仏教

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生きる意味

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梵天 紙本著色 桃山(16世紀) 長保寺蔵


さて、このところ、わかりにくい話が続きますが、今回は、きっと一番わかりにくいです


人間は、というか厳密には、感覚器官を備えた生物は皆、脳内にイメージをつくり外界を認識しています

外界は、一つしかないのですが、脳内のイメージは、それこそ脳の数だけあります
世界そのものと自分のイメージは、必ず別々なんですから、いさかい、思い違い、誤解、妄想があってあたりえです
生命の不幸の根源ですよ
四苦八苦があって当然です
 

で、なんで、そのような仕組みなのか、ということ 



まあ、特に理由はないのかもしれませんが、どうも、こういう仕掛けでないとうまくない理由があるように思います


というのは、もし仮に、生物が感覚器官で脳内イメージを作ることをしなかったら
実体としての感じる前の世界を、誰も感じることがなかたったら
世界そのものが、誰にも知られることがなかったら

世界は消滅してる、ってことではないですか
無というか、無は有があって言えることですから、無よりも徹底した虚無ですね

世界は認識されないと成り立ちませんが、困ったことに、認識されたイメージは感覚器官のフィルターを通した、世界そのものとは必ず別のイメージなのです

で、必ず別のイメージになるんですが、よく考えてみると、世界そのもは自分を知ることは出来ないのですから、この脳の数だけ別々にならざるを得ないイメージだけが世界の姿を知る手段なのです

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で、非常に興味深いことに、人間には自由に物をつくり出す創造力が備わっています
自分勝手に、イメージを解釈して、物や事や言葉などを創り出すことが出来るのです
自由意思と言えば自由意思ですが、無秩序なでたらめにもなります

そして、その創り出されたイメージには、たとえそれが妄想の産物であっても、必ず常に感じられる前の実体があります

だから、感じられる前の世界を、どんどんと、豊かに、複雑に、好き勝手に、ついでに言えば、無責任に、創り出しているのです
ただし、自分のイメージと創り出されたものは別々のものです
知らず知らず、世界は、人間の想像力でよく言えば豊饒になっていっているのです

そして、自分のイメージで作られた感じられる前の世界は、結局、自分自身の実体です
このへんが、輪廻転生における、因果応報の理由です

死んでしまって感じることをやめても、感じられる前の世界に、生きている間にイメージしたことの実体が存在しつづけます
そして、また、生まれ出でて、感覚器官を獲得した時に、すでにあるイメージの実体を、改めて感じることになります


グロテスクな憎しみで破壊活動を行うと、感じられる前の世界は、どう変わるでしょうか
グロテスクという言葉になる前のグロテスクですから、言いようがないのですが、いい感じのするものではなさそうです
世界そのものは感じることはないんですから、グロテスクだろうがなんだろうが、関係ありません
無邪気そのもので不生不滅不垢不浄不増不減です
しかも、感じられる前の世界は、自分自身を変える手段を持っていません
ですから、破壊した張本人は、いつか必ず自分のイメージがつくった実体に出会います
自業自得ですね

自由に妄想を創り出すことのできる人間にだけ、感じられる前の世界を変える可能性が残されているのです
自分か、自分を手伝ってくれる誰かと協力するかして、その感じられる前の世界を変えるしかありません

実体と違うイメージをもつしかない人間に、救いは無い、のでしょうか

実際は、そうはなりません

なんとか上手にイメージを書き換えることができれば、まるく収まります
自由意思を行使して、イメージを書き換えるために、僕らは生まれてきたのではないですか
それこそが、生きる意味です


さて、生命進化をつづけて、イメージを極限まで磨き上げた存在も想定されることになります
僕らの意識に、感じられる前の実体があるわけですから、実は、時間度外視で僕らの意識は生き続けています
だから、数のうちには、イメージを完全に完成させた存在があっても不思議ではありません

そう、悟りを開いたブッダや菩薩
あるいは、皆さまの、遠い先祖
世界中の宗教でいうところの神々や聖者

これらの聖者達が、イメージの書き換えを手伝ってくれるなら、案外苦労無く、僕らのイメージとその実体は完成に近づくんじゃないでしょうか
 

えっと、だから
祈りの言葉は
「家内安全、になりますように」や「家内安全、にしてください」ではなくて
「家内安全!!」と断言するのがよい、ということになります
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胎蔵曼荼羅図 絹本著色 鎌食後期(十四世紀) 長保寺蔵


