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人類がサタンによって堕落させられた時、神は人類救済の経営計画を開始した。神は人類を救うために3段階の働きを実行した。律法の時代にヤーウェ神は律法を発布し、人類の生活を導き、人々に神を崇拝することを教え、罪が何であるか教えた。しかし、律法の時代の最終段階が来ると、人類の堕落はいっそう深刻になり、人々はしばしば律法に違反し、ヤーウェに対し罪を犯した。彼らは律法を犯したため罪に定められ、処刑される危険に直面した。したがって、人類の要求に応えて、恵みの時代に神は肉となって、主イエスになった。イエスは人類のために十字架につけられて、人を罪から贖い出し、人々が神の前に出て、神に祈り、告白して悔い改め、罪を赦され、豊かな神の恵みと祝福のもとで暮らせるようにした。しかし、人々の罪深い性質はまだ解決されておらず、彼らはしばしば罪を犯し、神に反抗したので、神の国の時代に神は再度肉となり、全能神の名を使い、主イエスの贖いの働きを基礎にして人類の救いと清めのためにすべての真理を示し、人類の罪深い性質を取り除き、人類の神への不服従や反抗をやめさせ、人々が本当に神に従い、崇拝することを許し、最終的に人類を美しい終着点に導くのだ。神が律法の時代、恵みの時代、神の国の時代に行った働きは異なっており、神が選んだ名前と神が示した性質も異なっていたが、その働きの本質と目的は同じである――すべては人類を救うためであり、すべての働きは神自身によって行われる。全能神が次のように言った通りである。「ヤーウェの働きからイエスの働きまで、イエスの働きからこの現在の段階の働きまで、これら3段階は神の経営の全幅を覆うもので、そして一つの霊による全ての働きである。神が世界を創造した時から、神は常に人類を経営して来た。神は初めであり終わりであり、最初で最後であり、時代を始める者で、また時代を終わらせるものである。違った時代、違った場所における3段階の働きは確かに一つの霊によって実行される。これら3段階を切り離す者たちは全て神に反抗している。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より)
何千年もの間、主イエス・キリストが神自身であること、主イエスは神の現れであり、主イエスは肉となったヤーウェであることを本当に知っている人はほとんどいない。実際、聖書はこのことをずっと以前にはっきりと予言していた。イザヤ書には次のように記されている。「しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となす…」(イザヤ書53:10)聖書のこの一節から、主イエスが罪祭としての役割を果たしたことはヤーウェが罪祭として身をささげたことを意味し、主イエスはヤーウェであったことが理解できる。主イエスはこうも語った。「わたしを見た者は、父を見たのである。」(ヨハネ14:9)「父がわたしにおり、また、わたしが父におる」。(ヨハネ10:38)「わたしと父とは一つである」。(ヨハネ10:30)主イエスが「わたしと父とは一つである」と語った時、イエスはヤーウェと自分が一つの霊であると語ったのだ。主イエスが発した言葉とヤーウェが発した言葉は同じである――どちらも真理であり、一つの霊から出された語りかけであり、源は同じである。すなわち、主イエスとヤーウェは一つの神である。同様に、終わりの日の全能神が述べた言葉と主イエスの述べた言葉の源は同じであり、それらは聖霊の語りかけであり、真理であり、神の声である。主を信じる人々は皆、聖書の予言のかなりの部分は主イエスの再臨と終わりの日の神の裁きの働きに関係していることを知っている。主イエスが次のように語った通りである。「そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」(ヨハネ14:3)「見よ、わたしはすぐに来る。」(黙示録22:12)「そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」(ルカ21:27)「見よ、わたしは盗人のように来る。」(黙示録16:15)「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネ12:48)ペテロの第一の手紙でもこう語っている。「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロI4:17)これらの聖書の言葉では、主イエスは終わりの日に戻り、言葉を述べ、裁きの働きを行うと非常にはっきりと語った。全能神は終わりの日にやって来ると、主イエスの贖いの働きを基礎にして、神の家から始まる裁きの働きを行い、人類の清めと救いのためにすべての真理を述べる。全能神の働きと主イエスの働きは異なっているが、根源は同じである――すなわち、一人の神である。これは主イエスの予言を完全に実現している。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネ16:12-13)肉となった終わりの日の全能神は真理の霊の化身である。全能神は主イエスの再臨である。
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素晴らしい救い
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1.当時、イエスの働きは人類すべての贖いであった。イエスを信じるすべての人の罪は赦された。イエスを信じているならば、イエスはあなたを贖う。イエスを信じたなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということで、信仰 によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆うものが残っており、それはやはりゆっくり取り除かれなければならなかった。救われることは人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人はもう罪の中にはおらず、罪が赦されたことを意味した。信じるならば、もう罪の中にはいないということである。
『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(2)」より
2.人類は主イエスを救い主として受け入れるだけで罪が赦されるようになった。名目上は、人間の罪はもはや救いを得て神の前に出る妨げとはならず、サタンが人間を責める手立てではなくなったということである。それは、神自身が実際的な働きをし、罪深い肉の形を取り経験し、罪のための捧げ物となったからである。こうして、神の肉、罪深い肉の形をとった神のおかげで人間は贖われ、救われて、十字架から降りた。
『言葉は肉において現れる』の「神の経営の中でのみ人は救われる」より
3.人の肉はサタンに属しており、不従順な性質に満ちており、嘆かわしいほど汚れており、不純なものである。人々は肉の喜びを過度に切望し、肉の現れは多過ぎ、そのため神は肉をある程度嫌っている。人々が、汚れて、堕落したサタンのものを置き去りにする時、神の救い を得る。しかし、彼らが汚れや堕落を投げ捨てることができないままでいるなら、相変わらずサタンの支配下にとどまるだろう。人々の狡猾さ、不正直さ、ねじれた心はサタンのものである。あなたを救うことによって、神はあなたをこれらのものから切り離す。神の働きは間違っていることはなく、すべては人々を闇から救うためである。あなたがある程度信じていて、肉体の堕落を脱ぎ捨てることでき、もはやこの堕落の束縛を受けない時、あなたは救われているのではないだろうか。サタンの支配下で暮らしている時、あなたは神を現わすことはできず、あなたは不潔で、神から与えられるものを受け取ることはない。いったん清められて、完全にされると、あなたは聖くなり、正常になり、神の祝福を受け、神に喜ばれる者となるだろう。
『言葉は肉において現れる』の「実践(2)」より
