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その頃の私は、 |
大切な人たち
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忘れてました。 |
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作業場の二階に住んでいた祖母は、 相変わらず我が儘でした。 自分の気の向いた時に、 母の加勢をすると言っては、 台所を整理し、自分の好きなように 配置をかえたり、お皿や鍋を入れ替たりしていました。 母は、それが気に入らなくて、 よく、陰口を私に言ってきました。 本人には言えなかった母でした。 私の父と、祖母は日に日に険悪になっていきました。 祖母は、そんな中、 年端もいかない私に、 余計なことを吹き込んできました。 「あんたのお母さんとお父さんは、駆け落ちしたんよ。 あたしは、初めから結婚に反対しとったからね。 今でも、反対よ。あんたのお父さんは、ほんと短気で変人やからね。」 (リリーフランキーの『東京タワー』でも、おばあさんが余計な話しを吹き込むくだりが ありました。『産みの親より、育ての親』という話し。祖母って、言わなくて良いことを 孫に言う物なんだな〜ってその時、思いました。) 祖母がどういうつもりで、私に言ったのかはわかりませんが、 私は、むしろ嬉しかった。 小さいながらに、両親が大恋愛の末に 結ばれたという事実が とても心地よかった。 そして、それからしばらくして、 祖母は、引っ越して行きました。 問題が一つ減って、 両親は少し、落ち着いた日々を過ごしていました。
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それは、父の実家でした。 私が物心ついた頃には、 もう祖父はなくなっていて、 実家には、祖母と、父の妹とその息子の3人暮らしでした。 祖母は、その頃、駄菓子屋兼雑貨屋を営んでいました。 父の妹(kおばちゃん)という人が、 これまた、気が強い人で、 夫を早くに亡くしてからというもの、 洋裁をしながら一人息子を育てていました。 実家は、父が建てたものだったのですが、 いつの間にか、kおばちゃんが出戻り、我が物顔で暮らしたそうです。 その実家に、 両親は月に一度、生活費と手料理持参で 出向いていました。 小さかった私は、結構楽しみにしていて、 おこずかいがもらえることは、絶対にないのですが、 祖母の駄菓子屋で、ガムのくじや、おもちゃのくじを、 遠慮しながらも、何度もただでひかせてもらい、 あたってもない1等賞をもらって帰るのが嬉しくてたまりませんでした。 そのころの私は、我が家で遊ぶことが大好きな子で、 よそのお宅に行くと、 「帰ろう、帰ろう」と言って母を困らせていました。 でも、父の実家に行く時に限って、母は、 「今日は、すぐ帰りたいって言っていいよ。」と、私に言ってきました。 そういわれても、子供心にタイミングに悩んでいたのを覚えています。 その実家で、 私は、何度も父とkおばちゃんの壮絶な兄妹喧嘩を目撃したのです。 理由は、たぶん金銭。 いろいろと、お世話していたらしいのですが、 大人の世界の、汚いところを 私は見せつけられて、今考えると、不憫な子だったな〜って 自分で思います。 母は、私がガムや、おもちゃをたくさん抱えて帰っても、 叱ることはありませんでした。 私が大人になってから、母は、 「お金、いっぱい置いてきたんやから、駄菓子くらいもらっても全然足らんやったよ。」 と、言うのを聞いて、 私は、遠慮していた自分が馬鹿馬鹿しく思えたのでした。
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父と母が離婚寸前までの大げんかをしていたころ、 もう一人、ウチに身を寄せて来た人がいます。 その人も、原因の一つだったと思います。 それは、母方の祖母です。 祖母は、連れ合いを病気で亡くし、 女で一つで、逆境を乗り越えてきた人ですから、 かなりの強者でした。 何故、祖母がウチに来ることになったのかはわかりませんが、 非常に健康で、お金にも不自由していなかったのに、 作業場の2階の一部を改造して、 祖母の住居となりました。 祖母は、遠慮という言葉を知らない人でした。 食事は別でしたが、 お風呂は我が家のを使っていて、 夕方、お風呂が沸いたころ(そのころは、薪で焚いていたので煙りでわかります) 降りてきて、一番風呂に入るのです。 そして、その後、 しばらく、茶の間に居座り、 父がいるというのに、自分の好きなチャンネルに回し、 好き放題していました。 そんな祖母と、父の間で、 母は、とてもハラハラしていたのを 幼いながらに、私は感じていました。 画像は、私の水着グラビアです。。。(=^‥^A エロ可愛い? |




