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   【アポロ月面着陸50年】人類初の偉業 米ソ冷戦の産物


 米国の宇宙船アポロ11号が人類初の月面着陸を果たしてから21日で半世紀を迎える。冷戦期に旧ソ連(ロシア)との先陣争いに勝利し、地球以外の天体に初めて足跡を残す偉業を達成した。米国が宇宙開発で世界の頂点に立ち、後の国際協力を主導する大きな転換点となった。

 アポロ11号は3人の飛行士を乗せ日本時間1969年7月16日、地球を出発。21日に月面の平原「静かの海」に着陸し、アームストロング船長とオルドリン飛行士が降り立ち、歴史的な偉業を成し遂げた。

 成功の鍵を握ったのは、まず巨大なロケット「サターン5型」だ。全長は日本のH2Aロケットの2倍に当たる110メートル、重さは約2900トンに及ぶ。有人宇宙船を載せて地球の重力圏を脱出するには、強大なパワーが必要だったからだ。

 最も重要な宇宙船は3つの部分で構成する。飛行士は円錐(えんすい)形の司令船に搭乗して地球を出発。最後部の機械船のエンジンで月に向かい、船長ら2人が着陸機に乗り移って月面に降りた。司令船はコリンズ飛行士だけが残って月の周回軌道で待機し、戻ってきた2人と合流して太平洋上に帰還した。

 米国は有人飛行を目指して58年に米航空宇宙局(NASA)を設立し、宇宙船やロケットの開発、飛行士の養成を本格化。60年代後半には複数の飛行士の搭乗や長時間飛行を実現するなど技術力を高め、初の月面着陸にこぎ着けた。

1号機で死亡事故

 ただ、道のりは順調ではなかった。アポロ1号は地上での試験中に司令船内で火災が発生し、閉じ込められた飛行士3人が死亡。開発のスケジュールを優先し、安全性を軽視する体質が背景にあった。

 NASA国際宇宙ステーション(ISS)部のシメミ部長は「人々はアポロの魅力的な話だけを思い起こしがちだが、1号で友人や家族が失われている。困難や過ち、教訓も忘れてはいけない」と話す。

 米国が月面を急いだのは、冷戦下のソ連とし烈な宇宙開発競争を繰り広げていたからだ。ソ連は57年に世界初の人工衛星の打ち上げに成功。宇宙の基本技術は軍事と共通点が多く、米国は焦燥感をつのらせた。

 人類初の宇宙飛行もソ連のガガーリン飛行士が61年に成功。米国も1カ月後に続いたが15分間の弾道飛行にとどまり、地球を2時間周回したソ連に対し、劣勢が鮮明になった。

 米国が逆転するには人類史に残る巨大計画を実現するしかない。そこでケネディ大統領は、有人月面着陸を60年代に実現すると宣言。国民を鼓舞し、アポロ計画が事実上始まった。

 宇宙探査に詳しい会津大の寺薗淳也准教授は「アポロは科学より、国同士の対決という政治の産物。冷戦がなければなかった」と指摘する。

疑心悪鬼…が奏功

 「アポロは11号が注目されるが、実は8号の時点で米国はソ連に勝利していた」。宇宙航空研究開発機構(JAXA)の的川泰宣名誉教授はこう話す。

 ソ連は68年、無人宇宙船にカメを載せて月の上空へ運び、地球に生還させた。有人月飛行にはほど遠い状況だったが、米国はこれを実現目前と解釈。急遽(きゅうきょ)、計画を前倒しして、3カ月後にアポロ8号で人類初の月周回飛行を成功させた。

 アポロの情報を公開した米国に対し、ソ連は秘密主義だった。米国は偵察衛星などを駆使してソ連の動向を探ったが、つかめなかった。「それが疑心暗鬼を生み、皮肉なことにアポロ計画を速く進める結果になった」と的川氏は話す。

 ソ連は米国より先に月面に着陸することを目指して64年に着陸船の開発を決定したが、技術者間の不協和音やロケットの失敗などが相次ぎ、敗北した。

 米国がアポロ計画に投じた予算は、現在の貨幣価値で約16兆円に相当するとみられる総額250億ドル。6回の飛行で12人が月面に降り立った。その直接の成果だけでなく、宇宙や科学技術に対する人々の関心を高めた効果も計り知れない。