4.神により救われている者は神からの試練を経験したものであり、サタンの誘惑と攻撃を何度も受けたことのある者である。神により救われている者は神の心と要求を理解でき、ひたすら神の支配と采配に従い、サタンの誘惑のただ中にあっても、神を畏れ悪を避ける道から逸れることがない。神により救われている者は正直であり、心優しく、愛と憎しみを区別し、義と理性を知っており、神を配慮し神の全てを大切にする。そのような人々はサタンに束縛されておらず、監視されておらず、非難されたり虐待されたりしていない。完全に解放されており、全く自由である。……
『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 2」より
5.イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理 、道、いのちを得るだろう。
『言葉は肉において現れる』の「序文」より
6.イエスがその働きを行なっていたとき、イエスに関する人の認識は依然として漠然として不明瞭だった。人は昔からイエスをダビデの子と信じ、偉大な預言者で人の罪を贖う情け深い主であると宣言した。信仰によって、イエスの衣の端を触っただけで癒された人々もいれば、盲人たちが見えるようになり、死人さえ生き返った。しかし、人は堕落したサタン的な性質が人に深く根づいているのが発見できず、それを捨て去る方法も知らなかった。人は肉による平安や幸福、一人の信仰による家族全体の祝福、病人の癒しなど多くの恵みを受けた。残りは人による良い行いや外見上の信心深さであった。そのようなものを基に生きることができるなら、その人はまずまず良い信者と思われたのである。そのような信者だけが死後、天国 に入ることができるとされた。それは彼らが救われたことを意味する。しかし、彼らはその生涯において、いのちの道を全く理解していなかった。彼らはただ罪を犯しては告白し、それを常に繰り返すのみで、性質が変えられる道へ進んでいる訳ではなかった。これが恵みの時代の人間の状態であった。人は完全な救いを得たのであろうか。いや、得なかった。だから、その段階の働きが終わってからも、依然として裁きと刑罰の働きが残っている。この段階は人に従う道を与えるように、言葉を通して人を清くする。もし悪霊を追い出すことを続けるなら、この段階は有益でも意義深くもないだろう。というのは、人の罪深い本性が捨てられることもないだろうし、人は罪が赦されるというところで行き詰まるだろうからである。罪のためのいけにえを通して、人は罪を赦されてきた。というのは十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に留まっており、人は依然として罪を犯し、神を拒むことができ、よって神はまだ人類を得ていない。だからこの段階の働きで神は言葉を用いて人の堕落した性質を示し、人に正しい道に沿って実践させるのである。この段階は前の段階よりもっと意味があり、もっと有益である。というのは、今、人に直接いのちを提供し、人の性質を完全に新しくできるのは言葉だからである。それはもっと徹底的な働きの段階である。だから、終わりの日の受肉は神の受肉の意義を完成し、人の救いのための神の経営計画を完全に終了したのである。
『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より
7.人は贖われ罪を赦されたが、それはただ神が人の過ちを覚えず、過ちに応じて人を取り扱わないこととみなすことが出来る。しかし、肉に生きる人が罪から解放されていないと、人は堕落したサタン的な性質をどこまでも顕し続け、罪を犯し続けることしかできない。これが人の送る人生で、罪と赦しの終わりのないサイクルである。大多数の人は昼間罪を犯し、夜になると告白するだけである。そのように、たとえ罪のためのいけにえが人にとって永久に有効だとしても、人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人は堕落した性質を持ち続けているからである。……
『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より
8.あなた方のように贖われたばかりで、まだ変えられておらず、神に完全にされてもいない罪人が、神の心に適うだろうか。古い自我を持ったままのあなたは、イエスによって救われたのは事実であり、神の救いのおかげで罪人とは見なされなくなったが、これは、あなたには罪や汚れがないという証拠ではない。変えられないままであれば、あなたはどうして聖いものとなれるのか。内側では、あなたは汚れに満ち、自分勝手で卑劣であるにもかかわらず、イエスと共に降臨することを望む──あなたはそこまで幸運ではない。あなたは神を信じる上での段階を一つ見落としている──あなたは単に罪から贖われただけで、変えられてはいないのである。あなたが神の心に適うためには、神が自らあなたを変えて清める働きをしなければならない。もしあなたが罪から贖われただけなら、聖さを得ることはできない。このように、あなたは、神が人を経営する働きの一段階、つまり変えられて完全にされるという重要な段階を逸したために、神の良き祝福を共有する資格はないであろう。よって、贖われたばかりの罪人であるあなたは、直接神の嗣業を受け継ぐことはできないのである。
『言葉は肉において現れる』の「呼び名と身分について」より
9.病気を癒したり悪霊を追い出したりすることで、人が罪から完全に救われることはなく、またしるしや不思議を顕すことによっても、すっかり完全にされることはないのである。癒したり悪霊を追い出したりするための権威は人に恵みを与えるだけで、人の肉は依然としてサタンに属し、堕落したサタン的な性質は依然として人の中に残っている。すなわち、まだ清められていないものは依然として罪と汚れに属しているということである。人は言葉によって清められて初めて、神のものとされ、清められる。人から悪霊を追い出したり、人を贖ったときは、それはただサタンの手から人を捕まえ、神のもとに戻したことでしかなかった。神によって清められていないし、変えられてもいないなら、人は堕落したままである。人の中には、依然として汚れ、敵対心、そして不従順が存在する。人は贖いを通して神のもとに帰っただけで、人は神について何の認識もなく、依然として神に抵抗し、神を裏切っている。人が贖われる前、サタンの毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。サタンによる堕落を何千年も経た人間には、神に抵抗する性質が既に定着して存在していた。だから、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られた贖い以上のものではなく、人の中の毒を持った性質は取り除かれてはいなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるにふさわしくなる前に変えられなければならない。裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。この日なされるすべての働きは人が清められ変えられるためである。言葉による裁きと刑罰、また精錬を通して、人は堕落を捨て、清くされることができる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言った方が適切であろう。
『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より
10.終わりの日の働きは言葉を語ることである。大きな変化が言葉を通して人にもたらされる。言葉を受け入れた人たちにもたらされた変化は、恵みの時代にしるしや不思議を受け入れた人たちにもたらされた変化よりもはるかに大きい。というのは、恵みの時代に、悪霊は按手と祈りによって人から立ち去ったが、堕落した性質は人の中に残ったままであった。病気が癒され、罪が赦されたが、人の中にある堕落したサタン的な性質から人がどのように浄化されるかということに関しては、この働きは人の中ではまだなされていなかったからである。人は信仰の故に救われ罪が赦されただけで、人の罪深い本性は取り去られず内面に残ったままであった。人の罪は神の受肉を通して赦されたが、それは人の中に罪がないという意味ではない。人の罪は罪のためのいけにえによって赦されることができたが、どうすれば人がもはや罪を犯さないようにし、その罪深い本性が完全に取り去られ変えられるかということに関しては、人にはこの問題を解決する方法はないのである。人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。そのためには、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変えるための道を知らなくてはならない。また、人はこの道に沿って行動することが必要とされる。その結果、人の性質は次第に変わり、光の輝きの下で生きることができ、すべてを神の心に沿って行なうことができ、堕落したサタン的な性質を捨て去ることができ、サタンの暗闇の影響から解放されることができ、それにより罪から完全に抜け出ることができる。このとき初めて人は完全なる救いを受けることができる。
