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			<title>Theodor（テオドール）</title>
			<description>時事評論や憲法論議等に加え、江戸東京探訪記、映画評論なども。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/theodor_w2006</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>Theodor（テオドール）</title>
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			<description>時事評論や憲法論議等に加え、江戸東京探訪記、映画評論なども。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/theodor_w2006</link>
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		<item>
			<title>内田樹「憲法がこのままで何か問題でも？」</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　先日の記事&lt;a href=&quot;http://blogs.yahoo.co.jp/theodor_w2006/46421637.html&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;「憲法が孕む「矛盾」こそ重要」&lt;/a&gt;で作家の高橋源一郎氏の小論を御紹介しましたが、その中で引用されていた内田樹氏らによる『９条どうでしょう』を読んでみましたが、その中の内田氏が書かれた「憲法がこのままで何か問題でも？」と題する小論は大変共感できるものでしたので、御紹介したいと思います。&lt;br /&gt;
&lt;a href=&quot;http://ec1.images-amazon.com/images/P/4620317608.01._AA240_SCLZZZZZZZ_.jpg&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://ec1.images-amazon.com/images/P/4620317608.01._AA240_SCLZZZZZZZ_.jpg&quot;&gt;http://ec1.images-amazon.com/images/P/4620317608.01._AA240_SCLZZZZZZZ_.jpg&lt;/a&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　私たち日本人が９条についてあれこれ論ずるのは、「９条」と「自衛隊」という矛盾するものを同時に持っているからにほかなりません。しかし、考えてみれば、「９条」も「自衛隊」も、ＧＨＱが我が国に対して発案したものにほかなりません。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　ということは、ＧＨＱは矛盾する２つのものを我が国に対して発案したことになるのかといえば、そう簡単ではありません。アメリカの戦略からすれば、「９条」と「自衛隊」というのは何の矛盾もないのです。アメリカからすれば、日本を無害化するとともに、冷戦構造の中で日本を利用するという戦略の中で、この両者が発案されたに過ぎないわけです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　ところが、日本はこの２つを矛盾するものとして受け取ったのだと内田氏は述べています。&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;「発令者であるアメリカからすれば戦略的に何の矛盾もないこの二つの制度の並立を、日本人は矛盾として受け取った。厳密には、矛盾として受け取るという病態を選択した。」（『９条どうでしょう』２６頁）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　つまり、形式的に見れば、９条は「戦争をするな」という命令であり、他方、自衛隊は「戦争を手助けしろ」という命令であるわけで、それを矛盾として聴き取ることが可能なわけです。護憲派は「戦争をするな」という命令だけを専一的に聴き取り、改憲派は「戦争を手助けしろ」という命令だけを専一的に選んだといえ、この両者が二極化したわけです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　では、日本人はなぜ「９条」と「自衛隊」を矛盾するものとして受け取るという「病態」を選択したのでしょうか。この問いに対する内田氏の解答は、極めて面白いものです。&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;「憲法九条と自衛隊はアメリカが日本を「従属国化」するために採択した政略である。その点についてアメリカ政府の施策を無矛盾的である。このアメリカの政略の首尾一貫性に対応するかたちで日本政府が首尾一貫する政略を立てるとしたら、それは「従者としての安全と幸福のうちに生きる」というものでしかない。」（前掲書３４頁）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　つまり、両者を矛盾しないものとして受け入れることは、すなわち、アメリカにとって軍事的に無害でありかつ有用である国であることとは、アメリカの従属国家あるいは「奴僕」としての立場を受け入れることにほかならなかったわけです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　しかし、我が国はそうした選択をせず、あえて「人格分裂国家」として「狂気」を病むことを選んだというわけです。&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;「「アメリカの従属国」としてしか生きられないという耐え難い心理的負荷を逃れるために、日本人は日米間のすでに解決済みの葛藤を憲法九条と自衛隊の両立不能性という解決不能の内的葛藤に書き換えたのである。」（前掲書３９頁）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　この問題には解はなく、&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;「日本人は「解のない問題を考え続ける」という仕方で、現実に直面するという気の重い仕事を無限に先送りすることにした」（前掲書３９頁）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

