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近年、大阪市教育委員会の主催で「大阪の歴史再発見」と題した、文化財に関連する見学会・講演会などが定期的に実施されています。通常は非公開文化財が特別に公開、観仏できる興味ある催しです。
今回は9/13、東淀川区の専念寺仏像群が公開されましたので、見学してきました。

詳細な資料付で学芸員さんの丁寧な解説などもあり、含めて拝観料は100円と格安で有難いことです。

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阪急京都線の上新庄駅北口下車、東に徒歩約10分。小松商店街を抜け、突き当たりの町中に「専念寺」はあります。

専念寺は、東淀川区小松に寺地を構える浄土宗の寺院。周辺は、中世以降、水陸交通の要所として繁栄した地域で、「乳牛牧」と呼ばれる、朝廷に乳製品を納める荘園なども置かれていました。
(現在は、淀川、神崎川に挟まれ、商店街やマンションが建ち並ぶ賑やかな地域です)

周辺には、たくさんの中世寺院があったと考えられており、中でも「三宝寺」は、聖徳太子が四天王寺建立後に別院として建立したとも伝え、日本における初期の禅宗を考えるうえで、栄西と共に重要な人物とされる「大日房能忍」が布教の拠点とした、といわれています。寺町の面影が少し漂います。
三宝寺は戦乱が相次ぐ中で、次第に衰退していったと考えられています。

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上新庄駅から東に歩き、小松商店街を抜ける。

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専念寺の山門が見えます。
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山門右手のピンクの建物はお寺境内に建つ幼稚園。
専念寺には、平安〜鎌倉時代に製作がさかのぼる三体の仏像が伝来しています。
これらの仏像のうち、木造十一面観音菩薩立像と木造大日如来坐像は三宝寺ゆかりの像と考えられます。
大阪の地は常に戦火に見舞われ、たくさんのお寺の中で火災から残った仏像が辛うじて残り、地域に根差した由縁の古仏として、篤く信仰されて続けてきたことを物語っています。

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山門をくぐっると、左手にコンクリート製の本堂、正面には脇堂が整然と並び建つ。本堂にはご本尊、脇堂に十一面観音像と大日如来坐像が祀られます。
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本堂ではすでに写真の様に、沢山の参拝者で溢れ、満員です。昨日はもっと多かったようです。午後2時前に到着しましたが、参拝者が多いため、予定の午後2時半からの学芸員の説明を早めて行われていました。勿論、2時半からも解説があるとの事で、その間、脇堂の仏像を見学しました。

各仏像の解説文は当日の資料から引用、青字で記載しました。
三体ともに大阪市指定文化財。
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本尊・木造阿弥陀如来坐像 像高70㎝ 平安時代、11世紀代
来迎印を結んだ坐像。珍しい朴(ほお)の材を用いた一木割剥造の像です。量感のある面部や体躯、腹下や膝下に見られる太い紐状の衣文など、10世紀代の平安彫刻に見られる要素を残しつつ、均整のとれた低い肉髻、粒の揃った小さな螺髪、穏やかな表情、腹部が突出することはなく、胸厚と腹厚があまりかわらないことなど、11世紀代以降の、藤原様といわれる様式の影響も示しています。
平安時代後期の形式化する定朝様の前の時代のもの。上記写真の中央厨子に祀られ、傍により観仏できます。

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脇堂内。大きな厨子中に仏像が祀られます。

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木造十一面観音菩薩立像 像高180.1㎝ 平安時代、10世紀代
頭上面や両肩先は除き、宝髻から台座の蓮肉を含めて、榧(かや)の一木から彫出するという、非常に古様な構造です。このような像は、一木造像の非常に古い姿で、9世紀製作という、奈良市大安寺の十一面観音立像などに通じ、大阪市域では本像のみです。一木特有の堂々とした量感と、U字状の太い衣文が均等な間隔で繰り返される衣摺、整然として造型で、穏やかで静的な印象の一方で、衣摺の縁などの細かい箇所には、装飾的な要素が色濃く見られる点などは、京都市広隆寺の、9世紀製作という千手観音菩薩立像に通じる部分もあります。制作年代は、平安時代の10世紀代を下ることは考えにくく、大阪市域でも最も古い時代の仏像のひとつと考えられます。
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右の写真は観仏日々帖から借用。足と台座の蓮肉が一木で彫出され、衣文の深い彫刻が良く分かります。
尚、この仏像は約10年前に修復され、当時撮られた写真が壁に掲載され、それを見ると、化仏、両肩、顔の荒れが痛々しいが、見違えるようになった。

