Christian News Watch〜海外クリスチャン事情

旧ブログタイトルは「日本ではほとんど報じられない海外クリスチャン事情」です。

ちょっと国内事情

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国家の悔悟と社会の罪、そして「父祖たちの罪」

前回に続いてもう少し、木村公一牧師のシンガクやその類似事象について考えてみたいと思います。

「国家の罪過」「国家の悔悟」といったテーマは、筆者思うに、木村師の平和への思いとはうらはらに、むしろ思わぬグロテスクな方向に、事態を向かわせるのではないか、と考えます。

まず最初に要約を。

国家には心はありません。

も一度言います。国家に心はありません。だから悔い改めはそもそもできません。不可能です。

(ただし、国民同士話し合いの末の決議をとっての「制度改定」ならできます。これによりある特定の事態の再発を防ごうというわけです。)

で、悔い改めという心の問題を多様な価値観を持つ人たちで構成されている国家とか社会に当てはめるとどうなるか。

端的にいって、悔い改めない人間を取り締まらなきゃなりません。

極端に言えば、王が「余は悔い改めた。我が臣民も皆悔い改めよ。逆らう者は投獄じゃ」ってのと同じ。

冗談ではなく本当です。今欧米で、ポリコレ棒振り回す自称リベラルがやっていることがまさにそれ。自分の「悔い改め」に同意しない者を片っ端からパージしています。何か「悔い改めていない」とみなされるようなことを一言言っただけで、仕事をクビにしようとするのです。

その根源にあるのは、「この国・社会全体が性差別/人種差別/同性愛差別の罪にまみれている。これを悔い改めねば」ていう一途な、しかし全く見当はずれの正義感なのです。そしてその正義感の成れの果てがこのちょっと

スターリン的な「取締り」活動

なわけですね。

繰り返しますが。国とか社会にできるのは「合議したうえでの制度改定」まで。人の心変えようと思ったら、まずは「思想取り締まり」次に「洗脳教育」に入らなければならなくなる。

なので、「国家の罪過」「国家の悔悟」、そして、木村牧師以外にもリベラル進歩主義界隈でみられる「社会の罪」といった考えかたも、これは一種の全体主義的国家観に容易に繋がる、ものすご〜く

『ヤバいシンガク』

だといわせていただきます。

国家の悔悟と社会の罪

さて、木村師の主張をいくつか拝見しましょう。
ohashilo.jp
「戦争はレイプです。私たち原告の背後には、幾千万人のアジアの人々のさまざまな叫びがあること覚えたいと思います」(木村公一牧師)安保法制違憲福岡訴訟の第1回口頭弁論が開かれました。

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キリスト教教育は罪過・悔恨(悔悛)・再生の三つの時間から成り立つ人間の経験を重要視します。それは≪人間≫を理解するための基礎であり、経済活動を主軸に展開する≪歴史≫を理解するための重要な視点を提供してくれます。この罪過・悔恨・再生という三つの経験には、個人的な人生だけでなく、自分が属する社会集団や国家の罪過・悔恨・再生が本質的に含まれています。

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上記は前回取り上げた「安保違憲訴訟」の意見陳述ですが、他にも「国家の罪」「社会の罪」について言及しているものがあります。

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old.km-church.or.jp
武力への信仰か、それとも、苦難の贖罪か 〜秋の特別礼拝〜 2004年9月26日 経堂緑岡教会 木村 公一先生(日本バプテスト連盟福岡国際キリスト教会牧師)
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 この贖罪についての理解は当時の一般的な白人教会の贖罪観と大きく異なっていました。どのように異なっていたかというと、当時の一般的な白人教会は、キリストの贖罪から普遍性を取り除いて、それを霊的な問題に限定することによって、世界の問題には関与すべきでないと説いていたのです。

