|
日本社会全体を巻き込んだ大騒動に発展した履修漏れ問題も、補習時間を軽減する救済策がようやく固まり、一段落しつつあるようです。現在、教育基本法改正の国会審議が繰り広げられているのも、履修漏れの件が発覚したことにより、議論の主題がいよいよ分からなくなってしまったという感じを受けます。 こうして教育論議が盛り上がる中で、やはりというべきかやり玉に挙がっているのは「ゆとり教育」です。例えば、ゆとり教育批判の急先鋒の立花隆氏は、次のように述べています。 「(教育)水準切り下げは、はじめゆっくり進行したが、「ゆとり教育」で加速度がつき、一挙に進行した。
nikkeiBPnetあまりに急激な学習内容水準の切り下げに、高校のカリキュラム編成が追いつけなかったというのが、今回の「高校必修科目の履修漏れ問題」の根本原因である。 いわゆる「ゆとり教育」の問題が大声で叫ばれる以前から進行していた、中等教育における履修内容の切り下げ問題が大学側の入試水準ないし、大学での教育水準とのインターフェース不整合を起こしてしまっていたということである。」 「はっきりいって、「ゆとり教育」は完全に破綻ををきたしている。小学校から大学にいたるまで、あらゆるレベルでその弊害が生まれている。小中学校では、学力低下問題として、高校では、「必修科目履修漏れ問題」としてである。」 確かに、履修漏れの問題が生じた背景には、「ゆとり教育」推進の中で必修科目が見直され、大学受験科目との齟齬が生じていることから生じたという面もなくはないのですが、今回の履修漏れの件は、他の科目を学ぶことによる負担増を回避しようというのが主な動機と考えられ、「ゆとり教育」による学習内容水準の切り下げが原因だといわれるとやや強引な論法という感じを受けます。「ゆとり教育」とは直接的には関係のない話として捉えるべきだと思います。 今回の履修漏れの件から離れてみても、「ゆとり教育」は激しい批判の嵐にさらされています。ちなみに、安倍総理も『美しい国へ』の中で「ゆとり教育の弊害で落ちてしまった学力は、授業時間の増加でとりもどさなければならない。」と述べているように、「ゆとり教育」に対して批判的であることが分かります。マスコミの論調などを見ても、「ゆとり教育」を擁護する論調は少数派といわざるを得ないでしょう。 先日、かつて「ゆとり教育」推進の旗手といわれた文部科学省の寺脇氏が文部科学省を勇退されるニュースがひっそりと報じられていました。http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20061017k0000m040156000c.html しかし、つい最近本格的に始まったばかりの「ゆとり教育」という発想は、それほどまでに誤った発想だったのでしょうか。 例えば、東京大学の苅谷剛彦教授は、「ゆとり教育」を始めとする教育改革を痛烈に批判しています。『論座』の2005年5月号において、苅谷教授は、 「ゆとり教育とは、バブル期の余韻のもとで、あまりに楽観的に教育の資源配分の仕組みを変えた政策であった」
と述べています。そして、苅谷教授は、「ゆとり教育」を始めとする教育改革の議論は、もともと教育公務員の週休二日制に端を発したものであり、それがいつのまにか子供のための教育論にすり替わったものであることを指摘されています。「ゆとり教育」の議論がなされ始めた契機は、苅谷教授のおっしゃるとおりかもしれません。1980年代には日米貿易摩擦がヒートアップし、80年代後半にもなると、教育公務員に限らずあらゆる労働者の「時短」が叫ばれた時期であり、そこから日本人全体がもっと「ゆとり」を持つべきだという議論が盛んになされていたわけです。その中で、学校の先生や生徒たちにとっても、いかにして「ゆとり」を持つべきかがテーマとして浮かび上がってくるのはある意味当然のことでしょう。 しかし、「ゆとり教育」の契機がそうであったにせよ、「ゆとり教育」という方向性が必然的に否定されるべきものということにはならないことは言うまでもありません。 そもそも、近代が成熟段階に入った社会においては、高度成長段階にある社会にあるような「上昇機運」は消滅してしまいます。高度成長期の日本社会のように社会全体が「坂の上の雲」を目指して駆け上がるような社会にあっては、教育の内容もそれに見合ったものとなるのは当然でしょう。いわゆる「詰め込み式」の教育も許容されるわけです。しかし、近代が成熟段階に入った社会において、同じような教育のスタイルを維持しようとすることは困難でしょう。それを維持するだけのモチベーションがないからです。 この点について、教育評論家の中井浩一氏は『中央公論』の2005年4月号において、日本社会が豊かな社会となったという激変の対策として講じられてきたのが「ゆとり教育」であったとしています。時代の変革期においては、教育の在り方も変わらなければならない、この点について中井氏は次のように述べられています。 「高度成長期に「詰め込み」が成立したのは、教育がよかっただけではなく、社会に実際のインセンティブがあったからなのだ。社会が、若者に未来を保証できず、学ぶ意味を示せないでいる時代に、教育に多くを求めるのは無理なのではない。」
