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和歌山には何度となく訪問、観仏してきました。熊野三山、真言宗高野山、修験道吉野山、有田川沿いの明恵上人などキーワードが豊富で、奈良、京都、滋賀に続く文化財宝庫の源泉となっている。
和歌山県博「仏像と神像へのまなざし―守り伝える人々のいとなみ―」展に行って来ました。

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明治の神仏分離の嵐からの回復、そして知識人による文化財調査、修理、保護、さらには信仰深い土着の人々による継承が続く中、困ったことに最近では盗難が相次ぎ、それが困難となっていく現状があるようです。
和歌山博の取り組みが脚光を浴び、3Dプリンタを利用してのお身代わり仏像、クラウドファンディングによる修理など実際に行われている事案が紹介された。
それらの過程では、お寺、地域住民、文化財保護担当者の三者間の綿密なコンセンサスが重要で、その努力には改めて敬服する次第です。また、そこから新しい仏像や事実が発見されたようです。

目的の和歌山博は南海電鉄・和歌山市駅から南へ約1㎞程にあるが、丁度昼時の12時なので、食堂を探しながら歩いて向かうことにする。

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隣のレストランが出店している「テイクアウト専門、丼300円」。
ついつい買ってしまった。
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和歌山博手前の左手に和歌山城がお堀越しに見えます。
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少し東側からの眺め。
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建築家・黒川紀章さんの遺作。いつ見ても、お城と建造物がマツチする景色とともに食事を楽しむ。地元の小学生の見学者が次々に訪れてゆく。小さい頃から、本物の文化財に触れるのは大切なことだ。
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唐揚げ丼。少しヘビーだが完食。

少し休憩後、いよいよ入館。
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65才以上はいつ来ても、無料だそうだ。すごい得した気分で入館できる。

和歌山博、今回初めての試みとして、展示資料は撮影可とし(フラッシュ及び三脚等の使用は禁止))、非営利的な個人利用であればSNSでの発信もOKです。
仏像写真等は図録と小生の慣れないスマホ撮影から掲載しました。参観者で混み合う環境ではなかったので、撮影シャッター音も気にならず、観仏&撮影を楽しめました。特に、彫刻細部の写真を後日、楽しむことができます。
解説文は全面的に図録を掲載さしていただきました。悪しからず。

図録の次の章立てに沿って説明する。

1章 評価と保護のまなざし―明治時代の宝物保護―
  ①神仏分離と仏像・神像の移動  ②臨時全国宝物取調局による社寺の宝物鑑査 
  ③古社寺保存法による国宝指定と修理
2章 祈りと継承のまなざし−仏像と神像は地域とともに−
3章 共感と支援のまなざし−仏像と神像を未来へ伝える−

1章 評価と保護のまなざしー明治時代の宝物保護
①神仏分離と仏像・神像の移動
明治元年(1868)、政府は神道の国教化を目指して神仏分離令(神仏判然令)を発布し、それまでの寺院と神社の信仰の習合状態を分離するため、仏像を神体とするところは改めさせ、本地仏をあらわした懸仏や仏具の社頭からの排除を命じました。こうした強制的な神仏混淆禁止の通達によって、全国で仏像や神像の安置場所が変更され、地域によっては仏教関係資料の破壊(廃仏毀釈)にまでつながるなど、大きな混乱が生じました。
和歌山県でも神仏分離に伴って仏像や神像が神社境内より多数移動しています。
はじめにそうした事例の一部を確認し、近代における仏像・神像へのまなざしの転換点を確認します。

天部形立像 木造 像高68.9 平安時代後期(11世紀頃)
            春日神社(海南市) 初公開

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春日神社本殿床下の土間に安置されて伝来してきた。
平成30年に初めて調査が行われ、現在、和歌山博に寄託。神仏分離までは金剛院神宮寺、本地堂、大師堂などがあって、その場に安置されていたことが想定され、地域の神仏分離の実像を示すものである。

男神坐像・女神坐像・童子形神坐像7 
       木造 像高16.620.5㎝ 平安時代後期(12世紀頃)
       三谷薬師堂(かつらぎ町)和歌山県指定文化財

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男神像の3軀を示す。冠を着けて袍(わたいれ)をまとい両手を袖から出して座る。
三谷薬師堂は三谷地区の村堂(兼集会所)で同地区の鎮守社である丹生酒殿神社にかって安置された神像群である蓋然性が高い。
神仏分離にあたっては、このように彫像として表された神像もまた、仏教的なものとして移動を余儀なくされた事例があることをうかがえる。

薬師如来坐像 木造 像高53.4㎝ 平安時代後期(12世紀頃)
             阿弥陀寺(かつらぎ町) 町指定文化財

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平安時代後期の仏像様式(定朝様式)に忠実に則った造像である。
本像は地区の産土社である八幡神社の境内に建つ村堂が明治4年以降に神仏分離によって撤去されるにあたり、阿弥陀寺に移して安置されて今日まで継承されてきたもので、現在檀上の中央に安置されていることも、村のシンボルともいうべき本尊としての記憶を引き継いでいるともいえそうである。

②臨時全国宝物取調局による社寺の宝物鑑査
神仏分離や土着の信仰の排除は、西欧化の風潮とも相まって伝統文化の否定や古器旧物の流出につながり、政府は明治4(1871)古器旧物保存方の太政官布告を行い、翌年に正倉院や社寺等の資料調査(壬申検査)そして明治21(1888)には宮内省に臨時全国宝物取調局を設置して、寺社伝来資料の評価と把握に努めました。
臨時全国宝物取調局では岡倉天心(18631913)らが全国で215091点の宝物鑑査を行って台帳登録し、優れた資料には監査状を発行しました。和歌山県はこの宝物鑑査が集中的に行われた地域で、300点以上に鑑査状が発行されています。その一端を紹介します。
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鑑査状 明治24(1891)熊野速玉大社(新宮市)蔵の5点中の
夫須美大神坐像鑑査状

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鑑査状 明治24(1891)吉祥寺(有田川町)蔵の7点中の
薬師如来坐像鑑査状
岡倉天心、三田出身の男爵・九鬼隆一の名が見られます。フェノロサを含めた彼らの情熱的な活躍が文化財の保護と公開が進んだ。

③古社寺保存法による国宝指定と修理
明治30(1897)に古社寺保存法が施行されると、臨時全国宝物取調局による宝物監査の成果も踏まえ、その年の暮れに全国で約180件が国宝に指定され、和歌山県でも34件が指定されました。「歴史の証徴」「美術の模範」として国宝指定し補助を行う同法のあり方は、現在の文化財保護制度にも引き継がれています。
近代の訪れは、仏像や神像を守り伝える上において、歴史と美術という新たなまなざし をもたらしたのです。翌年には同法に基づく初めての国宝修理が全国に先駆けて和歌山県で行われました。その状況の一端を、彫刻修理を担当した新納忠之介(18691954)の足跡をたどりながら確認します。

