ロジック

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 前のページ | 次のページ ]

合理性

イメージ 1

種字胎蔵曼荼羅図 絹本著色 鎌食後期(十四世紀) 長保寺蔵



 
霊感とか奇蹟など、超常現象全てに、いわば合理性がある、という話なんですが

仏教的には、森羅万象、法界ですから、つまり、法の世界
法とは、ダルマ(dharma)とも言います


これ、現代社会の法律ということではなくて、法則ですね
宇宙の原理、原則という意味です

で、全てがダルマに基づいていて、ダルマの範囲内にある

ダルマを解き明かそうという努力は、学問とか科学ということになります

 
それで、今の我々にとって、不可思議なことも、ダルマに則って生じていることになります
理解できないのは、ダルマを知らないからに過ぎません


 
なんで、こんな話をするのかといえば、合理性を突き詰めていくと、神仏の教えとたいして変わらないんじゃないかと感じるからです

つまり、僕らが考える合理性だけでは少しは違うところも出てくるわけですが、それが、理解不足ということでしょうね

逆に言うと、あまりに荒唐無稽なことは、神仏も考えて無い、ということでもあります

つまり、神仏は、合理的なんです

そして、神仏は、ダルマから解放されていても、この世の仕事をする時は、ダルマの範囲でしか動きません


霊界の教えも色々あって、案外、相互に矛盾してたりすることも多いのですが、サイキックマッス(心のゴミですね)とポピュリズム(大衆迎合)とエゴ(我執)を取り除けば、ダルマに近づくと考えられるわけです
 

で、そこのところの効率を問題にしてるのが密教なんです

まあ、そういう高度な興味を持ってる宗教は他に無いのですよ
正解にたどり着いたかどうかは別として

完璧ということではないにせよ、努力の方向としてはいいんじゃないかと思いますね

 
 
さて、

起死回生のありえない奇蹟を願うのは、筋違い、ということです

死んだ人が生き返るとか、目が覚めたら億万長者になるとか、まあ、なかなかそんなことは起こりません

心が変わって、やることが変わって、結果が変化してくる、というプロセスが必要なんです
絡み合った、因果関係を根気よく解きほぐすには時間も必要です

霊が動くときもありますが、この世と近ければ近いほど、代償も必要になりますよ
 

  
そういえば、大学の授業で、「密教は科学だ」って教わったなぁ
 

Aha!

「意味」は生老病死を越えた「感じられる前の世界」にあり、我も無我もありません

イメージ 1

「意味の如きもの」は、つねに新陳代謝をしています
「意味の如きもの」は、意識によってYesとNoを繰り返し、「意味」に限りなく近づいていきます


「意味」-->五感<==意識==>「意味の如きもの」


「感じられる前の世界」にある「意味」を五感で感じ、そのバラバラのエピソードを意識によって「意味の如きもの」に変換します

意識によって「意味の如きもの」は新陳代謝を続け、「意味」に近づきます


意識は、まったく全てから「自由」ですから、妄想や執着も作り出しますが、「意味」に近づく可能性も持っています

 
 
「意味」を考え

「意味」を問い

「意味」を探し

「意味」を求め

「意味」を生きる

そのためには、先ず、「意味」が常に無条件にそこにあることに気がつかなければなりません

仏教のテクニカルタームでは「悟り」と言っております(^^)