『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より
11.神が人々を獲得する時、神はおもに実践的神の言葉と発言を通して、人々の欠点を取り扱い、反抗的な性質を裁き、明らかにし、人々に必要なものを得させ、神が人々の間に到来したことを示すためである。最も重要なことだが、実践的神の行う働きは、すべての人をサタンの影響から救い、彼らを汚れた地から切り離し、彼らの堕落した性質を一掃することである。実践的な神に獲得されることの最も深遠な意義は、実践的神を模範として、モデルとすることができ、正常な人間として生き、実践の神の言葉と要求を実践できるようになり、少しのズレや逸脱もなく神の言われる通りを実践し、神が求められることを達成できるようになることである。このようにして、あなたは神のものとされる。
『言葉は肉において現れる』の「実践的な神は神自身であることを知るべきである」より
12.神のものとされた人々は、完全に神に従う人々であり、サタンに堕落させられたものの、今は神の働きにより救われ征服され、苦難に耐え、そして最後に完全に神のものとされ、もはやサタンの領域で生きることはなく、不義から解き放たれ、聖く生きることを望む人々である。それらが最も高潔な人々であり、聖なる者たちである。
『言葉は肉において現れる』の「あなたは人類全体が現在までどのように発展してきたかを知るべきである」より
13.神が人々を完全にする時、神は彼らを清め、人々は清くなればなるほど、神によってより完全にされる。汚れ、反抗、敵対心、あなたの中にある肉に属するものが取り除かれ、あなたが清められた時、あなたは神に愛されるであろう(言い換えれば、あなたは聖者になる)。あなたが神によって完全にされ、聖者になった時、あなたは千年神の国の中にいるであろう。
『言葉は肉において現れる』の「「千年神の国は訪れた」についての短い話」より
14.人は精錬された後、罪の性質がなくなる。なぜなら、神はサタンを打ち負かしたので、敵対勢力による侵略はなく、人の肉を攻撃する敵対勢力がなくなるからである。そのようにして、人は自由になり、聖くなり、永遠の中に入るだろう。
『言葉は肉において現れる』の「人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行くこと」より
15.終わりの日の神の裁き、刑罰の働き、すなわち、最後の清めの働きの中でゆるがず耐え抜ける人たちが、神と共に最後の安息の中に入る人たちである。したがって、安息に入る人はみな、神の最後の清めの働きを経て初めて、サタンの支配から振りほどかれ、神によって得られるだろう。最終的に神によって得られたこのような人々が最終的な安息へと入るのである。刑罰や裁きという神の働きの実質は、人類を清めることであり、それは、最終的な安息の日のためである。さもないと、全人類は、それぞれ自身と同類のものに属することができないか、あるいは安息の中に入ることができない。この働きは、人類が安息の中に入るための唯一の道なのである。清めの働きこそが人類の不義を清め、刑罰と裁きの働きこそが人類の中のそれらの不従順なものを全部さらけ出すのである。それによって、救うことのできる人と救うことのできない人とが識別され、生き残ることのできる人と生き残ることのできない人とが区別されるようになる。神の働きが終わる時、生き残ることのできる人は、清められ、人類のより高い領域の中に入って、地上でのよりすばらしい第2の人生を享受する。すなわち、彼らは人類の安息の日に入って神と共に生活する。生き残ることのできない人が刑罰や裁きを受けた後、彼らの正体が全て露呈される。それから彼らはみな滅ぼされ、サタンと同じように、もう地上で生きることができなくなる。未来の人類はもうこのような人々を含まない。このような人々は究極の安息の地に入る資格がなく、神と人が共有する安息の日に入る資格もない。なぜなら、彼らは懲らしめの対象であり、悪者、義なる人ではないからである。彼らはかつて贖われたことがあり、また裁かれもし、懲らしめも受け罰せられたことがある。彼らはまた神への奉仕をしたこともあるが、終わりの日がきたら、彼らはやはり、自身の悪さ、自身の不従順さ、贖う術もないような有様が原因で、排除され、滅ぼされる。彼らは未来の世界では存在しないし、未来の人類の間で生きることもない。
『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より
16.神の経営(救い)の六千年の働きは、律法の時代、恵みの時代、神の国の時代というように三段階に分かれている。これら三段階の働きはすべて人類の救いのためである。すなわち、それらはサタンによってひどく堕落させられてきた人類の救いのためである。けれども、それは同時に、神がサタンと戦うためでもある。したがって、ちょうど救いの働が三段階に分かれているように、サタンとの戦いも三段階に分かれおり、この二つの側面の神の働きが同時に行われる。サタンとの戦いは実際、人類の救いのためであり、また、人類の救いの働きは一つの段階ではうまく完成できるものではないから、サタンとの戦いもまた段階と期間に分けられている。そして戦いは、人間の必要とサタンによる人間の堕落の程度に応じて、サタンに対して遂行される。……人の救いの働きは三段階で実行された。すなわち、サタンとの戦いは、サタンが完全に打ち負かされる前に三段階に分割されたということである。しかし、サタンとの戦いにおける全ての働きに秘められた真理は、人に恵みを施し、人の罪祭となり、人の罪を赦し、人を征服し、人を完全にすることによってその効果が達成されるということである。実際、サタンとの戦いは、サタンに武器を持って立ち向かうものではなく、人の救い、人のいのちへの働き、人の性質を変えることであり、それにより人が神を証しすることである。サタンはこのようにして打ち負かされるのである。人の堕落した性質を変えることを通してサタンは打ち負かされる。サタンが敗北すると、つまり、人が完全に救われると、そのとき辱めを受けたサタンは完全に縛られ、こうして人は完全に救われることになる。ゆえに、人の救いの実質はサタンとの戦いであり、サタンとの戦いはおもに人の救いに反映される。人が征服される終わりの日の段階は、サタンとの戦いの最終段階であり、また、人をサタンの領域から完全に救う働きでもある。人の征服の秘められた意味は、サタンの化身、つまりサタンに堕落させられた人間が征服に引き続いて造り主に戻ることであり、これにより人はサタンを見捨て、完全に神に戻る。このようにして、人は完全に救われるだろう。したがって、征服の働きはサタンとの戦いにおける最後の働きであり、サタンを打ち負かすための、神の経営(救い)における最終段階である。この働きがなくては、人の完全な救いは最終的には不可能で、サタンの完全敗北もまた不可能になるであろう。そして、人類は決して素晴らしい終着点に入ることができず、サタンの影響から自由になることもできないだろう。従って、人の救いの働きを、サタンとの戦いが終結する前に完了することはできない。というのは神の経営(救い)の働きの核心は人類の救いであるからである。最初の人類は神の手の中にあったが、サタンによる誘惑と堕落によって、人はサタンに縛られ、悪しき者の手中に落ちてしまった。こうしてサタンは、神の経営(救い)の働きにおいて、打ち負かす対象となった。サタンは人間を自分の所有物としたが、人は神の全経営の資本であるので、人が救われるには、サタンの手から取り戻されなければならない。すなわち、人間はサタンの虜となった後に連れ戻されなければならないのである。サタンは、人間の古い性質が変えられることによって打ち負かされ、それは人間の本来の理性を回復することになり、こうして、虜となっていた人間をサタンの手から取り戻すことができる。もし人がサタンの影響や束縛から自由になると、サタンは辱められ、人は最終的に取り戻され、サタンは打ち負かされるであろう。そして人はサタンの暗闇の影響から解放されたので、人はこのすべての戦いの戦利品となり、この戦いが終わるとサタンは懲罰の対象となるそのとき、人類を救う働きのすべてが完了するのである。
