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仏教は文字による経典の研究が盛んなため、どうしても左脳的な認識論がとっつきやすく、心のエネルギーとか感触とかの研究がおろそかになってきました
特に明治以降は、仏教研究といえば文献学のことで、それ以外は仏教学ではないってことになってしまってる
ですが、最近はやりのヒーリングって概念は、説明するのに、どうしても心にエネルギーがあることを言わないと、現実に病気が治ることを説明できません
「世界のすべては、意味のある響きでできている」ということが書いてあります
もとの論文が難解なので、簡単に説明することなど出来ないのですが、おおざっぱに説明すると
弘法大師は大日経などの密教経典を根拠にして、果分可説といって、悟りの世界を言語で説明できるという立場をとっています
これに対し、普通の仏教徒の立場は、果分不可説といって、悟りの世界は言葉では説明できないという立場です
言葉というのは、英語もあれば中国語もありサンスクリット語もあり日本語もありで、これが長い歴史のなかで変化していっています
一つのことを言うのも、内容がちょっとづつ違うかもしれないし、暑いとか寒いと言っても、当然のことながら、暑さそのもの、寒さそのものでもありません
つまり、言葉は真実を説明しようとはするのですが、どこまでも真実そのものにはなりません(果分不可説)
それを、弘法大師は真言は真実そのものを説く、と言って、「法身は説法」するとしています(果分可説)
宇宙そのものが語る言葉が真言だとしています
五大にみな響きあり
十界に言語を具す
六塵ことごとく文字なり
法身はこれ実相なり 弘法大師
地水火風空の世界の構成要素(五大)はみな波動(響き)をもっている
仏、菩薩、縁覚、声聞、天、人、阿修羅、畜生、餓鬼、地獄の世界(十界)すべては、意味のある波動(言語)をもっている
眼耳鼻舌身意で感じる事(六塵)すべてが、世界そのものが直接語った言葉(文字)である
その言葉を語りかけてくる存在(法身)が真実そのもの(実相)である
地水火風空というのは、お墓などにある五輪搭で表されたりしますけれど、物理学で言うところの原子とか中性子とかにあたる、世界の根本的な構成要素のことを密教的に言ったものです
それが、響き、つまり波動だと
波動なんですが、言語になっている、つまり「意味のある波動」である
仏も神様も人間も動物も霊魂も波動ということ
で、それを感覚器官で感じるってことは、「意味有る波動」を、色とか音とかを心で感じていて、つまり色や音は文字に相当する
世界そのものが心に語りかけてきている
と言う意味になるかな
弘法大師の場合は、真言つまりマントラを唱えるとき、それは仏が語りかけるときに使う言葉を唱えているんだという点を強調する為に、こういうことを書いたわけですが、今風に解釈すれば、世界のすべてを「意味のある波動」で説明できるということにもなる
ただ、単なる波動ではなくて、心に語りかけてくる「意味のある波動」というところがミソでしょうね
世界は、「意味のある波動」であり、自分に向けられたメッセージだとね
ということで、わかりにくい説明で恐縮ですが
心も物質も、あなたも私も、おんなじ「意味のある波動」だということです
つまりそれが「声」で、感覚器官で感じれば「字」です
そんでもって「声字」は実相だと
だから、拝んで病気が治るし、手術でも薬でも病気は治る
手かざしだろうが遠隔だろうが、波動はつながる、ということで説明がつくってことです
「声」つまり「意味のある波動」は各人の感覚器官の内側にはなくて、感じられる前の「存在そのもの」ということになります
感じとられた「字」は各人の中にあって、相対的であり、幻想でもあります
「意味のある波動」は各人各様の我執からはなれて存在し、見る前の色、聞こえる前の音、感じられる前の感触です
つまり「意味のある波動」は時間も空間もない、悟りの世界そのものです
弘法大師の声字実相義では、声と字が実相ということになってますが、この場合の声字は、物理的には測定不可能です