Aha!をクリックしてみてください
http://www.chohoji.or.jp/aha.swf



クリックして応援してね
精神世界ランキング
http://airw.net/newage/rank.cgi?id=tiku

意味を生きる

色即是空のかなた

僕らは感覚器官がとらえた世界の中に閉じこめられて暮らしている

見えた物を信じたり疑ったり、聞こえた物を信じたり疑ったり
暑さ寒さを感じ、美味しいまずいを感じ
感じられる物が世界の全てだと思いこんでいる

目で見る前の光
耳で聞く前の音
舌で感じる前の味
皮膚で感じる前の感触
それが、あなたというフィルターを通さない、ありのままの真実

自己の拡大は進むべき道ではない
感覚器官の中に閉じこめられている現実が変わるわけではない

自己否定も道ではない
めちゃくちゃで、バラバラの自分になるだけ

感覚器官に写し出される前の、ありのままの世界
世界の本当の姿を知っている自分になるのが、道

あなたは、すでにその道を完成した存在を知っていますか
全く完全に我執がなく、それでいて個性があり生命に満ちあふれた存在

五神通と常・楽・我・浄の境地
大慈悲の感触


「感覚器官で感じる前の世界」には、何があるのか

時間も空間も無く
これつまり
-∞=0=+∞ ですから

一神教とか言いますけど、1でも2でも3でも、なんとでも言えばいいんです。数がないんですから
指さす指の数だけ、神話や教義がある、と

イメージ 1

神と呼んでも、大日如来と呼んでも、なんと呼んでも、どれも正しく、呼ばれた数だけの表情を見せる、と
そして、名前を付けてしまうと、本物ではなく、名前によって限定されたイメージになってしまいます
これ、仏教では果分不可説って言うんですけど、密教では大日如来って言ってしまうんですね。ま、いいような、悪いような。分かりやすいけど、誤解も招きますね

仏教的には、学びを終えると、この(-∞=0=+∞)になります
涅槃って、そういう意味です
それで、同化して一つになるかと言うと、とにかく数がありませんから、個性を保ったまま、同化します。一即多、多即一です
-∞=1=2=3=0=+∞ です
釈迦如来とか阿弥陀如来、薬師如来いろいろあります
三千仏名経とかありますから、ほとんど、なんぼでもいます



でもって、これが難しいのは、指ささないことには説明できないわけです
困ったもんです


それで、しょうがないんで、僕は、感触っていつも言ってるわけです
これは、ですから、菩薩とか巷の神々の感触とは次元が違う感触です

それで、

この感触を感じるには、なんの条件もありません

時間と空間のない世界から、常に(と言うと時間的表現になってしまいますが)照らしてるんですから

海辺で日光浴をするのに、犬でも猫でも人間でも、いい奴でも、いやな奴でも、関係なく、お日様が照らすのといっしょです



善悪正邪損得はネットワークの中のことで、延々と突いたり引いたりしなければなりません
で、本当の救いは、ネットワークの外から来るんです

それで、仏教では如来、来るが如きもの(如きとでも言わないと、意味が限定されてしまいますから)、と言い習わしてるわけです
キリスト教的には啓示です

第九住心と第十住心を、画然と隔てているのは、啓示があるかないか、です

努力の積み重ねではありません

来るんです


これが、妄想と執着とカルマにがんじがらめになった「もあもあ」が救われる仕掛けです
ごちゃごちゃと手術みたいなことをする必要はありません

スッキリ、照らされて、救われます

簡単でしょ


いつ来るか
どうすれば来るか

と、すぐ言うんだけど

もう来ているし、すでに繋がってます


それに気がつけばいいだけです




クリックして応援してね
精神世界ランキング
http://airw.net/newage/rank.cgi?id=tiku

意識の根源

「感じられる前の世界」には「もあもあ」が沢山浮遊していて、それが、照らし合い感応しあっている、と

で、時間も空間もゆらいでいて、生と死が重なり合い共存している。情報は光速を越えた早さで伝達される


とてつもなく親切で賢い「もあもあ」さんもいるし、修行中の「もあもあ」さんも沢山いるし、脱線したのに気がつかない、いやな奴もいる、と

菩薩とか、神話に登場する神様とか、悪魔とかですね

とまあ、そんなところなんですけれど、それだけじゃないんです



天台大師は華厳を究極のものとは考えてませんでした

また、弘法大師の十住心論では、十番目が秘密荘厳心で密教なんですけれど、華厳は九番目なんです。やはり究極のものではないんです

華厳経の「無尽重々縁起」のまだ、その先があるんです





実は、僕の大学の卒業論文は、弘法大師の第九住心と第十住心の境目がどうなっているのかというのが研究対象なんです
論文は学部生のレベルですからたいしたもんじゃないけど、昔からものすごく高度な研究がなされてる事だけはわかりました


学会(がくえ)というんですけど、高野山で行われている密教教学の議論ですね
いまも形ばかりは残っていますけど、江戸時代の一時期、論争に負けたら山を降りなければならないほど激烈な議論がおこなわれていました。いろいろ調べましたけど、もう、全く凄い量の研究が残されてます
今もチベット仏教では問答議論が重視されていて、いいことだと思いますね。坊さんの質が高くなるね