 分かりやすく説明すると、次のような理解になります。キリストの贖罪は個人的な罪を対象としているのであって、国家が犯す罪や、社会制度が犯す罪については妥当しない、という考えです。たとえば、ある個人が人を憎んだり、嘘をついたり、他人に暴力をふるったり、人殺しをすれば罪になります。そういう罪についての贖罪がキリスト教の贖罪なのであって、国家権力の発動で戦争をして、爆弾やミサイルを使って人殺しをしても、それは罪にはならない。それはキリスト教の贖罪とは関係ない、この世の問題なのだと考えるのです。こういう理解を持っていた南部の白人教会にとって、人権や平和の問題は第二義的な務めか、教会とは何の関係もない問題であったからです。

-----------------------------(強調筆者)

抜粋なのでちょっとわかりづらかいも知れません。補足しますと、米国公民権運動のM.L.キング牧師の時代、当時の白人教会はキリスト教を説きながら人種差別をしていた、あるいは社会の人種差別を放置していたということが、現代では批判の対象とされています。

そのような教会の説く贖罪論は限定的・閉鎖的だというわけです。

木村師のここでの論旨は、このブログ投稿で取り上げる「国家の罪」等といった概念を遥かに超えて遠大な、「罪なき人々の犠牲と苦難には贖罪の力があり世界を破壊から救う」といった?テーマなのですが、

これを全て論じるにはちょっとスペースがないので、ここでは「国家の罪」「社会の罪」という概念にのみ絞らさせていただきます。

さて、師は第二次大戦中の日本軍の行動を「国家の罪過」と評価し、また「国家権力の発動で戦争をして、爆弾やミサイルを使って人殺しをしても、それは罪にはならない」という聖書理解に疑問を投げかけ、

さらには上記引用二つめの説教を「教会の奉仕(ディアコニア)の中には、国家や社会に構造的に働いている罪の現実と闘うことが含まれている」と結びます。

聖書が言う悔い改めとは

なるほど、概要はわかりました。

一見すると、確かに戦争は教会外の事態であるとはいえ、大変な悪であり、罪であり、キリスト者なのにそれを悔い改めないのはおかしい、そしてそういった巨大な悪・罪を克服するよう働くのはキリスト者の努めだ、という木村師の主張は、説得力がありますね。

しかし、木村師のようないわゆる「社会派」や、およびリベラル進歩主義の方たちからも批判を受けるのを承知で、筆者はあえて言います。

本当の聖書的悔い改めは、個人が個人の罪を神に向かって悔い改めるものです。

木村師が社会全体の罪、国家の罪とか称しているものは、この悔い改めとはいっさいなんの関連性もありません。言い切ります。

それらはいうなれば「改善すべき社会制度の欠陥」とか「不要な犠牲を生んだ失策・政権の判断ミス」とか評価するべきで、「罪」とか「悔い改め」とかいう絶対的な基準を暗喩するような言葉づかいをするから、おかしなことになるのです。

ここで、聖書をちょっと見てみましょう。

神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(IIコリ7:10)

この聖句をちょっと見てみるだけでも、わかることがあります。

それは、本当の悔い改めとは、「神のみこころ」に添っているはずだ、ということです。「神のみこころ」?どうやって「神のみこころ」に添っているかわかるのですか?

それは、聖書に表された神、つまりイエス・キリストを信じ聖霊を受けていなければムリな相談、ということにならないでしょうか。

なぜなら聖書の他の箇所にこうあるからです。

いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。(Iコリ2:11)

このように、聖書は「悔い改め」を、まず「神」に関連付けているのです。(もちろん神であれば何でもいいのではなく、イエスが「御父」と唱える神であり、旧約風にいえばイスラエルの神、主であるヤハウェです。)

これは、旧約聖書の経緯と、イエス・キリストの宣教の始まりを関連付けるといっそう鮮明になります。(↓参考。)
blogs.yahoo.co.jp
プログレッシブ・キリスト教の水面下での浸透:欧米から日本へ (21) プログレッシブ・キリスト教神学に応答する(1) じつに20回の長きにわたって、プログレッシブ・キリスト教(別名:キリスト教進歩主義)を取り扱ってきましたが、その中でやや思...


