Christian News Watch〜海外クリスチャン事情

旧ブログタイトルは「日本ではほとんど報じられない海外クリスチャン事情」です。

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婚前交渉、同性愛etc.の解釈に大きな違いを産む聖書的「人間観」の有無

婚前交渉、同性愛etc.の解釈に大きな違いを産む聖書的「人間観」の有無

最近いよいよ、日本のキリスト教界各方面から「婚前交渉は罪ではない」「同性愛は罪ではない」(あるいは、「罪と言うな」)という言説が上がってきているように感じられます。

思えば私も、こういった議論に対して聖書から、そして聖書以外のソースからも色々な反論をしてきましたが、

最近気づいたのは、手当たり次第に反論していてもあまり意味がないのではないか、ということです。例えば、聖書からどこか聖句を引いても、このような言説に従事する人たちにしてみれば「それはそういう意味ではない(キリッ)」で終わりになってしまうのです。

なので、どうにかして、そういう人たちにも「届く」(かどうかは正直わかりませんが・・・)ように、今迄にない方向からの議論をしてみたいと思い投稿を作成しました。

人の身体に対する尊敬

突然ですが、もし自分の子供がオモチャの銃をもち、撃つつもりがなくとも人に向けたとしたら、皆さんはどうしますか。私だったら怒って注意します。

それは、それは防衛のために絶対必要といった極端な状況でない限り決してやってはだめで、みだりにやってしまえば人の尊厳を踏みにじる行為となると考えるからです。

さて、なんでこんなたとえを出したかというと、聖書的背景をベースに考えたとき、婚前交渉というのはいかに本人たちが合意しているといっても、人の身体への尊厳をないがしろにする行為ではないか、と考えるからです。

そもそも、キリスト教は人間の身体に関して極めてユニークな思想を持っており、果たして婚前交渉は罪かどうかという問題を論じる前にまずこれに触れる必要があると私は考えます。

創世記にさかのぼれば、神はご自身のかたちに似せて人を造られたとされています。

創世記1:26 ...「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。.....

さらには、創世記2章にある人の創造の詳細には驚くべき記述があります。神はご自身の「息」を人に吹き込まれた、とあるのです。(ここで使われる「息」は、稀にですが「霊」もしくは「魂」と訳されることもあります。)

2:7 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。

こんなユニークな考え方は他の宗教には見当たりません。

長くなりすぎないように駆け足で行きますが、これを引き継いで発展させたような記述は新約にも散見されます。例えばパウロが書いた第一コリント人への手紙。

3:16あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。 
3:17もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。

これは「イエス様がご自分の肉体を「神殿」と喩えた」ヨハネの福音書2:19-2:21とも呼応します。

もっとも、文脈からすると、1コリント3章では「集合的にキリストの身体」である信者の集まりを指して「神殿」と言っていると見て取れます。では個々人の身体のことはどうなるのか、議論がありそうです。

しかし6章まで読み進めるとこれは解決します。

6:15-20あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。
遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりの者は一心同体となる。」と言われているからです。 
しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。 
不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行なう者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。 
あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。 
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

もう間違いありません。私たち信者は集合体として「宮」と呼称されているとともに、

個々の身体が「聖霊の宮」なのです。私たちの一人ひとりの身体もまた「神殿」であり「その中に神の霊が住まうように」設計されています。

今回、なんであえてこんな迂遠な聖書談義をしているかというと、

聖書は、人間の肉体を単なる動物の高度な1バージョンと考えているのではなく、神のかたちに似せて造られ、神の霊が宿(りう)る特別なものと定義している

と示したかったからです。

現代の進化論一辺倒の思考様式にあっては、ノンクリスチャンならば「人は猿から進化した動物」と考えてしまうことは通常ですし、たとえクリスチャンであったとしても「人は神が導いた進化プロセスにより猿から進化して出現した」とかそういう折衷的な考えを持つ場合があります。

