仏菩薩を尊敬し なのですが、悪い奴もいれば、話の通じないヤカラや、確信犯など、敵意と悪意に満ち満ちているのが世の現実です 仏性など無い奴もいるのではないかとさえ思えるのです、が つまりは、目に見える前の、感じる前の世界には、一切のエゴイズムはありません それでいて、静かに均衡を保っています それを「寂にして照らす」とも表現します 空、法界、本覚、神力、仏性、真如、大慈悲、などなど、感じられる前の世界の属性の一部を取り出して言葉で表現したにすぎません 見る前の世界だから、数を数えることはできませんから、一でも多でもなく 感じる前の世界だから、同じでも違うでもなく 来るでも行くでもなく 有るでも無いでもなく 好きでも嫌いでもなく 善でも悪でもなく 正しいでも間違いでもなく 表でも裏でもなく 楽でも苦でもなく 愛でも憎しみでもなく
戦争も平和もなく 損も得もなく 生も死もなく 生じるでも滅するでもなく
増すでも減るでもなく
綺麗でも汚いでもなく
均衡を保ち続けています その感じる前の世界を、感覚器官を通じて脳内に再構成して、今、我々は生きています 今、パッと眼をつぶっても、眼の前のモニターはそこにあります
眼を開いたら、モニターの姿が脳内に構成されます 眼をつぶった時に、眼の前にあるモニターの姿はわかりませんよね 眼をつぶってるんだから、見てないわけですから でも、眼の前のモニターは、映像を映しています(見てないから、わからないのですが) 見えてないモニターに、何が写っていても、評価のしようがありません 見ることが出来るからこそ、好きとか嫌いとか、評価できます
まあ、当たり前の話なんですけど それで、眼を開いてモニターを見た時に感じることは、各人、千差万別、十人十色、それぞれ違います 意見が一致することもありますが、確認しなければわかりませんよね それを、感じる前の世界を、自分なりに脚色して再構成して感じている、と言うこともできます 歪みもあれば、妄想も、誤解も、間違いも、思い込みも、見落としも、あると 人間には自由がありますから、各自勝手に、脳内世界を構築してるのです 「自分を信じる」と言ったところで、歪んだ脳内世界を信じてもしょうがないのです
ですが、脳内世界を生きるしか、我々には生きる方法がありません各人、今まで受けた教育や、経験、学習などを駆使して、生きていくしかありません 脱線、紛争、いさかい、衝突、誤解など、不可避です たとえば、これから益々複雑化する国際関係を例にとれば 中国、台湾、韓国、北朝鮮、日本は、飛行機で飛べば、2,3時間で行けるところにあります 益々近くはなっても、遠くなることはありません 付き合っていくしかないのです その時、各国は、自国を信じて、国益を追求して諸外国と付き合うしかない で、その、自国を信じるわけですが、自分勝手な妄想を信じてたら、まあ、少なくとも嫌われます 戦争になるかもしれない むしろ、戦争したい奴がいるかもしれない だとしても、自国を信じるしかない いったいどこに活路があるのか? それを、仏教はどのように解決するのか? 法華経の破地獄偈ですが 毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身 まいじさぜねん いがりょうしゅじょう とくにゅうむじょうどう そくじょうじゅぶっしん つねに自ら(お釈迦様が)この念をなす 「何をもってか衆生をして 無上道に入らしめ 速やかに仏身を成就するか」と 毎自というところがポイントです これは、お釈迦様が、つねに、今この時も、自分で自発的に、無上道に導こうと念じている、ということです 「救って欲しい」とお願いされたからでは無い 一方的に無条件に念じている だから、地獄にいて、なにも為すすべが無くても救われる 救われて仏身を成就する ただし お釈迦様が正義のヒーロのスパイダーマンのように現れて、どっこいしょと助けてくれるのとは違います 「無上道に入らしめ」で、道に導くのです 進むのは、自分です まあ、ですから、仏教というのは誤解を招く表現で、仏道が適切ですね 進むのは自分ですが、だからその、ホトケの導きで感じる前の世界の真実に基づいて進むと、、 奇跡的な自然治癒など、無いとは言いませんが、それでも、それなりの養生節制は必要です わかりやすく言うと 一度無心になって、相手の立場に立って考えて、解決策を見出す 自分の都合が、相手から見たらどう見えるか考える