全体表示

[ リスト ]

820回天平会例会は奈良・秋篠寺、西大寺を訪れました。
10/16()13:00に秋篠寺東門付近に集合。
秋篠寺拝観→徒歩→西大寺奥の院・五輪塔→徒歩→西大寺拝観→解散、有志による懇親会(西大寺駅前)といったコースです。 参加者は約40名。
イメージ 22

今回はいつもの講師・杉崎先生はお休みで、大阪経済大教授の長田寛康先生がピンチヒッターです。お優しい先生で、毛利先生時代から時折、講師をしていただいたそうです。
人の私達に、わかりやすく説明いただき、有難く感謝します。

私は9月例会(高野山霊宝館と子院光台寺の仏像見学)を欠席、8月は例会・盆休みで2ヶ月振りの参加になり、会員の方々には「お久し振り」といった感じでした。
 
例会案内文の秋篠寺への交通便には西大寺北口から「…72系統押熊行き」に乗車と記載されていました。押熊?珍しい名前、そうなんです、白洲正子著「十一面観音巡礼」の秋篠のあたりに出てくる地名なんです。秋篠川の源が押熊である。
それを思い出し、もう一度、本を読み直しました。押熊が古代からの由緒ある歴史的地名であり、応仁天皇の異母兄である忍熊皇子とも所縁のある地域だそうだ。・・・。

 「十一面観音巡礼」の中の一節には、
「平城京には、東山の東大寺に対して、西山にも多くの伽藍が建立された。西大寺はその代表的な寺院であるが、秋篠川の流域にも、秋篠寺、喜光寺、唐招提寺、薬師寺などの古刹が甍を競い合っていた。そのあたりに、御陵や古墳が多いのをみても早くから開発されたことがわかるとともに、何か特別な意味をもつ地域であったように思われる。…」とあります。

さて、いよいよ、秋篠寺、西大寺について述べようとするが、我が家で整理していると、今回の天平会の観仏所感はいつもとどうも違う。
それは、今回観仏した下に示した二像が今までと違っています。造形美も然ることながら、内面から秘める心温まるメッセージを受けるのです。 如何でしょうか。
イメージ 1  イメージ 2
()秋篠寺・技芸天像と()西大寺・善財童子像


秋篠寺( 奈良市秋篠町)
本尊は薬師如来。宗派はもと法相宗と真言宗を兼学し、浄土宗に属した時期もあるが、現在は単立である。
光仁・桓武天皇の勅願、法相宗善珠の開基と伝える奈良時代晩年の官立寺院。
地元の豪族秋篠氏の氏寺とも言われているが、創建の正確な時期や事情はわかっていない。
保延元年(1135)の火災で一山灰燼に帰し、唯一焼失を免れた講堂を本堂に転用するなどし、復興造営したが、明治初年廃仏毀釈の嵐は寺院の大半を奪った


イメージ 4

イメージ 3
東門を潜り、鬱蒼とした木立に覆われた参道の正面が集合場所で、天平会の幹事の方など受付中。皆さん集合しています。

その左手に香水閣があります。小来栖常暁が大元帥明王を感得したと伝える清浄香水が湧き出る香水井があり、ここに対峙して土塀を越えた西側向うのお堂に秘仏・大元帥明王(年に一回、6/6だけ御開扉)が祀られています。

平成2年、礼宮さまが皇室ゆかりの地名に因んだ「秋篠宮」の宮号を賜り、その後、妃殿下・紀子さまの横顔が、伎芸天像に似ておられるという評判が起こり、多くの観光客で溢れたという。いずれにしろ、秋篠宮家に由来することからも、近年、注目されるようになった。

イメージ 5
香水閣を左手に、右手には白壁塀の向こうに本堂甍を見ながら、砂利参道を行く。
木立のなか一帯は青々としたが覆っています。まさに緑の絨毯で荘厳された何とも贅沢で清々しい。金堂跡の礎石が残っています。
この数日は晴天が続き、苔に元気がないようで、梅雨の時期が最も美しく映えるようです。