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古社寺保存法・国宝修繕請負契約書写 
明治時代 道成寺(旧日高川町)
木彫部は新納忠之助が請け負ったこと、高村光雲、川崎千虎が指揮監督をすることとなっていた。参考までに、高村光雲の晩年作である高野山檀上伽藍・金堂の本尊・阿閦如来坐像が80年振りに公開され拝観させていただいた記憶が懐かしい。

十一面観音立像 木造 像高120.1㎝ 南北朝時代
               正平8年(1353広利寺(有田市)蔵 重文

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腕を4本あらわした類例の少ない四臂十一面観音立像
明治31(1898)に、古社寺保存法に基づく国宝修理が新納忠之助によって行われた際、本像もその対象となった。この時、像内に納められていた納入品として、巻子状の経巻8が取り出され、像内に銘文があることも確認された。新納はその銘文を筆録し、翌明治321月にその経典を納めるための箱を作製した際に、蓋裏にそれを記録している。それによると、本像は河内国の西方寺に安置されたもので、仏師は頼円らであった。
箱内部底面の墨書には「胎内の銘文を再見しがたいがための後の鑑として」その銘記を記録したという動機と経緯を記している。
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その表面仕上げは、錆地に漆下地を施し、丹地を作って金泥を塗り、大ぶりの鳳凰や牡丹、雲、宝珠、海波や雷文、鳳凰円文、蓮華唐草文などを盛り上げ彩色であらわし、また、精緻な截金による四ツ目菱入変わり七宝繋ぎ文や麻葉繋ぎ文などで地文様を埋め尽くす。台座蓮弁にも、宝珠文を盛り上げ彩色であらわし豪華である。

地蔵菩薩坐像 木造 像高78.5㎝ 平安時代前期(9世紀)
                歓喜寺(有田川町)蔵 重文

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針葉樹の一木から彫成し、彩色仕上げとする。肩幅が広く堂々とした重量感あふれる造形で、左右の袖などでは弾力のある深く柔らかな衣紋と、縞立った衣紋を交えてリズミカルで、平安時代前期の仏像に見られる特徴を示す。

像底には、新納忠之助によって修理された墨書が残る。

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また、胎内納入地蔵菩薩(鎌倉前期、像高3.3 重文)は発見の経緯から、村の宝として厨子・袋・二重箱に入れて住民持ち回りで管理されていた。

また、その箱には、地蔵菩薩坐像の古写真や歓喜寺宛帝国博物館鑑査課書簡などが納められていた。





2章 祈りと継承のまなざし−仏像と神像は地域とともに−
近代におけるまなざしの転換を経て、なおそれでも仏像や神像は、寺院や神社、そして地域住民の尽力により、信仰の対象として、また心の拠り所として、数百年、千年の昔と変わらぬ思いで、大切に守り伝えられています。
善美を尽くして造られた仏像や神像は、その姿や形に時代や地域の特徴を示すとともに、作善として関わり続けてきた地域の人々の信仰のいとなみ、そして継承のいとなみをも今日に伝える、歴史の重要な証拠といえるでしょう。
造形的特徴と伝来の歴史に着目しながら、魅力あふれる和歌山の仏像や神像の数々を、その形の変遷をたどりつつ紹介します。

十一面観音立像  木造 像高113.8㎝ 奈良時代(8世紀)  
                 円満寺(有田市)蔵 重文
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頭上面などを別材にするほかは、頭部と体部や腕部、あるいは冠繪や天衣、瓔珞などそのほとんどをカヤかと見られる針葉樹の一木から彫成している。肉身部の金箔は後補で、当初は素木で仕上げた、代用材による檀像彫刻の貴重な残存事例である。

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胸飾  中央に置いたロゼットから四方に蕨手唐草を伸ばし、その先端を連珠でつなぎ、さらにその先端に垂飾を付けていて、これが東大寺や唐招提寺の天平彫刻との類似性があることが指摘されている。

十一面観音立像 木造 像高141.7㎝ 平安時代前期(910世紀)
           名杭観音講(印南町)蔵  和歌山県指定文化財

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注目の展覧会初出陳の像で、会場中央の独立ケースに一際目立ちます。
展覧会ポスターにも、アップ写真が掲載される。
印南町名抗区の山道脇に位置する小堂において、観音講の人々によって守り伝えられてきた像だ。平成30年夏の台風で観音堂が被災、屋根が中破したことを契機として、保存・継承のためにできることを検討し、今回の出陳に至った。
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頭体から左上膊を含んで蓮肉までをヒノキの一材で彫出し、内刳を施さない一木彫像。特徴的な舌状の垂髪は、慈光円福院十一面観音像(9世紀末〜10世紀初頭)に近い形で柔らかい。垂髪の先が広がらず肩の天衣に束のまま同化している。
紀ノ川下流と貴志川沿線〜(2) 十一面観音像・慈光円福院http://blogs.yahoo.co.jp/teravist/28981498.htmlを参照下さい。
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膝下の裙と両膝の間で折り返す衣文は深く、両腕から垂れ下がってきた天衣との空間がソフトで優しい。素晴らしい空間である。

本像の制作背景としては、名抗に隣接する熊野九十九王子の一つである切目王子の存在が注目される。この地は熊野参詣の重要拠点とされ、宇多上皇が御幸した際、「切尾湊」より乗船が記されるなど、天皇家との御幸を挙げることもできるだろう。
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高野明神立像 木造 像高58.6㎝ 平安時代
              槙尾山明神社(九度山町)蔵 初公開
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九度山町九度山の槇尾山明神社本殿に安置されてきた神像。槇尾山明神社は高野明神を主たる祭神としており、本像がその神体に相当する。
神を立った姿で表すことは決して一般的なものではないが、高野明神像については狩人姿で表れたことが知られ、立ち姿の画像もあり、立像との親和性が高い。
着衣が腹前で前掛け状に垂れるのは袍ではなく狩衣と理解される。日本最古の高野明神像

地域内で合意形成され、防犯対策及び良好な環境での保管のため平成313月に和歌山博に寄託された。今後、お身代わりのご神体を作製して安置する予定である。


観音菩薩立像 木造 像高71.8㎝ 鎌倉時代(1213世紀)
         霊現寺(和歌山市)蔵 初公開
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(図録裏面掲載写真から)
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髻を高く結い天冠台を表す。銅製の垂髪が肩に広がる。光背は頭光部中央に蓮華を配して放射光を二三条あらわし、左右には蓮台上の円相と雲気を配する。洗練された作風で、豪華な銅製飾りも全て鎌倉時代初期のもの。


