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目に見えるもの。
これが、世界に私を投げ込ませる。
目に見えるがゆえに、世界はすでに開始している。
目を閉じると、少し安心する。
盲目の人は、世界を感じないのではないか?
世界を感じないから、安心できるのではないか?
目に見えるものに、始まりはない。
耳に聞こえるものには、始まりがある。
芸術を考えてみよ。
絵画は、時間がない。あるいは、時間の始まりがない。
音楽は、時間の始まりがある。
だから、音楽のほうが安心できる。
現実というものは、絵画的である。
音楽は幻聴とされる。
ちなみに、私は統合失調症だが、幻聴はない。
なぜ、目を閉じることができるのに、
耳を閉じることができないのか?
それは、耳を閉じる必要がないから。
でも、常に見ているわけではない。
目を開いていても、見ているとは限らない。
それでは、何が見えさせているのか?
ところで、映画は始まりがある。
そして、映画は、絵画と音楽の融合であるはずである。
音楽の力のほうが強いのか。
音楽に、始まりがあるというのは、
単なる間違い、ミステイクではないか?
音楽もまた、現実なのである。
しかし、芸術として、音楽は現実の写像ではない。
現代音楽は、それを目指しているが、
過去においては癒しであった。
絵画は、現実をより一層現実らしくするところがある。
絵画は、現実なくしてはありえなかった。
だから、絵画は現実である。
絵画は時間がないから、
現実と関係することが必要であった。
絵画は時間を取り除くという役目があった。
現実とは何であろう。
それは、そこにあるもの。
しかし、名前で呼ぶことができない。
現実とは苦しいもの。
もしかしたら、時間かもしれない。
時間こそ、現実の別名である。
絵画は苦しい現実から、
その最大の敵、時間を取り除くことによって、
癒しを求めたのである。
絵画、特に、静止画は、始まりがない。
ただ、そこにあるだけである。
ところで、数学、これも、静止している。
微分方程式に現れる時間も、
現実の時間と比較すれば、おもちゃのようだ。
時間こそ、現実の要素である。
しかし、時間とは何であろう?
けだるい感じ。
速く過ぎ去ってほしいという感じ。
そこで、我々は、現実から逃げる。
逃げた先は、たいてい時間がない。
例えば、浦島太郎。
生命は時間の証である。
そこに、気持ち悪さが伴う。
生命は、時間を取り除けば、死である。
運動と静止。
これは本来、反対語ではない。
全く関係のないもののはずであった。
静止画は死である。
動画は生である。
だから、仏間には写真はあるが、ビデオはない。
時間に、終わりは来ないはずであるが、
私の連想ゲームは、
ここで終了とする。
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