日本ではほとんど報じられない海外クリスチャン事情

キリスト教や聖書について、日本ではあまり論じられない視点から解析していきたいと思います。

プログレッシブ教義と山崎和彦氏

すべて表示

プログレッシブ・キリスト教神学に応答する(1)そもそも山上の垂訓って何?

プログレッシブ・キリスト教の水面下での浸透:欧米から日本へ (21)

プログレッシブ・キリスト教神学に応答する(1)

じつに20回の長きにわたって、プログレッシブ・キリスト教(別名:キリスト教進歩主義)を取り扱ってきましたが、その中でやや思うところもありました。

プログレッシブ信徒であるK.F.さんやその他の読者さんが指摘されたように、(筆者としてはユーモアを交えた風刺であっても)ただのイジワルのように聞こえてしまったり、おふざけが過ぎてしまって、筆者自身が伝えようとするメッセージがなんだかよくわからなくなってしまったきらいがあったかも知れないと思ったのです。(ちょっと反省(汗))

そこで、今回以後はマジメ気味なトーンに戻って、プログレッシブ・キリスト教神学に応答していきたいと思います。

そもそも山上の垂訓って何?

多くのプログレッシブ信者さんは「山上の垂訓」をその信条の中心に据えているようです。

そして、この垂訓を文字通り厳守することが大事で、またそうすれば周囲に救いが広がっていき、ひいては世界平和につながるといった思想も見受けられます。

しかし、本当にそうなのでしょうか?

そこで、拙いながらも筆者の解釈を交え、「山上の垂訓」はプログレッシブ神学を支持するかどうか、を検証したいと思います。

そもそも悔い改めって何?

山上の垂訓のテクストを見る前に重要な背景を頭に入れる必要があります。

それは、この説教が1世紀イスラエルで、ユダヤ人の弟子たち(イエスに従う者たち)に向けて語られたという事実です。

イエスは、宣教を開始するに当たって、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(4:17)と宣言したと記録されています。

教会でこういった言葉をよく聞くクリスチャンにとっては、特段なんの含意もなく、当たり前に思えますが、なぜ、御国が近づくということと悔い改めがつながるのでしょうか。

これを旧約聖書の文脈で考えるとこういうことです。

律法における神とイスラエルの民との契約においては、イスラエルの繁栄は、民が一心に神に心を向けているか否かにかかっていました。

申命記28の冒頭にこうあります。

もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行なうなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。

ところが、その同じ申命記で、もし民が神にそむいたら「もろもろののろいが臨む」とも警告されていました。病気、作物の不作、戦争での敗北のほか、子供たちは捕囚にとらわれていき、(28:32/28:41)外国人の地位はますます高くなり、イスラエル人はますます低くなる(28:43)ことが預言されています。

そして、まるでこの言葉が成就するごとく、列王記・歴代誌に記録されるイスラエル・ユダ王国の変遷は、1)「背教」→「外国に敗北を喫する」、2)「悔い改め一心に主を求める」→「神に助けられる」ということを何度も何度も繰り返し、3)最終的には背教がきわまって「バビロン捕囚」で終りました。

実は、旧約聖書の登場人物の中に、あるきっかけで御国が近づいたと考え、これらの経緯を念頭に自ら率先し悔い改めを行ったひとがいます。それは預言者ダニエルです。

神の国が来ると思って悔い改めた預言者

ダニエル9:2「・・・・私、ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。

エレミヤ書の中に、バビロン捕囚から70年後に都が再建されるという趣旨の聖句を見つけたダニエルは、そこで、「神殿再建」→「イスラエルの繁栄が回復される」と『早合点』してしまったのです。(→アーノルド・フルクテンバウム博士の説。)

そこでダニエルは民族を代表して悔い改めの祈りを捧げました。(9:4-19)上記に挙げた、モーセを介した契約を民が守らなかったがためにわざわいが下って虜囚の憂き目にあっていることを素直に告白し、(「このわざわいはすべて、モーセの律法に書かれているように、私たちの上に下りました」(9:13))主が怒りをおさめ、聖所に再びその威光を輝かせてくださるよう懇願しました。