聖書の神を念頭に置くことなしに「聖書的な悔い改め」はありえない。

そうすると、どうでしょう。

国家とか社会は、多種多様な信念、宗教、考えを持つひとたちで構成されているものです。

ましてや現代の先進国国家は非宗教的政府権力の下にさまざまな宗教者非宗教者が所属します。

日本ひとつとっても、キリスト者などごく一部で、仏教、神道、無神論、●価ガッカイ、幸福の科●、なんじゃらと、実に多種多様です。

それでは、「国家が丸ごと悔い改める」なんて絶対ありえないムリな相談です。

ますますムリな「国家の悔い改め」

そもそも、純粋に心の問題である悔い改めを、外面からどうやって判断するのでしょう。

教会の内部でおこりうる例を考えてみましょう。

例えば、ある人が不倫をして配偶者を傷つけたとします。

しかし、牧介者の必死の努力と取り成しによって、その人は自分の過ちに心底気づいて後悔し、悔い改めを表明。不倫相手と手を切り、配偶者に誠心誠意謝りました。

配偶者もその謝罪を受け入れ、再び関係回復に取り組むとします。

この種の「悔い改め」は、完全に、ではないにせよ、「悔い改めできたかできないか」が、外面からある程度推し量れる類のものです。

しかし、「国家が罪を丸ごと悔い改める」ということについてはどうでしょう。

国家が「戦争の罪」を「悔い改めなければならない」。では、それならば木村牧師のような宗教者の必死の努力によって、全ての国民がその「戦争の罪」に気づく日が来るのでしょうか。

一部に「いや、あの戦争での日本の行動は、間違いばかりではなかった」という人がいたら、そのような人は完全に社会から排除されなければならないのでしょうか。

いやそれって、どう考えても、ゼッタイムリです

しかも、その「国家全体」の悔い改めを客観的に誰かが評価したり、充分か不十分かを判定することなどできません。

なんとなれば、戦争とは国家が政策として行うものです。それを「悔い改める」としたら、当然憲法9条的発想で『一切の武力を放棄』みたいな流れになります。

ところが現実には、北やら西やらに、こちらにちょっかいを出してくる国家があるわけで、そうするとその「悔い改め」が現実と「不整合」を起こします

当然ながら、そこで現実的問題に対して現実的に対処しようと唱える人たちが出てきますが、

その反面「国家の悔い改め」を唱える木村牧師のような人たちは、そのような「現実派」が自らの理想とする「国家の悔い改め」に違反しているため、激しく反発し「軍国主義の復活だ」!という見当違いの危機感を持つわけです。

最初の「国家の悔い改め」がもとから的外れで機能しないものですから、何がどこまでいってもボタンの掛け違いが直らないのです。

また、「国家の悔い改め」具合がとうてい足りない、という認識から、木村師のような論者はいきおい「学校で徹底的に教育しよう」と唱えるわけです。

だから、「国家の悔い改め」を達成するためには、徹底的な洗脳教育によって全国民を同じ思想で染めないかぎり、その目標を達成することはできないのです。

つまり、思想統制であり、全体主義を志向しています。

こんなの、あまりにも恐ろしくて私は「シンガク」と読んでいいかどうかもわかりません。

奇妙な方向に迷走する「社会の罪」との闘い:反サベツ

上記に軽く一例を上げましたが、他にもいろいろな事例があります。

先に挙げた2つめの引用箇所とちょっと関連性があるので取り上げますが、いわゆる「反サベツ」運動です。

上述したように、かつての白人教会は、キリスト教を説きながら、同時にその当時に存在した人種差別ときちんと戦わなかったことが、今では批判されており、

それが原因で木村師のような社会派だけではなく進歩主義の方面でも

「サベツという社会の罪を放置するような神学では、キリスト者として足りない」

といった主張が上げられることに繋がっているようです。

近年ではそれがさらに「発展」し、欧米キリスト教界によってかつて行われた性的少数者へのバッシングの歴史が逆手に取られる形で 、LGBT権利運動もまた、「人種差別」との戦いの系譜に連なるものと位置づけられるようになりました。

