Christian News Watch〜海外クリスチャン事情

旧ブログタイトルは「日本ではほとんど報じられない海外クリスチャン事情」です。

「救われる」とはどういうことか(4)

「救われる」とはどういうことか(4)

さて、「人は死んだらどうなるのか」ということにまつわる疑問や、「天国(楽園)」というものが実際に成立する条件と、さらには「天国(楽園)は最初からあったのだが、人間の背きによりなくなってしまった」という聖書の考え方を論じてきました。

ここでいよいよ、私自身の体験に留まらず、全ての人にとって「キリストを信じ救われる」ということが必要であるのはどうしてか、ということを説明していきたいと思います。

いくつかの疑問

単刀直入にお尋ねします。

あなたは、自分が死んだあとどこに行くとお考えですか?

もし、「今より良い場所に行ける」とお考えなら、その理由はなんでしょうか。それを保証してくれるものは何でしょうか?

「今より良い場所」は、どこの誰が造り出してくれて、どのようにそこに導き入れてくれるのでしょうか?

無宗教、無神論、仏教徒の方、ムスリムの方、あるいは創価学会員の方など、それぞれのお立場で答えがあるかも知れません。おそらくそれぞれお持ちの聖典や何かで、何らかの答えが与えられている場合もあるのでしょう。

しかし、あなたのその聖典は世界の全てを造られた方をどのように説明していますか?

世界がかつてどのような状態にあり、今はどのような状態に向かっているか、きちんと説明していますか?

もし、「今より良い場所」がいつかの日か作り出されるとして、それはいつでしょうか?

その「今より良い場所」に入るための条件として、どんなことが挙げられていますか?

最初あった「よい」世界がどうなっていったか

私ならこう言います。

まずなによりも、「世界の全てを造られた方」が存在しなければ、「今より良い場所」も将来にわたってずっと存在しようがありません。人間には創造不可能ですから。

聖書は、はじめに創造主という方がおられ、この世界を造られたと語ります。

創世記1:1初めに、神が天と地を創造した。

創造主はさまざまな生物、豊かな植生、そして男女一組の人間を造られました。しかも「最初はよいもの(楽園)として世界を作られた」のです。

1:31 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。

しかし、前回述べたように、この「楽園」の秩序は人間の背きによって崩壊してしまいます。神と人の関係はもちろん、人と人との関係の調和も崩れてしまったのです。

また、世界は当初は今よりはるかに豊かだったのですが、大幅に乏しくなりました。

聖書によれば、かつて人間の寿命は今より遥かに長く、(創世記5:5 アダムは全部で九百三十年生きた。)

またかつては、あらゆる動物が生存のために動物蛋白質を摂る必要性が全くないほど植生が豊かで様々な食糧が手に入りました。

創世記1:29-30 ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。
また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」すると、そのようになった。

しかし、いっぽうで、聖書は、アダムとエバが神に背いてから数世代がたつと、人が貪欲、暴虐、高慢に心を奪われていくさまを述べています。

創世記6:5 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

6:11 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。

とうとう、その暴虐に満ちた世界を神は洪水により清算します。

(神はノアに箱舟を作らせると同時に彼を通じて警告を与えさせましたが(IIペテロ2:5)、ノアの家族以外は誰もそれを聞き入れませんでした。)

そして、洪水後。植生は以前ほど豊かではなくなったので、神は人が動物を食べることを許します。

創世記9:2-3野の獣、空の鳥、――地の上を動くすべてのもの――それに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。

こうして人類は継続できました。ただ寿命は、洪水後、なんらかの理由で急激に短くなりましたが。

しかしその後も、人々は全体としてますます悪に落ちていき、神のことを忘れていきますが、いっぽうで、自分たちの高慢に対して再び神の手が下るかもしれないということを薄々気づいていたようです。

それで、人間の権力の象徴として高い塔を立てれば(創世記10章には「世界最初の権力者ニムロデ」が出てきます)自分たちが「散らされる」ことはないと思ったようです。

創世記11:4 そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」

とはいえその後言語が分岐してしまい、人間たちはこの大事業を継続できなくなったのですが。

ともあれ、人々はこの段階になるともはや創造主である神をその脳裏の隅にも覚えてさえいませんでした。

アダムはかつて園を歩き回る創造主と親しく会話していたし、そして神の言葉にそむくという罪を犯した後にも「神の名によって祈る」という習慣はあったのに、

この塔の時代(バベル)になるともはや創造主とは似てもにつかないものを造り出して拝んだり、権力者が「自分は神の子だ」「現人神」だと主張したりすることさえ始まりました。

しかし、やがて年月が経つと神はアブラハムを選び出し、そしてその子孫であるヤコブにも現れ、またその12人の子供たちから生まれた民に対して、モーセを通じて現れます。

なお、モーセが現れ、エジプトからヤコブの子孫たちを連れ出した頃には人類は堕落を極め、

とくに周囲民族、すなわちカナン人たちは偶像を拝むどころか礼拝の一環として男色女食の乱交行為を行い、あまつさえ幼児を火で焼いて捧げることさえしていました。

レビ記18:3 あなたがたは、あなたがたが住んでいたエジプトの地のならわしをまねてはならない。またわたしがあなたがたを導き入れようとしているカナンの地のならわしをまねてもいけない。彼らの風習に従って歩んではならない。