『言葉は肉において現れる』の「人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行くこと」より
17.最初の受肉は人を罪から贖う、つまりイエスの肉体を通して人を罪から贖うためであった。つまり、イエスは十字架から人を救ったが、堕落したサタン的な性質は依然として人の中に留まった。二番目の受肉 はもはや罪のためのいけにえとしての役割ではなく、罪から贖われた人たちを完全に救うことであった。それにより、赦されたものが罪から解放され、完全に清められ、性質が変えられ、それによりサタンの暗闇の影響を打ち破り、神の玉座の前に戻ってくるためである。このようにしてのみ、人は完全に清められる。神は律法の時代が終ってから、恵みの時代に救いの働きを開始した。これは神が人間の不従順に対する裁きと刑罰の働きを終えて人類を全く清める終わりの日まで続く。その時が来てはじめて、神は救いの働きを終え、安息に入る。
『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より
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質問3.私たちは主を信じてきて、主の御名を守ってきたわ、普段から聖書を読み、主に罪を告白してきた。謙虚で、寛容で、他人を愛していて、慈善活動を行い、寄付を施し、全てを犠牲にして主のために働いて、福音 を広めているわ。私たちは主の言葉を実践し、道に従ってないって言うの?信仰は持ったこともなく不信心者だったなんて、なんてことを言うの?聖書でパウロはこう言ったわ。「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。……」(テモテヘの第二の手紙 4:7-8)だから私たちは、主の賞賛を得るはずじゃないの、主が来られたら天国へと引き上げて下さるわ。
解答: 多くの信者はこう思ってます。主の御名を守り、聖書を読み、祈り、集い、全てを犠牲にして努力していれば、真の信者であると、そのように主を信じれば、天国へと引き上げられると考えているのです。神を信じることは、人々が思うほど簡単でしょうか?このような信じ方で、神様の承認を得られるでしょうか?主イエスによって、罪に定められたパリサイ人たちもそのような信じ方ではなかったですか?彼らはよく祈り、懸命に働き、福音を広めるため遠く旅したこともありました。主の非難を買い、呪われてしまったのでしょうか?聖書を読む人はわかります。パリサイ人はよく聖書を読み、よく祈り 、神様の働きを広め、よく耐え忍び、他人を愛した。外から見れば、信仰が深そうで、本物の信者のようでした。ですが実際は、神様を崇めず心に神様の居場所はありませんでした。信仰において、神様の言葉に真理を求め、御心を理解することにはせず、神様の言葉を実践したり、従ったりすることも少なく、聖書と神学の理論を普及させることに力を入れていました。宗教的な儀式ばかりに固執し、他人から崇拝されるように自分自身を立てたのです。何年もそんな信仰を続け、神様のことは知らず、従順かつ敬虔になることもありません、従って、主イエスが働きをした時、彼らは真理を求めずに、思い込みや想像だけで推し量ったのです。主イエスの説教が意味深く、主の働きがどれだけ権威と力を持っていようが、彼らは学んだりせず、徹底的に主を拒み、非難し、十字架に磔にしたので、彼らは呪われ、罰せられました。パリサイ人の信仰は、真の信仰だと言えるでしょうか?神様はパリサイ人の信仰を受け入れましたか?主イエスは認めなかっただけでなく、「偽善的な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。」(マタイによる福音書 23章)そう非難し、呪ったのです。そうではありませんか?パリサイ人たちは思い込みや想像だけで、天の曖昧な神を信じました。真理を表された、受肉された主イエスを信じることなく、真理に飽き、真理を忌み嫌い、神様を信じながら、拒んでいたのです。
では今の宗教界はどうでしょう。多くの牧師や長老たちは主の御名を守っていて、それによって祈り、聖書を読み、主の為ならすべてを捨てて努力します。しかし全能神が裁きのために真理を表す時、思い込みや想像で神の働きを定義づけ、聖書の御言葉や働きの範疇を超えるものは異端だと考えています。彼らは全能神の御言葉は真理だと知っているのに、探し求めようともせず、全能神の噂や嘘を広め、中傷し、非難し、冒涜しているのです。信者が真の道を探すことを制限するどころか、証をしようとする人たちを逮捕させています。どうですか?こんな長老たちは、主イエスを拒んだパリサイ人たちとどう違うんでしょうか?どちらも真の道を知りつつ、拒んだのでしょうか?どちらも真理を忌み嫌う、神の敵ではないでしょうか?ということは、主を信じてその御名を守り、努力し、信仰深く見せようとしても、主の言葉を実践し主の道に従っているわけではなく、主に仕える真の信者ではないということです。信仰深そうでも、心の中で主を崇めて、従順であるとは限らないですし、真理を理解し、主を知っているわけでもありません。主を信じているのに真理 を求めず、神様の言葉を体験しないのであるなら、何年も、主を信じていようが、どれだけ主の為に努力していようが、主の賞賛は得られません。これは特に宗教指導者たちです。主のために努力しますが、未だに全能神を徹底的に非難しています。これだけで、彼らが邪悪な人々だという証拠になります、彼らは終わりの日の働きで、反キリストと暴かれたのです。彼らは呪いと懲罰を受けるでしょう。主イエスが言った通り、「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」(マタイによる福音書 7:22-23)終わりの日の全能神の御言葉も明確です。全能神は言われる。「わたしは、あなたの大いなる努力がどれほど賞讃に値するか、あなたの資格がどれほど素晴らしいか、どれほど忠実にわたしに従っているか、どれほど名高く、どれほど名高く、あなたの姿勢がどれほど改善されたかは問わない。あなたがわたしの要求した物事を行わない限り、あなたは決してわたしの賞讃を得ることができないであろう。そうしたすべての考えや打算は出来るだけ早く捨て、わたしの要求を真剣に扱い始めるように。さもなければ、わたしはあらゆる者を灰にしてわたしの業を終えるか、せいぜいわたしの長年にわたる業と苦難を無に帰するであろう。なぜなら、わたしの敵と、邪悪の臭気を持ちサタンに倣う者をわたしの国すなわち次の段階に入らせることは出来ないからである。」(『言葉は肉において現れる』の「過ちは人間を地獄へ送る」より)神様の言葉 は、不変の真理です。信者たちが神の賞賛を得られるかは、どれだけ働いたか、どれだけ苦しんだかに左右されません、御言葉を実践するか神様に従うか次第です。だがパウロは、「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。……」といた。(テモテヘの第二の手紙 4:7-8)これはパウロの考えや想像で、神様の言葉や真理とは一致してません、神とは反対です。