(筆者は別にセクマイの人たちに何の偏見も抱いていませんが、性的志向性は「人種」とは違うと思っていますので、このような考え方に批判的な立場をとります。)

近年ではこれに「女性差別」も加わって、進歩主義の方面ではいずれも、「駆逐すべき社会の罪」のようなものとして認識されるに至っています。

当ブログで以前とり上げた「キリスト教進歩主義」と題したfacebookグループでもこのような記事が掲げられていました。
www.facebook.com
大阪で8月12-13に特別バイブルスタディを企画しています。どなたでも参加できます! バイブルスタディ―『永遠の十字架』
「人間社会は、弱い者、変わった人、皆と歩調を合わせない人達を犠牲にして自分たちの「平和」を保ちます。しかしイエスはそのような社会的・組織的な罪と偽善に対して「NO!」を突き付けます。私たちの今の社会でも、そのような組織的な罪が周りにはびこっています。クリスチャンがそれに加担してしまうこともあります。それに「NO!」を突き付け、虐げられている者たちを救い出すのがキリスト者の使命です。」

「社会的・組織的な罪」という概念が出てきました。また、進歩主義神学を発信している以下のブログでもこのような主張がなされています。
投稿日: 08/10/2017 投稿者: talmid悪いのは個人ではなく社会システム 今読んでる本Saved from…
RABBISFEET.COM

「パラクリートがくればコスモスの罪が暴かれる。ヨハネ16:8。個人の罪を指摘して罪悪感を持たせるのではない。この世、コスモス、社会システムの罪を暴き、それによって人権が蹂躙されている人たちの声を拾いあげるのが聖霊の働きだ。」

「アベルからゼカリアまで全て宗教システム、政治システムによって殺された人を「ディカイオー」(正しい、無実)と宣言し、その全ての罪を十字架に付けるのがキリストの福音だ。今の宗教システムに迫害されている性的マイノリティ、すべてのマイノリティは無実であり悪いのはシステムだと聖霊は宣言する。」

(↑筆者コメント「個人の罪を指摘して罪悪感を持たせるのではない。」とはいいじょう、「マイノリティに同情しないお前はサベツ者だ!」とネチネチ罪悪感を刺激し、オルグする裏口的な政治手法はどうなんかな〜ってサヨク経験者のワタシなんかは思うんですけどねぇ〜・・・・)

ふむ。「社会システムの罪」と「マイノリティ」これらがキーワードですね。

で、上記のような主張は、真理を突いているようで、微妙にずれていると私は思います。

なぜなら、「社会的罪」あるいは「社会の罪」などというものはそもそも語義としてちょっとおかしいからです。

「社会」には心はありません。それは、「制度」であり、「構造」です。

ですから、これは駅舎の構造とか、会社の社有ビルの構造に「罪」があると言っているのと同じです。それをいうなら、「欠陥」とか不具合」と言い表したほうがいいでしょう。

(おそらく「世の罪」(ヨハ1:29)といった聖句と混同してしまったのでしょうか・・・?。しかし、聖書はキリスト者が「世の罪」を集合的に取り除くことができるなどと一言も言っていません。それができるのはキリストだけです。)

さらに厳密にいうなら、社会制度というものは、およそ人類の持つ特有の残酷さとか貪欲さなどをある程度抑制・制限しつつ、最低限の生活を保障するなどして内部紛争や治安悪化を防止する構造としてデザインされています。

で、実は、そういった残酷さや貪欲さこそが「罪」の表れのひとつなのですが、

社会制度の不備を常に改善していくのはいいとしても、「社会の罪」などと言ってしまうと、「罪」はあくまで個々の人間のものであるということを忘れてしまう心配がないでしょうか。