というわけです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　こうした「問題先送り」という日本人の選択について、内田氏は、&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;「日本人が選びうる最適なソリューション」&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

として提示したいと述べています。そして、こうした矛盾の中で苦しみ、なお生きながらえてきたという事実を世界に告げることが、日本人が今まず行うべきことだと述べています。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　こうした見方をとった場合、今憲法９条を廃止するとどういうことが起こることになるのでしょうか。&lt;br /&gt;
　内田氏は、&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;「憲法九条を廃止するという運動を推進している人々は、「改憲した後」のことをどれくらい真剣に考慮しているのだろうか。おそらく何も考えていないだろう。」（前掲書４８頁）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

と述べておられますが、この点は私も全く同じような感想を持ちます。おそらく、改憲論者から言わせれば、もやもやしたものが払拭され、堂々と世界の平和に貢献できるようになるのだ、ということになるのでしょうが、おそらくそんな単純なものではないでしょう。内田氏も述べておられますが、おそらく、９条がなくなったとしても、日本の自衛隊が米国の意向を無視した主体的行動を取れるようにはならないでしょう。そのときに、９条がなければ「憲法上の制約」という「言い訳」はできなくなります。&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;「そのとき、「憲法九条さえなくなれば、日本は誇り高い自主防衛の国になれる」という六十年間嘘だとわかりながら自分にむかって告げ続けてきた嘘の決着をつけることを日本人は求められることになる。「普通の国」になったはずのまさにそのときに、アメリカの「従属国」であるという否定しがたい事実に直面するだけの心理的成熟を日本人は果たしていると言えるだろうか。私は懐疑的である。&lt;br /&gt;
　「普通の国」になりたいという改憲派の祈りを私は軽視するつもりはない。けれども、彼らが求めるものは改憲によっては達成できないという見通しは告げなければならない。」（前掲書４９－５０頁）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　この点は、改憲論者が見落としていた大きな穴だと私も感じます。９条を廃止して「普通の国」になったと思ったものの、相変わらず、日本国内には米国の軍隊が駐留し続けることは確実でしょう。「普通の国」なのだからそれは「対等な同盟関係」を前提としたものなのだ、と声高に叫べば叫ぶほど、むなしさばかりがこみ上げてくるでしょう。米国の駐留こそが正しく占領の痕跡以外の何物でもないからです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　９条がなくなったときこそ、日本人は「対等な同盟関係」とは一体何なのかという問題に直面することになるでしょう。一方の国だけが他方の国に基地を持つ関係が「対等な同盟関係」などと言えるわけがありません。かといって、逆にアメリカが日本の自衛隊の米国内における駐留を求めるわけがありません。&lt;br /&gt;
　そうすると、「対等な同盟関係」を追求することは、米軍の日本国内におけるプレゼンスを低下させる以外にはあり得ず、ひいては日米の同盟関係を希薄化させることになるでしょう。この帰結が、安倍総理を始めとする改憲論者が９条廃止の大きな拠り所とする理屈である「日米の同盟関係の強化」とは全く逆の方向に向かうことは言うまでもありません。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　皮肉なことに、「対等な同盟関係」とは、アメリカとの決別を意味することになるのです。そして、アメリカとの決別が実現しない限りは、我々日本人はより根深く耐え難い現実に直面することになるのです。９条を廃止すれば、もやもやが払拭されるなどという甘いものでは決してありません。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　そんな過酷な現実を受け入れるだけのメンタリティを改憲論者たちは持っているのでしょうか？&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　私は、内田氏と同様、日本はこれまでどおり、矛盾を抱え続ける状態が続いてよいのだと思います。そうすることによって、確かに、日本人は矛盾に苦しみ続けることになるかもしれません。しかし、それは、９条を廃止した後に到来する耐え難い状態に比べればましですし、逆に病態を抱え込むことによって、日本は「平和」というブランドを具有し、国際社会にブランドを発信することもできるわけです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　９条の下で我々が何も国際貢献をできないわけではありませんし、これまでも９条の枠内でＰＫＯやイラクに自衛隊が派遣されるという実績が積み上がってきているわけです。東ティモールのように、むしろ、我が国の自衛隊が他国の軍隊よりも高く評価されているようなケースすらあります。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　内田氏の小論のタイトルとなっている「憲法がこのままで何か問題でも？」というメッセージこそ、改憲論者が深く考えてみなければならないと思います。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/theodor_w2006/46645647.html</link>
			<pubDate>Sat, 03 Mar 2007 18:28:53 +0900</pubDate>
			<category>その他政界と政治活動</category>
		</item>
		<item>
			<title>憲法が孕む「矛盾」こそ重要</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　２２日の朝日新聞に作家の高橋源一郎氏が憲法について語っていました。この記事の中では、憲法が持つ「矛盾」が取り上げられており、大変興味深く読みました。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　高橋氏は、内田樹氏の『９条どうでしょう』という本に触発されてこの記事を書かれています。そして、内田氏の主張は、『憲法九条を世界遺産に』を書かれた中沢新一氏の主張に触発されているようです。その主張を短くまとめると、おおよそ次のような感じです。&lt;br /&gt;