現在、蓮華を執った観音菩薩像として伝わるが、弥勒菩薩像の可能性も示す。
アメリカ・ボストン美術館の快慶作の弥勒菩薩立像や、奈良県・東大寺の建久年間ごろ造像の弥勒菩薩立像などと表現が近い。運慶や快慶のごく周辺の奈良仏師によって造像されたものとみられる新発見の仏像

霊現寺には近年寄進されたもので、それ以前の伝来情報については現時点では知られない。尊名も含め今後の検討課題である。

不動明王立像 木造 像高97.3㎝ 鎌倉〜南北朝時代(14世紀)
             個人蔵 
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台座光背を含めると2m近い大きさの像。
頭部がやや大きめであるが均整のとれた体型で、風貌にも迫真性があり、裙の賑やかな衣の重なりや裙裾の厚手の表現などやや時代の下がる要素もある。
本像は昭和33(1958)に和歌山城天守閣が再建された際にその巨大な銅製鯱を作った金具師の谷口勝次郎により入手され、その後親族によって継承されてきた。平成30年に谷口家で安置している本像の取り扱いのあり方についての相談があり、和歌山博で寄託を受け、継承いくこととなる。

3章 共感と支援のまなざし
      −仏像と神像を未来へ伝える−
仏像や神像を守り伝えてきた各地の集落においては、過疎化や高齢化による担い手の減少により、寺社や堂舎、小祠の維持が困難になっているところが増加しています。現在、そうした地域を狙った仏像や神像の盗難被害が多発していて、緊急の防犯対策とともに、これからの継承へのあり方を考える必要に迫られています。
悉皆的な文化財調査、クラウドファンディングによる仏像修理、最新技術を活用した「お身代わり仏像」の作製、そして守り伝えた人々への敬意と応援。地域と人々の歴史を伝える仏像と神像を、多くの人がその大切さに共感し、支援する、未来への新たなまなざしを考えます。

随身坐像 木造 像高76.4(左方像) 75.4(右方像)
      平安時代後期(12世紀) 鞆淵八幡神社(紀の川市)

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紀の川市鞆渕地区は、かって石清水八幡宮領鞆渕荘の故地で、荘鎮守の鞆渕八幡神社は現在も地域の産土社として厚く信仰される。
左方像は2001年に開催された『歴史のなかの“ともぶち”   −鞆渕八幡と鞆渕荘−』の事前調査で確認されたが、右方像は、すでに社外に流出していたが、2009年所在が確認され、その後無事に神社によって取り戻された。
片膝を付いた随身像の最古例で、平安時代に造像された一対の随身像と、やはり一具の造像である獅子・狛犬、そして八幡三神像(県指定)が完存していて、日本における神社の古い祭祀形態をしのばせるものと評価される。

自然に包まれ、境内には本殿、大日堂などが建ち並ぶ神仏習合が色濃く残るそうで、一度は訪問したいものである。


観音菩薩立像 木造 像高69.3㎝ 平安時代(12世紀)
         下湯川観音堂(有田川町)
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実物()とお身代わり仏像()
有田川町の最奥部、下湯川地区に所在する下湯川観音堂の本尊像。
下湯川観音堂の文化財調査は平成2811月に初めて行われ、重要な多数の資料が確認され、以後の管理が課題となった。その後企画展で出陳され、和歌山博で寄託を受けることとなった。
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寄託を受けた本尊である本像は信仰の場の変容を最小限に留めるため、県立和歌山工業高等学校と和歌山大学教育学部との協力により、3Dプリンター製のお身代わり仏像を作製し、平成29728日に奉納を行っている。
 
尚、ロビーにおいて、「お身代わり」仏像を活用した文化財防犯対策についてというポスター掲示があり、その写真を示しました。
それによると、平成30年度までに13ヶ所26を現地への安置を行ったそうだ。
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上記以外にも、熊野速玉神社・国宝神像、浄教寺・大日如来坐像、歓喜寺・十一面観音立像、法福寺の諸像、吉祥寺諸像などについても触れたかったが割愛した。

著名な国宝神像・重文像から地域の人にしか知られていなかった仏像・神像が数多く展示されて、久し振りに観仏に力が入り、感激した時間であった。和歌山博の学芸員先生方や地元の方々など関係者に感謝する次第です。あらためて、和歌山の仏像、神像の奥深さを認識するとともに、今後も新たな発見が健全に行われることを期待しております。 


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前報で報告した尾道市原田町の摩訶衍寺の秘仏・十一面観音像を拝観した後、尾道市街地の寺町街にある光明寺の重文・千手観音像を拝観すべく訪問しました。以前、2016年に訪れようとしたが、お寺周辺には駐車場が少なく、駐車できずに拝観を断念した苦い思い出がある。
今回は史上初という10連休でもあり、観光地・尾道が観光客で溢れ、駐車場も一杯の懸念をしたが、幸い、空いており、JR尾道駅前駐車場に停めることができた。

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JR尾道駅前から線路沿いに東に100mほど行き、踏切を渡り、更に線路北側沿いにやや坂道を進み、左折すると、お城が前方に聳え立ちます。

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突当り正面にある『古寺めぐりコース』の案内板。
この石標と石畳が目印になる全長約2km、徒歩で約3時間の石畳の小路です。持光寺から東は海龍寺までの沿線上には、旧尾道市内の主だったお寺や神社のほとんどが立地しているそうです。一度ゆっくり歩いてみたいが、今日は光明寺のみ訪問です。

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持光寺に着くと、それ以後は、尾道水道を見渡せる絶好の景色の連続です。

手前が、尾道市街地、尾道水道その向こうは向島でドックのクレーンが眼前に続く。

尾道水道のすばらしい景色は尾道にあるお寺ではどこからでも、それぞれの特徴ある景観が見られます。当ブログ『尾道の古寺を訪ねてシリーズ(1)(6)』を参照下さい。

『古寺めぐりコース』の石畳小道は光明寺本堂建物横から正面に出ます。

清浄山・光明寺 尾道市東土堂町2-8

浄土宗西山禅林寺派の寺院。総本山 京都・永観堂禅林寺
平安時代初期の承和年間(834年〜847年)に円仁の開山によって創建されたという。南北朝時代天台宗から浄土宗へ改宗された。
室町時代には、瀬戸内海村上水軍の将、宮地一族の帰依を受け、宮地明光の次男で向島余崎城主であった島居次郎資長(しまずい・じろう・すけなが)は、彼の船中念持仏千手観音(別名:浪分観音(重文)を当寺に寄進し外護につとめるなど、瀬戸内海の水軍たちの心のよりどころとして信仰を集めていた。