しかし聖書のポジションは「人は神のかたちに似せて神によって造られた」です。これは厳然として変わりません。

聖書が既に旧約のころから「人は神のかたちに似せて造られた」という思想から生まれた独特な傾向を示していたことは、ユダヤ教のある逸話からも伺えます。

あるラビは、水浴して身奇麗にすることを神への賛美だと考えたそうです。それは「神は人をご自身の姿に似せて造られた」からです。そうすると、その肉体を粗末に扱えば神への侮辱となり、逆にいつも綺麗に保っておくのは神への賛美というわけです。

ちと脱線しましたが、この同じ思想が根底にあるということが、キリスト者が「隣人を愛する」どころか「敵」さえも愛せと言われたり、人から頬を打たれても打ち返さずと言われたりしていることと深く深く関係があると思われます。

「二つめの戒め」の背景と婚前交渉

よくクリスチャンの間では「神を愛し、人を愛しなさい」と言われます。

リベラル進歩主義の信徒さんもこれが大好きなようで、特に「人を愛しなさい」の点から、反サベツ、移民受入、イスラムとの融和に持っていく傾向にありますね(笑)

しかし、深く考えるとこの言葉の奥にはこのような含意があるように見受けられないでしょうか。

我々は、神を愛し、また畏れ敬っているからこそ、神のすがたに似せて造られた人というものを傷つけたり穢したりすることは憚るべきで、むしろこれを愛さなければならない

例えば、ヤコブの手紙にもこうあるとおりです。

3:9私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。
 3:10賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。

「神を褒め称えているキミが、その同じ口で神の似姿である人を呪うなんてどう考えても矛盾してるやろ」ってなわけですね。

ここを勘案すると、重要な第二の戒め「人を愛す」の裏には、なにか漠然とした「人類愛」があるわけではなく、「神のかたちに似せられて造られた」ものだからこそ、人をおろそかに扱ってはならないという神への畏れが見られないでしょうか?

で、話を戻して婚前交渉。

結婚していない男女が、互いに合意して性的関係に入るということは「自分の身体は自分のもので自分の好きに扱っていいのだ」という現代社会の前提では何の問題もないように見えます。

しかし、自分自身の身体が、神の姿に似せて、しかも神の霊を宿すように、神によって造られたものであれば話は違ってきます。

以前に当ブログで指摘したのは、「相手に望まない妊娠をさせる可能性のある行為は罪じゃないんですか?」ということでした。

プログレッシブ・キリスト教の水面下での浸透:欧米から日本へ (23) プログレッシブ・キリスト教神学に応答する(3) 「婚前交渉は罪ではない」by リベラル牧師&進歩主義信徒 ( Christian News Watch から転載し...
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「いや避妊してるからダイジョブッス」とはいってもゴムの避妊確率は実際は90%くらいであったりとか、実際に「ちゃんと避妊してたのに妊娠」という事例が本当にあるとか(私の周囲でも確実に複数にありました)そういった実際的な視点を忘れてはならないのももちろんですが、

こういう「おふざけで妊娠可能性のある行為をする」というのは

まさに女性の身体への侮辱行為、ひいてはそれを造られた神そのものへの侮辱行為にもなるのではないか、ということです。

冒頭では「おふざけで人に銃を向ける」という行為を例に出しました。「人に銃を向ける」行為は、人を死に至らしめる可能性があったり、あるいはそのことを仄めかせ威嚇したりあるいは力を見せつけ侮蔑するための行為となりえます。そんなこと、自分が殺されそうだという極端な状況でもない限りやってはダメでしょう。

かたやこちらは、「新しい命を宿す可能性のある行為」です。こちらも、実は容易ならない帰結を秘めているのです。

もし「生命を宿す」ことになったら、その女性が出産を選ぶにせよ、万が一中絶を選ぶにせよ(←あってほしくはありませんが)、女性の身体に大きな負担をかけあるいは重大なリスクに晒します。