真の信仰を持つのはどういうことか、どうすれば神様の承認を得られるのか?この質問は本質的なものです。神様への信仰が救いをもたらし、神様の国に入れるかに関係しています。これまでは、主のために働くことを重視しました、そうすれば、再臨された時に、主の国に入れると思っていたからです。しかし今は間違った信仰の道だと、皆さんはご存知です。神様への真の信仰が何であるか、また神様の承認を得るのにどのようにすべきか、宗教界には誰も知りません。終わりの日のキリスト、全能神は、信仰の真理を明らかにし、「真の信仰とは何か?」についてはっきりと話されています。全能神は言われる。「神を信じている人はたくさんいるが、神への信仰とは何を意味するか、神の心に従うためには何をしなければならないかを理解している人はほとんどいない。人々は『神』という言葉や『神の働き』のような語句はよく知っているが、神を知らないし、ましてや神の働きなど知らないからである。それなら、神を知らないすべての人々がでたらめな信仰に取りつかれているのは無理もない。人々は神への信仰を真剣には受け止めない。なぜなら神を信じることは彼らにとってあまりにもなじみのないものであり、あまりにも不慣れなことだからである。これでは、彼らが神の求めに応えることなどできない。言い換えれば、人々が神を知らなければ、神の働きを知らなければ、神に使われるには適さないし、ましてや神の望みに応じることなどできない。『神への信仰』とは神の存在を信じることを意味し、これは神に対する信仰の最も単純な考えである。さらに、神の存在を信じることは、真に神を信じることと同じではない。むしろそれは強い宗教的含みを持つ単純な信仰である。神への真の信仰とは、神はすべてのことに支配権を持つという信念に基づいて神の言葉と働きを経験することを意味する。堕落した性質から解放され、神の望みに応じ、神を知ることができる。そのような道程を経てのみ、神を信じていると言える。しかし、人々はしばしば神に対する信仰を、何か単純で取るに足らないものだと考える。そのような人々の信仰は意味がなく、神の承認は決して得られない。なぜなら、彼らは間違った道を歩んでいるからである。今日でも、文字上でだけ、空しい教義上でだけ神を信じている人々がいる。彼らは自分たちの信仰には本質がないことや、自分たちが神の承認を得られないことに気が付かず、依然として平安と神からの十分な恩恵を願って祈っている。わたしたちは立ち止まって次のように自問するべきである。神を信じることは本当に地上で最も容易なことなのだろうか。神を信じることは神から十分な恩恵を得ることでしかないのだろうか。神を信じているが神を知らない人々、神を信じているが神に反抗している人々は本当に神の望みを満たすことができるのだろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)
「あなたは神を信じることとは、苦難を受けること、または神のために多くの事を行うこと、あるいは自分の肉の平穏のため、自分にとって全てのことがうまくいき、全てが快適であることのためだと思うかも知れない── しかし、神を信じるためには、こうした目的はいずれも人間が持っていてはならないものである。あなたがそのように信じているのであれば、それは誤った見方であり、あなたは決して完全にされることはない。神の行い、神の義なる性質、神の知恵、神の言葉、そして神の驚異とはかり知れない性質は、全て人々が理解すべきことである。そうした理解により、個人的な要望、及び自分個人の希望、心中の観念を取り除きなさい。これらのことを排除してはじめて、あなたは神の要求する条件を満たすことができる。このことを通してのみ、あなたはいのちを得、神を満足させることができるのである。神を信じることとは、この値なき人々の群れを通して神の行いと栄光が表出されるために、神を満足させ、神が求める性質を実際に生き抜くためのものである。これが、神を信じるための正しい観点であり、あなたが追求すべき目標でもある。あなたは、神を信じるための正しい観点を持ち、神の言葉を得ることを求めなければならない。あなたは、神の言葉を食べ飲みし、真理を実際に生き抜き、とりわけ神の実際の行い、遍く全宇宙において為される神の素晴らしい業、また、神が肉の内に為す実際の業を見る必要がある。実際の体験を通して、人々は神がどのように自分の業を彼らの上に行うのか、また、彼らに対する神の意志は何であるかを理解することができる。これらの全てはあなたの堕落したサタンによる性質を排除するためである。あなたの中にある汚れと不義を払拭し、誤った意図を取り除けば、あなたは神への真の信仰を育むことができる。真の信仰を持つことによってのみ、あなたは神を真に愛することができる。あなたは、神への信仰を基礎としてのみ、ほんとうに神を愛することができる。神を信じずに神を愛することができるだろうか。あなたは神を信じているのだから、それについては考えが混乱することはないはずである。ある人々は、神への信仰が自分に祝福をもたらすことを見るとすぐに活力に満ちる。しかし、精錬で苦しまなければならないと知るとすぐに全ての精力を失う。これが神を信じることだろうか。結局、神への信仰とは神の前での完全無欠の服従である。あなたは神を信じているが、まだ神に要求している。また、捨てきれない多くの宗教的観念がある。諦めきれない個人的な利益がある。そして、依然として肉の祝福を求め、神があなたの肉を助け出し、あなたの魂を救うことをねがう── これらは全て誤った観点を持つ人々が表すことである。宗教的信念を持つ人々は、神を信仰 してはいるものの、性質を変えることや、神に関する認識を追い求めず、自分の肉の利益のみを追求している。あなたがたのうち多くの者は、宗教的信念の域に属する信仰を持っている。それは神への真の信仰ではない。神を信じるためには、人々は、神のために苦しむ心と、自分自身を捧げる意志を持っていなければならない。この二つの条件を満たさない限り、それは神への信仰とはみなされず、彼らは性質における変化を達成することはできないであろう。心から真理を求め、神に関する認識を求め、いのちを追い求める人々だけが、神を真に信仰している者である。」(『言葉は肉において現れる』の「完全にされる者は精錬されることを体験しなければならない」より)
全能神は信仰の奥義と真理を明かしました。大勢が信じますが、真の信仰が何であるかだけでなく、神様もその働きも、知らないのです。このような信仰は、賞賛を得ることのない、混乱した信仰です。全能神は信仰の真意を明確にされています。「神への真の信仰とは、神はすべてのことに支配権を持つという信念に基づいて神の言葉と働きを経験することを意味する。堕落した性質から解放され、神の望みに応じ、神を知ることができる。そのような道程を経てのみ、神を信じていると言える。」本物の信仰について明確に話してます。神を信じる人は、実際に御言葉を信じます。それは御言葉を実践し、御働きを体験することです。これが真理を理解し、神様を本当に知る方法です。これぞ神様への本物の信仰なのです。宗教界では、どう主のために働き苦しむかしか話しません、御言葉をどう実践するかは話さないのです。ですから、長く信じても真理を理解できず、神様を知ることもできません。そんな風に信じていて、どうして認めてもらえるでしょう。主イエスは言われた。「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。」(マタイによる福音書 7:22)次に何と仰いましたか?「そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」(マタイによる福音書 7:23)自分の意思に従い、神様のために犠牲を払い、働いても、御言葉を体験しようとせず、このような信仰は神様の賞賛を得るどころか、神様によって非難されています。宗教界の信者の頃を振り返ると、御言葉を実践することも、体験することもせず、罪を犯して悔い改め主に赦しを請う、それだけでした。問題が起これば主に祈り、助けを求めました、聖書の御言葉をいくつか覚えて守り、規則に従ってさえいれば、主を信じている。ただ熱心に犠牲を払い、主のために働けば、主を強く信じていると思った。自分は主を愛し、主に忠実でいる、主が再臨された時には、間違いなく天国に行けると思った。これは、私が全能神を受け入れ、その御言葉を読むまで続きました。「神に付き従う者の多くは、ただ、どうして祝福を受けるかや、どうして災いを避けるかということだけに気をもんでいる。……そうした人々は、神に付き従うことにおいて、ただ一つの目当て、つまり祝福を受けることしかない。そこで、その目的に関わりあること以外に関心を向けることは怠惰すぎてしないのである。彼らにとって、神を信じるということは、祝福を受けることが最も正当な目的であって、それが信仰の価値にほかならない。その目的を果たすことができないことには、全く心を動かされない。今日神を信じている人々のほとんどは、そういう状態である。その人たちの目的や動機は、もっともらしく見える。神を信じると同時に、神のために費やし、神に身を捧げ、本分も果たすからである。