Peaceful Castle

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「軽重や善悪、是非などはあくまで相対的なものであって、相対的により重であり善であるものを、議論の本位とする。

 この議論の本位を定めなければ、その議論の対象の利害得失を議論してはならない。

 議論の本位を定めずに、無意味な議論を続けているものには以下のようなタイプがある。

 ー臘イ垢襪箸海蹐脇韻犬世、その根拠が異なるもの

 △海箸陵害を論じるときに、互いに相手方の極端な場合をもち出して、それを否定しあうもの

 正直と頑固、利口と軽薄のように、人の一つの性質には表裏があるが、互いにその欠点の部分を非難しあっているもの

 これらの弊害を除くには、人と人の交際が最も有力な手段となる。

 なぜなら、さまざまな人と交際するうちに、その欠点だけでなく長所も見えてくるからである。

 そもそも、議論というものは、各人の意見を述べたものなので、一様であるはずがない。

 ものごとの利害得失を議論するには、先ずその軽重是非を明らかにしなければならない」


上に挙げた三つの無意味な議論の例は、全て相手に対する無理解から生じています。

いろいろなところで述べられていることですが、特に議論をするときには、多様な価値観という前提を理解することが必要です。


また、この章では世論についても述べられていて、これもなかなか面白いです。


「どの国、どの時代においても、人々の中に極端に愚かなものは非常に少なく、また極端に賢いものも非常に少ない。

 大多数は、智者と愚者の中間にいて、罪もなく功もなく、そのときの他人の意見の流れに乗りながら一生を終えるものである。

 こういう人々を、世間通常の人物という。

 いわゆる世論は、こうした人々の議論であり、現在の状況をよく映し出してはいる。

 しかし、その議論は過去の歴史を振り返ることもなく、また遠い将来を見据えることもない。

 一方、古来時代を動かしてきたものは、そうした世論から逸脱した、その時代には異端妄説と呼ばれていたものである。

 しかし、現在では地動説を疑う人がいないように、昔の異端妄説は、今の通説となっている。

 だから、世の学者は世論の反対を恐れずに、自分の考えをそのまま表明すべきである」


教育が普及し、情報社会となった現在の日本でも、この福沢の大衆観はある程度妥当するような気がします。

これは、昨今の政治の劇場化などから来るイメージで、また私自身も当然大衆の中に含まれますが。

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