(後者の場合胎児が望まぬ「死」を遂げるというあまりにひどい事態です・・・この問題を扱うなら別の記事が必要なほど大きな話なので今は詳しく触れませんが)

そんなリスクのあることを、遊び半分でやってもいいのでしょうか。

いや、遊びじゃない!真剣だ!僕らのは真実の愛なんだ!」と主張する向きもあるかと思いますが、

そんなに真剣なら、どうして人の生き死にの話に成りかねないことを何のセーフガードもなく行うのでしょうか。(筆者個人的には、その「真剣だ」という主張がむしろ余計ふざけているとしか思えません。)

繰り返しますが、ゴムは統計的に完全なセーフガードにはならないことが分かっています。

その後起こりうる事態に責任を持てる能力のある男女が両者でよく話し合って、合意して、堅い堅い約束をして、さらには周囲の人間にもそれを周知して、はじめて妥当だといえるものなのです。

二人の愛があれば!周囲の人間なんて関係ない!

まー若いときはそう思いがちですね。しかし万一子供ができたら、経験者として、賭けてもいいです、カップルだけで周囲の協力なしに子育てなんて、ほぼドン詰まり一直線ですよ。

金はどうする?子育て負担は?夜寝れないときは?ケンカだらけになりがちの夫婦関係に必要なのは周囲の「第三者」の助けです。

ジージ・バーバ、あるいは友人、親戚でもなんでもいいですが、とにかく誰か「二つ返事で駆けつけて、手助けしてくれてなおかつ信頼できる人」が必要なのです。

所帯を構えるってこれくらい面倒くさいことなんですよ。だから籍入れたり挨拶したりいろいろやるのです。遊びでできることではないのです。

子供のころ「火遊びはするな」ときつく親から言われていた人は多いと思いますが、

たとえ本人たちは「大丈夫だから、うまくやるから」とは言っていても、まさに「火遊び」のごとく、実際リスクは厳然として存在しています。

そして必ず一定以上の確率で、「火事」、つまり女性に望まぬ妊娠をさせ、最悪の場合責任も取れず中絶を選択させてしまう事例が存在するわけです。

でなければ妊娠中絶が年間何十万件もあるはずがありません。

「僕らは大丈夫、うまくやるから」じゃなくハッキリ言て「アブナイ火遊びはやめなさい」の一言です!

で、話を戻し上述したような聖書的な視点に戻ります。

ここで小まとめをすると、こうです。

まず男性に向けてですが、もしあなたが神を畏れるなら、神が造られ、ご自身の霊が住まうようにされた神殿の宮である女性の身体でそんな「火遊び」をするのは、神への侮辱にならないのか、ということを考えてほしいのです。

そして女性たちに向けては、神様の目から見たらそのような特別な価値と意味合いがあるあなた自身の身体にわざと「火をつけさせる」ような遊びは、おやめなさい、と言いたいのです。(万が一相手方からの暴力、脅しや強要により、やむなくそうしてしまったというなら話は別です。)

それでも大丈夫というクリスチャン男女のために

いきなりですが↓この図を見てください。

イメージ 1

たぶん子宮ガンのリスクを啓発するためのものですね。HPVの感染によりリスクが高まるので、みだりに性的関係に入らず、意識を持ってほしいということらしいです。

でも私はそれと同時にこの図は(まったくの偶然ですが)ある聖書的真理をも示していると思います。

....交われば、一つからだになることを知らないのですか。『ふたりの者は一心同体となる。』と言われているからです

実際に複数の人と性的関係を持った人は、まさにこのような状態になる可能性がある、ということです!