青春を犠牲にし、家族や職を捨て、故郷から遠く離れて何年も懸命に働くことさえある。……このことの中に、これまで認識されていなかった問題を発見する。それは、人間の神との関係は単にむき出しの利己心によるものだということである。これは恵みの与え手と受け手との関係である。簡単に言うと、雇われ人と雇い主の関係のようなものである。雇われ人は雇い主から報酬をもらうためにだけ働く。こうした関係に愛情はない。ただの取引があるだけである。愛し愛される関係はなく、施しとあわれみとがあるだけである。理解はなく、甘受と欺きだけがある。親しみはなく、越えられない溝があるだけである。物事がこういう状態に至ったとき、誰がこの傾向を元に戻せるだろうか。この関係がいかに絶望的なものになっているかを、どれほどの人がほんとうに理解できるだろうか。祝福を受ける喜びの中に浸っているとき、神とのそうした関係が、ばつの悪い、見苦しいものであるとは誰も想像できないはずである。」(『言葉は肉において現れる』の「神の経営の中でのみ人は救われる」より)全能神は問題の核心に入り、人の本性を明らかにします、神との取引を求むのです。私は信仰の動機があまりにも不純だと気づきました、祝福や恵みや報酬、天国に行くことを求めていたのです。祝福さえあれば、どんな苦しみでも耐え、どんな代償をも払うつもりでした。しかし御言葉を実践せず、神様を知ろうとしなかった、結果として、私の人生は真理と関わりのないものになった、何年も信じてきたのに、主の認識はこれっぽっちもありません。私は、自分の信仰は主の賞賛を得ることができ、再臨の時には、天国へ引き上げられると思っていました。私は本当に恥知らずでした。神様は人類の贖いと、救いのために2度受肉されました、真理をもたらすためにされたのです。彼らが神様の言葉を彼らの命として受け入れ、罪の束縛から解放され、従順になるようにされたのです。御心を理解しておらず、真理だけでなく、神の認識も求めなかった、私は恵みと報酬だけを、求めていました。何かを犠牲にしたとしても、それは天国での祝福と引き換えでしかありませんでした。神をどう信じていたのでしょう?どう神様を愛し忠実だったのか?神様と取引をしようとしました。神様を利用し、騙そうとした。全能神の御言葉による裁きで、自分がどれほど、堕落させられていたかわかりました。利己的で狡猾で、人間らしさもない、卑劣な悪人で自己中心的でした。御前にふさわしくありません。神様は創造主で、私は創造物です。私が神様を信じ、すべてを犠牲にする、それが本分です、それが創造物としての責任です。理性も良心もありませんでした、何かを犠牲にしたり苦しんだのは、神様との取引のためでした。私は祝福が欲しかったのです。神様を騙したこの私の信仰、神様から憎まれるはずです。私のような、悪魔的なものは天国へいざなわれるわけがない。私は、御前に跪き、悔い改めました、神様がどのようにされ、最終的にどうなろうと、神様の計画に従います。仕えるだけでも、真理を追い求め、本分を全うします。全能神の裁きや刑罰や試練を、体験することで、信仰の考えは変わりました。真理を追い求め、実践し始める、徐々に正しい道を歩み始めました。これが全能神の裁きを体験した結果です。全能神に感謝をします。
全能神の裁きと刑罰を体験した後、私はやっと、どれだけ堕落させられていたかに気づきました。私はあまりにも、傲慢でした。見た目は福音を広め、苦しみを耐え、聖書について語り、内容を覚えているようでした。神様を知っていると思って、私は傲慢に、振る舞っていました、実際は神様に祈ったり、真理を求めてなかったのです。私はひたすら、思う通りにやりました。主の再臨については特にそうでした。自分の考えや想像で、神を聖書に限定したのです。御言葉や働きは聖書の中にあり、外にあるとは、思っていませんでした。主を信じる人は、聖書を守ろうと頑なに信じていて、守らなければ信じられないと、その結果、全能神の働きに触れても、調べたりはしませんでした。しかも長老たちに従い否定しました、神の御前にありながら、傲慢で理性を失っていました。私の行動は、信仰だったでしょうか?ただの悪でした、主イエスを拒んだパリサイ人たちと私は、どう違うのでしょうか?
全能神の御言葉を目にしたのです。「あなたは神を信じているので、あなたは神の言葉とその働きの全てに信仰を持たなければならない。つまり、あなたは神を信じているので、神に従わなければならないということである。それが出来なければ、あなたが神を信じているかどうかなど問題ではない。もしあなたが長年神を信じており、それでも神に従ったことがないか、神の言葉を全て受け入れたことはないばかりか、神が自分に従うよう求めたり、自分の観念に沿って行動するように求めたりするようであれば、あなたは最も反抗的な人間であり、神を信じない者である。そのような人間が、人の観念とは一致しない神の言葉や働きに従うことなど出来るだろうか。最も反抗的な者とは、意図的に神に逆らい拒絶する者である。そのような者は神の敵であり、反キリストである。」(『言葉は肉において現れる』の「真心で神に従う者は確かに神のものとされる」より)「聖霊の新たな働きに出会うとき、慎重にせずベラベラ言いふらして、早まった判断を下し、本能にまかせて聖霊の働きの正しさを否定し、さらには聖霊の働きを侮辱し冒涜する人たち、つまりそんな無礼な人たちは聖霊の働きに対して無知であると言えるのではないか。さらに、そのような人たちは、傲慢で、生まれつき高慢で、そして手に負えない人間ではなかろうか。……このように無礼でいい加減な人たちは、神を信じているふりをしているだけで、そうすればするほど、行政命令に触れやすくなる。生まれつき放逸で、一度も誰かに従ったことがない、傲慢な人間はすべて、このような道を歩いているのではないか。彼らは、常に新しくて古くならない神に来る日も来る日も反抗しているではないか。」(『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より)全能神の言葉が、心に刺さりました、その裁きは、私の本性と本質を暴いたのです。私は神の怒りと、神の義なる、威厳のある性質を感じました。恐れで震え、悪事を恥じ、跪きました。主を信じてきたのに、こんなにも傲慢で、自惚れていたのか?なぜ神様への畏敬がなかったのか?神様の働きと自分の考えが合わないとそれを裁き、否定しました、真理を求めることは一切しなかったのです。信じてはいても、神様を拒む傲慢な人間でした。この態度は神様の性質を侵しました、神の慈悲と救いがなければ、とっくに地獄に送られていた。神様の声を聞き、神様の裁きを受け入れる機会はなかったでしょう。私は本当に、神様によって救われたんだと感じました。この時、私はこれまでにないくらい、自分を呪いました、私は決めました。神様がどのように裁き、罰し、試そうとも、神様に従おうと。御言葉を読み続け、神様の裁きと刑罰を体験することで、真理が理解できるようになりました。神様を裏切る、自分の本性も、理解を深めていて、神様の聖なる性質と、義なる不可侵な性質について、少しは判っています。無意識のうちに、神様への畏敬の念が生まれていました、以前より腰が低くなり、傲慢で自惚れることも減りました。壁に当たれば、意識的に自分を否定し、真理を求められるようになりました、自分の性質は少しずつ変わっていきました、これが御言葉による裁きと刑罰を体験した結果です!今では、信仰とは何か、理解できるようになりました、信仰の本当の価値と意味を理解しています。恵みの時代の信者も、果たせなかったことですね。恵みの時代信者の大半が、パウロを模範にしました、御名を否定するより、牢獄を望むほどでした。このような信仰は、私たちを変えることができるでしょうか?神様に従い愛することは、どうでしょう?最終的にこんな信仰で、サタンを打ち負かせますか?神様は満たされますか?神様は真理を表し、実践を求めますが、なぜでしょうか?人の命の性質を変え、サタンの影響から救うためです。そして人は神を知るのです、まさに神様への信仰が成せることです。でも信者の大半は、犠牲さえ払えば、主の再臨の時、天国へと引き上げられると思っています。神様は人に働きかけます。人は神様の働きを広め、その過程で苦しみ、そしてこう言います。「わたしたちは立派に戦いぬき、走りつくしました。私には義の冠が待つばかりです」と、これは神様が求めていることでしょうか?これは御心でしょうか?こんなふうに理解してるなら、神様を誤解していませんか?