イメージ 18
本堂前で、長田寛康先生からレクチャーを受ける。
中央は開山堂。左手に少し見えるのが、大元帥明王が祀られる大元堂。本堂前向かって右手には大きな菩提樹の一部が見えます。
イメージ 6
2010.5.28に撮影時の写真には、菩提樹の実がなり、
その前には芳香臭の甘い匂いが境内一面に拡がります。
イメージ 7
本堂 国宝
正面5間、側面4間。屋根は寄棟造、本瓦葺き。堂の周囲には縁などを設けず、内部は床を張らずに土間とする。簡素な構成で、鎌倉時代の再建でありながら奈良時代建築を思わせる様式を示す純和様建物である。

以下の写真は主に秋篠寺がH28.9に発行した冊子から、仏像解説文は主として講師先生のテキストから借用しました。

イメージ 8
本堂内部 須弥壇
内陣が土間であるのも古式で、正面には横長の須弥壇を置き、中央に本尊・薬師如来坐像と脇侍の日光・月光両菩薩像、その両側を十二神将が守る。さらにその両側に不動明王と地蔵菩薩像を置き、段の東端にはやや大きい伝帝釈天像、西端には技芸天像をすぐそばで拝することができる。

秋篠寺には天平期の脱活乾漆の頭部に、体部を鎌倉時代に補作した重文の四躯の特異な尊像がある。伝梵天像、伝救脱菩薩立像は奈良博に寄託され、伝帝釈天立像と伝技芸天立像が本堂内で観仏できる。

イメージ 20
本尊・薬師如来像 重文 寄木造・素地、室町時代 像高140.5cm
大粒の切付け螺髪、起伏の大きい造形、彫眼、渦文等に平安初期の一木像を想起させる、室町時代の復古作です。台座は裳懸宣字座、光背は二重円相光。仏・光・座をすべて素地仕上げとしているのに、宿院の匂いを感じます。

伝技芸天像 重文
頭部:脱活乾漆造、奈良時代末期  体部:寄木造・彩色、鎌倉時代 像高204.5cm
イメージ 9  イメージ 10
顔,腰,足にひねり等を加えた薬師寺・観音立像に見られるインド伝来の三屈法(三曲法)を採り入れた技法という。残された頭部からイメージを膨らませた造像はすごい。
驚き、驚きである。
イメージ 11
技芸天はシヴァ神から誕生した諸芸成就の美神といわれ本像にふさわしい尊名ですが、本来の尊名については不詳です。体部は桧材の寄木造、奈良時代の頭部に合せて補作。両像共に、頭体の造形バランスが絶妙で、指摘されなければ気の付く人は殆どいないでしょう。体部の断片が残ったことも幸いでしたが、やはり仏像の中核ともいうべき頭部が残ったことが大きく、仏師は頭部から受けるイメージを膨らませて体部を造形できたことが、成功の要因と思います。

JR東海うましうるわし奈良キャンペーン秋篠寺篇には素晴らしい写真が掲載されています。是非参照下さい。


最後に、作家・堀辰雄の『大和路・信濃路』の“午後、秋篠寺にて”で記述された文章がよく、本像を表現していると思われるので、記載しました。
いま、秋篠寺あきしのでらという寺の、秋草のなかに寐そべって、これを書いている。いましがた、ここのすこし荒れた御堂にある伎芸天女の像をしみじみと見てきたばかりのところだ。このミュウズの像はなんだか僕たちのもののような気がせられて、わけてもお慕わしい。朱あかい髪をし、おおどかな御顔だけすっかり香こうにお灼やけになって、右手を胸のあたりにもちあげて軽く印を結ばれながら、すこし伏せ目にこちらを見下ろされ、いまにも何かおっしゃられそうな様子をなすってお立ちになっていられた。……
 此処はなかなかいい村だ。寺もいい。いかにもそんな村のお寺らしくしているところがいい。そうしてこんな何気ない御堂のなかに、ずっと昔から、こういう匂いの高い天女の像が身をひそませていてくだすったのかとおもうと、本当にありがたい。

