|
これが、「経済危機対策」なのか「バラマキ」なのか これから選挙になりますから、一応の関心は集めるでしょう まあ、争点になるかどうかはわかりません ローカルにはローカルの事情があって、まともな言い分だけが評価されるわけでもありませんから 個人的な評価をしますと、株価が世界に先駆て回復の兆しをみせていますし、経済運営は比較的うまくいっているのではないかと思われます あまりにグチャグチャになったしがらみの中で、よくやっているのではないでしょうか もちろん、この先どうなるかわかりませんが、世の中を明るくしようという意図が感じられます ただし、過去の利権政治の土台の上で実施される政策ですから、昔ながらの金権は温存され、無駄遣いもまかり通るのでしょう それでも、世界経済が猛烈なリセッションにみまわれているのですから、すべての理想を求めても無理です どう判断しますかね 生活に直結しますからね ありきたりの結論ですが それを決めるのは、神でも仏でもなく、自分だということですよ その連続が人生です 判断の基準は、自分の中にあるのです でまあ、僕的には、自分を信じるしかない、と、結構つらい結論なのです 「だいじょうぶか、自分・・・」 その不安や孤独が、宗教を生みだしたり、妄想にすがったり、絶望したり、いわば、悪あがきをさせるのです それがまた、悪あがきと言って笑っている場合じゃなくて、悪あがきだろうがなんだろうが、やっていくしかありません 選挙の日は迫っております それで、虚心坦懐、当面の利害得失を捨て、冷静に現実を観察する必要がある、というのが仏教の教訓ではないでしょうか 「リアリスティック」と「インテリジェンス」、ですかねぇ たいていのことは、解決の糸口が見つかるんじゃないでしょうか
|
仏教
[ リスト | 詳細 ]
|
わかりにくい話を、もっと、わかりにくくしてさしあげましょう 遠方の銀河の拡散しつつある速度を観測した結果から逆算して、宇宙は137億年前に凝縮された単一状態からビッグバンしたと考えられています 今のところ、この説を覆す事実は報告されていません 当然に、最も最初の凝縮した状態の時に、なんらかの生命があって、宇宙を観察していたということは確認されていません 仏教式に言えば、観察されなけば世界は存在できませんから、誰かが見守っていたことにしなければ辻褄が合わなくなります ビックバン直前は、少なくとも、脳や感覚器官を備えた生物はいなかったわけで、イメージも実体も無い、ということになってきます・・・ 実は、ポーのユリイカを引用したかったのですが、手元に本が無いのでネットで注文して、届くのを待っていました 去年文庫で再版されたんですねぇ 文庫の表紙の絵は、ポーの本にある挿絵です ビッグバンの図と同じですね ポーは、 原初の事物の原始の単一のなかに、その後のすべての事物の原因がひそみ、同時に、それらすべての不可避的な消滅の萌芽もひそむと、精神と物質が、凝縮された一つの状態から膨張し、それが星雲や星々を生み、臨界点に達すると、また次第に収縮して単一に帰る、いわば、ビックバン宇宙論を説いているのです そして、ただ爆発するのではなく、また収縮し、単一に帰り、爆発と収縮を繰り返すと考えました 神の心臓の鼓動 と、呼んでいます ユリイカが発表されたのが1849年、天文学でビッグバン理論が発表されたのが1927年 ポーは詩的直観だけで、後の天文学で観測される、宇宙の姿を描いてしまっていたのです ポーは詩的な直観でこの宇宙論を書き、 「わたしは死なねばならないのです。ユリイカをなしおえてしまったので、わたしはもう生きてゆく意欲がありません」 と、手紙を書いた3ヶ月後、死去しました 原始粒子が拡散し宇宙が形成され、やがてそれが収縮して すべての創造物は程度の差こそあれ、みな知覚をそなえている。 第一に、自己が自己であることを感得する知覚、第二に、そしてかすかで曖昧な洞察によるものだが、いま問題にしている聖なる存在者、すなわち神との同一性の知覚である。 これら無数の個々の知覚力が・・空に輝く星々もろとも・・一つに融合するまでの長い年月のあいだに、二種類の意識のうち、前者は弱くなり、後者が強くなるものと想像していただきたい。 