どんな未開の社会でも公平で立派な態度を貫く人はいますし、逆にどんなに進歩した社会でも、相変わらずその抜け穴を見つけて悪事を働く人がいるものです。また、「絶対王政」は危うい制度ですが、稀に善王が善政を敷くこともありますし、他方民主制度の下でも何かの拍子に大惨事が起こりえます。

それであたかも、何かの方法でもってその罪を集合的に悔い改めたり、取り除くことができるかのように思えてしまいます。

でも、上記で述べたことを考えたら、そんなことはゼッタイに不可能なのです。構造の中にいるのは罪深いニンゲンなのですから。

カンペキ平等な理想的社会制度を実現したら罪がなくなるなんて誰がわかるのでしょうか?

また、さらに疑問なのは、「社会の罪」に「NOを突きつける」とか「戦う」ということが具体的に何を意味するか、です。

聞こえはとても勇ましく思えますがじゃあ何を指すのでしょうか。曖昧ですね。

どうも、これらの投稿から伺えるのは、「反ヘイト」「同性婚・同性パートナーシップ制度採用」あとは「パレスチナ支持・イスラエル反対?」を所要なアジェンダとしているようです。

では、一番頻繁に出てくる印象のある「同性婚」を例にとって考えてみましょう。

同性婚は法制度の問題になるので、推進する側としては、反対層や無関心層を説得するための政治的議論を展開していかなければなりませんが、

この制度は、日本人のセクマイの人たちの中でも「養子縁組があるのだから不要だ」といった声も多く、また反対する人たちの中には「そもそも結婚は子孫を残し社会を存続するための制度だから同性間に適用するのはおかしい」といった意見も根強いです。

それに対し説得の材料として使えるのは「マイノリティ迫害という社会の罪を放置するオマイはヒドいヤツだ」と、この1点のみです。

そこで、「迫害なんてない」と言われたら「ある」「ない」の押し問答ですし、

そもそも「そんなの私には関係ない、興味がない」と言われてしまったら、たちまちお手上げです。

これって、前回とりあげた慰安婦問題同様、「なんとなくボンヤリとした罪悪感を刺激する」以外何も戦術がないので、反対層・無関心層が心底納得し賛成に転じるようなインセンティブを与える実際的議論が完全に欠落しているのです。

で、仮にこの活動が成功し同性婚が制度化されたとしても、「同性愛は罪だ」と考える人(日本にはそう多くはありませんが)、「好きにやってくれればいいが表に出てこないでほしい」とか、「そもそもキモイ」と考える人がいなくなるわけではありません。

だから、最終的には「みんなを教育しなきゃ」となって、欧米でやっているように幼稚園くらいから「同性愛はスバラシイ」と教えよう、って流れにどうしてもなってしまいます。

しかし、さらに大きな問題があります。

医学的には何をどう考えても(女性同士は知りませんが)男性同士の性行為には健康への害しか存在しないのです。

で、それを「スバラシイ」と手放しで称揚するようなあからさまな現実遊離に、人がどこまで耐えられるか。ギモンしか沸きません。

前回みたいに「ハードル」を挙げるとすれば、この運動には
1. セクマイが本当に『迫害』されていることの証明 
2. 同性婚採用でその『迫害』がやむことの根拠 
3. 同性婚や同性愛教育にはメリットが当事者以外にあるか 
4. 男性同士の同性愛行為が健康に有害であることにはどう対処するのか

といったハードルがありますが、結局どのハードルも越えられていないまま、ただひたすら「さてはサベツに加担するのか!オマイはサベツ者だ!」と言って相手の罪悪感をかきたて続ける。

それで、聞く者は、やはり慰安婦の問題と同じように「責められつづけるのは苦しいから、何かよくわからないけど同意してしまおう」と言う人と、「もうつきあいきれんわ」と完全に背を向ける人に分かれてしまうのです。

進歩主義では、その信条を広めることや、社会の罪と戦って「弱者」を救い出すことを通じて、「愛」が広がる、といった思想があるようですが、
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プログレッシブ・キリスト教の水面下での浸透:欧米から日本へ(14) ----- お知らせ 同じテーマでの投稿数が増えてきたので、書庫「プログレッシブ教義と山崎和彦氏」を追加しました。