なにが「本当の利益」なのか、素直に考える など 冷静な状況判断から、活路を見出す ということでしょうか 落ち着いてよく考える、ということが、仏道の基本である、と それで戦争なら、覚悟を決めて戦うしかないのです まあ、冷静に、どう終わらせるか考える必要はありますが 平和も慈悲も、脳内世界の産物です 感情を離れ、冷静に情勢を分析して、戦う時は戦い、慈悲が必要なら慈悲を行うのです こういうことを書くと、戦争賛美、残酷趣味とうつるかもしれません ですが、僕はチベット仏教の末路を思うのですよ 観念的な平和主義では、残虐な攻撃を避けることができません 楽ではないですが、活路はあります その活路を進むしかないのです |
仏教
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「法身の法界塔婆」というのは、理念として想定されるものです ですから、眼の前に、これは法身の法界塔婆である、と規定されたものが存在すれば、それが「(舎利の)本地である法身の法界塔婆」ということになります ですから、多宝塔や、お墓にある卒塔婆、祈祷札、など、塔の形をしているものは、すべて法界塔婆として礼拝することができることになります 簡単に言えば、木の棒を地面に立てても、砂の山を作っても、それが法界塔婆だと言えば法界塔婆です 密教では、いちおうのけじめをつけるため、開眼作法などをして、一般の塔と法界塔婆を分けます それで、「仏の加持の故に」という部分が必要になってくるわけで、どんな立派な塔であっても、作法どおりに拝んでも、仏の加持がなければ、ただの物質です 「入我我入」というのは、密教の瞑想法のひとつです (ホトケが)我に入り、(ホトケに)我が入る のですが、眼の前の、物質としての塔に我が入ってもしょうがないのです それで、「仏の加持の故に」という一節がなければ、魂が入りません 「加持」は、弘法大師が「加持とは、如来の大悲と衆生の信心とを表す。仏日の影、衆生の心水に現ずるを加といい、行者の心水よく仏日を感ずるを持と名づく」と明確に定義しています 天台も密教ですが、別にこれといった定義はないですから、弘法大師の定義を密教の定説としていいと思います 日の光が水面に映る様子を加持にたとえたのですね で、どうすれば加持が得られるか これ大問題です 仏舎利のお経ですから、ここはお釈迦様の加持の話になるのですが 結論を言えば、一方的に無条件に加持してくれています 法華経如来寿量品の最後の部分に破地獄偈というのがあります これを唱えると地獄も破れるという偈文です 毎自作是念 如何令衆生 得入無上道 速成就仏身 まいじさぜねん いがりょうしゅじょう とくにゅうむじょうどう そくじょうじゅぶっしん つねに自らこの念をなす 何をもってか衆生をして 無上道に入らしめ 速やかに仏身を成就するかと これは、お釈迦様が、つねに、今この時も、自分で自発的に、あなたを無上道に導こうと念じている、ということです 「救って欲しい」とお願いされたからではありません なんの条件もありません 塔を作って礼拝すると、自動的にお釈迦様の加持が得られ、菩提を証する、ということです それで 3.の神力によって、「衆生を利益し、菩提心を発し、菩薩の行を修す」と 密教に三平等観という瞑想法があるのですが 我とホトケと平等 ホトケと衆生と平等 ゆえに、我と衆生と平等 ホトケが我を無条件に加持するのと同じように、ホトケは衆生を加持しています 我<----ホトケ---->衆生 = 我<----神力---->衆生 ですから、塔を礼拝すると、自分ばかりでなく、縁ある衆生にも利益がある、ということになります 4.塔を礼拝することによって「円寂なる平等大智に同入」するので「今まさに頂礼す」ということですね もちろん、一番効果が期待できるのは、本物の仏舎利ですが、法界塔婆を礼拝することで、無条件にお釈迦様の加持を得て、選択的に利益を得ることができます で、これ、どんな利益かというと、お釈迦様からくる神力ですから、お釈迦様の都合なのであって、我々が願っていることとは違います お釈迦様は、我々が「仏身を成就する」ことを願っているのですから、当然、その目的に合った利益になります そこを、勘違いしてる人が多いですね 拝む人に霊能力がある、とか、チャクラとかは関係ありません 無条件に、ホトケからくる神力です 偈文にホトケの力が込められていますから、きちんと拝めば、強力な神力が発動します それで、平安時代から今日にいたるまで、宗派を問わず唱えられてきました なかなか、こうして各宗派で用いられるというのはありません 普遍的な真実がある、ということですね |