「冒険から科学」に転換

 人類の夢を実現した初の月面着陸の約9カ月後、アポロに危機が訪れた。月に向けて飛行していた13号の酸素タンクが爆発。飛行士3人は生存に必要な酸素を失いかねない重大事態に直面したが、地上の管制官と連携して奇跡的な生還を果たし、「成功した失敗」として語り継がれている。

 アポロは当初、20号まで計画されていたが、月面着陸という大目標を達成すると、継続の意義が問われるようになった。

 的川氏は「米国民の関心がベトナム戦争や福祉の充実に移る中で、NASAはアポロの存続を懸け、冒険ではなく月の科学を重視していった」と話す。

 15号で月面車を初めて使用し、飛行士の移動範囲が飛躍的に拡大。科学探査の色合いを鮮明にした。16号では月の成り立ちを探る上で重要な古い石が採れる高地に初めて着陸。17号では地質学者が月面に降り、過去最多の石を採取した。6回の着陸で採取した石は計384キロにのぼった。

 膨大な費用がネックとなり、アポロが72年の17号で打ち切られた後、米ソは歩み寄りを始める。75年、両国の有人宇宙船が地球の周回軌道上でドッキングし、共同で実験を実施。ソ連崩壊後の95年には米スペースシャトルがロシアの宇宙ステーション「ミール」を訪ねた。

 こうした展開が今日、米露や日本など15カ国が協力して運用するISSの下地となった。(産経より抜粋)

【ロシア深層】宇宙大国、無残な凋落

 ロシアの宇宙船「ソユーズ」による日本人宇宙飛行士の打ち上げや帰還を取材するため、モスクワ郊外の「飛行管制センター」には幾度も足を運んだ。近代的な建物を想像されるかもしれないが、実際には、ソ連時代にタイムスリップしたような、レトロ感たっぷりの低層施設である。

 オペレーション・ルームの大部屋には飛行経路などを映す大画面があるが、かなり旧式だ。暗い廊下を挟んでずらりと執務室が並んでいる内部構造は、ソ連の役所そのものである。ロシアでは一般的なことだが、飛行管制センターでも、トイレの洋式便器に便座は付いていなかった。

 米国の宇宙船「アポロ11号」が月に降りたってから20日で50年を迎える。当時の米国を月に駆り立てたのは、ソ連との熾烈な競争にほかならなかった。

 アポロ11号より10年以上も前の1957年、ソ連は世界初の人工衛星「スプートニク」を打ち上げ、61年にはガガーリンによる初の有人宇宙飛行を行った。冷戦下、宇宙開発で出遅れた米国が、国の威信をかけたのがアポロ計画だった。

 翻って今、再び「宇宙ブーム」が到来している。米国は5年以内に、月の周回軌道に新宇宙ステーションを建設する計画だ。新興勢力の台頭もめざましい。中国は今年1月、無人探査機を世界で初めて月面裏側に着陸させた。今月15日予定の発射は延期となったが、インドも月に無人探査機を送り込もうとしている。

 目立つのはロシアの凋落だ。米科学者団体の昨年11月末時点の集計によると、宇宙空間で稼働している人工衛星の数は、米国が849、中国が284で、ロシアは152と水をあけられている。日本は80余りだ。

 米スペースシャトルが2011年に退役し、地球と国際宇宙ステーション(ISS)を飛行士が往復する手段はソユーズだけとなった。ロシアはこのソ連時代の「遺産」で存在感を保ってきたが、独壇場は終わりに近い。米スペースX社は3月、有人型のドラゴン宇宙船を発射し、ISSとのドッキングや帰還を成功させた。米ボーイング社も有人宇宙船を開発中だ。

 安定感を誇ったソユーズだが、昨年8月には、ISSに接続したソユーズの穴が原因でISSの気圧低下が発生。地上作業での過失による穴だった。10月にはソユーズ発射直後に異常が生じ、米露の飛行士が緊急カプセルで脱出した。

