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香港に来てはまったのはこのトラム。 日本ではもうほとんど見ることがないレトロな交通機関という印象なのだが、 香港では立派に人々の足として活躍している。 そういえばメルボルンにあったっけ。 香港島を東西に走る路面電車なのだが、 2階建てというのは世界中ここにしか存在しないらしい。 道路から直接飛び乗れるし、料金はどこからどこに乗っても$2(25円)くらい。 走行距離は地下鉄の駅で言うと10駅に相当するから、これは半端なく安い。 まるでおもちゃのチンチン電車に乗って、 ちゃんぽんのような街を上から観覧しているような、、、 香港とはたくさんのいろんな面を持つ街だ。 しかも極端なまでに違う景色がわずか数キロの間に並んでいる。 僕が住んでいるのは庶民じみたいい感じの下町なのだが、 トラムに10分乗ったら超近代的な新宿みたいなエリアが広がってくる。 週末はのんびり2階の席に居座って、奥深い香港という街を堪能しよう。 |
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ラオス近郊の街へのフライトのため、 非常事態宣言下にあったタイ・バンコク国際空港で夜を過ごす。 考え方によってはバンコクで空港が一番安全だったのかもしれない。 空港で一晩過ごす、というのは何か無茶しているみたいで 昔から避けてきたのだが、思ったよりも快適だった。 24時間オープンだから追い出されるわけでもなく、 ベンチで寝てる人はたくさん居るし。 おなかがへればスタバやコンビニがすぐそこにあるから 困ることもない。 どこの骨とも分からない体臭のきつい欧州人と同じ部屋で、 息をひそめて朝まで過ごさねばならない バックッパッカーよりもずーっとましだ。 http://sky.geocities.jp/cairnsaska/665.JPG そこからはタイ・ラオス国境を結ぶ国際バスに乗り込む。 乗客は9割がラオス人で残りが観光客という感じ。 後ろで若いオランダ人のバックパッカーに ここ10年くらいタイとラオスを行き来しているという アメリカ人のおっさんが延々とラオス入国方法について 語り続けている。こういう人しゃべり出すと本当に長いのだ。 盗み聞きした内容によると、 このおっさん、ラオス人の嫁と子供がて国境を言ったり来たりして ビザを延長し続けながら暮らしているらしい。 このおっさんも昔はNYとかでバリバリ金融マンとして働いていたのに 突然ドロップアウトして妻も子供も捨てここに落ち着いてしまった パターンなのかな、、、まさに21世紀に落とされた最後のヒッピー。 http://sky.geocities.jp/cairnsaska/661.JPG ベトナムやタイで見る豊満なジャングルや田園地帯とは異なり、 ここの土地はやせ細り、焼畑の焦げ付いた匂いがバスの中にも漂う。 ヒッピー、はいまだにしゃべり続けている。 出発から2時間。そのヒッピー、が俺に着いて来い! とばかりに堂々と立ちあがった。 バスはタイとラオスのボーダーに到着したのだ。 http://sky.geocities.jp/cairnsaska/664.JPG 休憩所ではたくさんの売り子が車の外から声をかけてくる。 ということで陸続きで違う国に行くということはあり得ない。 だから、他国で陸路入国なるものを経験するのは 少し感慨深いものである。 と言っても、掘立小屋みたいなボーダー・コントロールで パスポートを出すだけ。 日本人は2週間以内の滞在ならビザは不要らしい。 アメリカやEUからの観光客はUS$30くらい払わされている。 アジアの奥地に世界で唯一日本を慕ってくれる国を発見したのだ! さてビザ代は不要なのだが多少のチップは要求される。 ま$1くらいだけど、、、 さて、ここから僕の財布の中では「三通貨共存」状態が始まった。 いわゆる、米ドル、タイ・バーツ、ラオス・キープである。 この3つの通貨、ラオス国内では基本的にどこでも通用する。 ちなみに最近のレートで言うと、 10.000キープ=1.18US$ 10.000キープ=40タイ・バーツ 10.000キープ=109円、である。 まず大きなお金を下ろす時、キープで持つと 天文学的数字の、財布に入り切れない札束を渡されることになるので 米ドルに両替する。 ドルで払ってもお釣りはたいがいキープで帰ってくる。 加えてタイに居る時残したタイ・バーツも早く使ってなくしたいから 財布の中はなんとも収拾がつかない状態になる。 だから買うものの大小と相手によって 使う通貨を変えていかねばならないのだ。 大きめのホテルではできるだけドルを使って、 お釣りはキープで、できるだけもらうとか、、、 おまけに瞬時に自分の頭の中でその両替を計算できないと、 ぼられる結果にもなるのである。 続く― #写真は2010年4月ラオスにて撮影
