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アメリカに来た初めの頃から、アイスクリームによんで下さったり、母にアメリカの生活について色々教えてくださったりしてお世話になったご婦人が亡くなりました。
ご夫婦で宣教師としてペルーやエクアドルで長い間ご奉仕され、ここ数年アルツハイマーのため随分と弱り、車椅子で一日一日を過ごされていました。
とても仲のよいご夫婦で、それだけに彼女がアルツハイマーになったときは、彼女が彼女ではないようなこともあって、ご主人も大変だったと思います。でも最後まで愛をもってお世話をされました。
初めて死というものにあったのは、小学校5、6年の時でした。我が家にも遊びにきたり、時々教会に一緒に行っていた姉(当時中学生)の親友が交通事故で亡くなったときです。きれいで、明るい人でしたが、いじめにあっていて、友だちになってくれた姉にとても感謝していました。私達にとっても何か家族の一員のようでした。でもひどい交通事故で、意識不明が数日続いた後、亡くなりました。
その後私は夜になると泣いていたのを覚えています。その時見上げた空に満月があって、澄み切った空とその満月をみながら、「この世から人が一人いなくなったのに、どうして何も変わらないのだろう」と問うたのを思い出します。月も太陽も、世界も、何もなかったように全てがそのまま過ぎていくのがとても理不尽に思えました。でも1年、2年と過ぎていく中で、「日が過ぎていく」ということも私たちを癒すために神様が与えてくださった秩序の一つであると気が付きました。
だから職場で色々とあったときも、毎日起きてまた出勤するのはいやだけど、それでもそれを繰り替えせば、日が過ぎ去ってくれることは神様からの贈り物だと思いました。その状況は永遠に続くわけではないと知っていたし、日を重ねればいつかそれさえも神様が益としてくださるという望みがありました。
でも今回、私にとって(ある意味で)なんとなく過ぎっていった数年が彼女を変え、歳をとらせていったのだと思うと、時が経つっていうのは悲しいことだな〜と初めて思いました。
もちろん彼女は今天国で何の痛みもなく、喜んでおられると思いますが、残された私達にとってはやっぱり悲しいことです。
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