今現代、敬虔なクリスチャン家庭育ちでもない限り、結婚するまではゼッタイに童貞・処女でなければいけない、と考える若者はそれほど多くはないでしょう。

しかし、ここには落とし穴があります。聖書によるならば、性的関係を持てばそれだけで「一心同体」になったとみなされます。

そして、自分だけでなく相手も複数の人と関係を持っていたとしたら、その人たちまとめてまるごと「一心同体」ということです。

これ、ある意味で「乱交」状態に通じるものがありますよね。よくよく考えるとひどく気持ち悪くないですか?

結婚まで貞潔を保っていない場合は当然この状態に陥りますし、あるいは自分がそうでも相手がそうしていなかった場合は、見も知らない人と「一心同体」になってしまう可能性があるのです。

(また、実際的な話として、たとえ自分が初めてでも相手が複数と関係を持っていた場合、そこから性病その他の感染が生じるという心配も当然あるでしょう。)

ちなみに、律法では、配偶者が亡くなった場合には、その相手は戒めから解かれ、別の人と結婚してもよいことになっていました。(これは新約(Iコリ7:39)でも引用されています。)

つまり、原則的に、相手が生きている間に別れて別の相手と一緒になるのは姦淫だということです。

現代の基準では厳しすぎると思いますか?

では、こんな場合はどうでしょう。

(あなたが男性と仮定して)もし「イマカノ」と歩いているときに昔肉体関係のあった「モトカノ」と鉢合わせしたら、あなたはどうしますか?

笑ってごまかす?

いやもっと困るケースがありますよ。もし「イマの妻」と妻との間に生まれた子供を連れて歩いているときに昔肉体関係のあった「モトカノ」と鉢合わせしたらどうしますか?

何よりも、「モトカノ」とあなたの関係を、どうやって子供に説明するのですか?これ非常に困るでしょ?

そして当然ながら、全知全能の神様の目から見たら、あなたの過去はすべてお見通し。そうして、あなたが過去誰と関係があってその誰は今誰と関係があって・・・神様はすべてご存知です。

どうでしょうか?私自身は、自分の過去を考えると、救われる前の話とはいえ、神様にそれを知られているという事実が非常〜に居心地が悪いです。

だから、もし今の若いクリスチャン男女にはそういうことを避けてほしいのです。これ当然の話でしょう?

「目的外使用」

さて、人間の身体が神の目から見るとどんなものなのかわかってきたところで

「同性愛行為」について考えればおのずと見えてくるものがあります。

新約聖書は、Iコリ6:9およびIテモ1:10において「男色」を悪徳として挙げています。ここでは、性的志向(嗜好)といったものは忘れましょう。パウロはこれらの箇所では別段そこを論じてはいません。

ただ、人間の身体をそのように扱うこと自体が神の創造された身体の「目的外使用」であって、本来神の霊を宿す宮のようにと造られた相手の身体を侮辱する行為と言えるでしょう。

さらにもうひとつ。これ、日本人にはなかなか理解できないと思いますが、ユダヤ教の背景を勘案して「神殿」と言うとき、ちょっと意識する必要があるのは「聖なる場所」という恐れがそこにあるということです。

旧約の第二歴代誌26章に出てくる逸話ですが、ウジヤという王があるとき高ぶって、本来王でさえも立ち入りを許されない神殿の領域に入り込み、ただちにらい病で撃たれます。

神殿には「聖別された祭司たち」しか決して入れない場所がありました。

だから、パウロが人の身体を「神殿」に譬えたとき、こういった「恐れ」を余計考慮にいれる必要があります。その内部に「許されていない」人が入り込むのは(異性間であっても同性間であっても同様ですが)厳に慎むべきだ、という思想があるのです。

さらには、以前の投稿で触れたように、男性どうしの行為は冗談では済まされないような健康リスクが付いてまわります。これは本当に警告してもしすぎではないと私は思っています。

“昨日の同性婚イベントでは、木村草太さんが「世論調査も『同性婚に賛成ですか?反対ですか?』と、まるで同性婚を拒否する権利があるかのように思われる質問ではなく、『同性婚を認めるとあなたにどんな不利益がありますか?
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「愛は愛だ」みたいなフワフワしたイメージに惑わされず、真剣に考えてほしいです。

いっときの快楽はあるのかも知れませんが(私は経験がないのでよくわかりませんが・・)自分あるいは相手の健康を傷つける可能性のある行為をどういいつくろえば「愛」などと言えるのでしょうか?

