは、指し示すことが出来るが、それが目的ではない。

私はそれの手助けとなるように自転車をつくっているわけで、それに高級部品を入れれば最高無上になるとか、部品の入れ替えごときで自分がそれを生み出したかのごとくいうのは虚しくないか。

自転車に乗り、頭上を見上げれば、カナブンが樹液を争って喧嘩をしている。

ちくわをどこかから拾ってきたカラスがいる。

カナブンも所詮は巨大な樹々の手に握られている。風の声に耳を澄ますこともないだろう。

カラスは餌があるゴミ捨て場ばかりをのぞいている。儲からない場所の美しさを知らない。

禅では『瓦を磨いて鏡を作ろうとする』というたとえを使いますが、頭や知識でひねった見方では、林や谷を抜ける風、道端の花一輪、水の表面に本当の意味で幽玄をみて感動することは難しいだろう。

石を握って玉と勘違いしている人も少なくない。

忘筅者乎然則諸流位

可識若又向上者来

即更施不伝双輪妙

雲破月来池

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和風礼賛

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先週小さい文庫か文箱の柳行李を買った。

狙いとしては、「車輪の伊達」(よい誤変換だ、笑)、野点には和風の籠はどうかなと買ってみたのでした。

今日は材料ギレで午後2時半より仕事にならず。仙人クラウドに柳行李をつけて散歩に出た。

荷風に買い物籠と日和下駄あり、自転車徘徊者に柳行李あり(笑)。

私はこんなに柳行李がよいものだとは知らなかった。

バスケットにまさる点、2つ。

1)バスケットは、かならず、ぎしぎし音がするのですが、私の買った柳行李はまったく音がしない。ミシリとも言わない。

2)重ね合わせるところが、かぶせなので、ファジーであり、2割3割増しの詰め込み具合はなんともない。

かぶせているので、内容物も中で暴れない。伝統の日本恐るべし。

日本には、すべてどこかの特定の外国製でそろえ、日本の物を、スイッチや蛇口やトイレット・ペーパー・ホルダーにいたるまで国産排除というひとがけっこういます。私は和洋折衷が意外に平気なのです。

日本的なものが、むしろ歳をとってますます好きになる。ようするに「現代のものと近代のものが嫌い」なだけ。明治、いや、大正、昭和でも良いものはたくさんある。

たまじいと電話で話した。「我が道を行ってる」と言う話。
「アナタ昔からだよ」。
「柳行李に墨で、『明暗』とか『無明』とか諸国漫遊用に書こうかと思って」。

意外に日本のものを受け止めて使う人は少ない。これは日本の自転車でも自動車でも、日本名のものがいくつあるか考えてみたらよい。

飛行機や船には日本名がある。鍾馗、紫電、長門、霧島、刀にももちろんある。道誉一文字、大包平、千子村正、狐丸、一期一振。

私はほんとうに由緒来歴正しい日本の物はカッコよいと思うのだが、なぜかそう思わない人が多いのは不思議だ。ホンダのスポーツカーにしても、アルファベット3文字なのはどういうわけか?私は英国で昔、初期のアコードのブーツ(トランクの英国語)に漢字を書いてくれと頼まれたことがある。

密かに、うちの自転車のあるものには日本語の銘が付いている。「べにふね」であるとか「羽毛斬り」であるとか「浮き月」とか。「早雲」とか。

だいたい『28号』というのは洒落になっている。最初は700Cオンリーで行く予定だったので、700Cは英国の『インペリアル28インチ』が元なので28号。もうひとつの意味は『我が敷島の28号』という洒落です。敷島は大昔の日本の国号。

日本のトップメーカーがドイツ勢に対抗する車種を出すや否や、江呂系の女性がその同じ名前をかぶせてきたことがある。そうなると、「自分はレ苦差スが好きだ」「レ苦差スはスタイルがよい」などと言うたびに失笑を買われるわけで、逆に言うと、そういう名前は、そのような語感があるということなのではないか?

