日本ではほとんど報じられない海外クリスチャン事情

キリスト教や聖書について、日本ではあまり論じられない視点から解析していきたいと思います。

プログレッシブ教義と山崎和彦氏

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プログレッシブ的生き方は爆発的に広まるか

プログレッシブ・キリスト教の水面下での浸透:欧米から日本へ(14)

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お知らせ

同じテーマでの投稿数が増えてきたので、書庫「プログレッシブ教義と山崎和彦氏」を追加しました。

同テーマの過去の記事も、タイトルを修正してこの書庫にまとめる予定です!

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プログレッシブ的生き方は爆発的に広まるか

前回まで2回にわたり、海外の神学校で学ばれた日本人神学者・山崎和彦氏の「黙示録は十字架をレンズに眺めるべき(?)」「再臨のイエスは自己犠牲により世界を支配する(??)」「世界の王の姿は十字架のイエスにあらわされている(???)」「イエスはServant King(????)*」といった釈義を吟味させていただき、それらが聖書とはどう考えても整合しえないことを説明しました。

*これをOxymoron (撞着語法あるいは矛盾語法)という。

なぜなら、

黙示録13章の「獣」(ダニエル書7章、IIテサロニケ2でも言及あり)が将来のある時点で世界的権力を握り、

それをキリストが「強制的に」排除することが、聖句からみて論理的に明白なので、


さらに、「大能と輝かしい栄光を帯びて(マタ24:30)」、「偉大な力と栄光を帯びて(マル13:26)」、「力と輝かしい栄光を帯びて(ルカ21:27)」、やってくる再臨時のイエスの姿、

および「栄光の位に着」き「羊と山羊をよりわけ」後者をさばく(マタ25)、といったその職務について、イエス自身が語っておられる言葉ともまるきり矛盾します

ところで、今回はちょっと目先を変え、プログレッシブ・キリスト教の信者さんの書いた物によく見られる「私達が山上の垂訓を実践すれば世界に平和が広がっていく」という主張を取り上げます。

(→「キリスト者とキリストは自己犠牲で世界を支配する」っていう考えとどこか通じるものがあると思います。)

プログレッシブ教義って・・・こんなかんじ?

「風の谷のナウシカ」というアニメ作品をご存知の方は日本にはたくさんおられると思います。

ナウシカは(成長途中で怒りに駆られることもあったりしますが)憎しみ合いでは争いを終わらせられないことを悟り、王蟲の怒りを利用して侵略軍トルメキアを殲滅せんとするペジテの作戦を身を挺して止めます。

(以下、ものすごく省略)

愛だけを持って戦おう!銃を撃とうとしている相手に「やめて〜」と両手を広げて立ちふさがれば・・・


王蟲の怒りがおさまった!「おお、・・・なんという友愛といたわりが!」


らん、らんらららんらんらん、らん、らんらららん・・・・


(宮崎駿さん、ごめんなさい。私はファンタジー作品としてのナウシカは好きですよ。)

トルメキア軍は撤収。王蟲の怒りもおさまり、森へ帰ってゆく・・・・清められた腐海の底では1本の芽が。


(繰り返しますが私はファンタジー作品としてのナウシカは本当に大好きです。ただ、プログレッシブ・キリスト教の主張をわかりやすく表現するために例としてお借りしています。)

・・・・「僕らの自己犠牲と愛で世界が救われる」というプログレッシブ・キリスト教の主張、って、こんなかんじでしょうか?

悪ふざけはともあれ、筆者は、プログレッシブ・キリスト教と保守キリスト教の顕著な違いは、「世界観の違い」に収斂されるのではないか、と考えています。

保守キリスト教では、おおむね、世界情勢や未来について暗めの見通しを持っている場合が多いです。

例えば、金正恩はいつまでたっても金正恩のまま。ISISはISISのまま。愛だろうがなんだろうがそれは変えられない。だから、こっちも軍備は絶対必要。

世界から戦争は決してなくならないし、むしろ増えていく。(しかし、いつかイエスが再臨して世界を回復する。)