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総欅造りの本堂は延享4(1747)の再建
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庫裏は元禄年間(1688年〜1703年)に再建。趣のある入口。
事前に電話で拝観予約をしていました。快く、若いご住職が出て来られ、庫裏→方丈→本堂→宝物館の順に丁寧に説明をしていただきました。有難うございました。

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宝物館 千手観音像、金銅聖観音像が安置される。

木造千手観音立像 重文 像高106cm 平安時代後期
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平安時代(7941191)の作。千手観音で真数千手のものは数点しかなく、ほとんどが合掌手、宝鉢手の他に両脇に十九本の脇手がある四十二臂像がごく一般的である。本像も四十二臂像で、彩色は剥落しているが、かえって木目が美しく効果的にあらわれている(広島県教育委員会の解説)

目鼻立ちが小作りで、穏やかな童顔であり慈悲に溢れている。腕から垂れ下がる天衣の曲線は細く、流れるような美しさである。破損、修理跡もなく造像当時のものだそうで驚く。


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()金銅聖観音立像 重美 30㎝ 奈良前期 市内最古の仏像
古様の7世紀から8世紀に移ろうとする頃の金銅仏である。この金銅仏は瓔珞を始めとして、全身に飾りをつけている。全身に飾りをつけた仏像が出てくるのは隋の時代である。北斉時代以前はあっさりしている。しかし唐代に入ると、又飾りが少なくなる。これは隋風の飾りをつけた唐風の仏像といえるが、この時代は日本の7世紀白鳳時代に当たる。この観音は化仏がついている。(観仏日々帖 日本彫像の旅〜3.安芸の彫像から借用) http://kanagawabunnkaken.web.fc2.com/index.files/raisan/chozotabi/chozo000.html

()金銅阿弥陀三尊立像 県重文 室町時代 方丈に祀られます。
金銅阿弥陀如来57cm 観世音菩薩39cm 勢至菩薩38cm 
足利義政の時代に、信州・長野県の善光寺本尊(秘仏)を模刻。当寺住職の融印が安置したと伝えられています。「善光寺式阿弥陀三尊像」の特徴は「一光三尊」です。当寺の阿弥陀如来の両手が刀印であるのはあまり例がないといわれています。(元塔頭の南之坊本尊)(お寺パンフレットから引用)

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本堂の奥の欄間に、それぞれが楽器を持つ25菩薩立像が飾られています。像高50㎝程はある大きな像です。絵葉書が販売してあり、購入しました。なかなか雰囲気のある空間です。


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本堂の南、左手にある12代横綱陣幕久五郎の墓
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浄土宗に改宗した道宗双救上人の宝篋印塔(市重文) 室町時代初期

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お寺パンフレットに明治時代の光明寺俯瞰図(銅版画)があります。
海岸沿いの山門から山腹まで急坂な境内が描かれ、現在と同様の景観である。

本堂を出て、境内の石段を下り、国道2号線まで降り、JR尾道駅まで戻ります。
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お堂の横にある六地蔵。写真の左端のお堂にがいます。人馴れしており、近付き触れても驚きもしない。観光客の幼い女の子と遊んでいました。尾道のお寺には、住み着いた?可愛い猫をよく見かけます。猫好きの方にはたまらない場所だろう。
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石段から見上げて見る光明寺本堂
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光明寺山門

神戸から乗用車で、尾道市原田町の摩訶衍寺と尾道市街地の光明寺と訪問し、慌ただしい一日でしたが、久し振りの仏像鑑賞ができたことに満足しました。


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尾道・摩訶衍寺の秘仏・十一面観音像が17年ぶりご開帳(4/2829)になり、4/29に訪問しました。本来、33年に一度のご開帳の厳重秘仏ですが、33年も待てない人も多いので、その期間真ん中の17年ぶりに半開帳として、参拝できるという「仏様の有難い配慮」のお陰であります。参考までに、前回のご開帳は平成14(2002)427日の本開帳で、次回は令和17年の本開帳ということになります。
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お寺は山頂にあり、車では狭い山道が混乱するため、山麓の原田芸術文化交流館に駐車、シャトルバスが運行されているそうで、まずはそこへ向かいました。

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摩訶衍寺は広島県尾道市原田町にあります。
訪問前にお寺HPを見ると尾道ICを降りた後、国道184号線で向かうと書かれていましたが、出発時のナビ設定では福山西IC下車、2号線、県道48号線から金光、有光の町を通って行くルートが示され、地図上の細い赤線のようにナビに従って訪れた。これが間違いであった。途中、金光、有光の集落付近は山間部の道幅狭く通り辛いことこの上なし。帰路は尾道市に出るために、お寺HPに従って、尾道IC方面を通ったが、このルートは道幅広く、運転し易く、何気なくナビに従ってしまったこと反省大であつた。

中学校跡を活用した原田芸術文化交流館に駐車。シャトルバスが数台、10分間隔程で往復しており、助かります。摩訶衍山を周遊してくるコースで、行きは10分、帰りは15分ほど。
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右手から登ってきたシャトルバス終点地 (写真は帰りに撮影。小雨が降って来る) 
帰路は手前の矢印方向。お寺山門までは10分程、舗装された山道をのぼる。
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左手前方に、高い石垣のお寺と正面に山門が見えます。
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山門 中には仁王像が立つ
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  なかなか立派だ。詳細は不明。
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かなり急な石段。最後の頑張りだ。
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石段を上りきると、山の斜面に造られた平坦な境内は狭く、庫裏、本堂、鐘楼、その奥に収蔵庫などが効率よく建つ。中央の白いテントが受付。ご開帳記念にお念珠とお札、御影カードなどをいただく。拝観志納金1500円支払う。
町時代、足利尊氏の庇護を受け七堂伽藍の権勢を誇ったそうだが、見るかげもない。
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本堂
摩訶衍寺の由来(お寺HP)
大鵬山摩訶衍寺は奈良時代に名僧行基によって開かれ、もと法相宗であったが、延文年間(10691073)に真言宗に改め、建武年間(13341337)には、足利尊氏の外護があり、七堂伽藍が建立された。万治元年(1658)に通天梵達和尚によって中興され、現在の曹洞宗にかわつたものだが、度々の火難によって伽藍は新しい。
また、摩訶衍寺(まかえんじ)の名にはサンスクリット語(インド)で 大乗(共生、一緒に)仏教の意味が込められています。※『自分を救う教えと違い皆が共に良くなるように頑張っていける教えです』