&lt;pre class=&#039;wiki&#039;&gt;　日本国憲法は「戦力」を持たないと憲法に明記しながら、実際、この国は「戦力」を保持してきた。そして、様々な矛盾を抱え込んで絶えず苦しんできた結果、この国はうまくいってしまった。
　また、あらゆる生命体は「免疫機構」を持っている。これは、自分とは「異質な他者」が入ろうとすると排除する機構であり、本来、国家も「武力」という「免疫機構」を持っている。ところが、日本国憲法にはこの「免疫機構」がなく、そんな国は他にはない。
&lt;/pre&gt;

&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　では、なぜ日本国憲法はこうした「免役排除原理」ともいうべき性質を持つに至ったのか。高橋氏は次のように述べています。&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;「アメリカは、勝って浮かれていた。ニッポンは、負けて脳震盪を起こし、気絶していた。憲法などという国家的原理を作る重大時なのに、どちらの国も、ぼんやりしていた。憲法を作ろうとした人たちが、自分の所属するどちらの国にも気づかれず、そっと、理想の「憲法」を作るには、絶好のチャンスだったのである。&lt;br /&gt;
　彼らは、国家の原理の中に、前例のない「矛盾」を、「自分自身を疑う」という機能を、「異質な他者」を受け入れるという機能を、本来、国家の原理とは厳しく対立する生命や神話や文学の原理に近いものを埋め込んだのだ。」&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　高橋氏らの主張が全面的に共感できるというわけではありませんが、憲法の持つ「矛盾」に着目している点は大変面白いと感じます。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　そもそも、何も予備知識のない人間が「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」と規定する日本国憲法第９条を読んだとした場合、おそらく、日本という国に自衛隊のような近代的な装備を持つ立派な部隊が存在すると想像する者は皆無でしょう。しかしながら、日本には現に立派な自衛隊が存在するわけです。&lt;br /&gt;
　戦後の日本は、９条の内包するジレンマにずっと悩まされ続けてきたわけです。「戦力」を保持しないとしている憲法の下で、自衛隊の装備はどこまで許容されるのだろうか、そして、「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」と規定する９条の下で、自衛隊を海外に出すことはどこまで許されるのだろうか、こうした悩みを持ちながら、日本は自衛隊を育んできたわけです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　私は、戦後の日本がこうした悩みを抱えてきたことは、決して無駄ではなかったと思いますし、それどころか、むしろ大変良かったと思っています。国家が国際政治の中で生き抜いていくためには、常に現実に照らして物事を考え、戦略を練っていかなければなりません。たとえ、国際社会が、戦争をなくそうという崇高な理想を潜在的に共有していたとしても、現実の国際政治においては、武力を使って問題を解決していかなければならない局面というのは多々存在するわけです。&lt;br /&gt;
　しかし、だからといって、戦争をなくそうという理想を掲げることが無意味であることにはならないでしょう。我々は、戦争なくそうという理想を常に意識しながら、国際社会のリアリティの中で物事を考える必要があります。&lt;br /&gt;
　ところが、国際政治においては、えてして理想は忘却されてしまい、現実にのみ依拠して物事が解決されがちです。そして、何か深刻な国家間の対立が起これば、勢い余って武力の行使に訴えてしまうということもしばしば起こるわけです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　ところが、日本という国は、国の根幹の原理を構成する憲法の中に戦争放棄が謳われています。したがって、いざ自衛隊という実力組織を活用しようという際には、必ずや、憲法との関係が大きな議論となるわけです。そして、そうした議論をクリアしない限り、日本政府は、自衛隊という実力組織を利用することができないわけですから、政府が安易に実力の行使に訴えることを防げることになります。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　このことは、９条がもたらす極めて重要な効用といえます。つまり、９条という一見「矛盾」を内包する規定があるおかげで、日本という国は、国民的な議論を経なければ、実力を行使できない国なのです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　では、９条の規定を改正あるいは撤廃し、我が国の実力の行使に際して憲法上の歯止めをなくしたとしたら、一体どうなるでしょうか。おそらく、我が国の実力行使の決断プロセスは、ものすごくすっきりするでしょう。憲法上の歯止めがなくなるわけですから、自衛隊を海外に出すに当たって、国民的な議論をするという手間が大幅に省けることになるでしょう。政府としては、９条を巡る込み入った議論がなくなるわけですから、さほどの葛藤なくして部隊派遣の判断を行うことが可能となるわけです。同盟国である米軍との連携もこれまで以上に密になるでしょうし、米国がイラクやアフガニスタンに部隊を派遣すれば、日本も迷うことなく自衛隊を派遣することができるでしょう。北朝鮮のような国に対して制裁を発動する際にも、政府はあまりためらうことなく船舶検査などの強行な措置を実施することもできるでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　しかし、それで本当にいいのでしょうか？&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　私は、やはり、９条の規定の下で、政府が「矛盾」と葛藤しながら判断するというプロセスは、極めて重要だと思います。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　そもそも、人間社会というのは様々な「矛盾」を孕んで動いているわけです。中でも最大の「矛盾」は、戦争という殺し合いの存在です。戦争が違法な行為であるということは、不戦条約以降の国際社会では確立したルールです。