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過去は5分前に作られた、という説がある。私は、それを奇妙に思っていたものだ。しかし、それは137億年前に、世界が誕生した、ということと、どこが違うのだろうか。スケールの違いだけではないか。そう思ったのだ。過去は5分前に今あるように作ったという考えもある。しかし、実は、5分前に今あるように作らなければならない理由はない。5分前だって、今とまったく違う、あるいは、時間的に結合しない可能性もあるのだ。我々は比例関係をよく使う。昨日と今日をおとといと昨日にも当てはめてしまう。しかし、それは誤りではなかろうか。いつも、斉一的にできているとは限らないのだから。私は次の仮説は、もっと奇妙に感じる。つまり、今日から数えて3の倍数の日は実在し、それ以外は虚構である、という世界観である。もし、そのようなことを認めるならば、連続性がない。しかし、なぜ連続性が必要になるのだろうか。時間と実数の関係も実はわからない。実数の連続性を時間のなかに、というか、実数とは、ただそれだけのためにあるのではないか。しかし、それが運動のパラドクス、俗にいうゼノンのパラドクスを生んだ。私は、時間というものを、この世界に目に見える形で経験していない。数直線や回転する針によって理解しているだけだ。あるいは、このけだるい感じが時間という感覚をもたらすように感じるときもある。時間は常に背景にあり、それを前提として、我々は無難に暮らしているとも言えるかもしれない。常に前提は必要だ。哲学者アウグスティヌスも時間をテーマにすると、とたんに困ってしまうというようなことを書いている。
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時間について考えるときにも、背景に時間は流れているのだろうか?
もし、そうならば、時間は取り逃されてしまう。
時間もまた(私)と同じものである。
2011/12/30(金) 午前 8:56