 ロシアは12年から、将来の新型ロケット発射も見据え、極東で「ボストーチヌイ宇宙基地」を建設している。だが、給与未払いによる労働者のストライキが度重なり、100億ルーブル(約172億円)の不適切支出が発覚するなど醜聞続きだ。工期は大幅に遅れている。

 ロシアではソ連崩壊後の1990年代、国家資金が宇宙分野に回らず、人材が大量に流出した。その後も、国家機関と国営企業による非効率で不透明な宇宙事業運営が続き、現場の士気低下が著しい。2014年のクリミア併合以降は、ウクライナや欧米諸国との関係悪化でロケットや衛星の部品調達にも影響が出ている。

 米国同様に民間活力を導入し、国際協調路線に復帰せねば活路は開けない。専門家にはそんな意見が根強いが、プーチン露政権が耳を傾ける様子はない。(産経より抜粋)

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      東京五輪でわかる世界の国名の現地での呼び方


           2019年07月13日 06:00 八幡 和郎



後者は地名の本でなく、国家の盛衰と現代の国家ができるまでの経緯についてのものだが、国名についての記述も含む。とくに、巻末には現在存在する世界の200国について、英語、フランス語、現地語、中国語(日本式と現代中国式の字体とローマ字)、現地語のカタカナでの読み方を一覧表にした。


かなり、便利な資料になっていると思う。とくにオリンピックを楽しむのに向いている。というのは、世界の国々の問題にとくに興味をもったのは、アテネ五輪がきっかけだからだ。開催国ギリシャの入場のときのアナウンスは、「グレース、グリース、エラーダ」だった。

オリンピックで伝統的にフランス語が優先されるのは、NHK大河ドラマ「いだてん」でも描かれているが、現在でも仏英2か国語が公式用語だが、フランス語優先であるので、メダルの授与式などでもフランス語も使われる。

しかし、私が驚いたのは、ギリシャ語がエラーダだったことだ。英語がグリースなのに、日本語でギリシャなのは、ギリシャ語かと漠然と思っていたら違うと分かった。それでは、どこかといえば、ポルトガル語のグレーシアスが語源だとわかった。イギリスもポルトガル語起源だ。

それから、世界各国語、とくに現地語でどういうか興味をもって追いかけてきた成果だ。とくに、ギリシャというだけでなくギリシャ共和国という共和国の部分も現地語、それもカタカナで書いてある。ちなみに、ギリシャ共和国はエレヌィキ・ディモクラティアだ。

ほかにも興味深い例はいろいろあるので、雑学的に10の例を紹介しよう。

.┘献廛箸榔儻譴皀侫薀鵐晃譴眛韻犬世、アラブ語ではミスルという。インドもバーラトで語源が違う。

日本は英語ではジャパンだが、これは、日本がなまったもので、チャイナと中国では語源が違うのは別だ。

4攅颪榔儻譴任魯灰螢△妊侫薀鵐晃譴任魯灰譟爾世、頭文字が英語ではKだが、フランス語ではCとなり、日本語のアルファベットでの順序が逆転する。

ぢ膣斂厩颪板鮮民主主義人民共和国では、民国も共和国もいずれもリパブリックで民国は中国語起源、共和国は日本語起源だ。

ゥ罐淵ぅ謄奪匹任皀▲瓮螢合衆国は、フランス語でエタジュニ、イギリス連合王国はロワヨーム・ユニ。

γ羚颪任魯侫薀鵐垢肇疋ぅ弔鯔々顱F噌颪箸いΑアメリカも美国。

Д献隋璽献△魯蹈轡語のグルジアから英語読みに国際的呼称を変えたが、ジョージア語ではサカルトベロ。

┘疋ぅ弔箸いΔ里魯疋ぅ銚譴任覆オランダ語。ドイツ語はドイッチュランド、英語はジャーマニー、フランス語はアルマーニュ。

スイスはフランス語のシュイースか?ドイツ語ではシュバイツだが、コインはラテン語でヘルベティア。

ハンガリーは現地語ではマジャロサーク。フン族がまず侵入しついでマジャール族が来たため。(アゴラより抜粋)


ベルサイユ体制でいくつ国があった?満州国は?