「越三時如來之日。加持故身語意平等句法門。

三時を越えたる如来の日。加持のゆえに身語意平等句の法門なり

大毘盧遮那成佛神變加持經 入眞言門住心品第一」
 
 

仏教で言う「空」は、感覚器官で感じる前の世界ですから、永遠にどのようなものか、わかることが出来ないことになります
それこそが真実で実体だとしても、感じる前の姿ですから、わかりようがありません

でも、実際に見えたり聞こえたりしてるわけですから、そこにあります

ですけれど、見えたり聞こえたりして感じているのは、結果としての脳内のイメージでしかありません

それで、真実にたどり着く方法論が必要になります



yoga
真実と人間をつなぐ マントラや祈り、瞑想、断食、苦行など、いわゆる修行と言われていること全ての原型があります

止観
感覚器官の制御(制感) 考えたり感じたりするのを休めば真実が沸き起こるという考え方です

加持
仏教ではyogaの影響を受けて、加持という方法論が出てきます
仏教でも瑜伽師地論とか金剛頂瑜伽など瑜伽(ゆが yogaですね)という言葉がそのまま使われることもありますが、日本で密教が集大成されると加持という言葉だけになってきます



弘法大師が明確に密教の方法論を定義します

「仏日の影、衆生の心水に現ずるをといい、行者の心水、よく仏日を感ずるをと名づく

即身成仏義」


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もともと大日経にある概念です

三時を越えたる如来の日

この三時は、おやつの時間、じゃありません・・・
ここでは過去・現在・未来のことです

如来とは、「来るが如く」で、厳密には仏とか神とか言ったらそれはイメージにつけたレッテルなので、実体は感じる前の世界にあることを言おうとしてます

如来は、感じる前の世界の存在なので、時間は当然、ありません
ついでに書いときますが、数もありません、大きさも、形も、重さもありません、有るとか無いとかが無いんです
でも、存在してます
存在してる「意味」というか、実体を表にしたのが曼荼羅です
あの世がこんなかっこをしてる、ということじゃありません

感じる前の世界にある、時間を超越した「意味」を視覚化してみたら曼荼羅になったと(つまりこれもイメージですね)

身語意平等句の法門なり

如来の身語意を三密、衆生の身語意を三業とし、三密と三業が同じになれば、平等になったということです
やってることと考えてることが同じなら、同じになったと

句はメソッドという程度の意味で、方法とか手法とかいう意味ですね

「三密加持すれば速疾にあらわる 即身成仏義」

手に印を結び(身)
口に真言を唱え(語)
心に仏を思う(意)

これができれば、加持ですよ、と

手と口は、まねればすぐできます
心ですね、修業が必要なのは、ここがなかなか難しいからです

印と真言を習うだけでも大変です
けっこう難しいです
で、形骸化しやすいと

 

合掌礼拝を「身の一密」
念仏や経典読誦を「口の一密」
止観坐禅を「意の一密」

とか言ったりもします

 

空即是色--->加即是持

これが、なかなか理屈どおりに簡単でないと、ま、そういうことです

無限ループ

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天寿国曼陀羅繍帳 国宝 中宮寺蔵



「世間虚仮、唯仏是真 せけんこけ ゆいぶつぜしん」

我が大王(厩戸皇子、聖徳太子のこと)の所告(のたま)いけらく、『世間は虚仮にして、ただ仏のみ是れ真なり』と、其の法を玩味(あじわい)みるに、我が大王(厩戸皇子)は、応(まさ)に天寿国の中に生まれましつらんとぞ謂(おも)う。

天寿国曼陀羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅちょう)の銘文にあります
極楽浄土の様子を刺繍したものです
よく「コケにするな」、とか使いますが、これ全くの仏教用語です

天台学でいうですね




眼耳鼻舌身意の五感によって、つくられたイメージは仮のものであり、感じられる前の世界が真実です

世間虚仮とは、イメージによって作られた社会生活全般すべて、虚しく仮のものであるという認識ですね
厭世感でもありますが、仮のイメージにしがみつかず、真実を見つめるということにもなります