しかし、かといって戦争をこの世からなくすことができるかというと、私は、人間社会から戦争がなくなることはおそらく未来永劫にないと思います。それは、もっと狭いコミュニティで考えてみれば分かりやすいと思いますが、複数の人間が共に生活している限り、暴力や犯罪は絶対に生じるわけです。それと同様、複数の国家が併存している限り、国際社会から戦争を一切なくすことはおそらくはできないと思われます。科学技術の発達した今日、例えば一歩間違えて核戦争が引き起こされれば、地球が滅びることにもなりかねませんが、国際社会には依然として数多くの核兵器が存在しています。これを「矛盾」と言わずして何と言えばよいのでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　つまり、人間社会というのは、多くの根深い「矛盾」を孕みながら動いているわけです。これらの「矛盾」はそう簡単に解消できるものではありません。むしろ、簡単に「矛盾」が解消できるなどと考えてはならず、「矛盾」がいとも簡単に解消できたと思ったときは、実は新たな「矛盾」が生まれているということがしばしばなわけです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　アメリカによるイラク戦争は正にその典型です。アメリカからすれば、イラクにいるフセインというけしからん指導者を取り除きさえすれば、中東地域の「矛盾」が解消できると考えて、戦争をしかけたわけですけれども、シーア派とスンニ派の間の激しい宗教対立を呼び起こしてしまう、内戦という新たな「矛盾」を引き起こしてしまったわけです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　つまり、根深い「矛盾」については、これを安易に解消しようとしてはならないのではないかと思うわけです。むしろ、解決することが難しい極めて根深い「矛盾」が存在するという事実を常に認識し続けるということこそ、重要なのではないでしょうか。９条の規定というのは、戦争という解決することが困難な「矛盾」が国際社会には常に存在し続けるということを我々に常に思い知らせてくれるという機能を果たしていると言えるのではないでしょうか。ですから、９条を取っ払ったり直したりして「矛盾」をなくしてすっきりしようなどと安易に考えてはならないのです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　９条がまどろっこしい議論をもたらすという弊害を生み出していると考えるのではなく、むしろ、戦争についてのまどろっこしい議論の機会を我々に与えてくれているのだ、という発想の転換をしてみることが重要なのではないでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/theodor_w2006/46421637.html</link>
			<pubDate>Thu, 22 Feb 2007 23:30:46 +0900</pubDate>
			<category>その他政界と政治活動</category>
		</item>
		<item>
			<title>国際貢献と憲法</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　２月１５日の毎日新聞の夕刊で、「国際貢献と憲法を考える」と題し、北海道大学助教授の中島岳志氏と東京大外教授の伊勢崎賢治氏の対談が掲載されており、興味深く読みました。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　伊勢崎氏は、アフガニスタンでＤＤＲ（Disarmament, Demobilization &amp; Reintegration：武装解除、動員解除、社会再統合）の現場で活躍されるなど、国際貢献の現場で活躍された方で、『武装解除　紛争屋が見た世界』（講談社現代新書）という本を書かれています。&lt;br /&gt;
&lt;a href=&quot;http://ec2.images-amazon.com/images/P/4061497677.09._AA240_SCLZZZZZZZ_.jpg&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://ec2.images-amazon.com/images/P/4061497677.09._AA240_SCLZZZZZZZ_.jpg&quot;&gt;http://ec2.images-amazon.com/images/P/4061497677.09._AA240_SCLZZZZZZZ_.jpg&lt;/a&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
　伊勢崎氏の議論にはやや粗さが感じられるものの、国際貢献の現場での経験を踏まえた言葉には重みを感じます。例えば、アフガンでの武装解除の経験を踏まえ、&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;「彼らは日本が経済大国であると共に、戦争をしない人畜無害な国だと感じ取っている。この日本人の人畜無害さは９条が培ったものです。なぜそのイメージをもっと利用しないのか。国際紛争の調停に、日本ほど向いている国はないのに。」&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

と述べておられる箇所は、目から鱗です。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　確かに、日本は９条によって、自衛隊を海外に出すことができる局面について、ＰＫＯ５原則やイラクの非戦闘地域など一定の制約を受けていますし、また、昨日（２月１６日）の&lt;a href=&quot;http://www.asahi.com/paper/politics.html&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;朝日新聞の記事&lt;/a&gt;にもあるように、「海外活動中の武器使用は、「自己」と同じ現場にいる人を守る場合のみに制約してきた」わけです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　９条の制約の弊害としてよく指摘されるのは、イラクにおいて我が国の自衛隊と一緒に行動している他国の軍隊が何者かに攻撃を受けた場合であっても、我が国自衛隊は助けに向かうことができないという点です。安倍総理も昨年１０月１１日の参議院予算委員会で「サマワにおいて活動している自衛隊に対しての攻撃ではなくて、一緒に活動している例えば英豪軍に対する攻撃があったときに駆け付けることは、これは警察行動ではないかどうかという問題もあるわけであります。そういう問題について、やはりしっかりと研究をしていくことが我々の責任ではないかと思っているところでございます。」