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今回は、職場のある「霞が関」について取り上げてみたいと思います。 「霞が関」は今では官庁街一帯を指す地名であるわけですが、かつては、現在の外務省と国土交通省との間の坂を指していたようです。『江戸名所図会』の「霞関の旧蹟」の項には、 「桜田御門の南、黒田家と浅野家との間の坂をいふ。」(ちくま学芸文庫『新訂 江戸名所図会3』)
と書かれています。 「霞が関」という名称がなぜ付けられたかについては、てっきり、江戸時代に関所のようなものが置かれていたのではないかといったくらいに思っていたのですが、実際は、もっとずっと古い由来がある地名ようです。これも『江戸名所図会』の中で次のように書かれています。 「往古の奥州街道にして、関門のありし地なり…。『武蔵野地名考』に云く、ある古記に曰く、荏原郡霞関、大和武尊蝦夷の儲関なり。爾来、連綿としておほいにこれを置かる。挙国の勝景にして、しかもその遠眺雲霞を隔つ。ゆゑに霞関の号あり、云々。」(ちくま学芸文庫『新訂 江戸名所図会3』)
つまり、「霞が関」というのは、日本武尊が蝦夷に備えて設けた関所であり、しかも、その眺望は雲霞のごとく素晴らしかったということだったようです。 江戸時代における眺望は、歌川広重の『名所江戸百景』の「霞がせき」を見ればよく分かります(添付画像参照)。 この絵の右側に見えるのが松平美濃守(黒田家)の屋敷であり、左側に見えるのが松平安芸守(浅野家)の屋敷のようです。 何とも驚かされるのは、霞が関から築地本願寺や、さらにその向こうの海が一望できたということでしょう。今では、官庁のビルが建ち並び、しかも、海の埋め立てが進んだことから、霞が関の坂の上から海を見ることは想像することすら困難です。 さらにいえば、今の霞が関の大半は、江戸初期においては海の中にあったわけです。 以前日比谷公園に関する記事の中でも紹介しましたが、日比谷という地名は海中に海苔を付着させるための竹や木の枝(これが「ひび」と言われる。)を立ち並んだ様子から「ひびや」と言われるようになったようです。かつてこの辺は、日比谷入江が入り込んでおりすぐそこまで海でだったのすが、これでは江戸城のすぐ近くにまで外国船が入り込んできてしまうため、防衛上の配慮から江戸時代初期に埋め立てられたものですが、埋め立てにはもう1つの理由があったようで、その理由とは「城下の宅地不足の解消」です。鈴木理生氏編著『東京の地理がわかる事典』によれば、実際の埋立工事は、埋立前からそこに宅地を割り当てられた大名たちが負担したとのことです。 今では殺風景な建物が建ち並ぶ霞が関の官庁街ですが、わずかな想像力を少し働かせるだけで、そうした光景におもむきが加わるような気がしました。 補記:鈴木理生氏編著『東京の地理がわかる事典』の中で「霞が関が官庁街になったワケ」が書かれていました。かつてこの地域は大名藩邸ばかりの場所であり、大名藩邸の構造は、ほとんど手を加えることなく官庁に転用できたことから、財政事情の厳しい明治政府が旧大名の藩邸を接収して利用したというものです。興味深かったので、補記しておきました。 |
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