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本堂内の様子 ご本尊厨子は閉ざされ、写真だけが置かれ、本尊は収蔵庫に祀られる。
昨日は稚児行列などの法要で賑やかだっただろう境内も今日は静かである。

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収蔵庫 2日目の午後2時を過ぎ、参詣者もマバラである。
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ご本尊を拝観する風景 (中国新聞社の記事から)

本尊・十一面観音像 重文 像高188㎝ 素木の一木彫像 平安時代
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広島県教育委員会解説では
平安時代の作。摩訶衍寺の本尊で、冠帯は欠いているが天冠台を彫り出し、彫眼の像は、条帛をつけ腕釧を彫出してある。すこぶる重量感のある堂々とした像であるが、天衣や裳の彫は比較的浅い。背面の胸背部と腕部に内刳があるが、その納入品についての寺伝はない。この像は、たびたび災禍にあったためか、彩色はほとんど剥落し、化仏、手足や天衣の先端は欠失し、現存のそれらは後補である

丸山尚一著「地方仏を歩く」では
純粋な素木の一木彫像で彩色といえば、わずかに口に朱、髭と眼に墨入れした程度で、作者の簡素な発想を感じるだろう。顔の作り、体の処理に、この地方の仏師が作ったにちがいない造形の自由さを見るのである。

平安時代後期の作といわれるが、天衣や裳の彫刻は思った以上に深く、顔の表情は引き締まっている。以前訪れた、すぐ近くにある竜華寺の十一面観音像を思い出します。http://blogs.yahoo.co.jp/teravist/21565055.html を参照下さい。
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竜華寺の十一面観音像

千手観音立像 重美 像高104造像年代は本尊像より古いという
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丸山尚一著「地方仏を歩く」では
豊かさを持った一木彫りの魅力ある彫像である。頭上の十一面の化仏も取れ、左右の千手の腕も取れているのに、痛々しさを感じさせない強さを持っている。光りを当てると卵形のふっくらした顔に、きりっとした眼、鼻、口の表情が浮かび出る。側面から見ると、その太い頸から頭部にかけての強靭な肉付けは、白熊の首すじをすら連想させた。

千手観音像の足元には、消失した化仏の1個が置かれていました。全体の1/3は黒く焼け焦がれていますが、その顔立ちは凛々しい。悲しくも、また、よく残存したとも思う。

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境内からは南に松永湾と瀬戸内に浮かぶ島々、右下にはうずしおカントリークラブのゴルフ場、更に右手には木梨城跡が見える景勝の地である。

摩訶衍寺は尾道市街地の北方に聳える摩訶衍山(382.5)の頂上付近に所在。
古代の主要交通路は陸路の古代山陽道(福山市神辺〜府中市〜尾道市御調〜三原市本郷町)であり、平安前期(9世紀)頃から主要交通路は海路の瀬戸内海に転換した。
ということで、摩訶衍寺はこの2つの主要交通路を隔てる山上に所在。古代山陽道から登り、瀬戸内海を一望することが出来る場所であった。
そんな場所に鎮座する観音さんであり、信仰を篤くしたのであろう。

小雨が落ちて来たお寺を後にして、この後、尾道市街地にある重文・千手観音像を拝観すべく光明寺へと向かいます。2016年の休日に訪問したが、付近は駐車場がなく、拝観できなかった苦い思い出のある場所だ。今回は大丈夫でしたので、次回に報告します。




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2月例会(奈良興福寺)は欠席したので、今年初めての天平会参加となった。
今回は「三室戸寺と西導寺〜宇治の観音霊場と平安仏を訪ねる」というテーマで、かっては平安時代の貴族たちが別荘を構えた宇治を訪れた。『源氏物語』宇治十帖の舞台としても有名である。第798回例会(2014.7) 平等院、橋寺法生院を訪れて以来となる。

天平会案内状の行程は次の通り。講師は杉崎 貴英先生。
12:50 三室戸駅→徒歩→13:3014:30 三室戸寺拝観→徒歩→15:00 三室戸寺駅→15:10 三室戸寺駅発→15:12 黄檗駅(京阪宇治線)着→徒歩→15:3016:30 西導寺拝観。一旦解散、徒歩→16:51 黄檗駅→17:03 中書島駅着。有志による懇親会。
本日の集合は、京阪宇治線「三室戸駅」改札口に12:50です。どんよりした曇り空の肌寒い天気でしたが、約35名の参加でした。

三室戸寺宇治市莵道滋賀谷 本山修験宗別格本山
西国三十三所観音霊場の第十番札所。
平安期に遡る古い歴史を持つ『宇治』はいくつかの固有名詞の読みが難しい。
まず、駅名は「みむろど」だが、寺号は「みむろとじ」と読む。「みむろ」には御室(貴人の邸宅)、三室(光仁、花山、白河三帝の離宮だった)とも言われる。
宇治の語源は莵道雅郎子(うじのわきいらつこ)に由来する名とも言われるが、莵道(とどう)と読み、町名、学校名、公園名で宇治市内に点在している。莵道雅郎子は世界遺産・宇治上神社に応神、仁徳と並んで祀られる三人の内の一人であるが、莵道市(うじし)とするとあまりにアクが強すぎるのか。
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京阪三室戸駅から東方へ進み、JR線を横切る。お寺は明星山の山麓にあるが、穏やかな坂道で、会員相互に会話しながら歩くと門前らしき場所にいつの間にか到着する。道中周辺は現在では真新しい住宅街に変身している。

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両側の生垣奥に朱色山門、特長的な山姿(観音寺山)が見え閑寂な景色である。
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朱色山門

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参道左手には古そうな祠があり、右手は谷が拡がり、季節には紫陽花に溢れる。
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しばらく歩くと、いよいよ最後の急な石段です。
本堂裏山は斜面が伐採されているが、この石段両脇も2008年訪問時には、杉の大木が茂ったうっそうとした景観であったが、伐採されています。参考までにその当時の写真を下記に掲げました。
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(2008年訪問時の杉木立が残る景観。大きく変化している)
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石段を登りきると、広い平坦な境内が拡がり、正面には本堂が建つ。
江戸時代後期の文化11年(1814年)に再建された重層入母屋造。さすがに、西国巡礼の札所だけあり、巡礼姿の参拝者が多く、絶えることがない。

本堂前には蓮の鉢植えが置かれています。かっては日本一であったと思われる蓮の名所でもあり、今では無くなった巨椋池から移動したという100種、250鉢だそうです。

裏山斜面の木々が伐採されているのも気になります。

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人混みから少し離れ、本堂左手にある十八神社石段前で杉崎先生から、まずはレクチャーを受けています。写真の左手に宝物館があり、重文仏像等が納められる。