真の信仰とは何か、皆さんも理解できましたか?終わりの日の裁きを経験していなくても大丈夫ですか?御言葉の裁きと刑罰を体験しなくても、神様を知ることはできますか?神様を信じていても、御言葉を実践せずに、御心を理解し、神様に従い、礼拝することは?ということで、私たちが神様を知り、自分の性質を変えたいのなら、全能神の働きを受けることが極めて重要です。全能神は言われた。「人々が恵みの時代に留まっていれば、彼らは堕落した性質を決して免れないし、ましてや神の本来の性質を知ることはない。人々がいつも豊かな恵みの中に生きていても、神を知らず、神を満足させることができるようになる生き方をしていなければ、いくら神を信じても決して本当に神を得ることはないだろう。それはなんと哀れな形の信仰ではないか。……神の国の時代における受肉した神の働きの各段階を経験した時、あなたは長年の希望がついに実現されたことを感じるだろう。あなたはそのとき初めて本当に神を直接見たと感じるだろう。初めて神の顔をじっと見つめ、神自らの発言を聞き、神の働きの英知を正しく理解し、神がなんと現実的で全能かを本当に感じるだろう。あなたは過去の人々が決して目にしたり、所有したりしたことのない多くの事柄を獲得したことを感じるだろう。この時、あなたは神を信じるとは何か、神の心に従うとは何かをはっきりと知るだろう。もちろん、あなたが過去の考えに執着し、神の二度目の受肉の事実を否定、あるいは拒絶するならば、あなたがたは手ぶらなままでとどまり、何も獲得せず、ついには神に反抗するという罪を犯すだろう。真理に従い、神の働きに服従する人々は再び受肉した神──全能神の名の下に分類されるだろう。彼らは神自らの導きを受け入れ、さらに多くの高い真理を手に入れ、本当の人生を受けるだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)
『神への信仰』の映画台本から
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私は足が不自由な年配の姉妹です。外の天気が良い時ですら、歩くのは困難です。しかし、洪水に飲み込まれそうになった時は、神が奇跡的に私を危険から逃れさせて下さりました。
あれは2012年7月21日に起きました。あの日は集中豪雨が降り、私はちょうど、偶然にも外で自分の本分を尽くしていました。豪雨は夕方の4時を過ぎても止みませんでした。私は雨をものともせずにバスに乗って家に向かいました。バスに乗っている間、雨は増々強くなり、バスが私の降りるバス停の1つ前のバス停に着いた時、運転手が「このバスはこれ以上先には行けません。先の道路が崩れてしまいました」と私達乗客に言ったのです。どうすることも出来なかったので、私は余儀なくバスを降りて残りの道を歩くしかありませんでした。神から離れることを畏れた私は心の中で祈り続けました。道路は大洪水の勢いで完全に水に飲み込まれていました。私は道路に沿って立っているセメントの柱にしがみつきながら、1歩ずつ先に進もうとしました。しかし、その時でした、「前に進んではいけません!早く戻って!そこは通れませんよ。水が深くなってるし、水流も早過ぎます。押し流されたら助けてあげられませんよ!」と誰かが私に叫んだのです。しかし、その時、水は既に私の胸の高さまできていたので、私は前に進むことも、後ろに下がることも出来なくなっていたのです。わたしはあえて先に進もうとはしませんでした。私は神に祈りを捧げ、私の逃げ道を御開き下さるよう請うしかありませんでした。「神様!あなたはこの状況が私に降りかかることを意図とされ、今私が死ぬか生きるかはあなた次第です。水位が15センチほど下がれば私は前に歩いて行くことが出来ます。神様、どうかあなたの御計画通りになさって下さい。私は自分のいのちをあなたに委ねます!」この祈りを捧げた後、私はとても気が落ち着きました。そして私はこの神の御言葉の1つを思い出しました。「天と地、そして万物は私の言葉によって確立され、完全なものとなり、私の手によれば何であろうとも成し遂げる事が可能です。」(「キリストが最初に発した言葉と証し」より)私はこの神の御言葉に信念と勇気をいただきました。天地と万物は全てが神の手中にあるため、私は大洪水がどれだけ容赦ないものであれ、それが神の御計画から逃れることはできないと分かっていました。人はもう誰に頼ることも出来なくなっていました。私の息子、娘…誰もお互いの面倒を見る事は出来なかったのです。私は神を頼りにしてさえいれば、乗り越えられない困難はないと信じていました。丁度その時、奇跡が起こったのです。水流の勢いがどんどん弱くなり、少し前まであった激しさを失ったため、セメントの柱が徐々に見え始めたのです。私が祈った通りに水位が私の胸から15センチほど低くなっていったのです。そうして、私は、神の御導きの下、そこから1歩ずつ歩いて抜け出すことが出来たのです。神の御慈善と御加護がなければ、私はどこで洪水に飲み込まれていたか分かりません。私は心の奥底から神に感謝の意と称賛を表して、全能の神が私に人生の二度目のチャンスをお与え下さったことに感謝しました。
後ほど、私はこの豪雨に関する息子の体験を聞きました。あの日、息子は本分を尽くした後、まずトイレに行きました。トイレから出てきて自分の部屋に戻ったとたんに、息子は外で何かが潰れる大きな音を耳にしたのです。外の様子を見に行くと、トイレの建物全体が水の中で完全に倒壊していたのです。神の御加護がなければ、息子は命を落としていたでしょう。それは正に神がこの御言葉の中で仰る通りだったのです。「ありとあらゆるものが、生けるものも死せるものも、神の考えに従い、移ろい、変化し、新しくされ、消え去るのである…」(『言葉は肉において現れる』の「神は人のいのちの源である」より)私が感じた大きな興奮は言葉では本当に表現のしようがありません。
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教会での働きの必要性から私は配置転換となり、新たな場所で働きをすることになりました。当時その地での伝道活動は低調で、兄弟姉妹たちの状態も概してよくありませんでした。それでも聖霊に心を動かされた私は、任された仕事を全て自信をもって引き受けました。仕事を引き受けた私は、大きな責任感と神からの導きと示しに満たされ、自分は相当意志が固いとさえ思っていました。自分には能力があり、この仕事を上手くできると信じていました。でも実際には、聖霊の働きについて、そして自分の本性について、私はまだ何も分かっていませんでした。完全に自己満足と自画自賛に浸かって生きていました。
私の心が自尊心でいっぱいだったちょうどそのころ、あるホストファミリーのお宅で、私の担当する働きの責任者をしていた兄弟と出会いました。彼に仕事の進捗状況を聞かれたので、きっと私の能力や優れた洞察力に感心するだろうと思いながら、彼の質問にひとつひとつ答えていきました。ところが私の予想は外れました。私の話を聞き終わると、彼は感謝して頷きもしないどころか、私が十分成果を出しておらず、人の動員の仕方も不適正で、何の成果も出していないなどと言ったのです。彼の不満げな表情と自分に対する評価に、私の心は突然冷めてしまいました。そして思いました。「成果が不十分だと言うの?もし私が何も成果を出していないと言うのなら、成果を出したと言えるには一体どれだけやれば良いの?こんなつまらない仕事を嫌がらずに、進んで引き受けた、それだけでも十分なはずなのに、彼は私が仕事を上手くやっていないと言うの?」私の心はひどく反抗的になり、傷ついて涙がこぼれそうになりました。そして私の中の傲慢、反抗心、不満といったものが突然姿を現しました。「私の力ではこれが精一杯よ。私なりに最善を尽くしたわ。不十分なら誰かほかの人を探せばいいのよ・・。」私はひどく落ち込み、どうしてよいか分からなくなり、彼がその後何を話しているのか分からなくなりました。その兄弟と会った後の数日間で、自信にあふれていた私は憂鬱になり、落ち込み、数日前まで自分を誇らしく思っていた私の心は悲しみでいっぱいになってしまいました。