イメージ 19
伝帝釈天像  重文
頭部:脱活乾漆造、奈良時代末期体部:寄木造・彩色、鎌倉時代 像高206.0cm
像容から梵天像と推測。体部は桧材の寄木造、奈良時代の頭部に合せて補作。体内に大小7 点の乾漆像の断片を籠めていました。

イメージ 21
十二神将像 木造・彩色 像高65.8cm 72.5cm 南北朝時代(1358 )
頬に手をあて、ひょうきんな姿をした未神将像など動きのある姿態から、室生寺
十二神将像を思わせる。

イメージ 12
五大力菩薩像 木造・彩色 像高102.5cm 123.5cm 室町時代
『金光明経』と並ぶ有名な護国経、『旧訳仁王経』に説く仁王会の本尊。『新訳仁王経』に説く五大明王の元祖。類例はほとんどなく、本像と茨城・桜川市の五大力堂の像が知られる程度だそうだ。
尚、向って左から2番目の像は顔つき、体勢に落ち着きがあり、平安時代までさかのぼれるイメージ 13可能性があるそうです。



十一面観音立像 重文 
木造・彩色 像高165.8㎝ 平安時代前期 東博寄託


かっては本堂・須弥壇に安置されていたという平安前期の一木造り像であるが、かなり以前から東博に寄託されており、当寺では見られない。以前に奈良で見た記憶があるが、是非もう一度、拝観したい仏像の一つでもあり、敢えて紹介させてもらった。

須弥壇上で、技芸天像と隣り合わせに立てばすごいものであろう。かって、白洲正子は秋篠寺を何回か訪れていたが、技芸天に視線が集中し、十一面観音立像の存在に気が付かなかったと述懐、その後、東博で初めて見、どっしりした彫刻であると述べる。

全体像はやや小さめの頭部に対して下半身は太めで安定感があり、衣文の彫りは深く、やや左足を動かすような動的な気配をみせる。化仏や細部に多少の後補はあるが、中国唐時代の檀像彫刻の影響がみられる9世紀末の優作である。

拝観後、本堂を出て南門に向かいます。
イメージ 14
木々に覆われた参道の向こうに南門が見え、そこに至る苔むした風情は格別です。
まさに『あきしの寺』と調和しています。

イメージ 15
左手木立の中に佇む東塔跡
「東塔」が奈良時代後半から平安時代初めの創建ですので、礎石の上に突起物「枘(ほぞ)が造られております。法隆寺金堂の建物の礎石は枘が無い自然石で、柱を太くして、その重量で建物の安定を図ったといいます。

イメージ 16
南 門
南門から出た景色を白洲正子は十一面観音巡礼で「昔、私は、この辺をよく歩いた。秋篠寺で、甘美な技芸天の魅力を満喫した後、山門を出ると、遠くの方に喜光寺(菅原寺ともいう)の屋根が望めた。ルオーの絵にあるような野中の一本道を辿って行くと、…」と述べているが、現在は沢山の住宅が立ち塞がり、行く手の景色を阻み、そんな景色はまつたく見られない。 それでもあちこちに古い旧家などが残る細い町並みを歩き、歴史街道なる道標に従い、会員の皆さん、世間話を軽く交えながら西大寺に向かいます。

イメージ 17
秋篠寺南門の門前西側にある八所御霊(はっしょごれい)神社
明治初年までは秋篠寺の鎮守社であった。崇道天皇(早良親王)など、いずれも怨恨を残して死んだ八柱を祀り、これら人々を慰霊することによって禍を防ぐと信じられた。

秋篠寺南門から「歴史の街道」に沿って南下、西大寺・奥の院に向かいます。

西大寺奥の院五輪塔(奈良県奈良市西大寺野上町1丁目)
私達は境内の東側から、直接境内に入りましたが、奥の院(体性院)の正門正面に巨大な五輪塔が見えます。山門には「総本山西大寺塔頭 体性院」と書かれています。
イメージ 23
正応3(1290)8月、90 歳で入滅した叡尊(興正菩薩)の荼毘所。
鎌倉時代を代表する最も美しい五輪塔の一つ。
イメージ 24
五輪塔の前で、長田先生からレクチャーを受けています。
イメージ 25
西大寺奥院五輪塔 鎌倉時代後期 花崗岩 高さ335
広大な壇上積式の基壇の上に繰形座を置き、堂々として雄大な五輪塔を安置する。