好き嫌い、損得、利害、すべて虚仮です
冨、名声、地位も虚仮です

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イメージにしがみついているかぎり、虚仮からは抜け出すことができません
別に抜け出さなくてもいいですが、真実にはたどりつきません

 
「怨みをもって怨みに報ゆれば怨みやまず、徳をもって怨みに報ゆれば怨みは即ち尽きる」伝教大師

憎しみや怒りも、報復すれば、また新たな怨みを呼びます
まあ、気の利いた解決策がなくても、少なくとも、報復は報復を呼ぶことをわかっている必要があります
報復を止めなければ、憎しみの無限ループが続くのです
 
人は得てして、得意なことや好きなことで失敗するもんですが(酒、女など)、気持ちに任せて無反省に生活していれば、どうどうめぐりで、いつまでも愛憎から離れられません
 
これはもう、人間はイメージの中を生きるしかないのですから、しかたのないことなのですが、イメージに固執しなければ、真実を感じることはできるのです
 
仏教で出家するのは、世間を捨てて山にこもるということではなくて、本当の意味は、虚仮を虚仮としてわきわえて執着しない、ということです
執着から離れられないなら、出家も形だけのことです
 
愛は、ちょっと難しいんですが
仏教では執着のない愛を、慈悲として別扱いしてます
英語だと、慈悲のいい訳語は無いですね
 
執着のある愛は、失うと、憎しみに変わりますが
慈悲は、失うと、憐みですかね
 
執念がなければ生き残れないのが人生ですが、まあ、どうせ最後は死ぬんだし(あー、それ言っちゃお終いよ)あんまりこだわらないことです
 
死ぬことはあっても、それで自分が無くなることはありません
 
 
 
死んでも、感じる前の世界は無くならないのです
だって、有るとか無いとか関係ないですから
でも、生きていると、見えるし、聞こえるんです
 
パっと目をつぶっても、目の前のモニターは無くなりません
 
見えてるということは、イメージが脳内に形成されたということですが、これ、実体じゃないんです
イメージに過ぎないんです
実体は、目をつぶってもそこにあるんです
だから、感じなくても、実体はあります
  
死んで感じなくなっても、実体はあり続けるということです
 
自分がいるという実感も、イメージです
ですから、感じられる前の自分がいるわけで、それが実体です
で、その実体は死んで感じなくなっても、なくならないと
 
思いっきり、わかりにくいですが、こう考えないと説明のつかないことが、やはりあるんですよね

止観

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天台大師像 絹本著色 桃山(16世紀) 長保寺蔵



それ涅槃の真法は 入るにすなわ多途あれども、 その急要を論ずれば 止と観との二法を出ず
しかるゆえんは、止すなわち結を伏するの初門、観はまた惑を断ずるの正要なり
止はすなわち心識を愛養するの善資、観はすなわち神解を策発するの妙術なり
止はこれ禅定の勝因、観はこれ智慧の由籍なり

略明開蒙初学坐禅止観要門(天台小止観) 序


止観とは、つまり坐禅のことです

坐禅のやりかたを書いた本は、それこそ膨大なものがありそうですが、実は、天台大師の摩訶止観とその要点をまとめた、この小止観しかありません
摩訶というのは、サンスクリット語でmahaで大きなという意味です

ちなみに、マハラジャはmaha(大きな)raja(王様)です

大小止観で、坐禅を説明し尽くして、あとは、この大小止観の解説本しかありません
それだけ、天台大師が偉かったのと、やはり坐禅そのもがシンプルだからでしょう

きちんと学問的に言うと、手間がかかるので、はしょりますが(^^;)
はぁー、またややこしい話です 
 

もともと仏教の修行の基本は瞑想で、それをシャマタ(止)ビバシャナ(観)と言い、つまり、止観です
仏教独特のものです
タイ、ミャンマーなどでは、これしかやりません

しかしながらインドには、仏教より遥か昔から瞑想の伝統があり、それをyogaと言います
ヨガですね
これはサスクリット語で、「繋ぐ つなぐ」という意味です
英語のyokeの語源らしいです