こんなことでは到底その結果は望めないと思います。

なぜこんなになってしまうかというと、教会の中でのみ通用する「罪」という概念と、「社会制度」という教会外の世界を包括する概念をごっちゃにしてしまうから、話が到底かみ合わないに決まってるのですね。

人にイジわるするのはあくまで人です。社会制度をもってそれを完全に排除することなどできませんし、ましてや同性婚を法制化しても「ごく一部のLGBT(活動家?)」が喜ぶだけだとすれば、多数の有権者を説得することは難しく、不毛な結果に終わるように思えます。

とはいえ、この「国家の罪」や「社会の罪」を掲げるキリスト教論者で、最も恐ろしいのはもしかするとこの方かもしれません。

「未来永劫日本人を呪ってやる〜」社会派牧師

前々回で取り上げた岩村義雄牧師先生。木村師と同様の活動をされているようですが、その岩村師主催の「エラスムス平和研究所」HPのトップに、南京大虐殺に関する論考があり、その結びにこんな一節があります。

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はじめての南京訪問で思わせられました。80年前に犯した父親,祖父たちの世代の罪について関係がないとは言えません。戦時下,江戸時代でも連帯責任が問われました。連帯とは横の関係だけではありません。縦の関係も同様です。親がいればこそはじめて私たちもこの世に命として表れたのです。したがって,父祖の罪も背負うのは宿命です。あれだけの虐殺,慰安婦たちの涙,暴虐について無実とはどの日本人も言えません。「否定の論理」をもって,近隣アジア諸国に謝罪,補償を未来永劫にわたってドイツ国のようにすべきでしょう。

-----------------------(強調筆者)

父親、祖父たちの世代の罪縦の連帯責任父祖の罪を背負う宿命どの日本人も無実とはいえない未来永劫にわたって」・・・・・・・・・・

いやはやまあ、そういえば江戸時代といえば、森鴎外だったかの本に「親が罪に問われ、その子がお白洲に上げられ打ち首となった」ってのがありました。「最後の一句」ってやつだったか。

連座制(現在の選挙管理法のではなく、犯罪者の家族子孫全員裁く、っていう罪の裁き方)は、古代の世界では珍しくなかったそうです。

もう、岩村先生のお心はそれくらいの時代に退行しておられるようですね。人間勉学をた〜くさん積んだからといってリベラルになるとは限らず、むしろ復古主義に傾くとは初めて知りました。

ともあれ、筆者としてはこの問題についても「被害者の証言だけでなく、それを裏付ける加害者の自白や証人、証拠物件があるか」「事実認定後も第一に罰せられるべきは加害者とその上官。また当時の政府高官が処刑されている以上、現在政府の責任はどこまで問えるか」「戦後の補償は果たして足りないといえるのか」といったハードルを越える必要があると思いますが、

もうそんなもん全部すっ飛ばして「父祖たちの罪」と。

自分と血のつながりがあるかどうかもわからない日本兵が80年前起こした(と言われている)事件について、またその日本兵やその上官がその後処罰されたかどうか関係なく、また現在の政府が中国と協定を結んでいるかどうかも関係なく、

とにかく「日本人だからその「罪」を未来永劫負え」と迫っているのです

「二度と起きないように、これを語り継いでいかなければなりません」とかそういうレベルを遥かに超えて、早い話が、今生きている日本人、その子供たち、そしてその未来の子孫たちまで全員を、永遠に呪っているんです。

そ、それはまあ大層なこととは思いますが、ハッキリ言って、こんなことを主張しても、大方のノンクリ市民からは「キリスト教ってキモち悪い宗教だね・・・」って思われ、その政治思想ともどもキリスト教自体を忌避されるだけの結果に終わりそうですし、

他方、極左傾向の人にはこの政治思想に賛同してもらえても、あくまで政治思想に賛同するだけで、彼らがそれでイエス様を信じようって気には絶対なれない、と思います。

いや、本当に惨めといえばあまりに惨めというか・・・・・・・・。なぜこんなになっちゃうか?