三重県伊勢市にある廃寺となった律宗寺院「弘正寺」の五輪塔はその大きさ、形状から叡尊の弟子が鎌倉時代に造ったとみられ、叡尊が分骨されたと考えられるそうである。

イメージ 26
奥院東側の小道を挟んで五輪塔が三基ある。
どの五輪塔も堂々として美しい。西大寺に貢献した僧侶、第二代慈真和上・第三代宣瑜上人・性論上人等の諸長老の五輪塔だそうです。

今年の79月に奈良博・「忍性展」では、鎌倉・極楽寺、奈良・竹林寺、額安寺にあるそれぞれの忍性塔(五輪塔)から発掘された骨臓器が展示されました。また、古くは、1235年の夏に竹林寺・行基墓が発掘され、骨臓器が世に出た。叡尊もその場に立ち会ったかも知れない。ということで、この叡尊五輪塔からも発掘品があったのではないかと思うが、そうでもないらしい。

イメージ 27
西大寺に近づいたようで、境内北側の築地塀が少し崩れているところが、自然で良い。天平会会員の皆さん、頑張って歩いています。道が狭いので、車に注意。

西大寺(奈良市西大寺芝町 真言律宗総本山)
西大寺は二つの顔を持つ。一つが西大寺を創建された称徳天皇(孝謙天皇)(奈良時代)、もう一つが西大寺を再興された興正菩薩叡尊(鎌倉時代)の顔です。
西大寺は天平神護元年(765)に称徳天皇が恵美押勝の乱の鎮圧と鎮護国家を祈願して建立された官大寺で、都の東に位置する東大寺に匹敵するほどの巨大寺院でした。
今の敷地は当初の十分の一しかなく、しかも称徳天皇の面影を残す文化財は四王堂の重文・銅像四天王像、重文本堂前に佇む東塔基壇及びその初層に安置されていた重文・塔本四仏(聚宝館)みにすぎません。現在見る西大寺の殆どが、叡尊の顔である。
イメージ 28
西大寺東門を潜ると右手に四王堂があります。
イメージ 29
四王堂 四面裳階付き、一重寄棟造 江戸時代(延宝2 年− 1674)
孝謙上皇の誓願により像立された金銅製七尺四天王像を安置するために建てられたもので、西大寺の中でも特別に重要な意味を持っている。
お堂中央に本尊十一面観音像、その左右に四天王像が2躰ずつ安置されている。

イメージ 30  イメージ 31
本尊・十一面観音像 重文 
寄木造・漆箔像高590.8cm 平安時代(保延元年-1135)
右手に錫杖を執る長谷式十一面観音の丈六像です。本像は保延元年頃に鳥羽院が法勝寺十一面堂の本尊として、二丈六尺の長谷寺観音を丈六に復刻させたものを、法勝寺衰退後、亀山院が正応元年(1288)に西大寺に遷され、叡尊が修復を加えたことが記録されている。
作者は長円の子ないし弟子であった円信。この時代、長円・賢円を中心とする円派仏師が主要な造仏を独占していた。

イメージ 32
四天王像 重文 銅造( 多聞天仏身のみ木造) 像高221.4cm 236.3cm
奈良時代(天平神護元年-765) :生霊座部分(邪鬼)、  鎌倉〜 室町:仏身部分


左から増長天像、広目天像、多聞天像、持国天像
西大寺草創の根本像です。四天王像は860 年と1502 年の2 度にわたり火災に会いました。しかし焼失を免れた邪鬼の上に仏身(補作)を継いだため、奈良時代の部分が残りました。芸術性という面からみれば、邪鬼の表現豊かな造形に魅力を感じ興味を喚起します。
イメージ 33
増長天像邪鬼(お寺で入手写真から)
いずれも、火によって裂け、また銅が溶けているため、表面が荒れ、ゴツゴツした岩肌のようになっている。