本堂に祀られる秘仏本尊・千手観音は謎の多い像!!
2009年に1925年以来84年ぶりに御開帳された。お前立の姿ほぼそのままの鋳銅像が拝さイメージ 9れ、一尺二寸の尊像であるそうだ。お前立は本堂拝殿からかなり遠くであるが、本日、その形状がはっきり確認できます。右の様なネットから借用した写真を掲載させていただきました。お前立は文政元年(1818)に造像されたという。像高88㎝。衣の裾が左右に大きく伸び、衣にはくっきりと十字架が確認できる。不思議な姿である。その姿は、あたかも法隆寺救世観音像のようであり、飛鳥時代に遡る金銅仏を想起させます。閻浮檀金(えんぶだごん)の像と語られるそうだ。
寺伝によると、桓武天皇が延暦24(805)に白檀木で二丈の千手観音像を造立、その胎内に霊験新たかな一尺二寸の二臂の観音像を納めたという。寛正3(1463)に全山焼失で二丈の千手観音像は焼け、胎内仏だけが無事であった。以来、その像を千手観音像として安置している。


宝物館

毎月17日のみ開扉され、拝観ができるが、限定された時間だけである。本日は天平会のために特別に拝観が許され有難いことである。
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宝物館に入る会員の皆さん

釈迦如来立像
重文 像高154.0 ㎝ 寄木造 彩色 瞳嵌入(黒石)承徳2(1098)頃造像
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凉寺式釈迦如来像のうち現存最古、平安時代のものでは唯一の遺品。ヒノキ材で、赤栴檀をあらわすために表面を染める。貴重なのは、衣文線や文様をあらわす截金が残っていることだ。国宝・清凉寺本尊はお身拭いや出開帳が繰り返されたためか、いま截金はよほど探さないと見つからない。


阿弥陀三尊像 重文 像高(中尊)87.7 (左脇侍)101.0(右脇侍)101.2
         いずれも漆箔  (中尊)平安後期 (両脇侍)鎌倉初期
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中尊は定印を結ぶ坐像で、定朝様にもとづく造形をよく示す。両脇侍は、三千院の国宝・阿弥陀三尊像(1148 年)と同様、正座する観音・勢至の一例で或る。ただし上体は三千院像のように前傾させてはいない。かっては阿弥陀堂に安置。
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お寺HPによると大和坐りする両脇侍は蓮弁の部分が回転して後姿から足の裏が見えるそうです。
11 月頃、「観音様の足の裏を拝する会」と銘打った特別公開期間に拝見できるそうです。



毘沙門天立像  重文 像高105.0㎝ 寄木造 彩色 平安後期〜鎌倉初期
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右手を腰に当て、左手に戟をとる「鞍馬寺型」の毘沙門天像の一例。華麗な彩色の痕跡には、截金文様も残存しているようだ。
西導寺にある3 躯の毘沙門天像のなかにも「鞍馬寺型」の毘沙門天像があるが(重文)、等身大の西導寺像がスリムな身体つきで表情では穏やかな印象が強いのに対し、こちら三室寺像は、忿怒相の抑制に院政期の風が認められるものの、肉づきや身体の構えには溌剌とした印象が強い。
両袖先のひるがえりかたも、西導寺像にくらべて変化がある。
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宝物館内の右端には浮舟観音立像があります。古様な佇まいですが詳細は不明。

鐘楼脇に「浮舟古跡」と刻まれた古碑があるが、寛保年間「浮舟古跡社」を石碑に改めたものです。その折、古跡社のご本尊「浮舟観音」は三室戸寺に移されたと伝えられるそうです。
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再び、境内に戻ります。
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本堂から境内東には阿弥陀堂、鐘楼、三重塔とすばらしい景観です。
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本堂前拝殿の天井付近には奉納された扁額と雲形彫刻の虹梁など見事です。

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阿弥陀堂 1747年建立 かっては先程の阿弥陀三尊像が祀られていました。
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扁額「四十八願寺」親鸞の父・日野有範が隠棲していた寺号と伝わります。

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三重塔1704 年の建立だが、1910 年に高蔵寺(兵庫県佐用町)から移築されたもの。高さ16m。高蔵寺は播磨西国三十三ヶ所〜十番札所で、行基菩薩開山による播磨地方の大寺であった。2011.4.10の訪問記を参照下さい。

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十八神社本殿 長享元年(1487)建立。重文こけら葺
本堂西側(レクチャーを受けた場所)からの石段上に建つが、本来は宝物館西裏に大きな鳥居があり、ここが入口である。訪問客のほとんどはこの鳥居をくぐることはないようだ。もともと現三室戸寺の場所は十八神社があった所のようで、明治初年まではこの寺の鎮守社であった。
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十八神社の木鳥居

西導寺(宇治市五ヶ庄 浄土宗)
京阪・黄檗駅から万福寺と逆方向にある広大な自衛隊宇治駐屯地沿いの道路を西にしばらく歩くと、右手に西導寺がある。
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寺伝によると、永享8(1436)に「二階堂」(八角二階)という立派な庵室を建立したのがそのはじめで、慶長10 (1605)になって円誉上人がこれを寺として、江戸中期以来現在地に移って西導寺と号し、五カ庄地内に七ヶ寺の末寺を有する本寺であった。特別に拝観させていただき、また、若いご住職の丁寧な応対に感謝・感謝です。

杉崎先生レビユーの的確な一節を紹介する。
寺は衰滅しても、そこにあった仏像は生き延びてゆくことが多い。中世から近世へ、地域の政治情勢が変化する移行期には、寺院の廃絶や仏像の居場所の変転が各地で起こっていた。近世にはじまる浄土宗の寺院には、衰退した中世寺院を再興し、古仏を本尊とする例や、近隣地域で廃絶した寺院の仏像をひきとって安置したと思しい例がよくみられる。昨年師走の天平会で訪ねた久世の福田寺の平安仏や、今回西導寺で拝観する平安仏も、そのような経緯をたどって今につづく浄土宗寺院に安住の場を得たものに違いない

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本堂横の小さな毘沙門堂の奥が収蔵庫につながり、仏像群が祀られている。35名の参加者がちょうど坐せる広さである。かわるがわるの拝観であるが、仏像に近接して観仏できます。
以下の仏像解説文は杉崎先生レビユーをそのまま掲載させていただいた。
仏像写真はブログ仏像ファン的古寺巡礼http://ksplage.blog.fc2.com/blog-entry-280.htmlから借用させていただいた。