自己同一性の感覚がしだいに普遍的な意識に融合し・・たとえば、人間はいつのまにか自分を人間であるとは感じなくなり、ついには自分の存在をエホバの存在と同一視するにいたるような輝かしい勝利の時代をむかえるものと想像していただきたい 宇宙が「原始の単一」から始まったとするなら、物質と精神も、単一状態でなければなりません その状態を、「神との同一性の知覚」とするなら、爆発し拡散するにつれ、同一性の知覚は薄れ悪がはびこり、収縮を始めると意識は融合し神に近づく、という理屈です つまり、あなたも私も、収縮してしまえば、一つの神に融合すると 正義にあこがれ、神を求めるのは、収縮する力のせいで、悪があるのは、銀河が拡散しているからだと・・・・いうことらしいのですが・・・ ビッグバンが否定されない限り、「原始の単一」の時、意識はどうなっているのか、答えが必要です はたして、一つの神に融合しているのでしょうか? これですね、般若心経などでは、不生・不滅と説いているわけです 有るでも、無いでもない ですから、イメージを通じて知覚されなければ、世界は存在できないが、世界そのものは、知ろうが知るまいが、おかまいないしに、「有るでも無いでもない状態のまま」だということになるのです まあ、今ですね、パッと目をつぶって、触るのを止めても、ご覧になっているモニターは消えてなくなっているわけではない、と でも、目を開けて、確かめてみなければ、ほんとに目の前にあるかどうかはわからないし、触らなければ持ち上げることもできない、と ですから、ビッグバン直前の、「原始の単一」の時には、いわば、Superpositionだけがあったと ここのところが、どうも言いようがないですが、有るでも無いでもない状態が存在するだけであったということなんです(実体とか、いままで勝手に言ってましたが、天台学で言う、実相ですね。こういう時、仏教語は便利です) なんでしょうね、霊界だけが存在した、とでも言うのでしょうか ただその霊界は自分自身を変化させる方法がないので、自由にイメージを持つことができる生命を必要とした そして、ビッグバンした まあ、神話ですが で、その、Superpositionには数はないので、1=∞でもなんでもありで、無数の神々や未熟な魂達が、一つでありながら別々に存在し(一冊の本に無数の文字が詰め込まれるように)、感覚器官で認識されるのを待っていると ですから、実相には、正邪美醜が詰め込まれているのですよ それを、より善くしていくのが、生きている人間の仕事、ということです ああ、そうそう、ポーですけれど、一神教的な宇宙観ではそうなるが、目をつぶってもモニターが消えてなくならないから、どうも説明しきれてないんじゃないか、ということになりますね
|
|
感じる前の世界は、般若心経で言うところの不生・不滅・不垢・不浄・不増・不減で、「空」であり「無自性」で、無常・無我で、とてつもなく自由です そして、その自由は、我々のイメージにも反映されています で、これ、真っ暗闇の、とことん「無」なのか 無秩序なカオスがあるだけなのか 単純に考えれば、有るでも無いでも、なんでもないんですから、「絶対的虚無」でもいいわけですが・・・ それが、なかなか、そうではないんですねぇ 鍋に水を入れて、ガスコンロの上に置いて、火をつければ、誰でも同じように水を沸かせます 物理的な法則は、万人に当てはまります こちらで、既に書いていることなんですが、仏教が、我々の世界をきちんと説明しているのであれば、物理学上の法則との接点がなければなりません その接点が、量子論です ただ、量子論は実験と観察に基づくのを前提としていますので、人間の心との関係は考えていません それでも コペンハーゲン解釈では、電子の位置は、観察されないと決定できません 観察されるまでは、一個の電子は「ある場所にいる状態」と「別の場所にいる状態」が重なりあっていると考えます 重なりあっている、のを英訳するとSuperpositionとなります エヴェレットの多世界解釈では、観察者の数だけ世界があると考えます。