と述べていますが、なるほどそうかなぁという気もしなくもないわけです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　また、先ほどの&lt;a href=&quot;http://www.asahi.com/paper/politics.html&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;朝日新聞の記事&lt;/a&gt;にも触れられていますが、自衛隊が海外で警護活動を行うことも、憲法の制約を受けているわけです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　このように、自衛隊の海外での活動は種々の憲法上の制約を受けるわけですが、しかしながら、他方では、こうした制約を受けているからこそ、自衛隊を受け入れる国にとってみれば、安心して自衛隊を受け入れることができるという面もあるわけです。仮に９条を改正して国際貢献のための武力の行使を認めたとすれば、米軍など他国の軍隊と同様、海外での武器の使用についての憲法上の歯止めがそれこそ無くなってしまいます。９条があるからこそ、各国は安心して日本の自衛隊を受け入れることができるわけです。そうしたメリットを生かそうとするのであれば、現行の９条を維持しつつ、その認める範囲内で解決策を模索していく方が我が国の国益にもつながるのではないかという気がします。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　したがって、私は、伊勢崎氏の言われるように憲法９条を維持した上で国際貢献を進めていくやり方に全く賛成です。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　ただ、私は、国連への派兵については９条の禁ずるところではないとする伊勢崎氏の主張には賛同しかねます。こうした主張は、民主党の小沢一郎党首がかねてから展開してきているのですが、私はそこまで国連の判断に全幅の信頼を置くことはできないという気がしています。&lt;br /&gt;
　例えば、アフガニスタンやイラクの件について見ても、国連安全保障理事会のお墨付きがないというわけではありません。特にイラクの場合、開戦の重大な根拠となった大量破壊兵器が結局見つからなかったわけであり、米国の致命的な判断ミスによる戦争が国連のお墨付きの下で実施された格好となってしまったわけです。国連への派兵であれば９条違反にはならないといった考え方を我が国がとることになれば、おそらく、国連のお墨付きをもらった多国籍軍への派兵についても我が国は拒否できなくなるでしょう。そうなれば、我が国の自衛隊も米軍とともにイラク戦争の戦争行為に参加しなければならないという自体になることは明らかです。&lt;br /&gt;
　やはり、我が国の自衛隊の行動についての責任は我が国自身が負わなくてはならないという気がしています。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　ところで、この毎日新聞における対談では、集団的自衛権を巡る中島氏の正鵠を得たコメントが大変光っています。集団的自衛権については、かつてこのブログの記事&lt;a href=&quot;http://blogs.yahoo.co.jp/theodor_w2006/40970430.html&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;集団的自衛権を認めるとどうなるのか？？&lt;/a&gt;でも言及したところですが、簡単に繰り返すと、集団的自衛権というのは、他国が武力攻撃を受けた際に我が国としても他国の自衛権の行使にお付き合いするということを意味します。例えば、米国はアフガニスタンに対する戦争を自衛権の行使として位置付けていますが、おそらく我が国の基準に照らしてみれば、自衛権の行使を超える行動と言わざるを得ないと思われます。もし仮に我が国が集団的自衛権を行使できることとなれば、同盟国たる米国の判断を否定することはできず、米国の判断に追随せざるを得なくなることは火を見るより明らかでしょう。そうすると、我が国自衛隊は、米軍と共にアフガンの奥地にまで侵攻しなくてはならなくなることは明白です。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　中島氏は、この点を次のように正確に指摘されておられます。&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;「「侵略をします」と言って戦争をする国家指導者はいません。常に戦争は「自衛」を掲げます。しかし、「自衛」の概念は主観的な「脅威」意識に基づくから厳密に定義できない。改憲で集団的自衛権を認めれば、自国はおろか同盟国が「自衛」を掲げて行う侵略戦争にも加担しなければならなくなります。９条は日本の主権を守るためにも保守すべきです。」&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

　この中島氏の指摘には、同感です。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　そもそも９条の存在意義は、集団的自衛権の行使を否定しているところにあると言っても過言ではありません。侵略戦争は「不戦条約」によって国際法上当然に禁止されているわけであって、それは９条以前の問題です。仮に９条の規定が侵略戦争を禁止するという規範だとしてしまえば、９条がなくたってよいことになってしまいます。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　かつての吉田総理が昭和２１年６月２６日の帝国議会において「従来近年の戦争は多くの自衛権の名に於て戦はれたのであります、満州事変然り、大東亜戦争亦然りであります・・・」という有名な答弁をした心境を、我々は再度噛み締めてみるべきでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　私は、９条の制約があるから我が国の国際貢献が満足にできないのだという主張は、思いこみに基づく幻想であるような気がします。石破茂元防衛庁長官が、防衛庁長官であった時分に東ティモールのグスマン大統領の訪問を受け、&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;「自分はいろいろな国の軍隊を見てきた、・・・だけれども、世界の中にこんなにすばらしい軍隊、自衛隊があるとは思わなかった。自衛隊は、我々とともに笑って、我々とともに泣いて、我々とともに汗を流してくれた。我々を上から見下すようなことは一度もなかった。軍隊というものは常に上から物を言うものだ。だけれども、日本の自衛隊だけは違った。こんなすばらしい組織が本当に世界にあることをおれは知らなかった。」（平成１８年８月１１日の衆議院国際テロリズムの防止及び我が国の協力支援活動並びにイラク人道復興支援活動等に関する特別委員会における石破議員の発言）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