聖書のこの箇所は、絶対に真似てはいけない習慣として、近親相姦、不倫、獣姦、男色、幼児犠牲などを列挙しています。

そんな中神はアブラハムーイサクーヤコブの子孫たちに「律法」を授け、「神と人々」の関係をどうにか回復しようとするのですが、この試みも順調には行かきませんでした。

モーセが死んだあとその従者ヨシュアは民を率いてヨルダン川を渡りカナンの地を占領しはじめます。

そうしてイスラエルの国を形成していくのですが、あるときは神に心を向ける指導者が現れても、別のときは堕落した者が立ち、人々もまたしばしば偶像を拝んだり周囲の民族と同様な性的不道徳もたびたび蔓延しました。

また、一時は強力なダビデ王が地域を平定し、その子ソロモンによって安定した体制が作られましたが、

ソロモンもまた偶像礼拝をしてしまい、その死後すぐ国がイスラエルとユダに分裂してしまいます。

そして、神に立ち返っては堕落し、のその繰り返しの中、神の言葉を聞いた預言者がたびたび人々に警告します。

ただ、大多数の人々がそれに耳を貸すことはむしろ稀でした。聞いても、また時間が経つと忘れてしまうのです。

ごく少数の人たちが神からの言葉を書き留めるのみでした。

しかし、それによるなら、神はこう言っています。

天地の回復

イザヤ書65:17見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。

イザヤは、ユダヤ人がバビロンに捕囚される前のユダ王国で、アッシリアなどの周辺国の脅威に晒されていた時代の預言者です。

そのイザヤは、神はいつか天地を新しくされる、と言っています。

また、この同じ預言書にはますます不思議なことが書いてあるのです。

65:18-25 だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。
わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。
そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。
彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。
彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。
わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。
彼らはむだに労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは主に祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ。
彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。
狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食べ、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、そこなわれることなく、滅ぼされることもない。」と主は仰せられる。

人間はかつての長寿を回復し(木の寿命といえば数百年から1000年にも及びます)、病気による突然死もなくなり、

また動物たちはもはや生きるために狩りや殺しをしたり、あるいは草食動物が捕食者におびえることもなくなるといいます。

まさに、先の投稿で説明した「最初の世界」の回復です。回復されるのは物質的環境だけでなく、「創造主」と人間たちの親密な関係もまた回復されます。

人の罪をあがない、とりなす者

ところが、その同じ預言書に、「苦しむしもべ」という不思議なものもまた、出てきます。

52:13-15 見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。多くの者があなたを見て驚いたように、――その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。――そのように、彼は多くの国々を驚かす。王たちは彼の前で口をつぐむ。彼らは、まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないことを悟るからだ。

このしもべは、多くの人の罪を負い、打たれ、叩かれ、苦しめられ、蔑まれ、自分の命を生贄にするのですが、それによって後に多くの人たちを勝ち得る、というのです。

続きの節にそのことが詳しく書いてあります。長い引用ですが、是非読んでください。

53:1-12 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。
主の御腕は、だれに現われたのか。
彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。
彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。
人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。
だが、私たちは思った。
彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。
しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。
ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。
彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。
彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。
しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。
もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。
わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。
彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。
彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。

イエスが現れたとき、彼はこの預言のとおりの命運をたどり、また十字架で死ぬ前に弟子たちにも自らの使命はこのとおりであることを明かしました。

なぜ神は、イエスにこのような苦しみを負わされたのでしょう?

それは、人間というものをご自分のところに取り戻したい、以前のような親しい交わりに戻りたい、と願っておられるからです!

ヨハネによる福音書3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

もうひとつ、神の本質を表す聖書箇所をご紹介しましょう。

エゼキエル書18:23 わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。――神である主の御告げ。――彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。

神は、たとえ悪人であっても、彼が滅びることを喜ばないのです。できれば、悔い改めて自分のところに戻ってきてほしい、と願っておられるのです。

こうして、イエスは、あなたも含め、全ての人の罪を贖うために十字架にかかりました。

私の体験談では、過去のひどい罪の自覚により自分は神と会ったときには死刑になるに違いないと感じていましたが、同時にその死刑を他の誰かが受けてくれたのだ、ということを悟った、ということをお話しました。

ちょっと話が逸れますが、

世の中には、いわゆる「犯罪」を生涯犯さないまま亡くなる人はたくさんいるかも知れませんが、

聖書の定義するところの「罪」を生涯犯したことのない人は、(幼時に死んでしまった人や重度の知的障碍を持っている方は除外するとして)いないのではないでしょうか。

たとえばイエスは「女を欲望の目で見るだけで罪」「兄弟に向かって『愚か者』と言うだけで罪」と指摘しています。

厳しすぎるでしょうか?