ローマ書13:10に「愛は隣人に対して害を与えません」とあるではないですか!

そして、旧約聖書の最初から見られた神の創造の業を見ると、この結論はますます強化されます。

男がなんら責任を問われない位置にいながら女性の身体を使用して快楽に耽るのが、神の造られた女性の身体への侮辱であることと同じく、

神が造られた意図では想定されてもいなかった形で人の身体に入り込みこれを性的刺激のために用いるのも、やはり相手の身体、および神の創造の業への侮辱と考えざるを得ないのです。

人間への尊厳を失う社会

話は変わりますが、最近、ニューヨーク市ほか複数の米国自治体では「partial birth abortion」という妊娠中絶手法を許可する条例を制定したそうです。

この条例は妊娠中絶をなんと「出産の直前まで」行うことを可能にするそうで、その手法としては(生々しくて恐縮ですが)胎児の頭だけを産道に残して胎児の身体を外に出し、それから器具を挿入して胎児の脳を破壊し、中絶するのだそうです。

最近、フェミニストの人たちのツイッター投稿を読む機会が多いので、妊娠中絶の問題について語ると私の気はやや重くなります。女性が妊娠中絶をするとき「なぜ責任を取らず逃げた男は責められず女ばかりが責められる?」という憤懣は、確かに理解できなくはありません。

しかし、「人は神の姿に似せて神によって造られた」という真理は胎児にもひとしく当てはまります。というより、妊婦検診を受けたり配偶者に付き添って超音波診断で画像を見たことのある人ならわかるでしょうが、胎児は本質的に大人となにひとつ違わない完全な意味での人間なのです。

ところが米国の「進歩的」な自治体は、「胎児は人間か否か?」という議論をとうに超えて、「出産の瞬間までなら『やっぱりやめた』ができる」ということにしてしまったようです。予定日より早く生まれる赤子なんてたくさんいるのに、いつから「人間ではない」ことになってしまったんでしょうか・・。

それどころか、バージニア州の「進歩的」な知事(自らも医師資格を持つ)は、「赤子が生まれてきたあと、医師と母親が話し合って[赤子をどうするか]決める」ことさえ示唆したようです。そんなことを許可する法制が採用された、というわけではないようですが、自治体首長がこのようなことを考えているのはやはり注目に値すると私は思います。

多くの場合、米国リベラルは聖書を(牽強付会に)引用して自分たちの政策を推進しようとしますが、一方でこのような人たちの中からは「人は誰であれ、神の姿に似せて造られた」という畏れが急速に消え去っているような気がします。

自分達にとって都合の悪い人間は「脳を吸いだしてゴミ箱にポイ捨て」してよい、とまで考えている人までおり、それが自治体トップなのです。

ここで私は尋ねます。あなたは1)「人は猿から進化した動物」と考えますか?それとも2)「人は神の姿に似せて神によって造られた」と考えますか?

私は、この人間理解が1)か2)かによって、人の生き方は、特にクリスチャンの生き方は大きく変わるのではないだろうか、と思っています。

というのも、その人間理解が1)に寄れば寄るほど、「人を愛しなさい」という戒めから「神による創造」という背景が消え去っていくからです。

そしてそれは「自分が考える人類愛のアジェンダ」に変質していってしまう傾向が見られます。

私の観察するところによれば、たとえ口では「愛」や「平和」を唱えていても、自分たちのアジェンダに同意しない人に出くわすと途端に憎悪をむき出しにし、ひどい場合には話も聞かずに罵倒を繰り返す人たちが存在します。