パラレルワールドですね 観察者の存在が重要になってきます その、自然界にある秩序を、「神の創造」としたりするのですが、まあ、神が創り出したにしては、あまりに悲惨なことが多すぎる世の中なのです それで、仏教的には、「イメージを何とかやりくりして間に合わせよう」という発想が原点になります で、歴史的に言うと、タイやミャンマーの上座部仏教、日本から見て言うところの小乗仏教は、それだけでやっていくことになります 大乗仏教では、そんなことしていたら、三大阿僧祇劫かかるとしています それで、仏菩薩の加持、ということになるのです 「劫は1辺1由旬(1由旬は7キロ)の岩を天女が袖で100年に1度さっと払い、石がなくなるまでの年数 阿僧祇は劫の10の59乗倍 無駄だからやめなはれという意味で、三大がつく(^^;)」 チンパンジーがでたらめにタイプライターを打って偶然に源氏物語が書き上がる確率、とでもいいますか イメージを自由放任していても埒があかない、ということを言わんとしているのでしょう いづれにしても、たいへんな苦労をして、イメージを実体に近づけようというわけなのですが、この実体が「絶対的虚無」だとしたら、まあ、全く張り合いがありませんね しかしながら、自然科学は、観察と実験によって、我々の世界が美しい秩序を持っていることを証明しつつあるわけです それがどうした、ということなんですが・・・ 結局 混沌の中の「光」は自分で作り出すもんなんじゃないでしょうか その「光」の中に、やっぱり神々がいるのです 僕らの道の先を歩いている存在ですね イメージにしがみつく、のではなくて、イメージを「光」に向けて書きかえていく 神々の助けは必ずある その「光」を信じるなら信仰だし
信じなくても、「光」を求めない限り、闇の中、です |
|
伊舎那天 紙本著色 桃山(16世紀)長保寺蔵 ヒンドゥーのシヴァ神が仏教にとりいれられた 大自在天とも言う やれやれ、また、わかりにくい話です なぜ、自由意思があるのか 大問題です *イメージと実体が感覚器官を境目に分離している *イメージは感覚器官というフィルターを通して脳に作られるから、必ず実体とは違うものになる *イメージは、脳の数だけ、てんでんばらばら、別個のものになる *イメージだけが実体を知る手段 *脳はイメージを自由に解釈することができる *人間は、自分勝手な解釈に基づいて、自由に行動することができる そうやって行動している人々が、衝突し、傷つくのは、必然と言わざるをえません といって、この分離がなければ、世界は存在できません 自由気儘が無ければ、社会はかなり平穏でしょうけれど、幸か不幸か自由はあるのです で、理屈を言えば イメージの側に自由があるということは、実体にも「実体としての自由」があります それを、仏教で 諸行無常 諸法無我、と言います 「因縁果報という因果関係の連鎖のなかで、どこかで連鎖を凍結して時間を止めれば、なにか固定した存在を定義できますが、実際は、連鎖は止まらず(諸行無常)、粛々と因果が流れていきます(諸法無我) つまり、物事には定まった自性は無い、と考えられます」 あるいは「空」、「無自性」とも言います つまり、なんら、実体にはこれと言った定まった性質がないのですから、「完全な自由」と言い換えることもできます 厳密には自由も不自由もどちらもない、完全な、なんでしょうね、とてつもない自由です ですから、イメージに自由がある、とは、実体が反映されているだけのことです その、自由が衝突すれば、苦痛や悲惨がある、ということですね それで、理論的には、イメージが完全に実体と一致すれば、苦痛は全くありません 涅槃寂静ですね イメージと実体が完全に一致すれば、それが、成仏です それで、仏教的には、苦痛を離れるために、どうしても仏になる(成仏)必要がある、ということになります ところが、イメージは必ず実体と違うものになります 実体と違うイメージ---->実体と一致したイメージ イメージを実体に近づけるように書き換える作業が、自由意思を持つ我々にとって、絶対的に必要だということですね 仏教では、それを、長い長い輪廻の試行錯誤で学ぶとは考えていません 仏の加持によって速やかに成就する、というのが、日本で完成された大乗仏教です ちなみに、キリスト教やイスラムなどは、唯一の絶対的な神が世界を創造した、ということで互いに衝突したりするのですが、一見慈悲深く見える、その地平線が、正統を競って対立せざるを得ないのが一神教の宿命なのです 構造的な問題を孕んでいると言わざるを得ません 僕らは、否応もなく、多神世界に暮らし、自分と社会の折り合いをつけることで苦しんでいます
今の宗派仏教が完璧でないのが残念ですが、いずれ、仏教的な考え方が、それも、日本で完成された大乗仏教が基調になって、より人間を幸せにする、と思いますね |
|
http://en.wikipedia.org/wiki/Pantheon%2C_Rome |