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―フィレンツェは中世ルネッサンスが花開いたイタリアの街。 それから200年近くの年月を経て産業革命が起こった英国の首都、ロンドン。 http://sky.geocities.jp/cairnsaska/821.jpg 意外にこじんまりしていて僕にとって欧州のどんな主要都市よりも歩きやすい大好きな街。 演劇・ミュージカルなど質の高いエンターテイメントも堪能できる。 そして僕が初めての海外旅行の第一歩を踏み出した記念すべき場所。 その圧倒的な西洋建築に衝撃を受け、海外に住みたいというその時の衝動は 今の今までずっと続いている。(1999年1月撮影) ロンドンは16世紀にヘンリー8世のもと開発が進み経済発展とあわせ急激に成長した。 1666年にはパン屋から出火した火の手が市壁に囲まれた地の3分の2まで広がるロンドン大火が起こった。再建されたシティは、かつて木造の町並みとは全く異る石造に一新して不燃化された。 19世紀から20世紀にかけて産業革命を経験したロンドンは世界初の地下鉄が開業された。 当時人口は440万人を超えたが大気汚染が深刻で石炭の煤煙によるスモッグの発生により 「霧の都」と揶揄された。2度の世界大戦の後ロンドンの経済は低迷したが 1980年代サッチャー払って規制緩和や構造改革、国有事業の民営化などを遂行し 経済は息を吹き返しロンドンは世界有数の金融市場としての地位を確立した。 2005年にはイスラム過激派によるロンドン同時爆破事件が発生している。 2012年開催される第30回オリンピック誘致に成功した。 「霧の都」に対してこちらは「花の都、パリ」。 http://sky.geocities.jp/cairnsaska/822.jpg ちょっとした街角に信じられないような素晴らしい被写体が潜んでいる。 写真を撮る人には、詩的なものを見つけやすい街。(1998年4月撮影) セーヌ川の中洲シテ島は古くからセーヌ川の渡河点であり紀元前1世紀ローマ支配下に入った。 王権の強化にしたがってパリも発達しフィリップ2世の時代にはパリを囲む城壁が築かれた。 11世紀頃からパリ大司教座聖堂付の学校が発達しパリ大学につながり、 左岸は大学の街、右岸は商人の街という現在まで続く町の原型が定まった。 1789パリで発生したバスティーユ襲撃によってフランス革命が勃発した。 19世紀末から数回の万国博覧会が開かれエッフェル塔が建てられ1900年にはメトロが開業した。 この時代をベル・エポック(よき時代)と呼ぶ。パリは芸術の都としてアメリカやヨーロッパなどから 多くのボヘミアンたちを惹き付けた。 しかし第二次世界大戦が勃発するとナチス・ドイツが1か月でパリをほぼ無血で占領し 6月にはアドルフ・ヒトラーがパリに入った。 ノルマンディー上陸作戦から2か月後の1944年8月25日パリは解放された。 戦後のパリでは主に郊外(バンリュー)で人口が急増したが一方で 豊かな都心と貧しい郊外という構図が生まれ、 失業や治安の悪化が社会問題となり2005年にはパリ郊外暴動事件が発生した。 ロンドンとパリ、この2大都市を世界大戦中度々爆撃したドイツ。 その戦中のイメージとは対極にあるのがロマンチック街道にある宝石のように綺麗な小さな街々。 その中でもここローテンブルグはハイライトである。 http://sky.geocities.jp/cairnsaska/820.jpg ドイツの街らしい、日本人が童話で想像するような きめ細かな可愛らしいメルヘンチックな街並みを堪能できる。(2002年5月撮影) 1274年にローテンブルクは帝国都市の特権を与えられた。 聖ヤコブ教会には、十字軍遠征に伴いローテンブルクにもたらされた聖遺物とされる聖血が置かれた。 これが多くの巡礼者を引き寄せ中世のローテンブルクは第一級の巡礼地であった。 1634年にはペストの大流行によって多くの死者が出た。 