対して、プログレッシブ・キリスト教では、こんな戦争だらけの世界にあっても、キリスト者が「敵を愛し、迫害されても赦し」つづければやがては世界が救われる、とする考えが目立ちます。

プログレッシブと保守の違いは→の過去記事のなかほどで「保守とプログレッシブ。同じキリスト教だけど、どう違うの?」としてざっくりまとめました。)

プログレッシブではこう主張してはばからないようです。「敵を愛し迫害する者を祝福」し、キリストのように、「打たれても虐げられても復讐をせず平和を語り続ける」。そうすれば、「人類は変わる。平和が来る。争いが止む。」

参考:「ラビの足下で

(K.F.さんまた引用しちゃってゴメンネ〜・・・プログレッシブ・キリスト教徒の方個人個人がイイひとたちであろうことはわかります。)

・・・そうですねぇ・・・その信仰はリッパだと思うのですが。

正直、そこには、「人間がこれをすれば」→「こういうことが起こって世界が救われる」というも〜んのすごぉ〜い単純な「ご利益」信仰が見え隠れして、どうしても筆者は賛同できないんですよね。

だって、このフォーミュラ、いっちゃ悪いけど、

「献金すれば」→「必ず10倍になって返ってきてリッチになれる!」
「祈れば」→「必ず理想の結婚相手がみつかる!」
「この手法を使えば」→「必ず教会は成長する!」

とかと形が一緒でしょ?

人間が世界を救済できる、という発想そのものが、筆者にはとても「うさんくさく」(口が悪くてゴメンナサイ)聞こえてしまうのです。

「山上の垂訓」リアル実践者たち

じつは、こういったプログレッシブ的に絶対不動の金科玉条となっている原則を、既に実践しているキリスト教徒たちがいます。

それは、エジプトといったイスラム世界に住む信者たちです。

罵られても罵り返さず、迫害されても抵抗せず、隣人ムスリムの信仰を論難することもせず、むしろ尊重している彼らですが、

しかし、教会は爆破テロに遭い、道端で暴力を振るわれ、女性たちは誘拐・強姦され、「コーラン・ムハンマドを冒涜した」との言いがかりで職を追われたりします。

しかし、それでも彼らは復讐せず、武装蜂起もしません。


本当に彼らはよく持ちこたえていると思いますが、

しかしプログレッシブ神学理論に照らすと、これはおかしな話ではないでしょうか?

彼らは本当に、リアルに現実世界で山上の垂訓を実践しているのだから、本来ならその結果ムスリムの間にも「爆発的に」そのような生き方が広がるはずです。

しかし、現実はあきらかに違うのではないでしょうか。争いはやみませんし平和は来ていません。

彼らがそのような状況で仕返しをしない、実力に訴えない、赦す、というのは、一つには、きわめてシビアな状況での生き残り策でもあると思います。

イスラム世界でそのような挙に出たが最後、アルメニア大虐殺のごとく、村、いや、町ごと皆殺しにされてしまう危険があるからです。

さらには、彼らは国そのものが崩壊するのを防いでいるという見方もできるでしょう。

参考「ロゴス・ミニストリーのブログ」様より「エジプトのキリスト者:鉄のような赦しの力」。

例えばエジプトでキリスト者が武装蜂起し、ムスリム側に死人でもでたら、過激イスラム主義を掲げるムスリム同胞団とかISISはたちまち幅広い支持を得、様子見をしていたムスリムたちも次々にキリスト者殺害に加わるでしょう。

血みどろの争いは一挙に国内に広がり政府にも手のつけられない状態になるのは目に見えています。

さらに、「シシ大統領がキリスト教徒を甘やかすからいけないのだ!」という話になり、政府転覆にまでつながりかねません。

自分の命を的にしてでも、キリスト者としての証を守り、ギリギリの戦いをしている彼らには、本当に頭が下がります。

彼らのことを、地の腐敗を遅らせる防腐剤としての「塩」と言い表すこともできるでしょう。

(なお厳密に言うと、コプト教徒は教義の面ではいわゆるプログレッシブではなく、カトリックや正教に近い教義を持っているようです。)

ともあれ、本当に敬服すべきはその忍耐ですが、周囲のムスリムの間にプログレッシブな生き方が「爆発的に」広がってはいません。

なによりかにより、イスラムがエジプトを征服してからコプト教徒たちのこの状況は1000年以上経っているのです。

筆者の個人的見解を交えるならば、彼らの霊的戦いは、イエスにかわって自分達が世界を救うための「攻め」の戦い、ではなくって、イエスが来られ(そして彼らが携挙の恵みにあずか)るまでの、「大軍に包囲された状態での拠点防衛」にも似た「守り」の戦いという様相があるように見受けられます。

どっちの見通しのほうが「ありそうなこと」?