しかし、その後天使が駆けつけ、ダニエルが想像したような王国の回復のためにはメシアが到来し、死ななければならないことを、正確な年数とともに告げます。(25-26)(→これも掘り下げると膨大なテーマで、ユダヤ教徒に対してイエスがメシアであることを立証することのできる重要な箇所なのですが、今はスペースがないので軽くしか触れません。)

つまり、モーセ律法の約定を下敷きに、イスラエルの回復を心から望んでいたユダヤ人たちの現状理解を考えるとこうなります。

「ローマに支配されていたそのときの現状(まさに「外国人の地位は高くなり、自分たちは低くなる」)は、神の戒めに背いたことが原因であり」

「国を取り戻すには「主に立ち返って、心をつくし、精神を尽くして主の声に聞き従う(申命記30:1-3)」ことが必要だ」

と考えていたと推察できるわけです。

だから、「悔い改めなさい、御国が近づいたから」との呼びかけを受けたとき、彼らはほぼ自動的に「イスラエル王国の回復が近い」というニュアンスで受け止めたと考えられます。

(だから、ここでイエス様がいう悔い改めは、(異邦人にとってはありがちのニュアンスである)「ただ悪いことをやめる」というのではなく、イスラエルの神、主に、一心に心を向けるということなのです。)

山上の垂訓は一種の預言である。

これらのバックグラウンドを念頭にマタイから山上の垂訓を見てみましょう。

5:3「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
5:4悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
5:5柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
5:6義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
5:7あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。
5:8心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。

同じ形式なのが、詩篇によく出てくる「幸いなことよ」です。

1:1幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。

「これこれこういう人は幸い」→「あとでこのようになる(いいことがある)であろう」

たとえば、「時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。

このような図式の詩篇は多数あります。

ところが、イエスのバージョンは、前段に出てくる人物像が今までのものとやや違います。

「心の貧しい者」自分が霊的に貧しい状態であることを自覚している者です。(多くのコメンタリーはこのように説明しており筆者も同意します)

これを確認するかのように、イエスは、自らを霊的に高い状態であると自認していたパリサイ人たちではなく、遊女や取税人(特に、神の前で胸を打ち、「罪びとの私をお許しください」と祈るような者でしょう)が先に御国に入ると言われました。

(もっとも、プログレッシブ神学でよく言われているように、社会から弾き出されている人全般ということではなく、この時点でイエスが話しかけている相手はヤコブの子孫でありイスラエルの神・主を信じている者であるという前提を忘れてはいけません。)

「悲しむ者は幸い」個人的な状況のみならず、この世のあり方そのものに悲しみを感じる人です。

この対極にあるのが、黙示18:7のバビロンの淫婦です。(「私は・・・悲しみを知らない。」逆に初臨のイエスは「悲しみの人」(イザ53:3))。

これらの聖句に照らせば、この世でのご利益的幸福を100%保証してくれる宗教は信用しないほうがいいということです(苦笑)。

柔和な者は地を相続する

この聖句はちょっと問題で、あきらかに預言的な内容を含んでいると思います。

旧約聖書の文脈では、ある特定の「地を相続する」といえば、神がアブラムの子孫に与えると約束された地、

そして、イスラエル12部族に分けられた(ただしレビには与えられなかった)ゆずりの地です。

これらはイエス初臨から今に至るまで実現を見ていません。(・・・だってパレスチナ人たちが「よこせよこせ俺たちの土地だ」って騒いでるし・・)

また、これをあとづけで「象徴的に」解釈し、「霊的には」すでに実現したかのように考えるのは無理があります。

ところでこれについて参考になる箇所があります。

イエスは弟子たちの「誰が偉いか」という議論を「一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。」(ルカ22:26)と片付けたあと、じつに奇妙なことを仰います。

あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます。それであなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食事をし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。」(22:28-30)

しかし、この奇妙な箇所も、これは未来に来る千年王国のことだ、と考えれば簡単に理解できるのです。

したがって、柔和な者は、将来文字通り地を受け継ぎます

つまり、イエスに従って行った者は、いつか未来の時点で、地を治める(12弟子にあっては、特定的に、イスラエルの12部族とそのゆずりの地を治める、いっぽう異邦人キリスト者は、どこ、という特定はありませんが、来るべき世において王・祭司として「地の上を治める」ことは言われています(黙示5:10)*。