と言われたというエピソードを紹介されていますが、９条の枠内であっても、自衛隊が他国から大いに感謝される国際貢献を行うことはできるわけですし、むしろ９条の枠内での活動だったからこそ、東ティモールの大統領からここまで感謝されたのではないでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　９条の規定は、その成立過程を捉えれば、確かに他者から与えられたものなのかもしれません（幣原提案説などもありますが・・・）。しかし、戦後今日に至るまでの長きにわたって、理想に過ぎるとも言える９条の下で、日本人はいかに国際平和に貢献できるのかについて悩み続けてきたという事実に、我々はもっと注目すべきです。この間の営みについては、正に日本人自身による思考作業であり、行動であったわけで、我々日本人はそうした事実をもっと前向きに受けとめてもよいのではないかという気がします。確かに湾岸戦争の際の苦い経験はありましたが、そうした経験を必要以上に卑下することはありません。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　米国がなりふり構わぬ振る舞いをしている時代だからこそ、我が国はそれとは対照的に、９条の枠内での国際貢献を売りにして、独自のスタンスを築くことによって、国際社会の信頼を得ていくべきなのではないかと思います。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/theodor_w2006/46257707.html</link>
			<pubDate>Sat, 17 Feb 2007 05:31:56 +0900</pubDate>
			<category>その他政界と政治活動</category>
		</item>
		<item>
			<title>エゴ丸出しの経済界</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　週刊東洋経済の１月２７日号に、北海道大学の山口二郎教授が「エゴ丸出しの経済界　経営者よ謙虚になれ」と題する小論が掲載されていました。共感する部分が多々ありましたので、御紹介したいと思います。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　山口教授は、多元的民主主義の国では、各種の団体が自分たちの利益を追求して政治にかかわることが、民主政治のエネルギーを供給してきたことを事実として認めつつも、ただ、&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;経団連など経済界の頂上団体は、個別的職能団体よりも一段上の広い視野や高い見識を持っているのだろうと思っていた。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

とのことで、頂上団体に「合成の誤謬」を是正するための発言や行動を期待していたとのことです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　この「合成の誤謬」とは、「個人や個々の会社が近視眼的に合理的な行動を取り、それが社会全体で総計されると、かえって社会に大きな害が生じるという現象」を指すとのことです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　山口教授は、今の日本を覆う暗雲は、合成の誤謬に由来しているとの認識を示しています。厳しい競争にさらされている個々の企業は、労働コストを削減するために非正規雇用を増やしており、その結果、少子化が加速するという悪循環が生じているわけです。こういう問題こそ頂上団体が取り組むべきというのが山口教授の主張です。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;　個々の会社の利害を超えて、日本社会の持続的発展を図るために経営者が何をなすべきか理念と方法を示すのが、経済団体の役割ではないか。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;　「利益を増やすためにも税金をまけろ」「規制緩和をしろ」と言うだけでは、経済界は他の職能団体と同じである。経済界が改革推進派で、農協や医師会が抵抗勢力だなどというのはどんでもないカン違いである。農協が主張する日豪経済連携協定反対も、経済界が主張する規制緩和も、要は自分たちのエゴイズムを言っているだけである。一方は偉く他方は卑しいということではない。経営者はもっと謙虚になるべきである。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　私はこうした山口教授の見方には大変共感を覚えます。経済界のトップの思想が、以前に比べて、極めて陳腐化しているのです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　なぜこのようなことが起こっているのかといえば、おそらく、企業経営自体が近年ますます近視眼的なものとなっているからのような気がします。以前は、企業はメインバンクから長期的なスパンで借り入れを見込むことができ、短期的な収益の増減に一喜一憂しなくてもすむような制度的基盤があったわけですが、近頃は、株価によって企業の価値が決まるかのような風潮が強まり、長い目でみた収益よりも、短期的な収益で企業の価値や経営者の価値が決まってしまっているのではないかという気がします。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　企業経営者の評価を見ればよく分かります。書店には、企業のトップによる啓蒙書が数多く並んでいますが、少し前までは、書店にずらっと関連本が並び、時代をときめいていた経営者でも、少し企業の収益が落ち込んだ途端に、めっきり見られなくなるといった感じです。つまり、企業経営者にとっては、長い目で見て経営をさせてもらえるような雰囲気などもはやなくなっているのです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　そうなれば、当然、企業経営者の集まりである経団連の主張が近視眼的なものとなることは当然の帰結だと言えるでしょう。自分たちの身を削って「よりよい社会を作りましょう」などと提言するよりも、自分たちの利益につながるようなエゴ丸出しの主張をするインセンティブが強まることは必然でしょう。かつてはとても口に出せないような類のエゴを、経営者が涼しい顔をして口にしているのです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　今般のホワイトカラー・エグゼンプション制を巡る論争の中でも、経営者のエゴ丸出しの主張が目立ちました。例えば、以下の発言は、ザ・アール代表取締役社長の奥谷禮子氏によるものです。&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;　さらなる長時間労働、過労死を招くという反発がありますが、だいたい経営者は、過労死するまで働けなんて言いませんからね。過労死を含めて、これは自己管理だと私は思います。…自分でつらいなら、休みたいと自己主張すればいいのに、そんなことは言えない、とヘンな自己規制をしてしまって、周囲に促されないと休みも取れない。挙げ句、会社が悪い、上司が悪いと他人のせい。&lt;br /&gt;
