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短編小説
「black out〜ブラックアウト〜」
手嶋純
東京は熱波地獄と化していた。秋は真夏の太陽に恐れおののいて姿を見せることはなかった。誰もが夏は永遠に終わらないだろう、と覚悟を決めているようだった。朝、積乱雲はいち早く天空まで駆け上り、超高層ビルをあざ笑うかのように見下していた。
一瞬、雷鳴が轟き、無機的な都会を怯えさせる。稲妻が垂直に振り下ろされた斧のようにあらゆる構造物を切断する。真っ黒な雲が昼を夜へと変貌させ、突然、激しいスコールをもたらす。平坦な道路は川へと変貌し、タクシーやトラックを呑み込んでゆく。マンホールの蓋は何度もバウンドし、下水道に溢れた大量の雨水を吐き出した。近代的な構造物は脆弱なものだった。誰もが目を覆おう残忍な光景が何時間も続いた。
僕は悪夢から冷めたような気分で目覚まし時計を眺めた。多少、二日酔い気味で時より吐き気がした。平凡なサラリーマンには良くある日常だった。ベッドを這い出て、窓の外を眺めた。何事もなかったような風景が視界の中に飛び込んできた。ベランダの常連となった雀はせわしなく囀っていた。
僕は安堵した後、ガラステーブルの携帯を手にした。携帯の画面を覗くと、着信記録が表示されていた。僕は見覚えのある電話番号にたじろいだ。数年ぶりに目にするものだった。記憶から削除した過去が少しずつ蘇った。僕の指は震え、腰が抜けてしまった。
朝、テレビで巨大な台風が房総半島に迫っている、と伝えていた。その時、房総半島という言葉が僕の心を掻き乱した。昨夜、豪雨が小康状態なるのを待ってマンションに戻った。僕は気分を和らげようとサイドボードからバーボンを取り出した。ソファに転がっていた村上春樹の「アフターダーク」を読み始めた。最近、「ノルウェイの森」が映画化されることを知り、数年ぶりに、彼の小説を読み返していた。しかし、数分で僕は激しい睡魔に襲われた。その夜も、再び、悪夢にうなされた。
僕は何日間も悪夢を見続けた。房総半島と台風、携帯に残った見覚えのある電話番号、それらのキーワードが悪夢を誘発しているのか、と疑問を持ち始めた。房総半島といえば、一度だけ、館山近くにある洲崎の灯台を訪ねたことがあった。
数年前の夏。午前3時頃、枕元の携帯が激しくなった。僕は無意識で携帯を手にした。通話ボタンを押すと、聞き慣れた女の声だった。僕はじっと女の言葉を待ちわびた。
「私を覚えている?」
「今までどこで何をしていたんだ? 聡美だろ?」
けれども、女は沈黙を守ったままだった。
「あなたはやっぱり優しい人ね!」
「君と禅問答を繰り返すほど、暇じゃない」と嫌味を言った。
「今、館山近くのホテルに泊まっているの」と、聡美は震える声で呟いた。
「悪いけど、明日、もう一度、電話してくれないか」
「私を探しに来ない? ヒントは洲崎の灯台よ」と言い残し、聡美は携帯を切ってしまった。僕は呆気にとられたまま携帯の画面を眺めるしかなかった。翌日、僕は無断で会社を休んだ。
吉祥寺駅から快速に飛び乗った。平日の車両は驚くほど空いていた。僕は不安が払拭するように何度もガムを噛み続けた。館山に辿りつくルートを頭の中で何度もシミュレーションした。外房線で館山駅まで行き、その後は、タクシーで洲崎の灯台まで走り続ける。聡美が洲崎にいるかどうか、まったくの半信半疑だった。が、僕にはためらう余裕すらなかった。
ある夏。聡美は忽然と僕の前から姿を消した。その後、突然、聡美の母親が僕の会社まで訪ねて来た。僕は聡美のゆくえは知らない、と母親に応えた。母親は僕の言葉を信じなかった。毎日のように会社に電話をしてきた。その都度、僕は上司や同僚から冷笑された。でも、数か月で母親から電話が来なくなった。僕は平凡な日常を取り戻し、夜には渋谷のセンター街で同僚達と深酒を続けていた。
館山駅前のロータリーでタクシーを拾った。
「洲崎の灯台まで」と僕はそっけなく運転手に告げた。
「お客さん、台風が来てるんだ、迷惑だから変なことしないでくれ」
「僕は自殺したりしません、友人のホテルに行くだけです」と鸚鵡返しに答えた。僕は聡美によって台風へと導かれていたのだ。運転手はタクシーを急発進し、僕の望み通り、洲崎の灯台まで走り続けた。運転手は途中までしか行かない、と何度も僕に釘を刺した。タクシーを降りると、塩分を大量に含んだ激しい風が頬を掠めた。僕は岬の方へと歩き始めた。釣り人が舌打ちしながら旅館から姿を現した。釣り人に灯台の場所をぎこちなく聞いた。当然、灯台へ近づかないようにと、再び、釘を刺されてしまった。
洲崎の灯台は台風に立ち向かうようにそそり立っていた。もう夕暮れが迫っていた。本当に聡美を探し当てることができるのか、と不安が募った。沖合から大波が岩場を目指して直進して来る。そのたび、波が砕け散り、飛沫が宙を舞った。光が途絶えた海は不気味なものだった。僕は1時間ほど岩場をさ迷った。灯台に光がともった。その瞬間、数十メートル先に女の影を見つけた。聡美だった。何度も聡美の名前を叫んだが、耳に届くはずもなかった。僕はびしょ濡れになりながら一歩ずつ聡美に近づくしかなかった。
横殴りの雨と激しい風が雑草を吹き飛ばそうとする。聡美はバランスも失うことなく、立ち尽くしていた。異様な光景に僕は身の毛がよだった。薄いカーディガンにロングスカートのまま、聡美は泣き続けているようだった。
「聡美、大丈夫か?」と僕は彼女の背中越しに叫んだ。
「あなたは本当に優しい人ね」
「ジョークを言っている場合ではないだろう!! 台風が上陸するかもしれないんだ!!」
「当然、覚悟の上よ、私は」
数分間、僕は聡美を眺め続けてしまった。言葉を見つけられず、途方に暮れたからだ。
「ほら、雲間から光が射し込んで来たわ」と聡美は信じられない言葉を放った。先ほどまで荒れ狂っていた海は嘘のように鎮まり返った。聡美の言葉通り、一条の光が海面に降り注ぎ、天空へと誘うようだった。沖合に避難していた貨物船が水平線をなぞっている。気がつくと聡美は僕に体を預けていた。その後の記憶は途絶えたままだ。
僕の悪夢は聡美そのものだった。あれ以来、幾つもの夏が過ぎた。台風が来るたびに僕は
亡霊となった聡美の影に怯え続ける。今、東京のどこで何をしているのか、聡美は。僕に知るすべがないままだった。一度は聡美と心が通じ合った気もする。が、それそこ、僕の自惚れだっだのだろう。
聡美は村上春樹の熱心な読者だった。彼女自身、ノルウェイの森の主人公、直子を演じているかのようだった。しかし、僕は直子を愛した渡辺になることは到底できなかった。そう、僕は相変らず、吉祥寺のマンションと渋谷の会社を往復するサラリーマンだった。今夜こそは、悪夢を見ないで安らかに眠りたいものだ。
(了)
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