ところで
愛とか怒りとか、文字を張り付けると。水の結晶が変わるという現象なんですが
水に影響を及ぼす、心の波動を、測定したという話は無いようですね
石の波動、とか簡単に言う人もあるようですが、まあ、測定できないのですから、波動かどうかわからんのが実体です
心のエネルギー、などという表現も似たようなもので、どんな計測器で測定するんでしょうね
各自の主観で、有る無し、強弱を勝手に決めているんじゃないですか
パワースポットという言葉も同類ですよ
主観的な「印象」を、あたかも客観的に比較可能な「現象」にすり替えているんじゃないですか
あちこちの神社や寺などを、凄いパワーがあると言う人もいれば、エネルギーが感じられないという人もいたり、勝手なもんです
主観を客観に見せかけるのに、悪意が有っても無くても、この二つは違うんだから混同してはいけません
波動、パワー、エネルギーなど、あたかも客観性があるかのような言葉を精神世界に持ち込むのは、使い方によっては、かなり、下劣な行為だという自覚をどうぞお持ちください
「感触」「愛」「素晴らしい」、など、個人的な感覚なのであって、それ以上でもそれ以下でもありません
僕は、パワーストーンなど、文学の範囲じゃないかと考えてますけどね
それで、スピリチュアルな人達が安易に「波動」というのは賛成しません
なんにもなくても、胡散臭く見られてるのに、なにがどう「波」で、それがどう「動く」のか、わかってもいないのに、「波動」だと断言するのは、まあ、良く言って、幼稚です
波動が高い
波動が低い
波動が良い
波動が悪い
波動がある
波動がない
これなど、ほんとうに、主観的なものなんですよ
僕は、その主観も無い、などとは言いません
霊感のある人(僕に言わせれば、感覚が比較的するどい人)は、たとえば「波動」で表現するような感覚を持つことがあります
その程度の感覚なら、僕にもあります
ただ、それを他人にあてはめる客観的な事実と混同してはいけません
感覚は感覚なんであって、個人的なものなんです
似たような感覚を持つことはあると思います
友人とか地域、あるいは国で
だからと言って、自分の感覚を誰にでも通用する事実として強要はできないでしょう
「波動」を感じるとか簡単に言いますが、額にジーっとしたチリチリ感を感じているのか、指で押すような圧迫を感じているのか、体全体に風が吹いてきているような輻射を感じているのか、様々なわけです
それでも「波動」という言葉にすると、まるで、計器で測定出来るような客観的な事実として解釈することも出来てしまいます
感触は、再現性や客観的な測定が難しいので、科学の対象としてそもそも不向きです
音楽や絵の感動を、科学的に解明するなど、まあ、する人は無いです
ところが
「この石の波動は、あなたを慰め癒します」
「よい波動の人の回りには幸運が多い」
「いい波動の音楽」
とか、どこにでも通じる事実のように「波動」を一人歩きさせる事ができます
エネルギー、パワーなども同じです
「宇宙のエネルギーを、あなたを通じて流します」
「この神様はパワーが強いので御利益がある」
など
主観的な感覚が、言葉によって、あたかも独立して存在する事実になって、他人に通用する力として扱えることになってしまいます
こういうのを、「広義の魔術」と言うこともできます
たとえば、冗談ではなくて、「教祖様のよい波動のDNAを頂戴すると、波動が体に取り入れられて福を授かる」、なんてカルトはいくらでもあります
(DNAは、まあ、精液とか爪の垢とかです)
やはり、「法身は説法」する、なのであって
自分の「心に語りかける響き」、を、誰にでも通じる「振動」と混同しちゃいけません
心が繋がって、心が響き合う、ということなんです
ぐっとわかりにくく言うと、空である法界の重々無尽縁起を比喩的に響きに見たてて表現したのが声字実相だということですね
心の波動も、ですから、心が通じて繋がらなければ成り立たないんですよ
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