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かつての東京の風景において「富士山」は欠かせない存在でした。今でも「富士見」という地名があちらこちらに見られるのもその名残りです。歌川広重の『名所江戸百景』でも、バックに富士山が配置されている絵が多数見られます。永井荷風も『日和下駄』の中で「東京の東京らしきは富士を望み得る所にある」と述べています。荷風は中でも夕陽と富士山を結びつけています。確かに夕陽の中に映し出される富士山の雄姿はさぞかし美しかったに違いありません。ビルの建ち並ぶ今日の東京においてはそうした光景を拝むことがほぼ不可能となってしまったことは大変残念です。
そもそも江戸の町並みは、周辺の光景を巧みに取り込みながら設計されたもののようです。陣内秀信教授は『東京の空間人類学』の中で、次のように述べておられます。
「そもそも日本の都市では、ヨーロッパの都市がその中心に塔やドームといったシンボリックな高い建造物を建て、城壁で囲んでコンパクトにまとめる求心的構造を生み出したのとは逆に、都市を包みこむ自然、地形との強い結びつきをもち、周辺にそびえる山をランドマークとして位置づけながら、むしろ遠心的方法で都市を計画する傾向が強かったのである。」
例えば、江戸の町並みを受け継いでいる番町辺りの計画的な格子状の道路パターンは、ランドマークとしての富士山を望む方向にぴたりと合わせて設計されていると陣内教授は指摘しておられます。『名所江戸百景』に描かれた数々の富士山の中でもとりわけ印象深い富士山が描かれているのは「する賀てふ(するがちょう)」と題された絵でしょう(添付の写真参照)。日本橋の町屋の一本道の行く先に堂々とした富士山が描かれているものです。この日本橋駿河町もやはり通りに立つと富士山が望めるような都市計画がなされたもののようで、「駿河町」という名前もこの眺めから付けられたもののようです。富士山と筑波山は江戸から望むことができるランドマークとして江戸っ子の中では特別な象徴的存在だったのです。
ところで、富士山といえば、東京の町中で富士登山を楽しむことができたということはあまり知られていないかもしれません。それが「富士塚」と言われるミニ富士山です。この富士塚は例えば、品川神社(品川区)、鉄砲洲稲荷(中央区)、小野照崎神社(台東区)などに見られますが、数メートルの高さに溶岩が積み重ねられ、入り口に鳥居が設けられ、頂上まで数十センチくらいの幅の小道が頂上まで続き、頂上には祠(ほこら)が設けられているという感じです(添付の写真は品川神社と鉄砲洲稲荷の富士塚です。)。
外山晴彦・『サライ』編集部編『神社の見方』によれば、富士塚は江戸中期から明治初期にかけて流行したようで、かつては江戸を中心に100基を超える数が作られたとのことです(幕末から開国に向かう社会が不安定な時期であったことと関係するのでしょうか??)。その目的は、富士信仰の一バリエーションとして富士山を遙拝するためや、富士山に登れない者が富士信仰を体現するためだったようで、確かに、実際に登ってみると、少なからぬ達成感を味わうことができます。
さて、話を元に戻せば、かつての江戸の街づくりが富士山をバックとする景観を非常に重視していたわけですが、現在の東京の街づくりはそうした繊細な思想は全く感じられません。かつては素晴らしい景観が望めたような場所にも、それを遮るような高層マンションの建築が平気で進められ、景観を台無しにしてしまうことがしばしばです。一旦崩れてしまった景観を元に戻すことは難しいことですが、江戸時代の街づくりの知恵を少しでも後世に残していけるようにしたいものです。
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