1645年にフランスの軍隊に占領され最後の兵士が街を去るとこの街にはもはや財産も権力もなくなり、 ローテンブルクの街の発展は停滞し街はその重要性を失っていった。 これが街が17世紀のままの状態で保存された理由である。 1880年代になるとロマン主義の画家らによってローテンブルクが再発見され、 イギリスやフランスからも人気の観光地となっていった。 第二次世界大戦でアメリカの爆撃を受け 保存されていた建造物の約40%以上を占める旧市街東部が損傷または破壊された。 戦後、街は旧態に忠実に再建された。 全世界から再建のための寄付が寄せられアメリカからも多額の再建資金援助を行っている。 僕の記憶にある宝石の数珠つなぎはまだまだ続く― |
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ラオスの首都、ビエンチャンから11時間の険しい山道をバスで北上する。 この長距離バスは乗り物酔いする人には絶対おすすめできない、苛酷なもの。 本当に一歩間違えれば谷底という道路をバスは 山間の少数民族が住む質素な住居を横目にゆっくり走って 古都ルアンパバーンに到着した。 ここルアンプラバーンは70近くの寺院が山間部の狭い地域に密集している。 現在のラオスの基礎を築いたラーンサーン王国、そしてそれに続くフランス統治時代の面影を 色濃く残す町並みは、山に囲まれる辺鄙な場所であるという利点も作用し 見事に現代まで美しく生き残り街全体が世界遺産に登録されている。 今回、たまたまと言っては贅沢すぎるくらいだったのだが この古都に着いた翌日からラオスで一番盛り上がる行事、正月(ピーマイ・ラオ)に巡り合った。 この期間、ラオス人たちはお寺に参拝して花びらと香水入りの水を仏像にかける。 そしてもう一つの見どころは「水かけ」である。 水をかけ合うことで悪いものや病気を洗い流しきれいな体と健康を手に入れるのだと言う。 路上の水かけはすさまじかったのだ。 観光客とか誰かれ構わずホースや風船爆弾、水鉄砲で無差別に水を掛け合う。 若者たちはトラックに乗って踊って歌って日頃のストレスを目一杯発散しているように見える。 服を引っ張られて中にホースで水入れられたり。 色つきの風船爆弾投げられたり。もうやられぱなしだった。 さすがに一人だったので、 欧米人がやるように、でかい水鉄砲持って武装しようとも思わなかったが。。。 ここでジョホールバルのうっぷんを晴らすべきだったかも笑。 お祭りって普段は見えてこない国民性とかが見えてくるものだ。
ラオスは貧しくてまだまだ発展途上の国だったけど 人々の抑圧された心が一瞬でも発散されるひと時が見れて とても微笑ましい気持ちになった。 |
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2010年4月6日。シンガポールに2日ほど滞在した僕は隣国マレーシアに降り立った。
シンガポールは大体回ったし、物価が高いから旅行する場所としては大して興味はない。
幸いジョホ−ルバルはシンガポール市街からバスで1時間ほどであり
日帰りで全く趣の違うイスラムの国を見て帰れる場所である。
国境での入国審査はズムーズに進みジョホールバルに到着。
国境近くのホテルに宿泊し、翌日昼から市内散策に出かける。
ジョホールバル、といえば昔サッカー日本代表が初めてワールドカップ出場を決めた場所として有名である。
中田が蹴ってキーパーに当たって岡野が押し込んだあの試合。
イスタナ・ガーデンという緑の広がる公園を一人歩く。
平日ということもあってあまり他の観光客を見かけない。
公園自体はなんということもない公園だった。天気は良いが赤道直下で蒸し暑い。気温は35度くらいはある。
と、公園の裏手にある門が閉まっていた。
正門から歩いてきたのでまた引き返すと40分くらいかかる。これは相当面倒くさい。
当然のように門を乗り越えて一般道に出ようとを考えた。
門、と言っても校門程度のものだし、さほど問題でもあるまい。
まずリュックを外に下ろし、門のてっぺんに足をかけて向こう側に思いきり飛び込んだ。
まあ、こんなこと長い旅でよくある経験だ。
瞬間、後ろから声をかけられた。バイクに乗ったイスラム教徒風のマレー人だった。
「おい、お前今何したんだ?」「ちょっとこっち来い!」かなり高慢そうなモノ言いである。
この男制服も何も着てなかったし、最初は無視して反対方向に歩き出した。
しかししつこく追いかけてくる。「俺はセキュリティだ、なぜ逃げた?来いと言ってるだろ!