2019年07月15日 06:00 八幡 和郎

『消えた国家の謎』(イースト新書)は、個々の国の過去だけでなく、ある時代において世界にどんな国があったかを横断的に俯瞰している。

ここでは、第一次世界大戦のあとのベルサイユ体制のもとでの世界がどんなものだったかを眺めてみたい。

第1次世界大戦は、1914年に開戦して1918年の11月11日に休戦し、翌年の6月28日にドイツと連合国のあいだでベルサイユ講和条約が締結。ドイツ以外の国とは、サン=ジェルマン条約がオーストリア共和国、トリアノン条約がハンガリー王国、ヌイイ条約がブルガリア王国、セーブル条約がオスマン帝国とそれぞれ結ばれた。

こうした諸条約と、国際連盟の発足の結果としてできたのが「ベルサイユ体制」と呼ばれる。

このベルサイユ体制で創立された国際連盟に1920年の発足時に参加していたのは48か国。

ただし、インド帝国は独立国とはいえない。イギリスの植民地で、イギリス国王が「インド帝国皇帝」を兼ねていた。インド兵が第1次世界大戦で大活躍したこともあり、イギリス外務省が各国を強引に説得して、ベルサイユ条約にも署名し、国際連盟の原加盟国になったが、これを普通には独立国とはいえまない。

自治権はあるが国というベきか微妙なのは、イギリス領のカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカだった。

また、オーストラリアがニューギニアを、南アフリカが南西アフリカを、ニュージーランドが西サモアを国際連盟の委任統治領として与えられた。国かどうか微妙なのに植民地を持つようになったわけだ。

残りの原加盟国は、43か国だが、そのうち、チェコスロバキアはオーストリア・ハンガリー二重帝国の解体の過程で、オーストリア側だったチェコとハンガリー側だったスロバキアが一緒になって設立した。

ユーゴスラビアは、セルビア王国が中心となって1918年にスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国を結成し、のちにユーゴスラビアと改称した。

フィンランドとポーランドはロシア領だったのですが、革命のあとの騒乱のなかで独立を手にした。

このとき、港湾都市であるダンツィヒ(ポーランド語名はグダンスク)は、国際連盟保護下の「自由都市ダンツィヒ」となって、外交はポーランドが握った。このため、東プロイセン地域はドイツ本土と分断され飛び地になった。

それでは、独立国であるにもかかわらず、国際連盟の原加盟国とならなかった国は、どんなところか。

アメリカ合衆国は、ウィルソン大統領が国際連盟を提案しておきながら、上院の批准が得られず、最後まで国際連盟には参加しなかった。

戦前から独立国だったもので、のちに遅れて加盟した国は、ドミニカ共和国、ドイツ、メキシコ、トルコ(オスマン帝国を継承)、ソ連(ロシアを継承)、エクアドル、アビシニア(エチオピア)だ。

オーストリア・ハンガリー二重帝国は、もともと、オーストリア部分(神聖ローマ帝国の領域)とハンガリー王国に分かれていた。オーストリアとハンガリーの君主が婚姻の結果、同じハプスブルク家になった同君連合だったからだ。

ハンガリーは、1920年に王が不在のままハンガリー王国の成立を宣言し、トリアノン条約によって面積で72%、人口で64%を失う一方、ハンガリー民族の半数ほどがハンガリー国外に取り残されてしまった国際連盟には1922年に加盟した。

トルコ共和国はいちおうオスマン帝国の継承国家だが、性格はまったく違う。

エチオピアのことを西洋人はアビシニアと呼んでいた。1923年に国際連盟にも加盟した。

そのほか、ブータン、ネパール、アイスランド、アンドラ、リヒテンシュタイン、モナコ、サンマリノといった小国群も戦前からあったが、最後まで国際連盟には加盟しなかった。

ベルサイユ体制の構築過程で生まれ、少し遅れて国際連盟に加盟したのが、リトアニア、ラトビア、エストニアのバルト三国だ。この三国は、ロシア革命ののち1918年に独立を宣言し、1921年に国際連盟に加盟した。

