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村上代表がインサイダーの容疑で逮捕されました。 村上代表の逮捕前の記者会見で印象的なのは 「金もうけ、悪いことですか」
という発言です。 おそらく、今日の日本社会は、この問いかけに対して誰も明快な答えが出せず、そのことが、ホリエモンや村上代表のような時代の寵児を生み出してしまった大きな要因となっているように思えます。 村上代表自身も、会見中に「もうけようと思ったのではない」といって自己弁護するなど、必ずしも完全に開き直って金もうけを肯定しているわけではありません。むしろ、厄介なのは、金もうけを主張する背後には、決まって「日本を良くする」という主張を忍び込ませている点なのです。 経済学の世界では、個々人が金もうけをすることが社会全体の厚生を引き上げるという極めて「厄介」なテーゼがまかり通っています。その底流には、マンデヴイルの『蜂の寓話』の中に現れる「私悪は公益」という考え方、あるいはアダム・スミスの「神の見えざる手」の考え方を「表面的」に受け継いでしまった新古典派経済学の強い影響があることは今さら指摘するまでもありません。 「表面的」に受け継いだ、と書いたのは、つまり、今日の新古典派経済学の思想には、マンデヴィルやスミスの思想の背後にあった「道徳的な観念」がすっぽりと抜け落ちてしまっているからです。 経済活動における個人主義といっても、それは社会から全く隔絶した個人が活動するわけではないのですから、個々人の活動が社会全体の利益と調和させる何らかの装置が必要となります。それは、社会の構成員が共有する「道徳観」なのだと思います。個々人が利益を追求する中にあっても、どこかそれが社会の構成員の利益として還元されるという思いを心の中に抱いていなければ、金もうけの歯止めはなくなってしまうでしょう。村上ファンドの活動は、株主利益のためと言いながらも、結局は、ファンドの利益、ひいてはファンドへの投資者の利益のための活動だったと言わざるを得ません。 もう1つ指摘しなければならない点は、証券市場における取引ルールの在り方についてでしょう。言い換えれば、そもそも、証券市場における「在るべき取引ルール」などというものは存在するのか?という問題です。 「インサイダー」、これは証券取引法上、明確に犯罪とされています。しかし、よく考えてみれば、あらゆる投資家は、他の投資家よりも有利な情報をいかに収拾し、それを投資に役立てるかが重要なわけです。その情報がすでに公表されているものであれば、インサイダーの疑いは生じ得ませんが、情報収集している過程で、ある企業について他人が知らないような有力な情報を得てしまった場合、その企業への投資を躊躇するような聖人のような投資家が果たしているのでしょうか?つまり、インサイダーという犯罪行為は、証券市場で投資する人々にとっては、極めて親和的な行為でもあるのです。インサイダーという犯罪行為へのボーダーラインは、証券市場で投資行動をする人々は誰でも踏み越える可能性のある曖昧な境界だといえます。 「健全な株式市場。こういう時代に「健全な株式市場」なんてあるのか。「健全な株式市場」を日本一国だけで、日本国民の力だけで実現する条件があると言えるのか。私はこの言葉は欺瞞だと思うし、本当のところは収奪のための詐術だと思う。新自由主義者による言説のトリックだ。」
全く同感です。 私は、そもそも株式市場というのは、少なくとも短期的に莫大な収益が得られるような場であってはならないのだと思います。多くの人々は社会のためにこつこつと働き収入を得ているわけで、その人々に比べて、株式市場に投資する人たちが社会にとって格別に素晴らしいことをしているわけでは決してありません。むしろ、ファンドは、人の金を使ってある株を買ってはすぐに売るという行為の繰り返しなのであって、何も生み出していない。株式市場で投資するひとたちだけが莫大な収益を手にすることは、あまりにも不公平なのです。 世の中にはありとあらゆる職業があり、それぞれの職業にはそれに従事する人たちがいて、社会が成り立っているわけです。本来、職業に卑賤はあるべきではなく、また、どの職業に就いているかによって報酬に大きな差がない社会であるべきだと思います。にもかかわらず、株で儲ける人たちの報酬はあまりにも突出している。 村上氏自身「むちゃくちゃもうけた」と言っています。しかし、彼がその報酬に値するほどの社会への貢献をしていないことはもはや明らかです。 村上ファンドの事件をきっかけに、市場社会における「公正」「正義」の問題が我が国でも研究が進むのであれば、せめてもの救いなのかもしれません。
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