ただしそのためには彼らはこの世の支配者と違い、柔和でへりくだった者になる必要があるのです。

*しかし、このことが啓示されるのは山上の垂訓からだいぶあとのことですから、この時点ではユダヤ人信者に対して与えられるイスラエルの地、という考えで間違いないと思います。

いずれにせよ「地を相続する」ということが霊的に、比喩的に成就することはありえません。

それに、義に飢え渇いている者、悲しむ者、あわれみ深い者、心のきよい者・・・イエスにつき従うこれらの者たちは、この世において、部分的にはその受けるものを受けられるでしょうが、(たとえば霊的な意味で慰めを受け、義の満足を感じ、あわれみを受け、神を「見る」等)やはりその文字通りの完全な成就はみていませんから、

これらの成就は未来にあります。つまり預言です。

だから、イエスを信じることは、来るべき王国の「(地上での特典つき)予約券」を手に入れるようなものなのです。

筆者は個人的に、イエスを信じることによりあふれんばかりの祝福を受けてきたことを告白しますが、それらの祝福も、千年王国で見る祝福のほんの前触れにすぎないと考えています。

イエスに従う者は千年王国では比べ物にならないほどの祝福を受けます。

ともあれ、これらの6つの聖句を読むにおいては、

1.イエスは王国の回復を待ち望んでいたイスラエルの民に話しかけていたこと、(「イスラエル王国は決して回復しないよ」とは言っていないことに注意

2.「悔い改めて、一心にイスラエルの神に心を向ける」ことを暗に前提として求めていたこと、(だから社会で「周縁」に追いやられた人なら誰でもいい、というわけではないし、信じる神は何でもいいから(あるいは神を信じなくてもいいから)モラル的に良いことをしさえすればいい、というわけでもない。)

3. これらの聖句の中には「霊的な解釈」の余地がなかったり、また成就しきっていないものもあるので、天の御国の完全な成就は2000年後の今に至っても未来まで待たなければならないこと、

この3つを念頭に入れるべきです。

さらに、後の箇所でイエスに従う者は迫害を受けることも示唆されています。従って、律法の契約にあったように「悔い改め」→「王国の回復」という流れではない、ということがうっすらと示唆されているわけです。

ともあれ、ここではちょっとそこから逸れて、前回の投稿の流れもあり筆者がいちばい言いたいことを取り上げさせてもらいます。

平和ってなに?

さらに、以前にも触れた。「平和をつくる者は・・・」は果たして「反戦平和運動」を支持するか、について。

5:9平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。

では、ここでいう平和を作るとは具体的には?

繰り返しになりますが、この聖句は1世紀イスラエルのユダヤ人信者に向けて語られています。これを念頭に、山上の垂訓の以下の聖句をみてみましょう。

ちょっと飛びます。

5:21-24昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。 だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、 供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。 

ここでいわれているのはまず兄弟との平和を保つことです。

5:25-26あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。 まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。

次に、隣人との平和ということになります。

そしていよいよ・・・

5:38-42『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。 求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。

そして、「敵」との平和です。プログレッシブ信徒さんが大好きな箇所ですね。

ここで「あなたに一ミリオン行けと強いるような者」という聖句に注意。マタイ27:32で、イエス処刑の任に当たるローマ兵が「シモンというクレネ人を見つけたので、彼らは、この人にイエスの十字架を、むりやりに背負わせた。」という箇所でその実態をかいま見ることができる通り、当時の支配者ローマ兵の横暴をあらわすものと言われています

5:43『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、実際には「敵を憎め」と律法には書かれてはいないのです!イエスが「あなたがたは・・・・と言われた」と言う箇所と「・・・と書かれている」と言う箇所の違いには注目すべきです。つまり、口伝で言われていることと、律法に実際に書かれていることは往々にして食い違っていたりするのです。

5:44しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。 

よくこれをもって、イエスは旧約聖書の原則を「コペルニクス的大転換」でひっくりかえした、というような理解がなされていますが、実は違います。イエスはちゃんと旧約聖書を踏まえたうえで教えを展開しているのです。

実際に、箴言25にはこのような表現があります。

21-22 もしあなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、渇いているなら、水を飲ませよ。あなたはこうして彼の頭に、燃える炭火を積むことになり、主があなたに報いてくださる。

