大切な人たち

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母の家出

その頃の私は、

某企業で、役員の秘書をしていました。

朝は、7時頃に家を出て、

帰宅するのは夜11時。

家にいることは、ほとんどなく、

土日も、出勤することもあり、母がいなかった日々を

どう過ごしていたのか、

食事はどうしていたのか、

父と何を話したのか、ほとんど覚えていません。

両親の心配をする余裕は、まったくありませんでした。


そんな忙しい娘に構っても貰えず、

一人、家に残された父は、荒れ狂っていたようです。

忘れられないのは、ある日会社に行こうと玄関で靴を履こうとしました。

が、靴が見あたらないのです。

靴箱をさがすと、そこには、信じられない光景が。。。

靴箱に、私と母の靴が一足も残っていませんでした。

全て、怒り狂った父が処分したのでした。

あとで、母からきいたのですが、洋服も母のはかなり捨てられていたそうです。

その日、私は何を履いて出社したのか。。。覚えていません。

マイカー出勤だったので、サンダルだったかも。


母は、どこにいたかというと、

炭坑の街に住む、叔母の家に逃げていました。

そこには、あの問題のわがままな祖母(母の母親)が同居していました。

1,2ヶ月、お世話になっていて、その間、母はいろいろな方に相談し、

真剣に離婚も考えていました。

けれど、誰に相談しても、返ってくる返事は、

「13才も年上のご主人なのだから、どうせ先に亡くなるのだし、ここまで

頑張ってこられたのだから、もう少し辛抱したほうがいい。」というものでした。


けれど、この時、離婚させていたら、

母は病気であんなに急に亡くなってしまう事はなかったかもしれないと、

私たち、姉妹は後々、とても悔やむことになるのでした。

忘れてました。

亡くなった母の誕生日でした。

生きていれば、73歳かな?

死んだ子の歳を数えるというけど、

亡き母の歳も数えてしまいます。



話しの続きです。

我が儘ばあさんが、引っ越して、

小さな諍いはあるものの、

別れる切れるというような喧嘩は無くなりました。

父は仕事がとても順調で、

私たち娘もすくすくと成長し、

長女は、高校卒業後、某航空会社に就職し独り立ちし、

次女も、地元企業に就職し、その後結婚。

そして、私も短大卒業後、地元の企業に就職しました。


順風満帆のように過ぎた日々でしたが、

そのころ、母の更年期や、父方の祖母との関係が悪くなったことで、

父と母は最悪になっていきました。


実家で、一人っ子となった私は、

両親の成り行きを目の当たりにしなくてはならず、

父の横暴ぶりや、我が儘ぶりが目に付き、

キライな存在でしかなくなっていきました。


そして、母は。。。家出をしました。

イメージ 1

作業場の二階に住んでいた祖母は、

相変わらず我が儘でした。

自分の気の向いた時に、

母の加勢をすると言っては、

台所を整理し、自分の好きなように

配置をかえたり、お皿や鍋を入れ替たりしていました。

母は、それが気に入らなくて、

よく、陰口を私に言ってきました。

本人には言えなかった母でした。

私の父と、祖母は日に日に険悪になっていきました。

祖母は、そんな中、

年端もいかない私に、

余計なことを吹き込んできました。

「あんたのお母さんとお父さんは、駆け落ちしたんよ。

 あたしは、初めから結婚に反対しとったからね。

 今でも、反対よ。あんたのお父さんは、ほんと短気で変人やからね。」

  (リリーフランキーの『東京タワー』でも、おばあさんが余計な話しを吹き込むくだりが
   ありました。『産みの親より、育ての親』という話し。祖母って、言わなくて良いことを
   孫に言う物なんだな〜ってその時、思いました。)

祖母がどういうつもりで、私に言ったのかはわかりませんが、

私は、むしろ嬉しかった。

小さいながらに、両親が大恋愛の末に

結ばれたという事実が

とても心地よかった。


そして、それからしばらくして、

祖母は、引っ越して行きました。

問題が一つ減って、

両親は少し、落ち着いた日々を過ごしていました。

母の一番嫌いな場所

それは、父の実家でした。

私が物心ついた頃には、

もう祖父はなくなっていて、

実家には、祖母と、父の妹とその息子の3人暮らしでした。

祖母は、その頃、駄菓子屋兼雑貨屋を営んでいました。

父の妹(kおばちゃん)という人が、

これまた、気が強い人で、

夫を早くに亡くしてからというもの、

洋裁をしながら一人息子を育てていました。

実家は、父が建てたものだったのですが、

いつの間にか、kおばちゃんが出戻り、我が物顔で暮らしたそうです。


その実家に、

両親は月に一度、生活費と手料理持参で

出向いていました。


小さかった私は、結構楽しみにしていて、

おこずかいがもらえることは、絶対にないのですが、

祖母の駄菓子屋で、ガムのくじや、おもちゃのくじを、

遠慮しながらも、何度もただでひかせてもらい、

あたってもない1等賞をもらって帰るのが嬉しくてたまりませんでした。



そのころの私は、我が家で遊ぶことが大好きな子で、

よそのお宅に行くと、

「帰ろう、帰ろう」と言って母を困らせていました。

でも、父の実家に行く時に限って、母は、

「今日は、すぐ帰りたいって言っていいよ。」と、私に言ってきました。

そういわれても、子供心にタイミングに悩んでいたのを覚えています。


その実家で、

私は、何度も父とkおばちゃんの壮絶な兄妹喧嘩を目撃したのです。

理由は、たぶん金銭。

いろいろと、お世話していたらしいのですが、

大人の世界の、汚いところを

私は見せつけられて、今考えると、不憫な子だったな〜って

自分で思います。


母は、私がガムや、おもちゃをたくさん抱えて帰っても、

叱ることはありませんでした。

私が大人になってから、母は、

「お金、いっぱい置いてきたんやから、駄菓子くらいもらっても全然足らんやったよ。」

と、言うのを聞いて、

私は、遠慮していた自分が馬鹿馬鹿しく思えたのでした。

問題児(婆)現る。

イメージ 1

父と母が離婚寸前までの大げんかをしていたころ、

もう一人、ウチに身を寄せて来た人がいます。

その人も、原因の一つだったと思います。

それは、母方の祖母です。

祖母は、連れ合いを病気で亡くし、

女で一つで、逆境を乗り越えてきた人ですから、

かなりの強者でした。


何故、祖母がウチに来ることになったのかはわかりませんが、

非常に健康で、お金にも不自由していなかったのに、

作業場の2階の一部を改造して、

祖母の住居となりました。


祖母は、遠慮という言葉を知らない人でした。

食事は別でしたが、

お風呂は我が家のを使っていて、

夕方、お風呂が沸いたころ(そのころは、薪で焚いていたので煙りでわかります)

降りてきて、一番風呂に入るのです。

そして、その後、

しばらく、茶の間に居座り、

父がいるというのに、自分の好きなチャンネルに回し、

好き放題していました。

そんな祖母と、父の間で、

母は、とてもハラハラしていたのを

幼いながらに、私は感じていました。

   
   画像は、私の水着グラビアです。。。(=^‥^A
   
   エロ可愛い?

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