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舎利礼 しゃりらい
一心頂礼 万徳円満 釈迦如来 真身舎利 いっしんちょうらい まんとくえんまん しゃかにょらい しんじんしゃり 本地法身 法界塔婆 我等礼敬
ほんぢほっしん ほうかいとうば がとうらいきょう為我現身 入我我入 仏加持故 我証菩提 いがげんしん にゅうががにゅう ぶつかじこ がしょうぼだい 以仏神力 利益衆生 発菩提心 修菩薩行
いぶつじんりき りやくしゅじょう ほつぼだいしん しゅうぼさつぎょう 同入円寂 平等大智 今将頂礼 どうにゅうえんじゃく びょうどうだいち こんじょうちょうらい 真言宗、天台宗、禅宗、浄土宗など、ひろく日本仏教各宗派でつかわれるお経です
短くて、リズムもよく頻繁に唱えられます中国のお坊さんが作ったもので、お釈迦様がこう言ったというのがお経だという厳密な意味では、お経ではなく創作された偈文です 作ったのは諸説あるようですが、「入我我入」「加持」といった密教独特の概念が盛り込まれていますから、不空とするのが妥当でしょう 不空の生まれ変わりが空海ということですから、密教的解釈が正統派ということになりそうです 禅、浄土など、密教意外でも唱えられるのは、比叡山からの密教の流れがあるからでしょう ネットで検索しますと、いろいろな人が、様々な解釈をしているようで、僕も、こういう解釈が本質に近いんじゃないか、という説を書いてみたくなりました お経の解釈は、何十回、何百回と唱えているうちに、自然と会得する部分もありますが、大雑把な意味は知っておく必要がありますので、大まかに意味を書いておくことにします 舎利とは、お釈迦様の遺骨のことです インドのデリー国立博物館にある仏舎利
前のケースに入っているのが、お釈迦様の遺骨で、後ろの丸い形の物がソープストーン製の舎利容器です
実はこれ15年前の画像で、1997年からは、下のように仏舎利だけを綺麗な塔に御祭りして展示しています
このケースはタイからの寄贈品です
中央部分を拡大すると この舎利はネパールのルンビニーの近くのピプラワというところで発掘されたものです 実際の舎利の実物は、こちらと、あとコルタカの博物館にあるらしいです コルタカは何回か行きますが、まだ実物は拝観していません お釈迦様を荼毘にした時の灰も貴重だとされ、パトナ博物館にはバイシャリから発掘されたものが展示されています バイシャリの灰はクシナガラから分けられたものです 仏遺灰と容器 パトナ博物館
こんな感じで展示されています
きわめて厳重に管理されていて、特別に依頼して、責任者に鍵をあけてもらわないと拝観できません 写真は特別な許可をもらって撮影したもので、おそらく写真は日本ではこれだけです お釈迦様の舎利は、アショカ大王によって88000に分骨され、インド全土に塔をたてて御祭りされました その塔をアショカピラーと言い、サールナートにあるアショカピラーの飾りが現在のインドの紋章です http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/55/Emblem_of_India.svg/175px-Emblem_of_India.svg.png
仏舎利を礼拝供養することには絶大な功徳があり、その功徳をインド全土に広めるため88000もの数に分骨して立派な塔を建てて礼拝できるようにしました
その塔は今でもインド全土にかなりの数が残されていますが、実際に仏舎利が確認できた塔は数か所だけです
お釈迦さまへの信仰の歴史の筋道を考えると
実際に生きて説教している釈尊--仏滅--涅槃--経典結集--舎利--舎利塔--塔そのもの--理念としての塔--(大日如来、仏像への信仰など)
具体的なものから、抽象的なものへと変遷していきます
仏滅後もホトケとしての本質が失われないなら、礼拝の対象としてのホトケが求められることになり、それが、舎利への信仰の始まりで、舎利を祭った塔になり、塔そのものになり、理念のしての塔になり、神格化された大日如来になる、と