お前、ゲート飛び越えただろう」
自分の中で「ルールを犯した」という負い目があるのでかなり戸惑う。
ここは大人しく従ったほうが厄介事にならなくて済むのではないか。
とりあえず男の話を聞くことにした。
「おまえ誰だ、本当にセキュリティなのか」と聞くと一応写真つきの証明書を見せられる。
でもこれだけでは彼が本当のセキュリティなのか分からない。
「パスポートを見せろ」と言われる。
パスポートを見せると取り上げられ「オフィスまで来い」と言われバイクに乗せられる。
いよいよ事態は怪しくなってきた。。
バイクに乗せらされてる間パスポート取り返して逃げるタイミングも度々あったのだが
もしも本当にこの男が警察とつながっていたら、
逃走するという行為が後々どんなに状況を面倒にするかを想像してしまい、少しひるんだ。
そして翌日に控える香港行きのチケットもラオスへの旅行計画もすべてが台無しになってしまう。
バイクはイスラムのモスクにある全く人影のない場所に止まる。
そこに座らされ遂に「荷物の中身と財布を全部見せろ」と言われる。
事態は非常に深刻だ。
男が財布の中身をチェックし札を数え始める。
自分のお金がさっき会ったばかりの知りもしない、くそったれマレー人の手に触れられていると思うと
急に悪寒と言いようのない怒りがこみ上げる。
「おまえ何してるんだ、バカ!盗んなよ!!」思わず叫んだ。
その瞬間この男の表情が変わり、「じゃあ警察に全部話しに行く、お前牢屋に入る」と言われる。
バイクに乗せられ15分ほど走ったあと古びたスラム街にある建物の前に止まった。
「ここはおれのオフィスだ、手続きするからおまえここに座れ。座っとけよ。」
パスポートと財布を持ったまま、男は建物の一室に入る。
数分後彼は外に出てきて「後ろに乗れ、警察に連れてく」と言う。
言葉も何も通じない、マレーシアの牢獄ですべてを剥ぎ取られ一人たたずむ自分を想像する。
何てこった、、、
「おまえ今日シンガポールに帰るんだな?」
そうだ、と答えるとジョホールバルの街中までそのまま連れて行かれる。
市内に着くと急にパスポートと財布を投げるように返される、男は静かにバイクで立ち去った。
予想通り財布には一銭の金も残されていなかった―
猛暑の中、気を失いそうになる、、、
あとがき
今まで十数回一人で世界を旅行してきた中で
一切の盗難や事件に巻き込まれたことのない自分にとって
この時はショックと衝撃でしばらくどうしていいのかさっぱり分からなかった。
何より20日ほど計画した旅行の、たった3日目で全財産を失ったのだ。
もう今すぐ豪州に帰りたい、と思った。
幸いパスポートとクレジットカードは戻ってきたから
シンガポールに戻って現金を引き出し、不屈の闘志でラオスの旅行まで乗り切った。
ジョホールバルでは日本領事館に行って話は聞いてもらったがマレーシアの警察には行っていない。
時間もなかったし現金だけ盗られたと報告しても金が返ってくるはずもない。
そして一国も早くあの忌まわしきジョホールバルという街を出たかった。
考察
・なぜ抵抗できなかったのか、逃げなかったのか。
これは今でも正直思い出して自分でも苦々しい思いになる。
戦う意思を見せれなかった自分に恥ずかしささえ感じる。
普通の警官やセキュリティならお金に手を触れることはないだろう。
ただ「ルールを犯した」という思いが「言いつけられる」という恐怖感を引き起こし
実力行使の行動を取ることを抑制してしまった。
・ニセ警官・セキュリティについて
後からネットでも調べたがこういう事件は世界各地で多発している。
殺人とか傷害まで発展している事件もある。
外国を旅行する者にとってこういう人と接触してしまった場合
非常に判断が難しい。中には本物そっくりの制服、身分証まで用意しているというのだから。
僕だって未だにあいつが本当のセキュリティなのかどうか分からないのだ。
・対策・対応
人どおりの少ない場所(観光客の少ない場所)を歩くは極力避ける。
相手に弱みを握られない(交通ルールや宗教上の規範を無視するなど)。
そういうことで付け込まれると、こちらとしてはとても立場が悪くなる。
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