私は喪失感に包まれました。その暗闇の中で、私は思い出しました。「ペテロは、神を愛する人の姿を実現してみせること、神に従い、神による刈り込みや取り扱いを受け入れ、そして被造物としてのその本分を尽くす者になることを追求した。」(「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より)「それに比べて私はというと、成果が不十分なことを少し批判されただけで腹を立て、辞めたくなっている。これが、自ら進んで神による刈り込みや取り扱いを受け入れようとしている人間か。これがペテロのように神を愛そうとすることか。私の態度は神が嫌われるようなものではないのか。人から仕事ができないと言われたくない、賞賛されたい、褒められたいという思いだけではないのか−これは最も卑しい目的ではないのか。」そう思った瞬間、私の心の中に一筋の光が差しました。私が本を開き、読んでいくと、次の個所が目に留まりました。「あなたがたにとって、己を知るという真理にもっと努力を捧げるのが最善だろう。あなたがたはなぜ神に気に入られないのか。あなたがたの性質はなぜ神に嫌われるのか。あなたがたの言葉はなぜ神にとっていまわしいのだろうか。あなたがたはわずかな忠誠心を持っているからと言って、自分を褒め、わずかな犠牲に対して報われたいと望んでいる。あなたがたは少しの従順を示す時、他者を見下し、つまらない働きしかしないと言って神を軽蔑する。……あなたがたのそのような人間性は、本当に話すのも聞くのも不快なものだ。あなたがたの言葉と行いのどこが称賛に価するのだろうか。……これは笑いものにされるようなことだと思わないか。あなたがたは、確かに自分が神を信じているとわかっているが、あなたがたは神に味方することはできない。あなたがたは確かに自分には価値がないと分かっているが、それでもあなたがたの自慢は変わらない。あなたがたは、自分の理知が既に自制心を失うほどになったと感じはしないのか。そのような理知を持つあなたがたはいかにして神とつながるにふさわしい状態になれるだろうか。自分自身のことを心配してはいないだろうか。あなたがたの性質は既に神に味方することができないほどになってしまったのだ。あなたがたの信仰は、笑いものになるほどではないだろうか。あなたがたの信仰はばかげていないだろうか。あなたは未来をいかにして扱うだろうか。あなたは進むべき道をいかにして選ぶだろうか。」(「キリストに味方しない者は確実に神の敵だ」より)これらの言葉は鋭い刃のように私の本質を刺し通し、私は言葉を失いました。私は自分の姿に深く恥じ入りました。私の理性、そして心の中の葛藤は煙のように宙を舞って消えていきました。その瞬間、私はこれらの神の御言葉の力と権威を心の奥底で自分のものとして理解できました。これらの御言葉の啓示を通して、私はやっと知りました―自分に与えられた働きをするなかで、私は、神に満足して頂くために常に精一杯働き、最高の結果を出そうとしていなかった。現状に満足し自己満足に浸っていただけだったと。神は次のように言われます。「神の前において、人間はいつも子供である」それでも私は、神は自分のような人間をお嫌いになると自覚しないばかりか、誰かに批判されると、不当な扱いを受けたと感じていました。私は実に無知で分別に欠けていました。いつも僅かな実績にも称賛を求め、すぐに称賛を得られなければやる気が失せました。自分のした事を感謝されずに疑問視されればイライラと不機嫌になりました。そう思った瞬間、自分の顔は偽善に満ちていると気づきました。私の働き方は自分の要求と取り引きを伴うもので、不純物でいっぱいであると気づきました。神に満足していただくためでも、神の愛に報いるためでもなく、隠れた動機によって働いていました。
![]() それまでは、神の御言葉が人間の醜さを露わにするような時でも私の心に光が射すことはなく、神の御言葉は誇張され過ぎだと思っていました。私の目が開かれたのは、ひたすら神が示して下さったからです。今日私が自分の働きを全うできるのは、神が引き上げて下さったからで、神の素晴らしい愛によるものです。それでも私はその事実を大切で価値あるものとせず、何の価値も意味もないものばかりを追い求めていました。人に褒められ、称賛され、注目され、そして誰にとっても存在感のある人でいることを追い求めていました。そのようなものにどんな意味があるというのでしょうか。人はパンだけで生きるのではなく、キリストが語られる一つ一つの言葉によって生きると言われています。でも私は何に頼って生活していたでしょうか。他人が私にどのように振る舞うか、どのように私を見ているか、そればかりを気にして生きていました。そしてそのようなものが私にどのような損得をもたらすかをよく心配していました。僅かばかりの誉め言葉や称賛、慰めや優しい言葉で元気になり、そうかと思えば、非難の言葉を少しでも聞いたり、否定的な表情を見たりすれば意気消沈し、無気力になり、どの方向へ進めば良いか分からなっていました―結局のところ、なぜ私は神を信じているのだろう、人々に認められたいからなのだろうか、と。神の御言葉が明らかにしているように、私にとって重要だったのは、真理でも、人間として生きることの原理でも、神の偉大な働きでもなく、私の肉が愛するもので、私の人生に何の利益ももたらさないものだったのです。周囲が私に示す熱意など、神の私に対する称賛の証明となるでしょうか。私が神の御旨に叶わないなら、私の仕事は無意味ではないでしょうか。神様、私の目を開いて下さり、感謝します。私自身の啓示の体験から、私はキリストの存在と、人類を救うためにキリストが世に来られたことを思いました。人々の神に対する態度はどうだったでしょうか。神は聖なるお方であり、崇められるべきお方、栄光なる神ご自身であるのに、いったい誰が神を尊いお方とし、心の中に神を受け入れ、心から神に栄光を捧げているでしょうか。反抗心や抵抗だけでなく、人が現わすものは神への冒涜であり、拒絶です。それでもキリストは不平を言うことも、人をその罪に従って扱うこともなさらない。神は人々の荒れた心と迫害を拒むこともなく、静かに耐えられます。キリストのその謙虚さや優しさ、寛容を心から褒めたたえる者がひとりでもいるでしょうか。キリストと比較することで、私は自分の心がいかに狭いか、何かあれば不平を言い、いつでも人に褒められたい、認められたいと思う自分に気づかされ、自分勝手で卑劣で、恥知らずな自分の振舞いに気づかされました。このような卑しい性格でも、自分は金と同じくらい尊いと考えていたのです。人間の理性はもはや人間には制御できないまでになってしまった、そう神が言われるのも当然です。私は神の御言葉に深く納得しました。この時、万物の主であるキリストの傍にいたいという強い思いが、私の心の奥深くで自然に生まれました。私は神に祈らずにはいられませんでした。「ああ神様、あなたのご性質、本質、そして善良さを羨望して止みません。あなたと比べることができる人間などいません。あなたが示し、明らかにされ、見せて下さったことはすべて、あなたの美しさ、徳、義、そして権威です。ああ神様!あなたは私の心を開き、私を恥じ入らせ、首を垂れさせました。あなたは私の自尊心やうぬぼれを良くご存知です。あなたのすばらしい指揮と采配なしでは、私を扱うためにあなたが兄弟を送られなかったならば、もうとっくに自分がどのような人間かを忘れていたでしょう。あなたの栄光を盗んでおきながら自分を誇りに思う私は、何と恥知らずだったことでしょう。ああ神様。あなたの啓示と御守りに感謝します。自分の真の姿がはっきりと見え、あなたの素晴らしさを発見しました。ああ神様!私はもう後ろ向きでいたくありません。もう卑しいもののために生きたくはありません。私の唯一の願いは、あなたの刑罰と審判、あなたの鞭と鍛錬を通してあなたを知ること、あなたを求めること、そしてそれ以上に、あなたの取り扱いと刈り込みによって私のなすべき働きを成し遂げ、あなたに報いることです。」
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