アフガニスタンは、南部カンダハル(語源としてはアレキサンドリアと同じ)から出たパシュトゥーン人が1747年にイランから独立した。1880年にイギリスの保護国となり、第1次世界大戦後の1919年に独立し、1934年に国際連盟にも加入した。

オスマン帝国のうち中東地域では、イエメンが独立、メッカの支配者であるフセインが「アラビアのロレンス」の後押しでアラビア半島の西部を支配するヒジャーズ王国を建国しカリフまで名乗ったが、サウジアラビアとの内戦に敗れて消えた。

ということで、ベルサイユ体制の下での国の数を数えると、国際連盟原加盟国のうちインド帝国を除いた47、それ以外で戦前からあった17か国、新しい独立国が5か国という計算にすると、69か国ということになる。

ベルサイユ体制確立のときと、第2次世界大戦のあいだにもいくつかの国ができてはいる。そのなかに満州国がある。満洲国について、認めていたのは日本だけだという人がいるが、それは独立当初のことだ。最終的には、当時世界にあった国の3分の1ほどから承認された。また、ソ連とも実務関係は結んでいた。

1932年に建国され、1934年には宣統帝溥儀が皇帝になったが、日本の敗戦で中国に戻った。宣統帝の即位以降は、「満州国」と「満洲帝国」が併用された。

中国とその周辺では、モンゴルは、辛亥革命を受けて中国から独立宣言し、チベット仏教の指導者で、ダライラマの同じように「転生」によって継承されたジェプツンダンバ・ホトクト8世(ボグド・ハーン)が皇帝となり、その1924年の死後になって、モンゴル人民共和国の建国が宣言された。

戦後になって、北京政府はソ連との友好関係のためにこの独立を認めたのだが、国連での代表権を持っていた台北の国民政府はかたくなにみとめず、このために、国連加盟が認められたのは、1961年だ。

また、中国の新疆ウイグル自治区では、二度にわたって東トルキスタン政府が組織されたが、独立を果たせなかった。チベットは、宗教国家として普通の国とは違う性格で、中国とチベットの関係は、中世ヨーロッパにおける神聖ローマ帝国とローマ教皇や教皇領の関係にいちばん似たものだ。(アゴラより抜粋)

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  英高速鉄道の車両公開 3万5000人詰めかけ 山口 2019年7月14日 18時25分


イギリスの高速鉄道を走る長さ25メートルの車両を工場から港まで運ぶ様子が山口県下松市で公開され、およそ3万5000人が詰めかけました。




この車両は、イギリスの高速鉄道を走る「Class800」の先頭の2両で、山口県下松市にある日立製作所の工場で製造されました。

1両あたり長さが25メートル、幅が2.7メートルあり、時速およそ200キロで走行しますが、非電化区間でも搭載したディーゼルエンジンで発電して走行できます。

工場では今回の陸上輸送の弘中善昭実行委員長が「ここ下松は鉄道産業の町です。日本全国に名を知らしめたい」とあいさつしました。

そして車両が1両ずつ大型のトレーラーでおよそ50分かけて工場から2キロ離れた港のふ頭まで運ばれました。

沿道には鉄道ファンなどおよそ3万5000人が詰めかけ、一斉にカメラなどを向けて写真を撮っていました。

車両は今後、船でイギリスまで運ばれ整備や試験走行などが行われる予定だということです。

神奈川県から訪れた男性は「日本の技術が異国の地で活躍するのは魅力的です。2週間後にイギリスに行ってこの車両と同じ車両に乗る予定ですが、車内のサービスが楽しみです」と話していました。(NHKより抜粋)



キューバ 中国製鉄道車両が運行 中ロが影響力強化 2019年7月14日 17時20分



カリブ海のキューバでは、中国が製造した鉄道車両の運行が島を横断する鉄道路線で始まりました。アメリカのトランプ政権がキューバへの圧力を強める中、中国やロシアが鉄道などの社会基盤の整備を通じて影響力を強めています。