　ハッキリ言って、何でもお上に決めてもらわないとできないという、今までの風土がおかしい。たとえば、祝日もいっさいなくすべきです。２４時間３６５日を自主的に判断して、まとめて働いたらまとめて休むというように、個別に決めていく社会に変わっていくべきだと思いますよ。同様に労働基準監督署も不要です。…&lt;br /&gt;
　もちろん経営側も、代休は取らせるのが当然という風土に変えなければならない。うちの会社はやっています。だから、何でこんなくだらないことをいちいち議論しなければいけないのかと思っているわけです。（週刊東洋経済１月１３日号）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　この誰が見ても首をかしげざるを得ないおかしな発言は、おそらくホワイトカラー・エグゼンプション制に対する経営者側の本音の一端を露呈することとなり、結果的に、制度導入にとってマイナスにしか働かなかったと思いますが、少し前の時代で企業の経営者といういわば公の立場にある人物がこんな発言をすれば、大変なことになったでしょう。しかも、奥谷氏は、政府の数々の審議会委員を務めてきており、かつては内閣府総合規制改革会議の委員にも就いていたようです。そういう「公人」がこういうエゴ丸だしをすることが許されてしまうのが、今日の社会の特徴といえます。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　最後に、山口教授の締めの言葉を引用しておきたいと思います。&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;　グローバル資本主義の中で利益を追求しながら、ナショナリズムをあおる。組織においてパターナリズムの上下関係を温存しながら、個々の労働者に自己責任と競争原理を押し付ける。今の経済界の主張は、論理一貫性を欠いた「いいとこ取り」である。経団連はじめ経済団体には、特定の業界の枠を超えた大所高所の理念を持ち、バランスのとれた政策提言をしてもらいたい。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/theodor_w2006/45672112.html</link>
			<pubDate>Sat, 27 Jan 2007 16:14:18 +0900</pubDate>
			<category>その他政界と政治活動</category>
		</item>
		<item>
			<title>ホワイトカラー・エグゼンプション制と労働時間</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　昨年１２月２７日に、労働政策審議会の答申が出されたことを受け、とりわけホワイトカラー・エグゼンプション制を巡る議論が、昨年末から年始にかけて、にわかにあわただしくなってきました。&lt;br /&gt;
　答申の中では、ホワイトカラー・エグゼンプション制について、以下のように述べられています。&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;５　自由度の高い働き方にふさわしい制度の創設&lt;br /&gt;
　一定の要件を満たすホワイトカラー労働者について、個々の働き方に応じた休日の確保及び健康・福祉確保措置の実施を確実に担保しつつ、労働時間に関する一律的な規定の適用を除外することを認めることとすること。&lt;br /&gt;
(1)　制度の要件&lt;br /&gt;
　∥仂殤働者の要件として、次のいずれにも該当する者であることとすること。&lt;br /&gt;
i 労働時間では成果を適切に評価できない業務に従事する者であること&lt;br /&gt;
ii 業務上の重要な権限及び責任を相当程度伴う地位にある者であること&lt;br /&gt;
iii 業務遂行の手段及び時間配分の決定等に関し使用者が具体的な指示をしないこととする者であること&lt;br /&gt;
iv 年収が相当程度高い者であること&lt;br /&gt;
（以下　略）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　さて、報道によれば、この件については、政府側の見解と党側の見解が対立しつつあるようで、丹羽総務会長や公明党代表は、法案の提出に難色を示しているようです。そこで、安倍総理がどのような見解を持たれているのかが注目されるわけですが、これについては、以下のような記事が掲載されています。&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;残業代ゼロ　首相「少子化対策にも必要」&lt;br /&gt;
　安倍首相は５日、一定条件下で会社員の残業代をゼロにする「ホワイトカラー・エグゼンプション」の導入について「日本人は少し働き過ぎじゃないかという感じを持っている方も多いのではないか」と述べ、労働時間短縮につながるとの見方を示した。さらに「（労働時間短縮の結果で増えることになる）家で過ごす時間は、例えば少子化（対策）にとっても必要。ワーク・ライフ・バランス（仕事と生活の調和）を見直していくべきだ」とも述べ、出生率増加にも役立つという考えを示した。首相官邸で記者団の質問に答えた。 &lt;br /&gt;
　首相は「家で家族そろって食卓を囲む時間はもっと必要ではないかと思う」と指摘。長く働くほど残業手当がもらえる仕組みを変えれば、労働者が働く時間を弾力的に決められ、結果として家で過ごす時間も増えると解釈しているようだ。 &lt;br /&gt;
　ただ、連合などはサービス残業を追認するもので過労死が増えるなどとして導入に猛反対している。このため、夏の参院選をにらんで与党内でも慎重論が広がっている。 &lt;br /&gt;