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木造大日如来坐像 像高100㎝ 12世紀末から13世紀前半
大阪市域の大日如来の作例では、大阪市指定文化財となっている三津寺像が、平安時代後期、12世紀後半の製作とされ、面相は穏かであり、衣文の稜線は浅く上品であることなどが特徴となっています。一方、専念寺像は、桧(ひのき)材の一木割剥造で、目尻がやや上がる意志的な表情、ふくよかでありつつ、下頬から顎にかけての引き締まった面相、引き締まった膝下などに見られる、太い線と細い線を巧みに使い分けた装飾的な要素を含む衣摺、膝前の大きく張りだしなど、鎌倉時代の彫刻の特色とされる、写実的で動きのある表現を示しています。製作年代は、12世紀末から13世紀前半と考えられます。





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近年、大阪市教育委員会は、大阪市内に所在する様々な文化財について、「大阪の歴史再発見」と題して、通常は公開されていないが、期間を限定して見学会・講演会などを実施しています。
その1つである特別公開「地蔵寺仏像群」を見学してきました。その他にも、まだ、計画されている特別公開があるようですので、後程、紹介したい。
昨年は、大阪市中央区の繁華街にある「三津寺仏像群」が特別公開され、見学しました。
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特別公開「地蔵寺仏像群」のテキスト
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住吉大社付近地図と同時公開されている『住吉のまち 境界の石仏』の場所

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地蔵寺
住吉大社・東大鳥居の南に位置する小さなお寺で周囲は新旧の家が混在する住宅街。
道路の奥、左手に東大鳥居がある。

住吉大社の神宮寺であった津守寺の一坊であったと考えられる。神仏分離の際に、一旦廃寺となったが、18851890年頃に現在地に再建された。その際に、地蔵菩薩立像や二童子立像など地蔵寺の什物に加えて、厨子入りの五大力菩薩など、住吉神宮寺や津守寺の什物も納められた。
地蔵寺は、失われた住吉のまちの神宮寺の遺産を継承する寺院です。

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左は「五大力」の標石(1819年建立)で、住吉神宮寺にあった百度石をかねたもの。
右は「子安地蔵尊」の標石(1858年建立)で、津守寺の西南の地蔵寺の旧寺地にあったもの。

公開時間が午後1時からとは知らず、12時前に着いたので、住吉大社を見学後、1
20分頃再び訪れると、既に満員状態に近い人気の有様です。小さな本堂前に坐して、学芸員の方の説明を伺いながらの観仏でよく理解できました。

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堂内は撮影禁止。ご住職の許可を得て、堂外からの写真を掲載しました。こんな雰囲気です。
注目は本尊・地蔵菩薩立像や、厨子入の五大力菩薩像だ。
通常は厨子内でお顔だけが拝観できるようですが、今回は、全体が観仏できます。中央に地蔵尊、両脇に二童子立像が祀られます。

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木造地蔵菩薩立像 大阪市指定 像高109cm (写真、観仏日々帖から借用)
堂々とした僧形の地蔵尊で、全身から迫力を感じますが、お顔の表情は穏和な感じです。両股の隆起が少ないが如来形の腰からのY字状衣文を感じさせるスタイルです。衣文の彫刻は深く、鋭く、自然な流れを感じさせます。特に、左裙の下部には複雑な彫りが見られます。正面性の威圧感に比し、側面から見ると、上半身は意外にほっそりしていますが、腰回り付近は厚みがあります。神仏習合の影響を強く受けた神像の臭いがプンプンする像でした。