キューバ共産党の機関紙「グランマ」によりますと13日、島を横断する鉄道路線で、中国製の12両編成の車両の運行が始まりました。

車両は、5月に中国から到着した80両のうちの一部で、青色の車体に3本の白い線が入っていて、一等車には冷房設備があります。

早速、大きな荷物を持った市民が次々と車両に乗り込み、乗客の一人は「これまでの車両と全く違います。より快適できれいです」と喜びいっぱいに話していました。

キューバの鉄道は、1837年にサトウキビの運搬用として開通し、長年にわたり安価な交通手段として広く利用されてきましたが、厳しい財政状況のもと、老朽化が課題となっていました。

今回の契約はキューバ政府と中国の国有企業とのあいだで結ばれ、最終的には200両以上の車両が届くということです。

キューバをめぐっては、ロシアも機関車や新たな通信システムの提供など10億ドル規模の事業を進めることで合意していて、アメリカのトランプ政権が、ベネズエラとの密接な関係などを理由にキューバへの圧力を強める中、中ロ両国がキューバへの影響力を強めています。(NHKより抜粋)

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  フランス南部ニース 86人犠牲のテロから3年 追悼式典 2019年7月15日 0時39分



フランス南部で花火の見物客に大型トラックが突っ込み、86人が死亡したテロ事件から3年となった14日、現場近くで追悼式典が行われ、参加した人たちは残虐なテロに屈しない姿勢を新たにしました。




3年前の7月、フランス南部のニースで、チュニジア人の男が運転する大型トラックが、革命記念日の花火の見物客が集まる遊歩道に突っ込み、市民や観光客86人が死亡するテロ事件がおきました。

テロ事件から3年となった14日、現場近くで、犠牲になった人たちを追悼する式典が行われました。

式典では、亡くなった人たち一人ひとりの名前が読み上げられ、参加した人たちは慰霊碑に白いバラの花をささげ、哀悼の意を表すとともに、残虐なテロに屈しない姿勢を新たにしていました。

フランスでは、2015年に過激派組織IS=イスラミックステートのメンバーらがパリのコンサートホールなどを次々と襲撃して130人が犠牲になった同時テロ事件が起き、その後も過激な思想を持つ人物によるテロやテロ未遂事件が後を絶ちません。

フランス政府が過激な思想を持っているとして監視の対象にしている人物は全国で今も2万人以上いて、テロをいかに未然に防いでいけるのか、大きな課題になっています。(NHKより抜粋)



首都直下地震後の生活 疑似体験で考えるイベント 2019年7月15日 19時15分

首都直下地震が発生したあとどのように生活を送り復興に向かっていけばいいのか、なかなかイメージしにくい被災後の生活を被災7日後、3か月後などと3つのフェーズに分けて疑似体験しながら考えるイベントが15日まで東京で開かれました。




東京 小金井市の公園で15日までの3日間にわたって開かれたイベントは防災の専門家や自治体の職員などでつくる実行委員会が企画し、親子連れや学生など100人ほどが参加しました。

地震発生時にどう身を守り避難するか考える訓練は各地で行われていますが、今回のイベントはその後に直面する「避難生活」や「仮設住宅」「復興」など、これまでイメージしにくかった課題を考えることがテーマになっています。

地震のあとにどう生き延びるかが重要で、イベントの参加者たちは被災7日後、3か月後、3年後と3つのフェーズを追って考えていきました。

参加者たちは3日間、避難所に入れないことを想定したテント生活を送りながら避難生活での衛生管理や不足する仮設住宅、復興の在り方など、直面する課題について専門家のアドバイスを受けながら疑似体験したり話し合ったりしていました。

イベントを主催した都市防災が専門の首都大学東京 中林一樹名誉教授は「これまでの防災訓練は地震直後の2、3日後を考えていたが、被災した人にとってはそのあとが大変で、避難所も仮設住宅も大幅に足りなくなることが予想される。深刻な課題を知ってもらったうえで、自宅が被災しないために耐震補強を進めるとともに、どういう備えや復興の在り方があるか考えてもらいたい」と話していました。