経典を読誦するだけでは、宗教感情は満たされない、ということですね
仏舎利塔が起源ですから、塔への信仰は、仏像への信仰よりも古くからあります
舎利を拝むとどうして絶大な功徳があるのか、ということが舎利礼に書かれています
四つに分解出来ます
偈文の意味を明らかにするのに、学問的に言えば、サンスクリットとチベット訳を探し出し、比較するのが普通ですが、この舎利礼は元々が漢文ですから漢字の意味を考えることしかできません
「入我我入」「加持」と、密教独特の言葉がある以上は、密教的な解釈をしなければならないのであって、あんまり独創的なのは、わかっているようで、わかっていない、ということになります
「神力」という言葉もありますが、これは、法華経神力品にもある言葉で、大乗仏教全般にある概念です
1.で、お釈迦様の舎利を頂礼する、と言っているのですが、舎利礼は本物の仏舎利がなくても、お墓とか、斎場とか、骨のある場合に使われることが多いです あと、御札の祈祷などにも使われます それは 2.で、舎利が、その本地である法身の法界塔婆に普遍化して、それを礼敬するからです 本地というのは、実体とか本質とかの意味で使われ、密教では本地垂迹説として、日本古来の神様の本体は仏や菩薩であるという意味でも使われます その本地が法身だということなんですが 法身とは 仏陀としての本質が法身(ほっしん) 修行の成果として仏陀となったのが報身(ほうしん) 衆生の願いに応じて現れた釈尊が応身(おうじん) で、同じ仏陀であっても、その性格を、本質・自利・利他と三種類に分けることができるという見方を三身説と言い、その法身ですね 法身が法界塔婆だと定義するのですが、こういうところから、塔婆の開眼や、御札の開眼の時に使われるようになってきたわけです 法界塔婆は、密教的に言えば、大日如来の標識(三摩耶)です 法界塔婆の具体的な形はこうなります 長保寺 国宝 多宝塔
これは代表例で、木札や紙の塔婆は、この塔を簡略化したものです お釈迦様が入滅して、火葬され、骨が残ったのですが、その骨の持つ意味の本質がお釈迦様の意味の不滅の本質であり、それが、時間や空間を超えた概念として抽象化され深化していきます 密教は、お釈迦様の意味を抽出して深化し、仏像や標識や真言として再編成します そのことによって、お釈迦様は普遍化され、時代を超えた存在になります お釈迦様の存在感が感じられるから、密教が必要とされた、ということになると思います ちょっと長くなったので、次回に続きます |
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つまり、仏教は単純なんです ただし、この脳内イメージがですね、暴走することもある、と その暴走を「法界」「本覚」に近づけるのが、不幸や苦厄から離れる道である、ということですね
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弘法大師は両部不二と言って、統一された世界を考えていました ですが言うだけで、どれがそう、という具体的なものは無く、理念だけです その答えが台密の蘇悉地です 密教の理論で、必然的に必要になる答えです 空-->胎蔵 唯識-->金剛界 仏舎利信仰-->蘇悉地 空と唯識は哲学的な基礎で、仏舎利信仰がその二つを統合した信仰形態という考え方です ですから、根本のお釈迦様への信仰です それが、比叡山から発展して、念仏、禅、法華、といった広がりにつながりました 蘇悉地曼荼羅といったものはなく、具体的な作法の総称が蘇悉地です サンスクットを翻訳すると、妙成就で、成就するための方法ですね 僕は、インドで仏舎利を何回か実際に参拝しています デリーのインド博物館にあるのですが、館内も暑いのですよ ですが、舎利の周りだけ、なぜかひんやりと涼しいのです 真言宗は、お釈迦様への信仰が、大師信仰になって、極めて日本的な密教になりました 加持力の根源が弘法大師です 天台の加持力の根源は、お釈迦様です これが、仏教を俯瞰するにはいいのですが、「これだけやってればいいんだ」的な、わかりやすさのない個性になるんですね あれもこれもいいですよ、となります ただ、天台宗が、皇室が最初に公認した宗教になったということには、日本にとって幸せなことだったと思いますよ
天台宗は、沢山の選択肢を持った宗教ですからね |