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薬師如来坐像 重文 像高83.3 ㎝ 寄木造漆箔 平安後期(12 世紀)
く明治42 年(19099 22 日付で国宝に指定された仏像(戦後の法改正で現在は重文)。お椀を伏せたような形の肉髻、小粒の螺髪、円満なお顔、彫りの浅い目鼻立ちや衣文など、「定朝様」の造形をよく示す。平行線の衣文を基本とする着衣表現のなかで、結跏趺坐に組んだ左足の裏を半ばまで覆っているあたりの衣のあしらいに特色がある。

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毘沙門天立像 重文 像高160.6 ㎝ 寄木造彩色 平安後期(12世紀)
西導寺には平安の毘沙門天像が3 躯伝わっており、そのうち最も大きな1 躯は、早く明治43 4 20 日付で国宝に指定されている(現在は重文)。左手に戟を執り、右手を腰に当てて立つ。いわゆる「鞍馬寺型」毘沙門天の像容である。小さめの頭部、スリムな身体、眉をひそめ目を見開きながらも、穏やかな印象が先立つ顔は、神将形像(天部像のうち、四天王や十二神将など甲冑をまとうものを総称していう)にも繊細さ・優美さが求められた院政期の造形をよく示す。

本堂が平成10年に再建落慶され、その時に立派な書籍が発行され、「西導寺創建と沿革」「西導寺の仏像」などを拝見しました。
収蔵庫の仏像は、2 3 日と8 21 日にはご開扉され、同時に節分(大根炊き)、お盆のカキ氷などが催され、地域に親しまれるお寺になっている。

宇治市に建つ二つのお寺を訪問しました。三室戸寺は西国巡礼札所、花の寺として賑わいを見せる一方、西導寺は街道筋にひっそりであるが、しっかりと地域住民の中に根付き、法灯を守るお寺として存在することを知りました。有意義な一日を過ごせた事、天平会の皆様方に感謝しております。



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久振りの天平会の参加となりました。
2018.6例会(矢田寺と東明寺)以来であり、その間の例会訪問先を記しておきたい。
7月は第838回で大阪歴史博物館にて講師先生による勉強会。 8月は例年酷暑のため、お休み。9月は台風で鞍馬寺が昨年に続き中止。 10月は第839回で枚方尊延寺。
11月は第840回で京都山科・安祥寺と大津歴史博物館。
 
今回は『地福寺と福田寺 〜西山浄土宗の寺院に個性的な古代木彫仏を拝する〜』というテーマで、天平会の特徴であるマニアックで普段はなかなか個人では拝観し難い場所への訪問です。
「行基仏」「霊木化現仏」といった視点で著名な「井上正ワールド」へのアプローチだ!!
 
阪急京都線で高槻市を過ぎると、左手(西側)窓外遠くに、なだらかな山並みが続くのが望める。ポンポン山など北摂山系と呼ぶのだろうか?その山中、山麓には多くの古刹が展開されている。天平会で訪れた勝持寺、願徳寺や楊谷寺、光明寺、善峯寺、十輪寺、金蔵寺などが思い浮かぶ。

講師・杉崎先生の「はじめに」から紹介する。

平成最後の師走の天平会では、2 つの西山浄土宗の寺院で知られざる/知る人ぞ知る魅力的な古代木彫を拝する。法然の高弟証空(11771247)を派祖とする西山浄土宗の寺院には、しばしば寺の歴史をはるかにさかのぼる尊像が護持されていることがある。造形を見つめるとともに、その尊像の「原風景」も考えてみたい。

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本日の集合場所、阪急京都線「桂」駅東口付近1230集合。
京阪バス乗り場③から見た桂駅。
本日の行程計画を示した。
1302 京阪バス③乗り場(¥380、カード可)→1312「中山」バス停下車→13201410 地福寺拝観→徒歩30 分→1445「北福西町1 丁目」ヤサカバス(¥240、現金のみ)→1455 JR「桂川」駅→徒歩20 分→15151615 福田寺拝観→徒歩15 分→1630JR「向日町」駅 解散→16:44 京都駅へ→忘年会

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桂川駅から京阪バス・桂坂中央行きに乗車。県道142号線(いわゆる旧山陰道)を西に向かい、国道9号線を横切り、中山町の中山バスで降りる。この旧山陰道は、この先西へ行けば、山陰街道沓掛、山城国と丹波国との境界をなす老の坂峠(老の坂トンネル)を越えて亀岡に通じる。杉崎先生曰く「古代木彫の場はしばしばこうした交通の要衝とも関連づけて説かれる」そうだ。


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バス停から住宅街を北へ緩やかな坂を上がる。
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細い路地の奥に地福寺の山門が見える。
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やや高台のこじんまりした境内に真新しい本堂が建ち、堂内に続く。

地福寺(西山浄土宗、西京区大枝中山町)

創建の詳細、変遷は不明。寺に遺っている記録(本尊阿弥陀如来縁起)によれば、かつて峯ヶ堂中山寺という大寺があり、山内に地福寺があったという。
この地は古く大江里と呼ばれ、行基菩薩が都から西国へ通ずる交通路の要衝9ヶ所に設けた布勢屋(旅人の難を救うための宿泊施設)1つがあったところである。
これらの布勢屋には、それぞれ仏像が安置していた可能性が強いと井上正先生は指摘する。
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本堂の祭壇前でご本尊は遠いがはっきりと見える畳敷きの場所に座し、御住職のお話し後、杉崎先生の仏像解説を受けながら、強烈個性の阿弥陀如来坐像に見とれる。解説後、狭い祭壇の像前間近かで順番に何回も観仏できました。
(ご住職から写真撮影の許可をいただき、観仏後、撮影する皆さん)
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阿弥陀如来坐像 像高80.8
 一木造(カヤまたはヒノキ) 平安前期(910世紀) 京都市指定
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『芸術新潮』199112月号からの写真。右写真の右下像は兵庫・達身寺の薬師如来坐像で螺髪後頭部である。

本像に関する特徴は次の3点に要約できるようです。
いま黒漆塗の肌を見せるが、当初は木の素肌のままとする「代用檀像」だった
   可能性がいわれる。
定印を結び、衣を通肩」に着ている阿弥陀如来坐像は少数派だ。
    京都市内では広隆寺近くの西光寺本尊や山科・安祥寺五智如来像のうちの阿弥
    陀如来坐像があるが姿は少し異なる。また、井上正先生・古仏に記載された愛媛・大宝
  寺の阿弥陀如来坐像の作例をあげている。
両耳の大きさが際立つのに対し、螺髪はきわめて小粒に浅く整然と刻み出し、目
    の彫りもまた浅い。螺髪は背面では粒を刻んでおらず、井上先生はこれを「木化現
  の表現と説いた。

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:西光寺・阿弥陀如来坐像  右: 安祥寺五智如来像のうちの阿弥陀如来坐像
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愛媛・大宝寺の阿弥陀如来坐像(右写真は『芸術新潮』19912月号から)