十住心論では、第九住心を華厳に配当して、極無自性心としているんですが、その根拠となる経典を各種列挙するなかに守護国界主陀羅尼経という経典があって、そのなかで、[口奄]オン字観の実習方法が説かれています

このオンがですね、ヴェーダなどでも説かれる聖音で、ウパニシャッドでは最高の意義を与えられてます。それが、密教経典の中で、国王を守護する陀羅尼として再生してるわけです。ですけれど、それは究極の成就法ではなくて、第九住心に配当してます

一般に金剛頂経系の密教経典では五相成身観によっって悉地を成就する方法が説かれますが、いちばん最初の通達菩提心の直前が第九住心なんですね

五相成身観と、その前の第九住心に画然とした境目があります

弘法大師的にはですね、そういうことです




天台教学では
お釈迦様が、生涯で説法を始めた一番最初に、悟りの内容をそのまま説いたのが華厳経とされてます。

これは、天台大師が、いろいろ経典の内容を調べて、説かれた場所と順番を決めていく分類作業をしてみてわかったことです。その結果、法華経に、他の経典にない極めて特異な教説があることがわかり、華厳経などを法華経の前段階の経典であると位置づけました


「無尽重々縁起」を越えた、意識の源があるんです

イメージ 1
紫色は「もあもあ」さんの個性のつもりです(^^;)


それが、キリスト、アッラー、大日如来、久遠仏、法界、空などと呼ばれる存在です


時間と空間がないところにいるんだから、無始無終でいたるところに遍満してます
数もありませんから、ゼロであり∞です
生死がないから、なんなんでしょう、永遠であると言っておきます



「もあもあ」が浮かぶ空間であり、「もあもあ」を照らす光です
「もあもあ」を妄想と執着から解放する力です
そして「もあもあ」の根源です

空間であり、光であり、力であり、意識の根源です

感覚器官によって脚色される以前の存在ですから、妄想と執着はありません

善も悪も無く
正も邪も無く
苦も楽も無く
我も無我も無く
生も死も無く
有も無も無い

意識の根源ですから、心ではあるのです

仏教で言う仏心ですね




クリックして応援してね
精神世界ランキング
http://airw.net/newage/rank.cgi?id=tiku

マトリックス

かなりややこしい話ですが、このあたりが仏教の精髄です


理論物理学上の、「観察される前の量子」という考え方が、感覚器官によって認識される前の世界の姿を想像する示唆を与えてくれます

僕は、量子論をそのまま人間の心の働きに応用するのには懐疑的で、コペンハーゲン理論やエヴェレットの多世界解釈は、たまたま、二重スリット実験の観察結果を辻褄あわせるために導きだされた計算上の概念ですから、どうにも、実際に人が生きたり死んだりにつながるようには思えません


しかしながら、人間の生死は、妄想とか考え方の立場とかではなく、現実ですから、現実世界を説明しようとする物理学とどこかに接点があると考えざるを得ません



Superpositionの概念など、いい例で、仏教が示唆を与えられることもあるでしょうが、また、物理学が仏教から示唆をあたえられることもあるでしょう
理論物理学を追求していくと、「感じられる前の世界」の姿の片鱗が明らかにされていくかもしれませんね




仏教は、三界唯心と言って、世界のすべては心の中で起こっているという唯識論が考え方の基本になっています。
これは主に華厳経に説かれています


三界唯一心 心外無別法
心佛及衆生 是三無差別 (正法眼蔵 道元)



で、僕なりに要約して言えば

イメージ 1


白い矢印が、「感じられる前の世界」を感覚器官で感じてるところです
「感じる前の世界」を仏教では法界と呼びます

(目の前にパソコンのモニターがありますが、眼をつぶってもモニターはそこにあります
それが、見える前のモニターで、感じる前の世界です)


で、仏頭が脳で、イメージを作って、「もあもあ」と、自分なりの世界を感じます
「もあもあ」は僕が勝手につけた名前で、仏教では造境と言います

(今見てるモニターの字は、脳の中にあるイメージということです)

好むと好まざるとに係わらず、イメージは自動的に作られます
イメージを上手に作れなければ、妄想になります
イメージを現実だと思いこむと執着になります

(だから、今、のぞき込んでらっしゃるモニターも、あなたの心の中に作られた「もあもあ」ですよ)