この箴言を念頭に、山上の垂訓の続きを読んでみましょう。

5:45-48それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。

プログレッシブ的には、この部分をとって、完全絶対主義パシフィスト、テロリストとも戦わない、さらにはそれを応用して、「このように書いてあるのだから、神は(未来永劫)悪人を裁かない」、というとんでもない結論に達する場合さえあります。

しかし、この箴言25との関係から明白なのは、そのような者にもよくしてやるのは、相手の頭に「炭火」を積むためだということです。

(ローマ書12:20で、パウロもこの箴言を引用しているのに注意!「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。」)

だから、これらの箇所は、決して、それで「愛が広がっていく」とかそういうことが主眼ではない、のがわかります。(もちろん、それで「愛が広がっていく」ことが絶対起こらないというわけではありませんが。)

これを神と人全般に置き換えれば、こういうことです。

神が悪人に対して忍耐し、むしろ「悪い人にも・・太陽を上らせ、・・正しくない人にも雨を降らせ」ておられるのは、(悔い改めを待っているという意味もありますが)神の義がますます明らかになるとともに、悪人の悪もますます明らかになり、最終的にいつか神が下す悪人への裁きが100%正しいということが誰の目にも明らかになるためでもある、ということです

参考:黙示録22:10-11「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、きよい者はいよいよきよきことを行ないなさい。

「敵を愛しなさい」は神の義があきらかになるため

そんなはずはない!神は悪人を愛し、決して罰することはない!全員天国に行ける!」そんな声がプログレッシブ信徒さんたちから聞こえそうです。ですので、2つ、わかりやすい例をあげて筆者のポジションを説明します。

この、「神の無償の愛」のわかりやすい例の筆頭がイエス様とユダの関係です。

イエスはユダが裏切ると分かっておられましたが、最後の晩餐の席で食物をひたして与えました。

「Manners and customs of the bible lands」という本によると、食事の席で主人がパンをとってそれを浸して誰かに与えるということは、特別な親愛の情がこもった行為でした。

イメージ 1



(本から引用:てづから「あ〜ん」と食べさせるイラスト。日本人には、いい年したオッサンどうしがこれをやっている絵図はちょっと(汗)・・かも知れませんが(笑))

その後、ユダはやはり裏切りイエスを祭司長たちに売りましたが、イエスの処刑ののち後悔します。(しかしその後悔は、「メタノイア」→悔い改めに至る後悔、ではなくって「メタメロマイ」という言葉から来た、ただの後悔。)ユダは、イエスをメシアとは信じませんでしたが、イエスが「正しい人」であることはわかっていたので、この行為を激しく悔いることに。

しかし、イエスがもし「どうせこいつは裏切るから」とユダを冷遇していたらこうはならないはずです。ユダには「先生はひどい人だからオレはやむにやまれず裏切ったのだ!そうだ、先生がオレを追い込んだのだ!」という言い訳も生まれるでしょう。(たいてい、悪いことをしてしまったとき人は自分を正当化する理由をすばやく見つけます・・・ってオレも気をつけなきゃ(汗))

「完全でありなさい」と書いてある部分を見て、「大変だ!オレ完全にならなきゃ」と慌てる向きもあるでしょう。またプログレッシブ的にはこれらの聖句を逆手にとり軍隊を完全否定する絶対平和主義や「ホレ見ろ、だから神は決して裁くことはない!」とトンチンカンな結論に持っていきます。

しかし、文脈を考えれば、神がそのようにして悪人を扱われるのはご自分の義を完全に明らかにされるためであり、信者も悪人との関係でそのような「完全さ」(ギリシャ語では「成熟」の意味もあり)を表すことを期待されているのです。

全ては、神の義が明らかになるためです。これ、重要だと思います。

それだから、1世紀のイエスの弟子たちがあえて迫害者に実力で反抗せず、神のごとくの忍耐を見せたのは、彼らの義が際立ち、迫害者(当初はユダヤ人宗教支配層)がいかに不条理かを際立たせるためであった、と理解できるのです。(参考:拙稿「絶対非暴力主義と「敵のために死ね」マントラは聖書的か」で、使徒パウロが自らにはなんの落ち度もないこと、迫害する者にはなんの大義もないことを徹底的に裁判で主張している様子を見ています。)これは、異教徒であるローマ人にも、「不思議だ。いったいこのイエスの信者たちとは何者なのだろう?」という驚きの念を与えたであろうことは想像にかたくありません。

