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天孫族の源流 NO.38

徐福伝承(3) 
 
次の
④仙薬を求める旅は、徐市が求めたものか、始皇帝の命令によるものか
⑤仙薬を求める旅に、何故童男女或いは振男女や五穀の種種、百工が必要なのか
⑥当時はどんな時代だったのか


 については切り離して論ずることは出来ない内容でもあるので、同時並行的に検討を加えたい。

 まず徐福の旅が、自らの発案であったのか否かであるが、これに関しては徐阜村の伝承譚にその解答が示されている。
 
古老曰く、「私は皇帝の命によって薬探しに旅立つが、もし成功しなければ秦は必ず報復する
だろう。必ずや「徐」姓は断絶の憂き目にあうだろう。われわれが旅だった後には、もう「徐」姓は名乗ってはならない」
 
明らかに始皇帝の命を受け、徐福は海上に旅立ったのである。しかし、私はここのところをもう少し掘り下げて考える。

徐福は方士だと云う。方士とは、中国古代の方術を行なった人のこと。方術とは,卜筮(ぼくぜい),医術,錬金術等を指す。彼らは又仙術を行い、不老長生薬の調合にも手を染めていたと言われている。
  尚、錬金術師の系譜は、古代ギリシャから中世ヨーロッパに至るまで連綿と続き、医学や化学を始めとする、様々な分野での活躍が知られている。

彼らは、現代的に言えば、良い意味では「求道者」、悪く言えば「山師」であるが、時代の先端を走る優秀な頭脳集団であることは間違いない。
 
徐福が「求道者」か「山師」、どちらの範疇に属するのかは不明だが、こと不老不死の仙薬に関しては、プロであったに違いない。つまり彼にとっては、専門分野でもある不老不死なる仙薬は、入手可能な代物か、そうではないのか・・・当然熟知していた筈なのだ。
                                                                                                    
これらの認識があった中で、絶対者「始皇帝」の命が下った。失敗は即、死に結びつく。徐福の頭には、まず成功のイメージはなかった。それ故、旅立ち以後は徐姓を名乗ってはならないという、徐阜村への言い置きとなったのであろう。
しかしこれで終わらないのが方士(山師?)である。彼には常に大きな事を為したい、大きな山を当てたいと云う夢がある。
生きて戻れる保証のない旅であれば、行きつく先で一旗揚げる術はないか、と思いを巡らしたに違いない。

イメージ 1

そう、彼は夢見たのだ。海中神山の王となることを・・・。そしてそこが、古の我が国だったとしても、何ら否定すべき理由はない。
 
ところで、徐福の旅は1回で完結したのではない。史記にある通り、1回目、始皇帝二十八年、齋戒を得て童男女數千人と共に、海に入りて僊人を求めた。
始皇帝三十五年、出発より7年後ではまだ結果は得られていなかった。この時に帰国していたのかどうかは定かでない。
始皇帝三十七年、出発より9年後。海に入りて数年神藥を求めたが得られず。徐福はけん責を恐れ、琅邪へ巡遊していた始皇帝へ、偽りの申し開きをしたとある。この時には、彼は帰国していたようだ。
 
 「蓬莱の藥得べし。然れども常に大いなる鮫魚の苦しめる所と爲す。故に至るを得ず云々・・・」
 
始皇帝は、瑯邪の北方、之罘(しふ)にて、巡遊途上の黄河川港、平原津で病に倒れ、その年の七月、河北沙丘平臺で帰らぬ人となった。
 
2回目の旅の出発は、当然ながら始皇帝崩御の前であろうが、之罘に於ける始皇帝の巨魚射殺時に、同道していたのかは記されていない。
ここで、問題となるのは、史記の淮南衡山列傳に登場する徐福伝承である。
ここに記述されている、始皇帝に対する徐福の弁解が、始皇帝三十七年に見られる弁解内容と異なるのである。
 
還りて偽りの辭を爲して曰く、
  「臣、海中の大神を見る。言いて曰く、『汝は西皇の使いか』と。
臣答えて曰く、『然り』。『汝は何をか求むる』。曰く、『願わくは延年益壽の藥を請わん』と。
神曰く『汝が秦王の禮薄し。觀ることを得れども取ることを得ず』云々・・」
 
始皇帝三十七年に於ける徐福の弁解・再出航は、その年の始皇帝崩御を考えると、恐らく最後の旅となった筈だ。
一方、淮南衡山列傳に於ける弁解や再出航も、「平原廣澤を得たり。止まり王となりて來たらず」とあるので、同様に最後の旅となったことが読み取れる。
編纂者がいずれも司馬遷であれば、同じ弁解や内容とならなければおかしい。
 
淮南衡山列傳の徐福事件は、漢の武帝の時代に、淮南王が武帝への反乱を企てようとした時、部下が徐福の話を引き合いに出して、諌めたという話の中に登場する。
したがって、前210年頃の徐福事件から、概ね90年を経た前120年頃の話となる。
司馬遷の手によって記されたことを前提に考えた時、到る結論は一つしかないだろう。それは意識して為された脚色である。
史実のみを記すべき歴史書ではあっても、編纂者の確認し得なかった場面やその情報に於いては、読む者を退屈させない若干の脚色は、容認されていたのかも知れない。
とは言え、史実の根本は粉飾されてはいない。それが以下の部分である。
                                                                                                                                    
『令名の男子、若しくは振女と百工の事を以ちて即ち之を得んと。……略  ……、振男女三千
   人を遣わし、之に五穀の種種と百工とを資して行かしむ。徐福、平原廣澤を得たり。止まり王
   となりて來たらず』
 
  ここに見える内容は、海中神山に仙薬を求める旅を考えた時、大いなる違和感を感じないだろ
うか。求めるものと、準備すべきものとが、まるで結びつかないのである。
  海難の恐れがあり、身軽さシンプルさこそが求められる旅となるべきが、何故童男女数千人や五穀の種、百工を必要とするのか・・・。

  後世の遣唐使渡航の際、嵐に見舞われた乗員らは、貴重な荷物や資材を海中に投げ捨ててまで、船と身の安全を図ったと云う・・・。

  ここには明らかに、他の秘められた目的の存在が窺い知れるのだ。
これ程違和感を覚える文節を敢えて記したところに、逆に史実であることの匂いを感じるし、その主たる目的のあることを暗示させるのである。
                     【次回につづく】

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