首都直下地震とは

首都直下地震は今後30年以内に70%の確率で起きると予測されているマグニチュード7程度の大地震です。

東京都心南部の直下でマグニチュード7.3の大地震が起きた場合、東京の江戸川区と江東区で震度7、東京、千葉、埼玉、神奈川の4つの都県で震度6強の揺れに襲われると想定されています。


被災7日後 避難生活が課題

首都直下地震が発生してから7日後。

自宅が壊れて住めなくなり、停電や断水などが続いているため、多くの人が避難所などで生活を送ることになります。

国の想定では、地震から2週間後には揺れの強かった関東南部を中心におよそ720万人の避難者が発生、このうち避難所で生活する人の数は290万人に上るとされています。

これは最大で45万人以上が避難所などでの生活を送った東日本大震災での数を大きく上回ります。

避難所には大勢の避難者が押し寄せ、特に都心では収容しきれない避難所も出て、空き地や公園などで避難生活を送らなければならない可能性があります。


イベントではテント生活も

こうした事態を想定して、今回のイベントでは参加者たちが公園の広場に持ち寄ったテントを張って生活をしました。

参加者たちは避難所としてのテント村を運営する方法について話し合い、寝る場所と食事をする場所を分けたほうがいいとか、子どもが遊べる場所を設けたほうがいいなどアイデアを出しあっていました。

また、この日は雨が降っていたため、テントが浸水しないようにテントの下にベニヤ板を敷いたり、熱中症にならないようにテントの四方を仕切る布を風通しのよいメッシュ生地のものに変えたりして少しでも過ごしやすくなるよう工夫していました。

3年前の熊本地震の被災地では、実際に避難所としてのテント村が設けられ、雨漏りや熱中症対策が課題となっていました。

6歳の娘と一緒に参加した40代の女性は「実際に避難生活を送ることになったら雨が降ることもあると思うのでいい経験です。テント生活は初めてなので、災害が起きたときに備えて子どもにも少し慣れておいてほしいです」と話していました。


被災3か月後 住まい確保が課題

首都直下地震で被災してから3か月後。

大きな課題は、自宅が壊れて住めなくなった人たちが次の住まいをどう確保するかです。

このころには、徐々に建設されるプレハブや木造の仮設住宅のほか、被害を受けなかった民間の賃貸住宅の空き部屋といった「みなし仮設」などへの被災者の入居が始まっているころです。

国の被害想定では、最悪の場合、都内で189万戸余りの住宅が全半壊し、およそ57万戸の仮設住宅が必要になるとしています。

しかし、仮設住宅を建設できる土地が少ないほか、都内の賃貸住宅の家賃相場が高いために使える物件が限られるため、仮設住宅がおよそ18万戸不足するという専門家の指摘もあります。


イベントで住まいを議論

今回のイベントには仮設住宅に詳しい専門家たちも加わっていて、参加者に対して「仮設住宅に入れない事態が起こりうる」などと話していました。

このあと参加者たちは自分たちが仮設住宅に入れなかった場合どうすべきか話し合い、東京の郊外や東京以外の県へ移住する、広域避難をしたほうがいいとか、自力で資材を集めて仮住まいする簡易的な家を建てたほうがいいといった意見が出ていました。

参加した40代の女性は「住まいを見つけられなかったら、子どもも小さく遠くに頼れる親戚もいないので正直どうしたらいいか分からず不安です。自宅が壊れないように耐震補強をきちんとしておかないといけないなと思いました」と話していました。


子どもストレス配慮の取り組みも

ふだんの環境と大きく異なる避難所や仮設住宅での生活が長期間続いている場合、子どもたちのストレスも懸念されます。

イベント会場に設置された仮設住宅をイメージしたプレハブ小屋では、被災地で子どもたちを支援している団体が遊び場となる空間を作り、十分な遊び道具がなくても楽しめるゲームを子どもたちに教えていました。

団体の代表を務める男性は「子どもたちは災害など衝撃の強い経験をすると、なかなか心の整理ができなくなる。遊びを通して疲れた心をときほぐすことができるので、遊び場を作ることは大事だと思う」と話していました。