自国に深く根を生やすことがかえって国際的な場合も少なくないと私は考える。

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このところ、1年前の痛風事件から自粛していますが、まあ、お酒はいまだ嫌いではない。

うるさいことを言えばきりがない。コニャックは『レロー』が好きだとか、陶器のラーセンの白のシップボトルが良いとか、スコッチはノッカンドウの古い古酒が好きだとか、樽を入れ替える前のグレンフィディックの灰色と緑のツートンの陶磁器時代のボトルのものが好きだとか、、。

いや、実態はなんでもいい(爆)。

芋焼酎でも幸せになれる。麦焼酎も嫌いではない。日本酒も美味い。国産のワインも好き。

背理法で出来上がっている人は気の毒だと思う。

面白いもので、私は京都文化圏のふつうのありきたりの珈琲が嫌いではない。『ああ、こういう味でもいいよ』と言う気がする。それはヨーロッパのグレコやジーリ、サウケッラの珈琲とは別物だけれど、それはそれで完結している。日本では出島に来ていた阿蘭陀人から珈琲をわけてもらっていましたから(書簡に残っている)日本の珈琲の伝統はじつは長い。

逆に東京で『炭火焙煎』とかもったい付けた割に美味くなくて、ただただひたすら苦い『熊の胃』みたいなコーヒーも少なくない。私は3分の一ほど飲んで残したりする。「こんなのイタリアやフランスでは通用しない」と言いたくなる。無理して飲んでいる人がけっこういるのではないか?

乗り物もどこか似たところがあると思う。世評の高い手札で抑え込み。それで満足はくるのか。

コニャックでもスコッチでも日本酒でも『幸福感は同じ』、という理屈で、自転車での幸福感は自動車やモーターサイクルに劣るものではないと私は見る。

その昔、英国のバースまでよく自動車で行っていましたが、正直なところ、イーストアングリアから自動車でバースまでで、何もこころに残っていない。AからBまでの移動でワープしたような感じ。

ところが自転車を持っての旅になってから、途中が克明に記憶に残り始める。

途中下車が可能だったから。

これは日本でも同じだろうと思う。

東京から京都まで高速道路で行って、現地で自動車で行けるところしか行かなかったらどうだろう?

それは「旅」と言えるのか?むしろ、きわめて『痩せた旅行』になりやすいはず。高速道路と市内の大通りしか知らないわけですから。

旅の道具、手段として、自転車は自動車にひけをとるものではない。

さらに1924年製の自転車を直して乗るのと、1924年のブガッテイを直して乗るのとどうであろうか?1924年製の自転車と現代の自転車と、1924年製の自動車と現代の自動車と、性能差は自動車の方が大きいだろう。自転車は1913年ぐらいまでさかのぼっても現代の交通事情でも問題なく乗れる。自動車やモーターサイクルは無理でしょう。クラシック趣味としても自転車は劣るところがない。

さらに1924年へのタイムスリップする『タイムマシーン機能』と『満足』は、私は自動車も自転車も等価であると思う。

最上等のコニャック、スコッチ、シャンパンでしか満足を得られないというのは、不経済で気の毒なことだと思う。乗り物世界も同じではないのか?

自分にからんでいる「⚓錨」のようなものを切り捨て、自由になって自転車を眺めると、ずいぶん豊かさの元がある。世間のステレオタイプを捨てて捨ててますます豊かに。

自転車で時間旅行から、空間旅行までこなし、見聞も広がり、体調も上がるのだから自転車趣味はやめられない。この右端の道、スーパーカーでは道幅も狭く、路面も凸凹で入れない。4WDでも藤棚にひっかっかって通れないでしょう。自転車でしか行けない味わえない道がある。

楽しみは受け取る側にある。

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双輪の七賢人

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昔の『竹林の七賢人』の墨絵で、竹藪などに何人か集まっている絵がありますが、何を話しているのか?

間違っても自転車の部品の話とか、ニューモデルの話とか、人のうわさ話とかではない(爆)。

花鳥風月、詩歌、水墨、哲学、世相、などもろもろでしょう。

ここが難しいところでして、人間も半世紀を過ぎると、「何を軸に集まり、どう云う話をするか?」がものすごく重要になって来る。

私などは、どちらかというと「いまさら機械としての自転車のメカ談義なぞどうでもいいよ」という心境。自分が人生の折り返し地点をはるかに過ぎて、いまさらそんな話を、残り少なくなってきている人生で浪費する気が起こらない。

『後輩の参考になるようなことを放言するだけ』にとどめたい(爆)。

人間は『その人の力量の深さまでしか理解できない』。

ピアノ曲を聞く。曲名がわからない人もいるかと思えば、どんな古典曲を聞いても10秒で曲名がわかる人もいる。演奏の良し悪しがわかる人もいればわからない人もいる。

聴いて5秒で、「ああ、ベーゼンドルファーだ。」という人がいる。「この人は左手が弱いね」という人もいるでしょう。なかには「このピアノのヴェルクマイスターの1技法の3の調律はいいね。」というひともいるかもしれません。

絵の世界でも、絵の良し悪しからはじまって、絵の具がウィンザー・ニュートンかクサカベかホルべインかぐらいはすぐわかり、人によっては紙がアルシュかコットマンか、「◎×グラムの紙」は難なくわかる。