大阪市教育委員会説明では
「右手首先と錫杖は後補で、当初は何も持たずに右手を垂下していた古式の地蔵と思われる。また、量感豊かな一木造で、顔の表現が穏和であり、衣文に手慣れた彫技が見られるので、10世紀末から11世紀前半に制作されたと考えられる。平安時代の地蔵菩薩立像の優品である。」と説明する。

江戸時代、地蔵寺は「子安寺」と称された。伝承では、神功皇后が三韓出兵に際して、住吉で地蔵菩薩を刻み、この地に祀った像が地蔵寺の本尊であった伝える。女神である神功皇后を仏像の作者とすることは希少であり、神仏習合の強い影響がうかがえるという。
神功皇后は住吉大社四祭神の一人であり、他は海の神である筒男三神です。

この後の「大阪の歴史再発見」の紹介しますと

①特別公開「一運寺仏像群」の開催
  20171029日(日曜日)〜1031日(火曜日)
  快慶の作風の木造阿弥陀如来立像など
②特別公開「金臺寺(こんたいじ)仏像群」の開催
  20171112日(日曜日)〜1114日(火曜日)
  天部形立像と千手観音菩薩立像などの平安仏

神仏習合のまちである住吉には、まちの境界となる辻々に小堂を見掛け、そこには神仏習合の影響を色濃く受けた遺品や貴重な石仏がある。上述した地図中に記載したお堂、お寺が、今回の特別公開にあわせて、公開されているそうです。いただいたテキストに詳報されています。
それを見ると、「六道の辻 閻魔地蔵」、「宝泉寺 十三仏」、「千躰地蔵堂 地蔵菩薩来迎図」、「出口地蔵堂 白蓮寺の地蔵像」である。
大変興味はあるが、予定していなかったので、「六道の辻 閻魔地蔵」だけですが、この後、訪問しましたので報告したい。


「六道の辻 閻魔地蔵」 大阪市指定文化財
住吉大社の北方、阪堺軌道上町線の踏切を渡った北に6本の道(現在は7)が交差する小さな「六道の辻」と称せられる場所があり、そこに立つ小堂に祀られる。
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六道の辻
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「閻魔地蔵尊」の赤字看板が目立ちます。


お堂の中に一歩踏み入ると、線香の煙がたなびく中、大きな地蔵尊提灯が天井から下がっています。奥の格子戸が開かれ、閻魔地蔵尊が見えます。
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入口右手に、小部屋があり、管理されるおばさんがおられます。丁寧にお話しを伺うことができました。一日の休みなくお堂は開かれ、講組織によって護持されているそうです。
普段は格子戸が閉まり、地蔵尊のお顔部分は垂れ幕がかかり、見難いが、今回は特別公開で、大阪市からの依頼で、見易くしているそうです。有難いことです。
線香とロウソクを買い求め、お参りした後、ゆっくりと見学する。
(右の写真は大阪市教育委員会から借用)
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非常に大きな目が特徴的で、表情はどこか憎めない愛嬌があります。腕から足へと幾何学的な造形が特徴的です。黒光りしているのは護摩を焚いた煙によるものだそうです。毎月24日、晴れた日は堂前、雨の日は堂中で護摩を焚くそうです。


テキストから紹介すると
冠を戴き杓を執って結跏趺坐する閻魔王の姿です。光背とともに花崗岩の一石から半肉彫りされています。像高111.1㎝と等身大より少し大きく、銘文から天文7(1538)の彼岸に造られたことが分かります。冥界の王である閻魔を、地蔵菩薩として信仰する事例は、全国でも非常に珍しく、六道の死者救済の地蔵尊としての側面もあわせもちます。

閻魔王の石造仏を見ることは少ない。湖南地方にある少菩提寺の石塔程度である。


尚、住吉大社を見学しました。
全国にある住吉神社の総本社である。本殿4棟が国宝に指定されている。
先程の神功皇后は太鼓橋を渡って、右手にある第四本宮の祭神である。
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角鳥居前の池に反橋が架かる。「太鼓橋」とも称され、住吉大社を象徴する橋。
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境内南側には、御田と称される神田が広がる。まさに収穫の時期で、豊かに実る。