私はこの見方に大いに賛同します。明治維新以降つい最近に至るまで、日本社会は強烈な上昇志向に支えられてきたといえるでしょう。教育が国をこれまで以上に富ませ、社会を豊かにすることができる手段であるというのが社会全体のコンセンサスとして一貫して存在したのではないかという気がします。 ところが、もはや日本は豊かな社会に辿り着いてしまったわけです。特に80年代は、日本はいつの間にか欧米各国を追い抜く経済力を有するようになっており、エズラ・ヴォーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』のように、日本社会を礼賛するような書が出回るなど、もはや追いかける対象がなくなっていたわけです。そういう状況の中で「ゆとり教育」論が出てきたのは、ある意味当然だったわけです。従来の「詰め込み」主体の教育ではなく、「生きる力」という新たな学力観に基づいて教育を再構築しようというもくろみ自体、時代の転換期においては当然の成り行きだったわけです。こうした流れの中で生まれたのが、2002年からの学習指導要領に盛り込まれた「総合的な学習の時間」だったといえます。 では、「総合的な学習の時間」の中で具体的にどのようなことを教授することを期待されていたのか。平成10年7月29日の教育課程審議会答申「幼稚園、小学校、中学校、高等学校、盲学校、聾学校及び養護学校の教育課程の基準の改善について」においては、次のように述べられています。 「…具体的な学習活動としては、例えば国際理解、情報、環境、福祉・健康などの横断的・総合的な課題、児童生徒の興味・関心に基づく課題、地域や学校の特色に応じた課題などについて、適宜学習課題や活動を設定して展開するようにすることが考えられる。その際、自然体験やボランティアなどの社会体験、観察・実験、見学や調査、発表や討論、ものづくりや生産活動など体験的な学習、問題解決的な学習が積極的に展開されることが望まれる。」
こうした思想や方向性自体、私には決して間違ったものだとは思えません。別に他の科目の勉強をしなくてよいというわけではなく、詰め込み型の教育を全くなくすということではありません。従来詰め込みに充てていた時間の一部を、自ら問題を設定して考えたり、あるいは社会体験的な学習へとシフトしようというだけです。もちろん、「総合的な学習の時間」を導入すれば直ちにこうした能力が身につくというのは理想的に過ぎると思いますが、方向性として間違っているということではないと思います。 ところが、「総合的な学習の時間」が教育現場においてうまく機能していないことは、率直に認めなくてはならないでしょう。苅谷教授の前掲論文によれば、「総合的な学習の時間」についての教員の意見は次のようになっています。 <子どもに今までとは違う新しい力がついている> 小学校:あてはまる(31.7%) あてはまらない(68.3%) 中学校:あてはまる(13.5%) あてはまらない(86.5%)(出典:『論座』2005年5月号p15表1) こうしたアンケート結果を見る限り、現場の教員が「総合的な学習の時間」に対してとまどいを感じていることが分かります。 また、「総合的な学習の時間」の担当者にしぼって標準時数についての意見を聞いても、以下のような感じとなっています。 「総合的な学習の時間」の標準時数について 小学校:現状維持(28.8%) 削減したほうがよい(48.5%) なくしてもよい(22.7%) 中学校:現状維持(16.7%) 削減したほうがよい(29.2%) なくしてもよい(54.1%)この結果は衝撃的です。つまり、現状よりも時数を増やしたほうがよいという教員は皆無であり、中学校の教員の半数以上がなくしてもよいとの意見を持っているというわけです。 つまり、仮に「ゆとり教育」の方向性が正しいとしても、少なくとも教育現場においてはうまくワークしているとはいえないわけです。こうした結果についてどう考えればよいのでしょうか。 私は、文部行政が「総合的な学習の時間」という理想を掲げた一方で、現場の教員がその時間をうまく活用するだけの「能力」や「技能」を持ち合わせていなかったということにつきるのではないかと思います。