筆者のブログを読んで下さっている方の中には、ノンクリスチャンで、いわゆる政治的保守の立場に立って国内・世界情勢を厳しい目で見ておられるブロガーさんたちもいます。

キリスト教徒ではないにせよそういう方々による世界情勢の分析は、保守キリスト教に一般的な世界情勢の見通しと、とても共通点が多いのです。

それに対して、プログレッシブ・キリスト教では、キリスト教徒の自己犠牲の愛によって世界中に救いが広がる、という未来観です。

時代が進むに従い、戦争と戦争の噂が増え、国と国、民族と民族が敵対して立ち、キリスト教徒はますます迫害されるか。

はたまた自己犠牲の愛によって世界中に救いが広がるか。

先入観を廃して眺めてみると、果たしてどちらがより「ありそうな」見通しでしょうか?

ある調査によると2075年までには、出生率等の要因によりイスラム教徒が世界最大の宗教勢力になるとか。


中東、南アジア、アフリカでは、イスラム過激主義組織の勃興により各地でキリスト教徒殺害が起きています。(彼らは自分の信条に従わないムスリムも攻撃していますが。)

イラクのフセイン、リビアのカダフィが倒れていらい、イスラム過激主義は彼ら冷血独裁者よりももっとタチが悪いということが証明されました。

そして、シリアではおなじく独裁者アサドが手段を選ばず反政府軍を殺害していますが、反政府軍もまたプロパガンダから爆破テロまでこれまた手段を選ばず政府側を攻撃しています。

(これでアサドが倒れたら民主的で麗しい国家が出来上がるなんて期待している人は、まさかもういないでしょう。)

もうムチャクチャ。手がつけられない状態です。

ではかつてキリスト教優位で平和だった欧米は?既にフランスでは司祭が首を切られ、ドイツ、スウェーデン、スペインなどでもムスリムによると見られる教会襲撃が起こっています。

イギリスなどは近いうちイスラム国家になるのではとの噂さえあり、ロンドンのイスラム化は「ロンドニスタン」と言われるほどです。

「いや、キリスト教徒の側が愛と寛容を示せば、かならずムスリムと和解できるのだ!」

プログレッシブ信者さんならそういうかも知れませんが、それは既にエジプトなどで実践している人たちがいるのです。

そしてプログレッシブ神学でいわれているような事態はいまでも発生していないのです。

現実的視座に立てばどちらの見通しが「ありそうなこと」か、明白ではないでしょうか。

政治運動の域に達しかねないプログレッシブキリスト教だが・・・

しかし、プログレッシブ・キリスト教では「リアル風の谷のナウシカ」とでもいうべき理想像を掲げ、それが「世界を救う」と唱えるばかりか、ひとによっては「ムスリム移民をもっと先進国に入れろ」「あらゆる軍事行動に反対」「死刑廃止」などと唱える場合もあります。

・・・・ここまでくるともはや宗教ではなく政治運動です。

なぜなら個人個人の善行だけでは「世界を救う」には足りないのは明白なので、やがて国の政策に影響力を及ぼそうとする運動になるのは必定だからです。

まあ別に、人がどんな政治信条を支持しようが勝手ですが、プログレッシブ・キリスト教の場合そこに必ず、「キリストに従うなら・・」とか「(十字架を中心に)聖書を正しく理解するなら・・」とか、そういう錦の旗がついて回る。