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町内会、子供会、敬老会などの手製の「かかし」が「すみよしの町らしい」。

尚、住吉大社神宮寺は、神仏分離令により廃絶、多くの著名な秘仏も散逸したが、その中で、西塔は四国88ヶ所霊場の第10番・徳島県切幡寺に売却、移築されたものだそうで、現存している。そうなんだ…。

帰路は、そのまま北に進み、南海電車・粉浜駅を利用しました。付近は、市場などがあり、活気のある下町、賑やかな町でした。


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大阪ミナミの繁華街のど真中に建つ三津寺というお寺に平安期から江戸期に及ぶ仏像群があり、大阪市教育委員会の主催で、3/1015(午後1時〜4)まで、初公開され、訪れました。
各日、2時半から市教委学芸員から説明があるそうです。当日、2時半前に到着したところ、すでに、本堂・内陣で説明会が催されていました。あまりにも見学者が多いので、臨時で説明会を始めていたそうです。勿論、予定の2時半には、再度、説明会が始まりました。地元の方も多数おられたようです。
大変丁寧な説明資料と平易な解説をいただいた学芸員の方に感謝します。
それで参加費100円ですから。感謝。

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なんば駅14出口から御堂筋を北へ徒歩

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あの有名な「かに道楽」のある通り。この混雑です。
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ここも有名。御堂筋、道頓堀川・・・。
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左手の信号・「御堂筋三津寺町」に見えるのが御堂筋。
お城のような建物が三津寺の庫裏。脇筋にある山門から入ります。
この庫裏は昭和8(1933)の御堂筋拡幅の時、境内の約4割が接収されたたが、当時の寺院としては珍しい地上3階、地下1階の鉄筋コンクリート造の近代建築。第2次大戦での大阪空爆の際には、付近は焼け野が原になったが、コンクリート造のお陰で、本堂・前堂とともに焼失を免れて、貴重な文化財が残された。

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正面に本堂。左手が庫裏。右手が前堂(愛染堂)
現存する本堂は、文化5(1808)に建立されたもの。

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拝殿から格子扉の中に、本堂・内陣が見えます。
見学者はコンクリート製の庫裏で受付を済ませ、そのまま本堂内に入って行きます。

庫裏から入ると、まず左手の余間に坐する、黒く焼けこけ、摩滅が著しい聖観音像(下図①表示)が祀られ、その痛ましい姿に驚かされる。頭部分は平安期造像部分が残されているが、体部は破損が著しかったと想像され、江戸期に入り新造したそうです。

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文化5(1808)に建立された現在・本堂の内陣様子は本日の資料から分かるように、大きな三つの厨子から構成されるが、本堂と一体化した厨子(柱と塗壁に組込まれた宮殿のようである)は珍しいそうである。本堂建設時に、すでに、これだけ多くの仏像収納、配置を考えていたようです。

1860年頃の『摂津名所図会大成』という書物には、本堂中央に本尊の十一面観音、その脇に弘法大師と薬師如来をまつるとあり、仏像の配置が今とほぼ同じであることが分る。
その中の12躯が2015年に大阪市指定有形文化財に指定されました。

内陣は比較的狭く感じられ、大きい厨子と等身大の大きい仏像の存在が、一層、拝観者に迫ってくるようです。江戸時代の大阪の密教寺院の、市中の町人から厚い信仰を集めていた様子と雰囲気を、今に色濃く伝えているそうです。

以下の写真、解説文は本日いただいた資料やHPから借用しました。
中央厨子の3
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(左)⑦木造地蔵菩薩立像 像高151.8㎝ 平安時代後期(10世紀後半)
 三津寺仏像群の中で最も古い仏像である。伏し目がちの眼、荘厳かつ端麗である
 整った面相などの特徴。彫眼像で、両肩を含めて一材から彫出する、内刳のない
 古様な一木造の構造を示す。
 
(中)⑧木造十一面観音菩薩立像 像高177.0㎝ 江戸時代前期
 本尊。彫技は優れており、平安時代前期の檀像風の彫像をモデルとして、鎌倉時代
 の新様式を取り入れながら、江戸時代前期、あるいはその少し以前に、擬古的に
 製作された観音像と考えられる。
 