しかし、今まで教科書に従って授業をしていればよかった教員が、急に「総合的な学習の時間」を充実させるだけの授業をやれと言われても、とまどうのは当然といえるでしょう。そもそも、時代の変革期に際しての抜本的な教育の変革なのですから、一朝一夕に定着するようなものではないことはあらかじめ予測できたはずです。現場の教員が制度に慣れるまでには相応の期間が必要となるでしょう。 要するに、データ上、少し学力が低下したからといって、あわてて方向転換をするというのは、あまりにも近視眼的な対応に過ぎるのではないかということが言いたいのです。 もちろん、1回決めたことを変えてはならないというはずはなく、現場の声を聞きながら軌道修正をしていくということが必要であることは言うまでもありませんが、今の「ゆとり教育」批判は、ちょっと前に決められた方向性を180°逆の方向に戻し、かつて全国民が批判していたはずの受験地獄を目指す方向に向かっているようにしか見えません。 最後に、中井氏の前掲論文において取り上げられているある高校女性教師の言葉が非常に印象的であるので、引用しておきたいと思います。
「もともと総合に熱心じゃない高校のこと、また振り子は極端にふれるのでしょうね。どうしてこういう二極論でした考えられないのでしょう。いい加減、『振り子ぶり』には、うんざりきています。これでまた、総合を一生懸命頑張っている全国の先生方や教育委員会は梯子をはずされ、文科省不信におちいるというお決まりのパターンでしょう。」(『中央公論』2005年4月号p34)
|

- >
- 政治
- >
- 政界と政治活動
- >
- その他政界と政治活動



はじめまして。 これまでほぼ共感できる「雑感」でしたが、今回は少し意見を異にするところがあり、初めてコメントさせていただきます。 「一朝一夕に定着するようなものではないことはあらかじめ予測できたはず」なのであれば、それへの対応策もまた、あらかじめ準備しておくべきであり、それをしなかったのはまさに官僚の不作為と言われても仕方ないでしょう。
2006/11/8(水) 午後 5:45 [ はちろう ]
また、遅ればせながらであっても定着策なるものが存在するのであれば、まずはその手を打つべきであり、そうされているはずだと思うのですが、校長への民間人登用等、一部の「工夫」の効果が限定的、逆に登用された校長先生が不適合を起こしてしまうケースすらある状況では、「方向転換」もやむなし、と考えます。 いくら方向性が「間違っているということではない」としても、具体的な実践策がないということでは、崇高な理念も絵に描いたもちにしか過ぎません。
2006/11/8(水) 午後 5:46 [ はちろう ]
さらに、現実に日々成長していく子をもつ親にとっては「データ上」の「少し」の「学力」「低下」は看過できない問題です。 いわゆる究極の選択ということになるのかもしれませんが、私にとっては ・よみかきけいさんの基礎さえしっかりできない人々があふれる社会 よりも、まだ ・受験地獄 の方がましだと考えますが、いかがでしょうか? (教育については、こういう枠組みの問題とは別に教員の質という問題もあると考えていますが、ここではコメントいたしません) 長文ご容赦下さい。
2006/11/8(水) 午後 5:47 [ はちろう ]
>はちろうさん コメントありがとうございます。批判的に受け取られる方が多いとは思っていました。ゆとり教育への移行に当たって行政の見込みの甘さがあったことは否めないと思いますし、教育現場の混乱に対しては、早急に対応しなければならないと思います。しかし、ゆとり教育によって読み書きや計算ができない人々が生み出されるわけではありませんし、学力が依然として高水準になることには変わりありません。議論を尽くさずに元に戻せば、再び受験戦争が過熱化し、同じ議論が繰り返されることになるだけではないかと思います。
2006/11/8(水) 午後 11:29 [ the*d*r_w*00* ]
返事を書いてくださり有難うございます。 現行のゆとり思想を是とするのであれば、その思想を実践に移すべき教員の対応力を強化することが急務だと考えますが(現時点で効果をあげていないことはいろんな形であらわれていますので)、そのための具体的かつ効果的な処方箋は今のところ存在しないようです。 先にも書きましたが、思想として仮に正しくても、実践に移すことができないのであれば、デメリット(学力低下)の発生への対応を重視して方向転換を行う、ということは特段おかしなことではないのではないでしょうか。
2006/11/9(木) 午後 1:05 [ はちろう ]