これを、もっと卑近な例に例えたらどうでしょう。

たとえばある会社に、態度の横柄なA氏と、そのA氏に向かって、あくまで平静に、穏健に、そして相手のことを思って接し、誠心誠意接する部下のBさんという社員がいるとします。

Bさんは、Aさんからどんな罵声を浴びせられてもその態度を変えません。

そのうち周囲の人は「Aさんってサイアク。ほんとヒドいよね。それに比べてBさんって人間できてるわねえ。」と噂し始めないでしょうか。もちろん、会社組織の力学上、それでAさんがすぐに失脚することはないかも知れませんが、Bさんの態度は周囲の人間に長く印象を与えると同時に、Aさんの悪も浮き彫りになります。

それに対し、BさんがAさんを殴って会社を辞めてしまったら「ま、どっちもどっちよね」ということになりかねません。Bさんの義は示されず、Aさんの悪は忘れ去られます。

で、聖書に戻りますと、旧約を念頭にこの聖句を眺めるなら、

Corey博士の死ぬ死ぬマゾヒズム、Boyd博士の「テロ幇助のススメ」、はたまた、K.F.氏の「いつかきっと爆発的に世界平和がぁ〜」といった無根拠な期待のどれでもなく(ゴメンネー、でもだって本当にそれが実現する根拠がみあたらないんだもん・・・)

むしろ箴言25を念頭に、この聖句を適用するべきなのです。(簡単に実践できることではありませんが。)

「平和」問題のまとめ

しつこいようですが、これらの説教は1世紀イスラエルのユダヤ人信者たちに向けて語られたものであることを思い起こさなければなりません。

彼らはユダヤ人共同体を持っていたほか、フェニキア人といった異邦人たちも身の回りにいたことが記録されていますし、目下の「敵」であるローマ兵も目と鼻の先に住んでいたに違いありません(とはいえ、ユダヤ人に好意的でイスラエルの神を畏れるローマ将校がいたことも聖書には記録されています)。

だから、ここでいう「平和」、は、現代ではよく知られるところとなっている、国家と国家の間の「世界平和」といった実体のない「理念」的なものではなく、face-to-face というか、実際に顔をつきあわせている者どうしのきわめて実際的なものであったであろうことが想像できるのです。

(その当時ローマには、そもそも国外に敵らしい敵はいなかったわけだし・・・)

兄弟たち(同じイスラエル民族)の間での平和

ときとして利害関係が衝突する隣人たちとの平和、

そして、イスラエル千年王国の文脈からすれば、排除されるべき敵である(しかし近くに住んでいる)ローマ兵・将校たちとの平和。

だから、私たちキリスト者も、「戦争ができる国にするな!安保法制廃止!」と政府につっかかっていったり、実際には会ったこともない北朝鮮の独裁者との間の平和を夢想したりするのではなく(別にしてもかまいませんが、聖書を根拠にその立場を補強することはできません。)、自分が face to face で出会う人との間に平和をつくる努力に集中したほうがいいと思います。

・・・ということは、自分の国の政府や指導者に対して、「ア○やめろ!」「ア○政治をゆるさない!」と怒りをぶちまけるというのは、どう考えてもこの山上の垂訓のメッセージと一致しないと思うのですが、いかがでしょうか?

参考:ローマ12:18あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。 

まとめ。

  1. イエスのいう「悔い改めなさい」は、ただ単に(一般的なモラル基準でもって)悪いことをしない、ということではなく、イスラエルの神、主に一心に心を向けることである。また、振る舞いさえよければどの神様を信じてもいいということではない
  2. 「敵を愛せ」、「完全でありなさい」、は、別にそれで愛が世界中に広がってハッピーエンドになることを示しているのではなく、悪人の悪が明らかになり、何よりも神の義が明らかにされるためである
  3. 「平和をつくる者」は、自分が実際に会う人、あるいは近くに住んでいて会いそうな人との平和を指しているのであって、自分が会ったこともない外国の指導者との平和を構築するために、自国の指導者にケンカを売るのは本末転倒である

以上です。

.


みんなの更新記事