古代インド伝統のyogaだけで問題が片付くならば、仏教の止観という概念を持ち出す必要ないはずです

まあ、お釈迦様が悟りを開く必要もありません

yogaは、人間以上の超越的存在(神様ですね)と、人間が「繋がる」という意味なのですが、

超越的存在<---yoga(つなぐ)--->人間

この超越的存在の、良し悪しを決めるのは誰でしょうか
ここのところが、大問題なのです

神様は偉い、でかまいませんが、なにがどうして偉いのか
誰が決めるのでしょうか

それは、「自分で決める」というのが仏教です

価値観の尺度が人間に備わっていなければ、判断はつきません
つまり、「それが、仏性だ」ということになります
仏性が人間にあるから、

止-----あれこれ考えるのを止め
観-----心の底からわき起こる、正直な気持ちを観れば
なにをするべきかわかる、ということになるのです

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人間には神様の価値を見分ける力がある、というのが仏教の基本的な考え方です

しかし、yogaは、インドの長い歴史のなかで、仏教に取り入れられていきます

お釈迦様が入滅してから、神格化が始まり、釈迦イコール神、になっていき、その神との合一が求められるようになります

神格化は、仏舎利信仰から始まり、その仏舎利を祀る仏塔、そして神格そのものへと深化していきます
最終的に、大日如来を中心とした曼荼羅に集大成されます
ここまでのプロセスに約1000年かかっています

日本に伝わった密教は、歴史的には、神格化の途中のものです
哲学的には最も純粋なものだと思います

インドやチベットでは、肉体的なチャクラとか、それまで外道扱いしてきた神々を取り入れて、オカルト化を進めていきます
チベットでは、ツォンカパが、あまりに呪術的になった密教を仏教として再生しようとします
そこまで、魔法化してしまったのです
インドでは、イスラムによる徹底的な破壊を経て、ヒンドゥーの中に埋没してしまいます
お釈迦様を神様にしてしまいましたから、ヒンドゥーでは、ビシュヌの9番目の化身にされてしまっています

 

 

さて

たとえ、仏教の神様や菩薩様であっても、自分の都合だけで拝んでいれば、それはオカルトになりかけている、ということですね

禅宗は坐禅しかやりませんが、正気を維持するには、一番てっとり早い方法かもしれません

今の天台宗では密教しかやりません
非常に洗練された方法で拝みます
しかしながら、基本を忘れたらいけませんよ、ということです

天台と真言

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伝教大師画像 紙本 昭和初期 長保寺蔵

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弘法大師画像 絹本著色 室町前期(15世紀)長保寺蔵

[http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090529-00000124-san-soci 真言宗と天台宗 1200年ぶり交流 天台座主、高野山を来月訪問
5月29日8時0分配信 産経新聞]


僕は、高野山大学を卒業して、本山の修行道場の監督をつとめ、それから現在のお寺の宗旨の比叡山ですべて一から修行しました
真言と天台両方に深い御縁があります
どちらかというと、基礎からきちんと勉強した真言のほうが詳しいです
それでも天台で20年以上やっていますから、内容は理解しています

この前ニュースで見ましたが、松長さんは、僕が学生の頃の密教史の先生です
僕らは「まっちょさん」と呼びます
たしか、アメリカの大学にまねかれて、しばらくそちらで研究生活をしました

弘法大師(空海)と伝教大師(最澄)は、弟子の取り合いや、密教の評価の違いがあって、絶縁したのです

才能は空海のほうが上です
だた、歴史は、天台系から念仏、禅、法華と大乗仏教の天才を輩出しました

スパープレーヤー(空海)と優秀なコーチ(最澄)でしょうか

今、真言宗系の末寺は30000ヶ寺位はあるでしょうか
天台宗は3000ヶ寺ほどしかありませんが、比叡山を母とする宗旨は、つまり、真言以外の全てですね

ああ、そう、どんな意味かですね
なんでしょうね、特に意味はないですね(^^;)
座主同士が会う用事は特にないし、交流はすでにあります
実務者は頻繁に会合がありますから

なんで、ニュースになるんでしょうね
記者の思い込み記事ですね
上の新聞記事でみると、もっともなコメントをつけてる先生がいますが、「こういう商売があるんだなぁ」、といった感想です(メンゴ)

高野山では観光イベントにつながる話題をいつもさがしてますから
松長さんは、昔から、そういうことに抵抗がない人です


ちなみに、僧侶の世界で、宗旨の席次は天台が上です
天台のほうが先に公認されたからです

世界遺産も比叡山が先でした
これは、高野山と熊野をいっしょにすることで、もめて遅れたからです

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