受験地獄の再来を危惧するということですが、今現実には公立学校のレベル低下(もちろんそれだけが要因ではないでしょうが)を危惧する親たちが、中学校はおろか小学校、はては幼稚園のレベルから有名私立へ入れようと競って奔走するという状況が起こっています。 ゆとり教育の導入後、かえって受験熱に拍車がかかったという皮肉な現実をどう考えればよいのでしょうか? (受験産業に踊らされた国民が愚かなのであり、ゆとり教育そのものは悪くない、というのではあまりにも政策立案の責任を負っていないと思います)
2006/11/9(木) 午後 1:09 [ はちろう ]
さらに、学力低下のレベルがマクロでみて少しであるといっても、個別にみれば読み書きや計算がおぼつかない層が少なからず発生しつつあることは事実であり、そういう層が一成人として社会に登場することによる、日本社会全体に対する影響を考える必要があるのではないでしょうか。 自分の子供が学校で受けている授業レベルを見聞きしていても、「読み書き計算」の例は決して大げさなものではないと感じています。 またまた長文になってすみません。
2006/11/9(木) 午後 1:10 [ はちろう ]
一番ゆとりが必要なのは、両親ではないかと思うのですが、いかがでしょう。
2006/11/12(日) 午前 2:08
はちろうさんのご意見にまったく同感です。私は90年代に公立小学校に子供を通わせた親です。当時、勉強が得意な子供はゆとり教育の対極の存在としての扱いでした。ゆとり教育と知的教育を融合させる力量が大多数の教師には在りませんでした。又これをきっかけに保護者が知的教育を安易に捉えるようになったと感じています。
2006/11/13(月) 午前 10:18 [ まんま ]
>はちろうさん たびたびコメントありがとうございます。ゆとり教育がゆとりの創出につながっていないのは、やはり制度設計の甘さなのだと思います。大学入試制度なども含めた制度全体の問題なのだと思いますし、施策の不断の見直しは常に必要なのだと思います。本来ゆとり教育は全ての生徒が理解することを目指していたわけですから、もしゆとり教育が読み書き計算のできない生徒を生み出しているのだとすれば、まずその要因をよく検討してみる必要があると思います。
2006/11/14(火) 午前 4:23 [ the*d*r_w*00* ]
>narutoさん ゆとりを持つというテーマは社会全体に関わる問題なのだと思います。大人がまずゆとりを持った生活を実践しなければならないのだと思います。
2006/11/14(火) 午前 4:26 [ the*d*r_w*00* ]
>まんまさん ゆとり教育がうまくいっていない最大の原因は、教師の能力が追いついていない点にあるのだと思います。そもそも教師を始めとする大人の側にゆとりがないわけですから、ゆとりを持ちつつ学ぶことを教えることなどできるわけがないのかもしれません。
2006/11/14(火) 午前 4:31 [ the*d*r_w*00* ]
「ゆとりを持ちつつ学ぶことを教える」が「ゆとり教育」だったのですか。平成10年7月29日の教育課程審議会答申には「ゆとりを持ちつつ・・・」というような記載はありませんよね。自ら学び自ら考える力の育成の重視、教育内容の厳選、創意工夫を生かした教育活動の充実でしたね。現場の教師は混乱しながらも趣旨はおおむね理解していたと思いますよ。絵に書いた餅を見せて、その餅の作り方を指導できなかった行政の力量不足でしょう。
2006/11/14(火) 午後 1:44 [ まんま ]
>まんまさん 答申の中では「時間的にゆとりをもって学習できずに…」や「体験的な学習や問題解決的な学習にじっくりとゆとりをもって取り組むことが重要」「ゆとりの中で繰り返し学習」「ゆとりをもって学ぶことの楽しさ」等々の表現は随所に見られます。なお、制度設計の甘さがあったことは否めないと思いますし、「行政の力量不足」との御指摘は全くそのとおりだと思います。
2006/11/15(水) 午前 4:23 [ the*d*r_w*00* ]
ゆとりを持つのは教える側、教えられる側、双方、のどれだと思われますか。中教審のそれは教えられる側に立った内容だと私は思いました。子ども自身がゆとりを持ってじっくり問題に取組むように指導してほしいというものではなかったのでしょうか。
2006/11/16(木) 午後 2:16 [ まんま ]
>まんまさん そのとおりだと思います。本来教えられる側がゆとりを持って学ぶ、自分でよく考えることに意義があるのだと思いますし、その意義は今でも薄れていないはずなのだと思っています。
2006/11/18(土) 午前 9:42 [ the*d*r_w*00* ]