被災3年後 まちの復興課題

首都直下地震、被災から3年後。

自宅を失って一時は遠くに避難していても、再び住民が戻ってきたくなるような魅力的な街に復興できるかが課題です。


東日本大震災など復興の課題を説明

イベントでは東日本大震災や熊本地震の被災地でまちの復興にかかわった専門家やNPO団体の人たちが復興の課題について参加者たちに話しました。

行政や住民がまちの復興について十分な議論を行わなかった被災地では、住民の望むまちの姿とはかけ離れてしまい、住民が戻らなくなってしまった事例も紹介されました。


3年後の復興の姿を考える

被災地の復興の課題について聞いた参加者たちは自分たちが目指す被災3年後の復興の姿について話し合いました。

そして最終日の15日は参加者たちが自分たちが目指す被災3年後の復興の姿について発表し合い、住民みんなが戻ってきたいと思えるようなまちにするために、ふだんから地域でイベントを開くなど世代を超えたつながりを強くする必要があることなどを訴えました。

30代の男性は「まちの復興は被災者自身が中心になってやっていくものなんだと感じました。ふだんから地域の人とコミュニケーションをとって災害にあったら地域として復興に向けてどうするかということも一緒に考えていく必要があると思いました」と話していました。


参加した人たちは

東京 墨田区から7歳の息子と参加した伊藤英司さんは、ふだんの防災訓練にも参加していますが、避難や応急手当てが中心で、その後の生活については具体的に考える機会がなかったということです。

そのうえで伊藤さんは「被災生活を体験することで、日頃から復興までの取り組みについて地域ぐるみで考えないといけないと思いました。また、避難生活では子どもが遊べる場所を作ることが重要だと気付きました。そういう場所があることで、子どもたちは安心した生活を送れるんだなと強く感じました」と話していました。


首都圏以外の参加者も

静岡県下田市から6歳の娘と参加した加藤章子さんは、南海トラフの地震などで被災するおそれもあることから、イベントに興味を持ちイベントに参加しました。

加藤さんは「テントでの生活は、雨漏りや熱中症対策など実際の避難生活でも出てくる課題が身にしみて分かり、すごくいい経験になりました。避難生活から復興にかけての被災後の生活を具体的にイメージできたので、今後は、自分は何を備えておくべきなのか、地域で考えていきたいです。災害にあったら自分だけでは復興できないので、地域の人とのつながりを強くしようと改めて感じました」と話していました。(NHKより抜粋)

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「核合意離脱はオバマ前大統領への反感から」前大使報告か 2019年7月15日 0時18分

イギリスの大衆紙「メール・オン・サンデー」は、トランプ大統領を「無能」と酷評していたことが暴露され、辞任した前駐米イギリス大使が、在任中の去年、トランプ政権がイラン核合意から離脱したのはオバマ前大統領への反感からだ、と本国に報告していたと伝えました。




ワシントン駐在のイギリスのダロック前大使は、本国に送った公電の中でトランプ政権を「無能だ」などと酷評していたことが報じられ、先週、辞任に追い込まれました。

この公電を暴露した「メール・オン・サンデー」は14日、アメリカがイラン核合意からの離脱を表明する直前の去年5月、当時のジョンソン外相が訪米した際に書かれたとする公電の内容を再び報じました。

この中で前大使は、トランプ政権による核合意からの離脱について、「外交的な破壊行為で、理由は、オバマ前大統領が取りまとめた合意だ、という個人的な思いにすぎない」と分析したとしています。さらに、「離脱後の戦略や代案がなく、ヨーロッパ各国に相談する気もない」とトランプ政権を批判しています。

公電の漏えいについて、イギリスでは懸念が広がり、ロンドン警視庁が捜査に乗り出すとともに、漏えいされた情報を報道すれば処罰を受けるおそれがあると警告しています。

一方で、こうした動きは「報道の自由」に反するという批判もあり、メイ首相の後任を選ぶ党首選を戦っているハント外相とジョンソン前外相がともに「報道の自由」を守ると約束するなど、波紋が広がっています。(NHKより抜粋)

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