後姿は見られないが、お寺さんが所蔵する写真を見せていただき、複写させていただいたものであるが、その異様性が良く分かる。
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頭頂部から背面にかけて螺髪が次第に消えており、
頭部と体部の背面から内刳りを施し、蓋板を当てているのが良く分かる 
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右腕の後部分の拡大写真であるが、この部分のみに荒い鉈彫が施されている。

制作年代について
井上正先生は『本尊阿弥陀如来縁起』に注目し、定印阿弥陀像のいくつかの古例像よりも「一段と古式に属する」と説き、「延暦年間あたりを中心とする89 世紀の間」としている。
また、京都市指定文化財としての解説は、仁和4(888)の仁和寺像(重文)や右京区西光寺像(重文)などに通ずる点があるとして、910世紀頃としている。
その上で、杉崎先生は襟をゆったりとまとった定印・通肩の阿弥陀坐像は、円珍が唐で授けられた国宝・五部心観(三井寺蔵)に描かれており、円珍が帰朝後、延暦寺座主となった貞観10(868)という時点が制作年代を考える上で一つの要留意事項となってくるように思えると述べる。

地福寺を後にして、向日町の福田寺に向かいます。
徒歩で30分程住宅街を南下し、北福西町1丁目バス停から、バスで阪急京都線をくぐり、JR桂川駅に到着。駅周辺は再開発が進んだ整然とした町です。JR桂川駅から電車沿いに南下、この道は旧西国街道だそうだ。東側には東海道新幹線、国道171号線が平行している。
桂川駅と向日町駅の中間点付近にある地下道を通り、新幹線をくぐり、国道171号線の間の住宅と仕事場が混在する町中に突然、福田寺山門が現れます。
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福田寺山門

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本堂へ続く細い石畳の参道。手入れが行き届いています。

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奥に行くと、やや広い境内に続き、正面に神木ともいえる楠の大木。
ご住職が迎えていただきました。
中央は庫裏、左手が本堂、更に左手前には龍神堂があります。
福田寺(南区久世殿城町)
寺伝によれば、今から約千三百年前、奈良時代の養老2(718)行基菩薩が『釈迦如来』『地蔵菩薩』の二尊を刻み開祖され、創建当時は八町四方に七堂伽藍を有していたと伝えられる。当初は真言宗だったが、現在は西山派浄土宗、光明寺の末寺。しかしながら、浄土宗らしくなく、本尊も阿弥陀如来ではない。

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本堂に入る前に、何故か先に龍神堂に案内いただきました。
実は、福田寺さんでは、龍神堂に祀られる「龍神像」が有名であり、訪問者の皆さんはこの像をお参りに来られるそうです。
昔より旱魃(かんばつ)の水不足の時には「雨乞い」の法修が行われ、古くは平安時代俊恵法師も行ったと伝えられ,旱魃の都度昭和の初め頃まで行われていたという。
お堂の中は会員全員で一杯になる広さですが、座して杉崎先生の説明を受ける。
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「龍神像」こと夜叉形跪坐像
像高60.0㎝ ヒノキの一木平安前期(9世紀)
目を丸くむき、褌と臂釧のみを着けてひざまづく獅子鼻の像を刻み出す。老朽化しているが、肩から二の腕付近のボリューム感は目を見張ります。胸の前で組んで握る手先は後補。本来は兜跋毘沙門天の左右に従う二鬼(毘藍婆・尼藍婆)の一つだった可能性が言われ、そうすると、この龍神像の像高から類推すると、巨大な迫力ある兜跋毘沙門天像が想像される。

今年は開創1300年にあたり、8/23には盛大に龍神祭も行われたそうだ。そう言えば、今年の8/23夜には台風20号が姫路に上陸し、強烈な風雨に見舞われたことを思い出した。龍神さんのパワーだったのか…と思う。

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その後、本堂に入り、お目当ての古仏の拝観です。
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厨子前に座し、厨子内のご本尊仏像や左右の二天像を見ながら、杉崎先生の説明を受け、その後、厨子前、厨子横の扉から仏像を覗き込むように正面像、側面像を観仏できました。特に、側面からの表情、袖の渦紋、衣文彫刻などライトの角度により変化する光景は見事です。
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厨子中の二つの本尊像(福田寺パンフレットから借用)
厨子の両側にはかって大寺であった頃の木造・二天像(像高:持国天130.5㎝、多聞天135.0㎝、いずれも両肩から先は後補)

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地蔵菩薩立像  像高132.5 ㎝ 一木造平安前〜中期(10 世紀)
光背・台座が後補なのはもちろんとして、表面のいたるところに後代の手が加わっているそうだ。しかし、一木造の堂々とした立ち姿、大きな目鼻立ち、そして大腿部のボリュームを強調するY字状をなす衣文線に、当初の表現をうかがうことができる。

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釈迦如来立像  像高 一木造 「平安時代半ば頃」…?
奈良大学教授の関根俊一先生の解説を引用させていただく。
地蔵菩薩と異なり複雑な衣文線を刻み、要所に渦巻き紋を表現するなど個性的な作例である。やはり一木造で、材の制約のためか両手が体躯に接近し、やや窮屈な印象を受ける。両手先等別材を矧いだ箇所は後補が多いが、平安時代半ばの作風が看取される。

この二つの平安仏は平安前期の異相・異形を示す一木彫像群に匹敵するように思えるし、すばらしい衣文彫刻に見えるが、何か出来過ぎの感じを覚える。それは、これらの像に後補が多く、黒漆塗に気を取られるためであろうか。いずれにしても、不思議な雰囲気を醸し出す像だ。
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また、厨子の左横には行基菩薩坐像(お寺HPから) 像高50㎝程の一木造のようであるが、彫刻も深く、平安後期の造像?とにかく、異様な雰囲気を持つ仏像だ。


地福寺と福田寺という西山浄土宗の寺院にある不思議な、強烈個性のある古代木彫仏を観仏することができましたし、何故にこれら仏像がここに存在するのかという疑問も少しは理解できたように思う。
いずれの御住職にも丁寧にご案内いただいたこと感謝申し上げます。

そんな気持ちを抱きながら、もと来た道を戻り、JR向日町駅まで歩く。この後、恒例の忘年会を京都駅前にて有志で開催。小生も参加させていただく。今年の天平会は2回のみの参加でしたが、お世話になり有難うございました。
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京都駅前のアサヒスーパードライで忘年会風景。
会も終盤、杉崎先生が挨拶をされています。撮影後、小生の体調に異変が起き、皆様方から大変お世話を受けました。お詫びと共に深く反省です。

来年もよろしく。





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