「感じられる前の世界」はSuperpositionで、過去と未来、右と左、時間と空間が重ね合わさって共存しています。光速以上の早さで情報が伝達される世界です。

で、「もあもあ」のイメージは、頭の数だけあります

しかし、「感じられる前の世界」は、「もあもあ」がネットワークになって繋がっている状態ですから、実は一つしかありません

仏教で言うと、華厳経の無尽重々縁起です


ネットワークは一つですから、イメージが各人別々に作られても、共同体やら、協力やら、仲間やら、お友達やら、普通に暮らしていくことができます
画一的な教義を信じ込ませる必要はなくて、自由にまかせても、仲良くやっていくことが可能です

ただし「もあもあ」がしっかりしていれば、ですけど



ある禅宗の坊さんが、悟りを開いて、あまりの嬉しさに、表に飛び出して叫んだそうです
「雲くーん、君は僕だなー 風くーん、僕は君だなー」


因果応報とか言いますが、つまりは、ネットワークが繋がっていて一つだから、自分のしたことが自分に返ってくるのです

仏頭がなくなるのが死です

死んでも、執着によってつくられたイメージが「もあもあ」と浮遊し続けます
これが心霊ということになります


仏教的には、霊界を旅する心霊は、いまだ執着を離れないでいる心です

脳がないのですから、心霊は、新たなイメージを作ることができません
それで、同じような繰り言を延々と繰り返すのです
心霊のいろいろな特徴は、これで、おおかた説明がつきます
執着から離れる力を付与するのが供養、ということになってきます

で、心霊(もあもあ)は「感じる前の世界」から切り離されていますから、消滅する事がありません

「もあもあ」は、転生を繰り返し、長い旅路のはてに、究極的には、「感じられる前の世界」とまったくそっくりな存在になります

しかしながら、そこまでに至る歴史は全て刻まれていて、個性は消滅しません
「感じられる前の世界」には、時間と空間がありませんから、「もあもあ」は完全に溶け込みながら、自分であり続けます


「感じる前の世界」と「もあもあ」が一致した状態が、ゴールです
それを仏教で、如来と呼びます

それで、つまり、「もあもあ」は最終的には「感じる前の世界」と一致しますから、如来は増え続けます

「見ると、見られる」の分離が、「もあもあ」の始まりで、時間と空間の開始点です
不確定性原理で説明されるような、ゆらぎ、あいまいさ、が分離の原因かなー、とか考えてます
分離する必然性があるのですから、いったん分離したら消滅しません


でもって
この矢印が太い人が霊能者なのだと思います。生命進化の必然です。仏教的には五神通です

ただーし
矢印が太くても「もあもあ」は「もあもあ」です。妄想と執着が、自動的に作られます。だから、霊能力がいくらあっても、イメージの正しさとは関係ありません

だから、正しいイメージをもつには努力が必要です
イメージは、教育や訓練で、正しく保つことができます。努力が報われる可能性が開かれています
転生による学習効果もあるでしょうけど、妄想と執着は自動生成しますから、いずれにしても、努力しなければうまくいかないでしょうね

伝統宗教の教義や世界観(コスモロジー)は、「感じられる前の世界」をロジックにした、「もあもあ」です
洗練されてない、宗教や神秘的教義には、妄想がたくさん含まれてます

ロジックは妄想と執着を、勝手に作り出す危険を常に持っています


正しいロジックは「もあもあ」を「感じられる前の世界」に近づけることができます

今生きてる人間だけがロジックを作ることができます


ロジックの肉体化が、修行
ロジックの行為化が、道
ロジックを感性にフィードバックするのが瞑想です

ロジックは妄想と執着になる危険を常にはらんでいますから、感性などによって検証される必要があります

チベット仏教では今でも問答論議が大切な修行になっていますが、日本でも平安時代の元三大師も重視していました
これなどは、ロジックの検証作業ですね




ああ、それで、マトリックスですけど、つまり、「感じられる前の世界」のことになりますね




クリックして応援してね
精神世界ランキング
http://airw.net/newage/rank.cgi?id=tiku

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 前のページ | 次のページ ]


.
terra_free_talk
terra_free_talk
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

過去の記事一覧

1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31
検索 検索

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト≪さとふる≫
実質2000円で好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!
数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事