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11月20日の東京新聞朝刊の「試される憲法」というコーナーに、哲学者の多木浩二氏が憲法について発言をされており、少々興味深いコメントが含まれていたので紹介します。 多木氏の発言の中で注目すべき視点は、憲法を文化的視点で捉える必要性を説いていることです。 「現在の国際関係の単位は国家です。だが国家をめぐる議論を聞くと、人間の生活、人間が人間であることはどういことかを考える文化的な視点を喪失していることが多いのです。文化的な視点はまず日常性を考えます。日常性をはぎ取られたときに人間は人間でなくなる。危険です。」
この文章は、かつて社会学者のアルフレッド・シュッツが提唱し、バーガーとルックマンが発展させた「現象学的社会学」の視点を彷彿とさせます。 http://ec1.images-amazon.com/images/P/4788508397.09._AA240_SCLZZZZZZZ_.jpg この学問を端的にいえば、「日常」に着目して、人間と社会との関係を弁証法的な過程として捉えて考察するものです。「日常生活」というのは、私たちが日々の生活を繰り返し送っている世界で、普段はあまり意識されることはありませんが、その重要性は、「日常生活」が崩れる危機が訪れて初めて考えさせられることになります。「日常生活」というのは、我々のアイデンティティを考える上で、極めて重要なファクターであるといえるわけです。「日常生活」において、人間と社会との間において「外在化」「客体化」「内在化」という3つの契機からなる弁証法的過程が繰り広げられ、人間のアイデンティティが形成される、というのが、バーガーとルックマンによる理解です。こうした社会の捉え方は、社会学に対して大きな批判的影響を与えたわけです。 「日常性」を重視する多木氏の言葉も、おそらくこの「現象学的社会学」の背景を踏まえたものと思われます。この「日常」という視点に着目して憲法というものを考えたとき、憲法の新たな一面が浮かび上がってくるというわけです。 多木氏が「日常性」の視点を持ちだしておっしゃりたかったことは、おそらく、我々の社会というのは「日常性」という我々が普段意識していない側面によって支えられており、そして、憲法が“日常性を担保する”という重要な役割を実は担っているのだ、ということなのだと思います。憲法がこうした役割を果たしているからこそ、我々は平穏な日常生活を送ることができるわけで、あるいは、思想や芸術も実はこうした日常生活があるからこそ生み出されているともいえるわけです。そして、とりわけ、憲法9条というのは、こうした“日常性を担保する”という役割の中で大きな意味を占めるように思われます。 「文化を考えることは、国家のさまざまな政策や社会的な制度からどこかで意識的な距離を取り、次の時代を探す、別の文脈を探すことで、そこに意義があります。九条の問題はそこまで根本的な意義を含んでいます。
現実主義者と称する人々は、文化的な視点をあざ笑うかもしれません。平和とは容易なものではありません。しかし、戦争とは暴力で日常生活を破壊するものです。もし思想や芸術を作り出す能力、日常生活を維持していく知恵がなければ、人類はとっくに滅亡していたに違いないでしょう。」 私は、現実主義者がしばしば批判するように、単に「護憲」や「絶対平和主義」さえ唱えていれば平和が実現するものではないと思いますが、しかし、昨今の北朝鮮情勢の緊迫化などを受け、人々の戦争に対する恐怖感というか緊迫感が薄れてきているのではないかという気がします。最近、政治家が、安全保障に対する「安易」ともいうべき軽い発言をするようになってきたり、安易に北朝鮮船籍の船に対する船舶検査を唱えたりするような風潮を見るにつけ、この多木氏の指摘する日常性の重要性という視点が大きな意味を持ってくるような気がします。 もちろん、「日常性が大事だ!」と叫んだところで平和が守れるわけではありませんが、ただ、このように日常性の重要性について着目するという視点は、人類にとっての平和の意味を改めて考えさせられる契機となるのではないかと思います。そうした意味で、多木氏の発言は大変意義深いものでありました。
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