それは聖書的な意味での「罪」や「悔い改め」の捉えかたを間違ってしまっているからではないでしょうか。

「罪」は個人のもの、「悔い改め」は命に導く

最初のほうに取り上げた、聖書的な「悔い改め」をもう一度見てみましょう。

聖書的な悔い改めは、イスラエルの神・主を御父としその神から使わされたイエス・キリストに向かってすることなしには成立しません。そうでない悔い改めは聖書的には無意味です。

もちろん過去の国家の失策や、社会制度の不備についていろいろ省察し、改善策を提言すること自体は、前向きでよいことだと思います。

ですが、基本、教会外の現象については、教会外の法律なり国際法なりで裁定すべきであり、

そもそもキリスト者としては、その行為そのものをやったり命令した本人でないことを自分が悔い改めるとかないとかは、いっさいなんの関係もありません。

ましてや、80年前に何かをやった(かもしれない)日本兵について、自分が代りにその人の行為を悔い改めてあげることもできません。それをしたところで意味はないのです。

そして、その、80年前に何かをやった(かもしれない)日本兵は、既に死んでしまったでしょうし、また死んでなかったとしても、いずれ神がお裁きになるのです。

木村師や、進歩主義グループ、そして岩村師に共通しているものがあります。

それは、教会の外と中を混同していることです。

外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。 Iコリ5:12-13

そして、神に向かった本当の悔い改めは、「日本の国が過去に犯した罪」とか、「社会システム」がどうとか、あるいは「日本人であること」に起因する延々と癒されない罪責感を感じたりするものではなく、

その罪責をどうにかするため遮二無二政治活動に打ち込むようにするものでもありません。これも、上記の人々が見落としていることです。

政治活動自体はいいのですが、教えとごっちゃになってしまっているところが問題なのです。

この陥穽がよくわかる聖句には以下のようなものがあります。

もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。Iヨハ1:7-9

「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」とあります。

私たちは皆罪びと(ロマ3:10)なのですが、罪びとであるにもかかわらず、キリストを信じることによりその流された血にあずかることができ、それによって罪からきよめられる、とあります。

そればかりでなく、自ら罪を言い表し悔い改めるなら、神は「その罪を赦し」てくださる、とあるのです。

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。 それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。ロマ3:23-26

ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められる

これが、本当の悔い改めに伴うものだとしたら、いったいなんという喜びでしょうか!

本来なら、神から断罪され来るべき刑罰を受けるはずなのに、御子が代りに血を流してくださったことを知り、受入れ、神に心を向けることで、赦されるばかりか、「義と認められる」というのです。

もちろん、もしあなた自身が実際に、例えば殺人や強姦を犯したり、そのようなことを他人にさせたことがあるなら、神に向かって悔い改めることに加えて、国の刑法に従った処罰を受けるとともに、できる限り被害者へ補償することが必要でしょう。

また、過去にある人をいじめたり不当な損害を与えたりしたなら、それも同様です。

しかし、もしそうでないなら、ひとたび悔い改め、イエスを信じたなら、あなたのするべきことは、

政権や日本政府に祟ったり、
一部の活動家しか喜ばず当事者が幸せになるかもわからないLGBTアクティビズムに邁進したり、
日本人を永遠に呪ったり、

ではありません。むしろ、神に赦されたことを喜びながら生活すべきだと思います。そして「隣人を愛せよ」とあるように、自分の身近にいる人たちにその喜びを分け与えるべきです。

ましてや、進歩主義グループのように「あなたも『社会システムの罪』に加担しているのでは?」と陰険な方法でオルグしたり、岩村師のように、自分の身近にいる人たち(日本人)を、未来永劫許しの得られない果てしない罪責感に引きずり込もうとするなど論外です!

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