もちろん、言葉の使い方は私自身も気をつけなければならないと自戒していますし、人はだれしも熱くなると見境がつかなくなることがあります。

ですが、それにブレーキを掛けるのが、イエス様の「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタ5:44)という言葉だという気がします。そしてその根底を支えるのが「人は神の似姿に造られた」という思想だと思うのです。

だから対照的に、1)「人は猿から進化した動物」という理解のうえに、「人を愛しなさい」という戒めを置く場合、それは早晩いびつな変形を遂げて、

人類愛のために●●(サベツ禁止、軍備廃止、等)に賛成しないヤツは全員排除しろ!

ということになってしまうのは当然の理だと思います。

私は今、神による人間の創造という理解を欠いたままの世俗世界と、そんな哲学に同意して進むリベラル進歩主義キリスト教界を観察するにつれ、懸念を強く持ちます。

「敵でさえも神が造られた」という理解がないのならば、もはや彼らの敵意の発露を引き止めるものは何もありません。

蛇足になりますが先日私は、30年の牧介経験を持つあるベテラン牧師さんが、「婚前交渉はなぜ罪か」を真剣に説明しているのに、それを質問する側の、はるかに若い「自称キリスト教伝道師」さんがまともに答えに取り合わず、あまつさえ「しっかり学んで吟味せず妄想で聖書を語っている」などと侮蔑しているのを見てギョットしました。

“@Santou @Kiyomasa70 黙示録の「大淫婦」とは何を表しているのか、そもそも黙示録は何のために書かれたのか、黙示文学とは何なのか。それをしっかり学び吟味せず妄想だけで聖書を語るのは、個人のレベルなら勝手ですが、責任ある立場なら控えた方が良いのではないかと思いますよ。聖書にはそれぞれ執筆背景があるのです。”
twitter.com

件の牧師さんは相手の無礼に対しても怒らず丁寧に語っていましたが、相手のほうはまるでまじめに話し合いをする気もなく最初からバカにしている様子で、虹色アイコンの活動家と一緒になって冷笑する始末です。

それを見て、私は、「ああ、これこそが終末の光景なのだな」と納得がいきました。

マタイ5:11に、「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです」とあるとおりです。

そうして、そのような場合に罵り返したい、やり返したいという衝動が湧いてくるものですが、おそらくイエス様はそれを承知の上で

5:38-39「『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」 

5:44「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい

と続く箇所で説教されたのだなあ、と私は理解しています。

それは、すべて「神様の義と栄光が表される」ためです。

プログレッシブ・キリスト教の水面下での浸透:欧米から日本へ (21) プログレッシブ・キリスト教神学に応答する(1) じつに20回の長きにわたって、プログレッシブ・キリスト教(別名:キリスト教進歩主義)を取り扱ってきましたが、その中でやや思...
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キリスト教界における、「婚前交渉は罪ではない」「同性愛は罪ではない」という風潮について論じたつもりでしたが、最後は思わぬ方向に向かってしまいました。しかし、これらはすべて底でつながった現象だと思います。

教会外の世界も、それとともに歩むリベラル進歩主義キリスト教界隈も、「神への畏れ」を急速に失いつつあります。それに伴い、聖書に堅く付き「罪は罪だ」という立場を堅持するクリスチャンへの嘲弄、侮蔑、罵倒、圧力はますます激しくなるでしょう。

しかし、そのような時代にあってこその働きもあると私は信じています。なのでこのブログや他の媒体を通じて、発信を続けていきたいと思います。

祈り:父なる神様、どうかこの日本にいる忠実な信者たちを強めて、しっかりと立たせてください。この闇の世の中にあって灯火となれるよう、地への塩となれるよう、一人ひとりに導きを与えてください。さらに、この不完全な世界で傷つき、病み、苦しむ人々が一人でも多くイエス様と出会い救われますように。イエス・キリストの尊い御名によって、アーメン。

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