『ほのかなもの』が日本からしだいに消えてきている。
『ほのかなもの』がわかるということは、繊細で、ごくわずかな差がわかる感性が必要となる。日本はむかしからそれを得意としてきた。
その審美眼は海外の物でも『ほのかな部分で優れたるものを見つけ出した』。『ぎょくかん』の水墨画などは、本国にもないような傑作が日本にきている。やがてはそれが等伯のような人を生む元になった。
焼き物にしてもそうで、日本の優品には、英国が作らせていた隣国のものはとおく及ばなかった。そのギャップも加藤唐九郎が向うへ行って教えたりして差がなくなったわけだが、その技術で最近は九谷でも伊万里でも、ネット上で精巧な偽物がずいぶん出回っている。『忘恩』とはこのことだろう。私はそういう商魂・性根を卑しいと思う。
『坊っちゃんされている』。
写真の蛍焼きは真正の伊万里だが、小皿は宙獄の偽物である。形も尺寸で日本製に合わせ、パターンも盗んでいるが、土が違う。こういうのは200年、300年経ったら、『じつは日本の誇る九谷も伊万里も宙獄のものの真似をしていた』という主張をされかねない。
これは鉄瓶でもそうで、日本でガンガン名品を買って、それから型を取って、どこの廃船やスクラップのものかわからないような粗悪な鉄をつかってまがいものを作って里帰りさせている人たちがいる。
世の中『激辛ナントカ〜』『超ナントカ〜』『ふわふわ〜』『濃厚◎×』のオンパレード。
ゆとり教育の頃、一般常識から乖離した感じの教師が増え、『お!は!よ!−ゴザイ!ま!スッ♯!』と絶叫すると教師が『やぁ〜みんな元気がいいね〜♪』と褒め称え、以来、コンビニでもスーパーでもレストランでも、絶叫しながら走りまわっている絶叫児童をみることが多くなった。教諭が盗撮をするニュースが増え、そればかりか、教頭なども捕まる人が増え、校長が海外の貧困国へ行って数百人の桁で買春をしていたというようなニュースが流れたのもこの時期だ。
それからというもの、テレビドラマのリアクションでも『絶叫している役者』をよくみかける。テレビのCMでも『うまい〜』『すごい〜』をはじめとして、絶叫しているものが半分以上か。
忙しいので、手を抜こうと、老母向けのレトルトの粥などを買ってみるが、有機無農薬のものは少ないうえ、塩がかなり足されているものが多い。ホワイトソースのレトルトのものを買って、自分で味を付け直そうと思って買ってみるが、味の悪さは直せない。
なんというのか、化学合成調味料のはいっているパスタ・ソースは『むこうへ透けて見えるような、奇妙なクールな透明感』が、どう味を付け直しても修正できない。
『R&Fの味覚がおかしい』などとは言われたくない。私は英国でイタリア人の女の子と一緒に長年住んでいたんだから(not one, but〜〜、笑)。
数日前、とろろを作って食べたが、あまりよいとろろではなかった。そのとき、ふと、私がお世話になったロチェスターから来たアメリカ人の教授との会話を思い出した。彼は『とろろには味がない』と主張していた。『とろろが不味いというのは、とろろに混ぜた味噌汁がまずいということだろう』というので、私は激しく反論した。
とろろに味を感じられないアメリカ人がいた。
そのアメリカ人の先生をはじめとして、いままでの人生で『日本の羊羹などは、甘さが足りなくてダメだ。taste this.』と頭が痛くなるくらい、安い砂糖を入れたチョコレート・ファッジを食べさせられたことは数十回に及ぶ。
そういう大雑把なところで作るものは、やはり、新車のうちから3cmぐらいドアを持ち上げないとドアが閉まらないクルマを作ったり、ボンネットとボディのギャップが左右で1cm平気で違うクルマを製品として売る。買わない日本を責める(笑)。
不幸にして、日本の若い世代では、激辛、激甘、ふわふわ〜、激苦消し炭コーヒーにクリームとキャラメルやクリームをドバドバ入れるアメリカ流がはやっている。あとは、『くどい甘さのチョコレート』。これらはセットで、同じ潮流だと思う。
NHKの『おとなの一休』が『豆乳抹茶ラテ、豆乳抜きで』というのを聞いて爆笑した。
私は『わび茶は一休宗純からはじまったと考えている』が、彼の生きた室町時代から続く素朴なお菓子が、小田原でまだ受け継がれている。皇族・公家の御用達であった外郎家が、北条早雲が城を築くにあたって呼び寄せられ、以来、小田原に代々住み続けている。私は小田原通過のときには必ず買い求める。
今の時期、ほのかな夜の梅の香りを楽しみ、良い緑茶とほのかな甘さのういろうを愉しむ。また、体調がよくないと、繊細な味は楽しめない。小腹が空いていたら、江戸時代からつづく餅屋のかきもちをあぶって、何も付けずに食べる。これも、ほのかな海苔の香り、餅米の香り。
しみじみと、この歳で、自転車に乗りつづけて体調が良くて良かったと思う。
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