ちょっとブキミなことだと思います。なぜなら、「愛と自己犠牲で世界を救う」というマントラのもと、実質的に自由主義の先進国の国家保安を保つための軍事力の行使や、国境管理、入出国管理、外国人犯罪者の強制送還などに反対するなど、むしろ危険と国家秩序崩壊をうながすようなことばかり推進し、それが神の命令だと思っているからです。

もし保守キリスト教徒が、軍備力の増強、厳しい入国管理と強制送還断行を支持すれば、プログレッシブ的には「自分たちだけ豊かな暮らしを享受しようとしている、キミたちは愛がない」と指弾されるでしょう。

しかし保守キリスト教徒たちは(まあホントに愛がない人もいるかもしれませんが)、愛がないのではなく、人間の限界を分かっているのです。

人間が世界を救うことなんてできやしないと考えるので、自分の身の回りで善行をしつつも、国の秩序やシステムをドラスティックに変更したくはないのです。

なんとなれば、彼らが国家の軍事力や警察力や入国管理制度で守られた安定したシステムの中で活動し、富を得、あるいは生産しているからこそ、貧しい人に施しもできるのですから!

外国から軍事攻撃されたり、犯罪とテロだらけの国になったら、それさえもできなくなります。

しかし、プログレッシブ的方針を貫くことは、「犠牲を承知で」世界中の人たちに愛や富を分け与えることです。

テロや犯罪の増加はもちろん。極端な話、たとえ核ミサイルで脅迫されても、万が一ミサイルが日本に着弾して死者が出ても、「平和を語り」つづければいつかあのキムにいさんもわかってくれるだろう、と信じることです。

文字通りの「自己犠牲」。

「私たちが自己犠牲(つまり金銭、持ち物、安全、治安、そして人命など)を払えば世界平和が訪れる」

これってものすごくハードルが高くないですか?

*誤解のないよう書いておきますが、筆者は、もしもテロリストに捕まり、脱出することもできず、「イスラムに改宗しなければ殺す」と言われたとき、キリスト者としての証を守りながら死ねる自分でありたいと願っています。

しかし、それは個人的決心にすぎません。それ以前に筆者はせいぜい身辺の安全に気をつける(たとえばイスラム世界には行かない)し、

そういった「自己犠牲」で世界が平和になるなんて露ほども思ってません。

ましてや、危険な状況を招来するような国家政策を推進することで暗に「自己犠牲」を他人にも強要する思考カイロはまったく理解できません。

社会破綻と世界の救いとどっちがさき?

そして、この教え、先進国でもけっして広がらないと思うのです。

プログレッシブ・キリスト教のキモは、「信者が個人的に実践する」ではなく「この教えが『みんな』に広がって世界平和が来る!」というところにある。

(→逆に言えば「『みんな』が僕に協力してくんなきゃダメよ、そこんとこよろしく」と暗にいっているのではないでしょうか)

ですので、クリスチャンにも私のような反対者がいる以上、また、宗教的側面ではなく、政治的側面からプログレッシブ的信念に同意できないであろう人たちも多々いらっしゃる以上、この生き方が爆発的に広がり「世界を救う」というビジョンはけっきょく実現をみないのではないか、と想像しています。

だって・・・・、「愛は世界を救う」という美しいファンタジー以外には、意見の異なる人を説き伏せるだけの説得力がゼンッゼンないからです。

はたしてこれがどれだけ人々のひろい理解を得られるのでしょうか?

情緒だけが強調され、事実・論理ベースではまったく議論できないところが山崎和彦氏の釈義にもプログレッシブ教義にも共通する特徴ですが、

いずれにせよ、プログレッシブ的自己犠牲で世界が救われるのと、先進国で大規模秩序崩壊・社会破綻が起こるのと考えてみたらどちらが先でしょうか?

国境を開放して富を分け与えているうちに分け与えるものがなくなったらどうするのでしょう?

「いや、そのまえに必ずキセキが起きて、世界が救われる!」

いや、そんなの信じられないから僕は参加しないよ。

「真剣にイエスに従っているというならイエスのように、自分の身が滅びることになっても敵を愛するべきだ!」

いや、そんなこと言われても僕妻子もいるし、彼らを路頭に迷わすわけには・・・・

それとも世界が救われないのはボクみたいなクリスチャンのせい?

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