しかし、展覧会や演奏会の会場で口角泡を飛ばしてそういうことを話している人はいない。そういうことはすべてわかっている人たち同士が、社交をしているわけで、芸術の本質はその先にある。「技術は手段でしかない」ことをみんなわかっているわけです。

一方で、『モノが趣味』の人たちはなかなか「技術を論じるところより先へ出られない」もののようです。

光悦は「世を渡るすべ、一生これを知らず」と評された。彼自身「一生涯、人にこびへつらい候こと、いたって嫌い也」と明言していた。権威にもあの戦国の世に大名にもつかえず、利休のものも織部のものも見た。それでいて茶碗を作り、焼くのは職人にまかせたが、日本で誰一人茶碗をつくって光悦の右へ出た者はいない。技術では到達できない高みに光悦はいる。

骨董の世界で青山二郎が『鑑賞陶器』という言葉を使い始め、「見ればわかる」ものを否定したのは有名な話。「そんなものは見ればわかる」、「持つ必要がない。博物館にあるのを見れば十分だ」、「カラー印刷の写真の画集で見ればいい。全部わかる」。と言った。

これは、そういう技術とか技法とかの先へ抜けた人の言葉でしょう。

意外に、時計とかカメラとか自転車の趣味の人のなかには、『鑑賞機械』をひたすら集めて一生を終える人が少なくない気がする。

昔、Zのお爺ちゃんが「君ぃ。自転車は自分以上の人が作ったものに乗らんといかんぞ。自分が思いつきで、『これが好きだ』とか言ってオーダーしたものは、自分の今いるレベルで足踏みすることだ」と言っていて、なるほどと思った。

自転車は、たかだか0.3馬力程度の人間をエンジンにしてやりくり算段やっているわけだから、高性能なものが楽でない場合もある。楽しくない場合もある。たとえばスプリント勝負用に剛性があがっているものは、長距離ではフォークが硬くて肩にくる場合があったり、必ずしも世評と自分が楽しく感じるものが一致しない場合が少なくない。「その人が何を楽しく感じるか?」だろうと思う。

正直な話、ここ25年ばかり、日本で遠くまで行っても楽しく感じないことが多くなった。楽しい場所までたどり着く前にうんざりしてしまう。これは自動車ででも電車でもそうです。

うちのほうから都心へ向かって自転車で走って、調布ぐらいで「もういいや」という感じになる。調布から都心、丸の内ぐらいまでは苦痛でしかない。逆方向へ、甲斐善光寺まで走った時、勝沼から先はやはりうんざりした。香取のほうへ行くには、やはり成田を抜けるまでに気持ちが萎える。

ところが、英国なら、街から10km走れば、どこでも楽しいと言っても過言ではない。フランスもそう云う感じがする。

『楽しみのために遠くまで距離を乗る必要がない』のです。

昔、レネ・メーンジスという人がいて、年間自転車で10万キロとかとんでもない距離を乗っていました。ほぼ毎日長距離走行をスポンサーからお金をもらって走っていた。その彼はあっけなくロンドンの中心地ハイドパークの近くでクルマとの接触事故を起こして、交通事故で亡くなった。82歳。

メーンジスほど距離を乗り、しかもヘロヘロになった状態で、都心を走っていれば、そういう確率も高まるでしょう。彼ほどでないにしてもそういう人は現代日本でもいる。

私はこのごろ、自転車を趣味とするには、『自転車で走って楽しい場所の近くに住む』ことが、この国では重要なのではないか?と感じる。

誰しも、50,60、70歳ともなれば、体力も落ち、『峠越えが80歳過ぎても楽しい。下り坂がたまりません』などと言うことはないはず。第一高齢で飛ばしたら危ない。交通量の多いところを抜けて行くのもつまらない。輪行で片方の肩に10kgの荷物はつらいだろう。

私はいよいよ高齢による衰えがいかんともしがたくなったら、家から10km以内ほどの気に入ったところでお弁当でも広げたり、お湯を沸かして気に入った道具でお茶にするのが王道ではないのかな?と思う。

そういうところで、仲間と『一切自転車の部品の話をしてはいけない。したら罰金』というルールでお茶会が良いな、と考えている(笑)。

ときに、『弁当』は『めんつう』の訛ったものだという説がある。信長の時代、家臣たちは上の写真のような形状の『めんつう』に玄米とか麦飯とか五穀米とかを詰めて、いわば『桃山風パーティーに行く』、そうすると主人がおかずだけを作って待っているという具合。自転車でそういう桃山風もけっこういけるのではないか。

主人はリヤカーを引いて???(笑)

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