(右)⑨木造毘沙門天立像 像高178.6㎝ 平安時代(11世紀後〜12世紀前半)
 寄木造の彫眼像で、頭部は内刳のない一木である。全体としては静かで落ち着い
 た造形で、激しい忿怒というよりも、落ち着きを失わず、定朝様の影響を示す上
 品で穏やかな雰囲気も漂わせる。

右厨子の3
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(左)⑩木造大日如来坐像 像高92.9㎝ 平安時代後期(12世紀前半)
  寄木造の彫眼像。内刳のあるものは、薄い生地になってしまい、彫刻は浅く、躍動感は薄れてくる。
  典型的な定朝様を示す。
  ⑪木造弘法大師坐像 像高78.0㎝ 江戸時代、1680年の銘が台座底板にある。
玉眼を嵌入した寄木造。
(右)⑫木造弥勒菩薩坐像 像高75.6㎝ 室町時代前期(14世紀後半〜15世紀初頭)
  腹前で法界定印を結び、そこに宝塔を執る形式である。玉眼を嵌入した寄木造である。宋の影響を受けた鎌倉時代の新様式を踏まえ、さらに装飾的な要素を加味した造形となっている。
 
左厨子の3
 ④木造愛染明王坐像 像高58.6㎝ 室町時代後期 
 ⑤木造薬師三尊立像 中尊(像高105.0㎝ 室町後期) 
                脇侍(像高62.0㎝ 1681年 銘あり)
 ⑥木造不動明王立像 像高97.4㎝ 室町後期〜江戸 
 
前堂(愛染堂)
四天王寺に近くにある生玉宮寺の一坊であった持宝院の仏像群で、10体程。明治の廃仏毀釈で生玉宮寺が廃寺となった時に三津寺に移されたと考えられています。中央には像高95.0㎝もの大きな木造愛染明王坐像が祀られます。

昭和初期にコンクリート製のお寺を建立し、度重なる戦火から逃れた大阪人の気質に敬意を表すとともに、奇跡的なことであつたと感じます。
また、廃仏毀釈で数知れない多くの仏像が消失したが、この三津寺のケースのように、移動することで、逆に、火災から救われたことは皮肉なことであるが、貴重な文化遺産が今に残り有難いことです。
 


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センセーショナルな一枚のチラシが目に止まりました!!
神秘的な神が宿る「カンナビ」的山容と神像たちです。この画像を見ると、どうしても行かなければと思い訪問をしました。
丁度、時を合わせたように、隣町の高槻市しろあと歴史館でも北摂の山岳信仰の展示が行われ、前報の通りですが、いずれも大変勉強になりました。

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茨木市立文化財資料館
資料館からの案内文を見ると
淀川の北に広がる三島平野を奥に進むと、なだらかな丘陵地帯を経て、山々が連なる北摂山地に至ります。なかでも、標高510mの竜王山は流麗な山容を誇っており、この竜王山を中心に山への信仰が古代以来続いています。また、信仰とともに、仏教美術や文化を今に伝えています。
 今回の展示では、竜王山と関連が深い、忍頂寺および大門寺などの山岳寺院をとりあげます。初公開となる織田信長朱印状(「天下布武」印)や関連する仏像などを展示することで、竜王山をめぐる信仰と人々にスポットをあてます。
とのことです。
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(前報でも報告した北摂地域の霊山と山岳寺院の位置地図)
テーマ展に出てくる忍頂寺大門寺の場所を示しています。
忍頂寺は竜王山の麓にありますが、大門寺は少し南に位置し、阿武山麓に近い。
 
展示会で実際に展示されていた仏像はチラシにあった大門寺の熊野十二所権現立像だけで、それ以外は大きなパネル表示でした。立派な図録があり、しかも格安の200円と価値があります。

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大門寺・熊野十二所権現立像
十二軀 木造 像高 22.2cm26.2cm 鎌倉〜南北朝時代
ガラスケース内に展示されるが、本地仏形と垂迹神形が入り交じって一列に並んだ素朴な姿は心を打つ。普段は大門寺・本堂左脇檀厨子内に安置される。