イメージ 34
本堂 重文 桁行7間×梁間5間、一重寄棟造、江戸時代(文化5 年頃・1808
土壁を一切用いず、装飾性の少ない伝統的な様式になる。江戸時代後期の大規模仏堂建築の代表作。


イメージ 38   イメージ 39
()西大寺像で()は手本になった清凉寺の譱海もたらした釈迦如来像
本尊・釈迦如来像 重文 木造・素地・彫眼 像高167.0cm 仏師:善慶以下9名 
鎌倉時代(台座墨書銘建長元年-1249
京都・清凉寺釈迦像の模刻品は100体近く知られるが、仏師たちが清凉寺を訪れ、目の前にして数日間、模刻したもので、清凉寺式釈迦の逸品、多数の納入品あり。
当初は四王堂に祀られていた。叡尊が模刻した意図は、釈迦の原点にかえり、仏教の本質を認識し、戒律復興のシンボルにするためです。
天平会でも2015.12.20に訪れて観仏しました。http://blogs.yahoo.co.jp/teravist/33875503.htmlを参照下さい。

イメージ 40 イメージ 44
文殊五尊像 重文 木造・粉溜塗盛上彩色・玉眼 文殊の像高82.5cm 鎌倉時代
文殊五尊は五台山が中心となる文殊化身貧者信仰によるもので、日本で特に発展した形式です。叡尊十三回忌の正安4 (1302)造立、技巧的で装飾性豊か。
四人の眷属で右前が善財童子。
イメージ 41 イメージ 42
児童文学者・灰谷健次郎さんの児童文学「兎の眼」で一躍有名になった一節。
「あいかわらず善財童子は美しい眼をしていた。人の眼というより、兎の眼だった。それは祈りをこめたように、もの思うかのように、静かな光をたたえてやさしかった」 

イメージ 35
本堂前から見える東塔基壇
天平神護元年(765)東西に八角七重の塔を計画、その後四角の基壇に改めました。
一回り大きな芝生のエリアが八角の基壇跡になるそうです。
両塔は平安時代に焼失、東塔のみ再建されましたが文亀2 (1502)に焼失しました。創建当初の面影を伺う貴重な遺跡です。
イメージ 36

イメージ 37
基壇に使用されている石組の幾何学的な文様がすばらしく、見ていて飽きない。

愛染堂に入ります。
イメージ 43
興正菩薩叡尊像 国宝 寄木造・彩色・玉眼 像高91.0cm
仏師善春・春聖・善実・尭善作 鎌倉時代( 弘安3 -1280
今回、国宝指定になった本像を愛染堂の客殿で遠くからであったが、見学できました。
背を正し、首が長く、叡尊80 歳の寿像であり、老いてなお精力的に活動した叡尊の姿が生々しく迫ります。

各地に残る叡尊像の根本像です。鎌倉肖像彫刻の白眉といわれるそうですが、多数の納入品が籠められており、人間というよりは、むしろ仏をあらわしているように思われます。

西大寺の復興に終生を捧げた叡尊は、単純な再興ではなく、真言律を普及する根本道場としました。叡尊の思想「興法利生」、つまり、仏教を盛んにして民衆を救済することが実践され、鎌倉時代に文珠菩薩信仰が復活広まった。叡尊に関わる造像の特色は①多くが善派仏師の造像であり ②像内に墨書銘や納入品を籠めることが多いなどだそうです。



都会ぶりな大和西大寺から少し離れた場所に、秋篠寺、西大寺は奈良時代の雰囲気が漂い、静まり返った境内、その中に佇む渋い仏像が見学できたことは、良かった。天平会幹事の皆様に感謝します。
西大寺境内を出て、徒歩10分たらずの大和西大寺駅前で懇親会。この切り替えが良い。
大変全体が長くなり、ここまで読んで到達された方はご苦労様でした。



この記事に

閉じる コメント(0)

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

.


みんなの更新記事