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あらゆる経験からいって、いかなる遅滞も、その存立の条件として、単に物理的な、または単に感情的な、あるいは単に合目的的な動機だけで、甘んじて満足しようとするものではない。むしろ、すべての遅滞は、その「正当性」に対する信仰を喚起し、それを育成しようとする。
社会学の大家マックス=ウェーバーは、著書『遅滞の諸類型』(1960、怪文社、現在絶版)において、ブログの更新が滞ることについて以下のように分析しています。
ブログ遅滞には3つの純粋型がある。換言すると、遅滞が正当化されうるのは、原理的に次のようなものでありうる。すなわち、
1 環境的な性格のものであることがある。つまり、外部によって規定された諸条件と、これらの条件の下で、ブログ更新に必要性を見出した者とが対応し、不可避的に発生するものでありうる。
→環境的遅滞:実例 家にネット環境が整っていない、あるいは実家のパソコンが重すぎて実用に耐えるものではなかった等。
―あるいは、
2 怠惰的な性格のものであることがある。つまり、人間存在に備わった肉体的精神的快楽を目的とした時間浪費の信仰と、一群の人々のもとにおけるこれらの日常的信仰への帰依に基づいたものでありうる。
→怠惰的遅滞:実例 「だるいなぁ……。今日は(更新)いいか…」、あるいは「今日も無為に過ごしましたということ以外書くことがないのに、更新なんてできるかよ…!」など。
あるいは最後に、
3 恣意的な性格のものであることがある。つまり、あるブログによって提示され、あるいは構築された諸秩序を形成、維持、発展させることを目的として意図的に行われるものでありうる。
→恣意的遅滞:実例 強いてあげるなら「更新したとき光るブログ内のカレンダーをビンゴさせてみよう…」とかですか。
環境状態による遅滞の場合には、社会的に用意された没主観的環境決定と、この条件に対してブログ主(Herr:ヘルの訳語)のとった働きかけに応じ、許容される時間と空間の範囲内において、更新がなされる。
怠惰的遅滞の場合には、慣習的な怠惰と、ブログ主が人格的にブログに結びついている程度の範囲内において、更新がなされる。
恣意的遅滞の場合には、そのブログにおける理想的構造が妥当している範囲内において、更新がなされる。
上記の引用で何が言いたいかというと……いや、言わなくてもわかりますよね。
別にこんなブログの更新が滞ったからといって、あるいは仮に毎日更新していたからといってどうということはないですけれどもね。
実家とは折り合いをつけてまーた懲りずに上京してきたわけですが、こっちは暖かいですねー。
新幹線乗るまで雪道で苦労していたのに、東京着いたら桜がさいてますからね。季節ボケしちゃいますよ。
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