確かに今の世界ならば、そういった悪い思いが心をよぎっても、明日は仕事や学校です。

やることがたくさんあり、多くの人は、「姦淫してやろう」「あいつを殴ってやろう」と思ったとしても、実行には至らないかもしれません。

しかし、もしあなたが「いつか神の前に立たされ」「その魂は永遠に生きる」としたらどうでしょう?

小さくとも確実に存在するその思いを抱えたままだとしたら、まったく悪というものを持たない神の前に、あなたは何分間、いや、何秒間立っていられるでしょうか?

ましてや、もし、その神が、あなたの心の隅に隠してあるどんな思いも見通してしまう方だとしたら?

生涯の中で、あなたがついやってしまったり言ってしまったあんなことやこんなことを、細大もらさず全てご存知だとしたらどうでしょうか?

そうして、それら心の奥に今まで隠し通してきた罪悪感、後悔の念、暗い思いが全て明るみにされ、清算もされないままに、永遠を過ごし続けなければならないとしたら?

・・・・

人は、もし何らかの事情で罪悪感を抱えていた場合は、「謝れば必ず相手が許してくれる」ということに確信がないと、相手の前に出ることは難しいものです。

どんな人間関係でもそうでしょう。人は、相手に悪いことをしたという自覚があると、まっすぐ相手の目を見て話せなかったり、ついつい相手を避けてしまったりしてしまいます。

しかし、それではどうでしょう、あなたは(クリスチャンではないと仮定して話をしていますが)、今も、将来もずっと、神を避け続けるのでしょうか?

今はいいかも知れません。でも将来は何が起きるかわかりません。そのとき誰に頼るのでしょうか。

いや、それより、あなたは死んだ後、一体自分がどこに向かうか、はっきりとした答えを持っているのでしょうか。

肉体が滅びて、もはや動くことも、口をきくこともできなくなったとき、あなたはどこに行きどう過ごすことになっているのか、確信はあるのでしょうか。

だから、私はこれを読んでくださっているあなたに勧めたいのです。

もし、あなたが「イエスは自分の罪の身代わりとなって十字架で死んでくださった」ことを信じるなら、神は必ずあなたを許してくださるのです。

そこを経ることで、やっと、人間は、神の前に迷わず進み出て、祈りや願いをし、導きを求めることができるのです。

神は、あなたとの関係を回復したいのです。そこで、ご自分の一人子であるイエスを犠牲としてあなたの罪を贖わせたのです。

この話はまた後でします。元の話に戻りましょう。

イエスは「罪を贖い、とりなしをするしもべ」の預言のとおりの生涯を経ましたが、果たしてそれだけなのでしょうか。

いえ、違います。イエスの働きには続きがあります。

来るべき王の王

この同じイザヤの預言書に戻りますが、いつの日か神はこの民族(ユダヤ人)、ひいては全人類の指導者を送るといいます。その特徴のひとつがこれです。

イザヤ7:14 それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。

インマヌエルとは「神が我らとともにいる」という意味です。イエスは、マリアという処女から生まれました。

イザヤの預言書にはそのほかにもいつか現れる指導者についての預言がたびたび現れます。上で引用した節の少しあとに、こんなことが書かれています。

9:6-7 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。

また、その身元も暗喩されます。

11:1-5エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。
その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。
この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、
正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。
正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。

エッサイというのはダビデ王の父の名です。イエスの家系はまたダビデの家系でもあります。また新約聖書では、イエスのうえに神の霊が鳩のようにとどまったと目撃されています。

マタイによる福音書3:16 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。 

このようなことから、イエスの弟子たちは、イエスがたんなる「他人のために死んでくれた良い人」ではない、と気づいていました。

そうではなく、イエスこそが「王」なのです。

すなわち、イエスは天地が一新され回復した世界で王となります。このイザヤ書の箇所はこう続くからです。

11:6-10 狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。
わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。

先にあげた、この預言書の65章の「回復された世界」と同じことが書かれています。

獣たちさえ、もう生きるための殺し合いをやめます。

獣たちがそうなら、人間たちはどうなのでしょうか?

この預言書の最初のほうにちょっと戻ります。

2:4 主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。

イエスが国々の間をさばかれるので、もはや戦争は起こりえません。

死んでも蘇る

ではもう一度、人は死んだあとどうなるか?その疑問に取り組んでみましょう。

イエスを信じる人たちにはある確信があります。

ヨハネによる福音書6:39 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。

蘇らせていただけるのです。

なぜそんなことを信じられるか?

それはイエスご自身が墓から蘇られたからです

イエスは処刑後500人以上の人々に同時に現れたといわれています。(Iコリント15:6)

そして、ユダヤ人宗教層やローマからの迫害の中でも、多数の信者たちが「イエスが蘇って現れた」という証言をやめませんでした。

いい加減な幻覚や、たんなる願望であったとしたら、自分の命を捨ててまでそんな証言をするでしょうか。

イエスは蘇られました。そしてそれだけではなく、「いつか戻ってくる」のです。

イエスはいつか帰還し、イエスを信じる者たちは蘇り、またイエスが王となって治めるべく世界は回復される。

では、そんなことが起きるとして、それはいつなのでしょうか。

聖書には、そのこともちゃんと書いてあります。

それを次回説明します。

.


みんなの更新記事