平安時代に編集された『口遊』(くちずさみ)という児童向けの学習教養書によると、当時、七高山と呼ばれる、「比叡山、比良山、伊吹山、神岑山、愛宕山、葛木山の7つの霊山があったそうです。七高山の一つ神岑山に比定される竜王山の麓に位置する忍頂寺、大門寺の信仰と歴史が紹介される。ただし、神岑山の比定をめぐっては、前報で紹介した高槻市神峯山寺周辺とする説などもあり、明確ではないそうです。

北摂における山岳寺院の開創者や中興者の名前が出てくるが、一覧表が展示されています。
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  開成皇子:父は光仁天皇で、桓武天皇の庶兄。摂津国勝尾寺の開基と伝える。
  三澄  :勝尾寺三世証道上人の弟子

忍頂寺
山号は賀峰(かぶ)。子院の寿命院が法灯を伝える。寺縁起では、行基の開創、その後、開成皇子が訪問、忍頂寺が廃滅したが、三澄が中興したと伝える。
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      忍頂寺聖観音菩薩立像      薬師如来立像本尊・御前立

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十二神将立像

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織田信長朱印状(「天下布武」印)が展示。
忍頂寺に守護不入の特権を与え、寺領の安堵を認めたものです。今回、初公開の大変貴重な資料だそうで、わざわざ遠くから閲覧に来られるそうです。
永禄のころには、織田信長から保護を受けたが、キリスト教伝播の影響で寺院は焼かれ、高山右近に寺領を没収されたそうです。

大門寺
山号は神峯(かぶ)。現在は真言宗御室派の仏教寺院。
本尊は如意輪観世音菩薩(秘仏)。
本尊像と四天王像はともに平安時代の仏像で重文指定。
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     本尊は如意輪観世音菩薩(秘仏)   四天王像


七高山の一つ神峯山の比定が神峯山か竜王山なのか興味のあるところです。いずれにせよ、北摂の山岳寺院の歴史と山岳信仰・龍神信仰の関わり深い高槻市の本山寺、神峯山寺、安岡寺、霊山寺、茨木市の忍頂寺、大門寺などを訪れてみたいものです。




 

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高槻市立しろあと歴史館で開催中の特別展「大阪の修験と西方浄土 〜神峯・葛城山と日想観の山寺〜」(10/312/6)に行ってきました。
大阪府下の山岳寺院に伝わってきた修験と日想観(西方浄土)をそれらの地域性とともに紹介しています。
特別展の趣旨とは別に、私は、金勝山麓・大野神社の十一面観音像パネル紹介があるということで、以前、大野神社で拝見したが、暗くて明瞭な印象が薄くしか残っておらず、また、この十一面観音さんの情報が少ないこともあって、楽しみに訪問しました。
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まず、主催の高槻市教育委員会のチラシの「開催にあたって」を紹介。
古代以来、人びとは神の宿る山に籠もって信仰を深め、大阪では北摂山地の神峯山と南東部の葛城山系に山林修行の場が営まれてきました。また、山から西方極楽浄土を想う念仏聖が、高槻の安満山・金龍寺と生駒山中腹の河内往生院に隠棲しました。現在もなお、これらの山中に佇む古刹が、修験と西方浄土の信仰ゆかりの名宝と文化を伝えています。
 本展では、大阪の山と信仰を取り上げ、仏教美術・文献・考古資料などから、その歴史を紹介し、山々に広がる宗教文化を探ります。


