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ジグザグにファスナーを開けるような轟音とともに、私は上瞼と下瞼との一直線が二つに分岐した。それもまた、ファスナーを開けるようであったが、雷のそれとは違っていた。今日も昨日からの大雨で、神は大いに涙を流されていた。蝉も、この驟雨のなかでは、愛のアプローチをすることができなかった。そうすると、蝉にも自由意志があるように聞こえる。しかし、それは蝉の囀りとは違っていた。私は小学生の従姉妹を知っている。私の作話の「蝉は悲しいから泣くのです」という一文を見つけるなり、「これは求愛行為である」と発語した。私は京都の清水寺からまっさかさまに落ちる思いがした。それは雷のそれとは違っていた。私は歳をとるにつれ、残酷な心を憶えていった。蝉を水中に入れたままにしたのだ。しかし、中途半端な残酷性は蝉が息絶える前に、中絶された。しかし、それは雷のそれとは違っていた。雷と言えば、幼いころ、恐怖に恐怖していた。なぜか坂道を上っていた。下っていてもよかったはずなのに。すれ違う人もなく、ただ母親の手を握り締め、雷に向かって歩いて行った。止まない雨はない。しかし、私はこのフレーズに対して、一つの疑問を感じる。無際限に雷鳴とどまらず、驟雨止まない可能性があるのではないか、と。しかし、真実は語るものではない。鬱に悩んでいた友人を苦しめることになったのだから。私は、精神障害というものを肯定的に捉えている。障害者は天才であり、働く必要がないということを。私は蝉ではない。ましてや求愛する蝉ではない。私は障害者、その中でも、後天的に障害になりやすく、哲学的にも、心理学的にも、面白い”精神障害者”である。この人生の楽しみ方を伝えられればいいと思う。瞼が開くように、私は啓蒙活動をしていこうと思う。天才は雷である。めったに現れず、天才の人生の中でも、その雷鳴を聴くのは一瞬ではないだろうか。残りの人生はそれを繰り返し思い返すことだけである。精神障害になるために、必要なことは、孤独である。孤独は、現代が作った最高の装置である。ツッコミのないボケほど面白いものはない。そのボケはツッコミがない限り、ボケでさえない。ボケはシュールである。われ一介の剣士ドンキホーテ大安売りなるぞと言わんばかりに、というフレーズ、物語のドンキホーテと、店舗であるドンキホーテをパラフレーズさせただけの拙文ではあるが、これが精神障害によく見られる親父ギャグである。しかし、この小気味い発語がいい。ツッコミを入れたければ入れればいい。しかし、私にはボケだけにしてやりたい何かを感じる。ボケは恐ろしい。認知症のそれとは違う。笑いにおけるボケ、これがボケのままになっていると、そこには腐ったみかんを食べたような、語りがたい何かがある。ツッコミという雷が落ちないことを祈るばかりである。

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素晴らしい作品だ。

2011/12/7(水) 午後 6:32 corpus


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