大阪の山寺を考える上で、押さえておきたいのが、七高山と役小角だそうです。冒頭に、七高山と関連寺院の位置図の大きなパネルです。赤線で囲んだ山です。平安時代の天禄元年(970)に書された『口遊』に「比叡、比良、伊吹、神峯、葛木、謂之七高山」とある。これらの山々の周辺には、山林修行者が集まり、活動の拠点として堂舎を建て、仏を祀って修業を行った。これらの山寺の開祖に多く登場する人物が役小角です。
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紹介寺院では北摂山地の神峯山系では神峯山寺、本山寺、安岡寺、霊山寺、金龍寺、安満山などで、南東部の葛城山系では七宝瀧寺、交野山廃岩倉開元寺、河内往生院などである。
下の地図は北摂山地系での高槻市北部の寺院と茨木市になるが「龍王山をめぐる信仰と人々」〜山岳寺院の軌跡〜というテーマ展が茨木市立文化財資料館で開かれ、龍王山を中心にした山寺の位置も併記した。龍王山については、別途報告したい。
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神峯山寺は標高679mのポンポン山の麓に位置し、根本山と号する天台宗の寺院です。寺伝によれば、7世紀に役行者が毘沙門天を安置し、山林修行の場としたのが始まりだそうです。
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聖観音立像 重文 平安時代 像高101.7㎝ 神峯山寺蔵
(写真、説明は図録から引用)
頭に宝冠をいただき、顔はやや丸顔で、細く直線的に刻まれた眼、短い鼻、小さな口元を表しています。
頭頂から足元までヒノキの一材で制作された一木造で、彫眼、古色です。右手は下に伸ばして、左手は曲げて蓮華を持ちます。腰を左にひねり右足を少し外側にして立ちます。細めの条帛をかけ、天衣は両肩に覆い、腕にからんで垂下しています。


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[参考] 十一面観音菩薩立像がパネル展示されています。
    平安時代 像高100.0㎝ 大野神社蔵
(図録からの解説文)
神峯山寺の聖観音立像は、以前から滋賀県栗東市・大野神社所蔵の十一面観音立像と同一工房で作られたと考えられていました。
大野神社は栗東市南部の金勝山北麓に位置し、周辺に広がる金勝庄の総鎮守社です。神社の神宮寺である菅神寺の本尊として、本像が祀られていました。西に比叡山を望む金勝山には奈良時代に開かれた天台宗の金勝寺があります。十二世紀以降、この地域には天台浄土教が広がり、観音菩薩をはじめ、多くの仏像を伝えてきました。神峯山寺と開創時期や立地、信仰面で共通する条件をみることができます。


そこで、本展の開催に際し、井上一念氏(同社大学教授・本市文化財保護審議会委員)が実見調査を行い、像高・髪際高・面幅・面長・面奥などがほぼ同じ法量であることが確認されました。また、後頭部中央の髪際に切り込みを表し、眉間が広く小さい鼻先などの表情にも同じ技法が用いられています。ただし、二重U字形に表す裳脚部の衣文線は聖観音立像と酷似する一方、裳脚部の中央部の重ねた折り方は表現方法が異なっています。

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尚、以前に円満寺(近江八幡市)十一面観音立像を栗東歴史民俗博物館で観仏しました。
やはり、平安時代末期の作で、和やかな表情で素朴な雰囲気を醸し出す仏像を思い出します。
同じく天台系山岳寺院の仏像でもあり、これら三像が大変よく似たものだと感じています。
また、井上靖の小説『星と祭』にも採り上げられている観音菩薩として知られる。









その他には、神峯山寺・開成皇子像(桃山時代)、愛宕念仏寺・千観内供坐像(重文・鎌倉時代)や本山寺不動明王立像(平安末〜鎌倉初)などが展示されてました。

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神峯山寺・開成皇子像 桃山時代 像高38.4
童形の姿。岩座に坐し、水の神で神峯山の地主神・金毘羅童子の可能性が指摘される。開成は北摂の山寺では役小角に続いて登場し、開創伝承を持つ寺院が多くある。

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()本山寺・不動明王立像 平安・鎌倉時代 像高96.5㎝ 高槻市指定
   本山寺は神峯山寺とともに歴史を刻んできた天台系寺院。毘沙門天を本尊と
   し、役小角と開成皇子の開創伝承がある。
()愛宕念仏寺・千観内供坐像 重文 鎌倉時代 像高69.1㎝ (京博寄託)
千観は念仏を実践した僧。本像の口元も念仏を唱える瞬間をとらえ、日想観の山寺・金龍寺で念仏に専念していたころの姿を表しているといわれています。





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