　しかし、首相は通常国会への法案提出については「経営者の立場、働く側の立場、どういう層を対象にするかについて、もう少し議論を進めていく必要がある」と述べるにとどめた。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;a href=&quot;http://www.asahi.com/politics/update/0105/007.html&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;asahi.com2007年1月5日&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;労働時間規制は慎重検討　首相、政府・与党で調整&lt;br /&gt;
　安倍晋三首相は５日夜、労働時間規制を一部撤廃するホワイトカラー・エグゼンプション（適用除外）の導入について「いろいろな観点から、与党と議論を深める必要がある」と述べ、慎重に検討を進める姿勢を示した。&lt;br /&gt;
　柳沢伯夫厚生労働相が制度導入に向け通常国会への法案提出に意欲を示す一方で、自民党の丹羽雄哉総務会長や公明党の太田昭宏代表らから参院選を意識して慎重論が浮上していることを踏まえ、政府・与党間の調整を十分に行う必要があると判断したとみられる。&lt;br /&gt;
　首相は、日本人の労働実態について「家族と過ごす時間は少子化対策にとっても必要だ。ワークライフバランス（仕事と生活の調和）も見直していくべきだ。日本人は少し働きすぎではないかと思っている人も多い」と指摘。&lt;br /&gt;
　柳沢厚労相は５日の記者会見で「日本のホワイトカラーの生産性を高めるために必要」との認識を示している。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;a href=&quot;http://www.tokyo-np.co.jp/flash/2007010501000565.html&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;CHUNICHI-WEB-PRESS2007年1月5日&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　いずれの記事を見ても、法案提出については慎重に検討を進めていく必要があるとの見解を示したことについては同様に報じられているのですが、１つよく分からないのが、安倍総理が「日本人は少し働きすぎではないかと思っている人も多い」というコメントが、ホワイトカラー・エグゼンプション制を擁護する趣旨なのか、あるいはネガティブに捉える趣旨なのかがいまいちはっきりしない点です。asahi.comは、明らかに前者で捉えて記事を書いていますが、CHUNICHI-WEB-PRESSになると、後者で捉えて記事を書いているようにも見えます。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　仮に、asahi.comの報道のとおり、安倍総理が前者の立場に立って、ホワイトカラー・エグゼンプション制が労働時間の短縮につながると考えているとすれば、それは明らかに誤解としか言いようがありません。世の中のホワイトカラーの大半は残業代欲しさに残業をしているのではなく、組織の都合上、帰るに帰れなくて残業していることは明らかであり、労働時間規制から除外されれば、ますます企業が労働者に長時間労働を強いる動機を増長させることは疑いありません。私は、安倍総理は、ホワイトカラー・エグゼンプション制を慎重に捉える立場から、労働時間に言及したのだと信じたいと思います。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　私はこのブログでも常々述べているように、労働法制の今後の進むべき方向性というのは、労働時間短縮に向けた規制の強化だと考えています。今日、労働時間の二極化が進み、正社員はますます過酷な長時間労働を強いられており、他方では、正社員の待遇を受けられない非正規雇用者が低賃金で短時間しか働けないという状況になりつつあります。こうした状況を素直に捉えれば、労働時間規制を強化することが筋であることは明らかなのですが、労働コストの削減を目指す経済界の強い意向を受け、逆の方向に向かっていることは、このブログでもたびたび指摘しているところです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　労働時間短縮は、格差社会是正の切り札だと思います。ワークシェアリングの考え方とも通ずるものですが、結局、労働時間を短縮した分、正社員の雇用を増やすということが格差是正のためのもっとも近道なのではないかと思うわけです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　この点について、武蔵大学の橋本健二教授による『階級社会　現代日本の格差を問う』の結論部分には同感します。その刺激的な題名からはバリバリのマルクス主義が展開されるかのような印象も受けるのですが、大変分かりやすい良書です。&lt;br /&gt;
&lt;a href=&quot;http://ec1.images-amazon.com/images/P/4062583712.01._AA240_SCLZZZZZZZ_V41224366_.jpg&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://ec1.images-amazon.com/images/P/4062583712.01._AA240_SCLZZZZZZZ_V41224366_.jpg&quot;&gt;http://ec1.images-amazon.com/images/P/4062583712.01._AA240_SCLZZZZZZZ_V41224366_.jpg&lt;/a&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　橋本教授は次のように述べておられます。&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;「近年の日本では、労働時間の短い非正規労働者が増加する一方で、男性正社員の労働時間は長くなる傾向にあり、労働時間の二極化が進行している。労働者階級と新中間階級の経済的な格差が拡大するひとつの原因は、ここにある。新中間階級の労働時間が短縮されれば、その分、格差は縮小される。労働需要も増加して、正規雇用が増加し、賃金は底上げされるだろう。新中間階級の収入は減少することになるが、これまで以上の自由時間を手に入れることができる。男性が家事や育児を担うことも可能になるから、女性の就業継続が容易になり、その待遇も改善されていく。・・・労働時間短縮から格差縮小へ―これが、「格差社会」を克服する当面の基本戦略なのである。」（橋本『階級社会』p203）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　「新中間階級」というのは「専門職、管理職、そして管理職につながるキャリアをもつことの多い男性事務職として働く被雇用者」を指しており、労働者階級とは異なった階級として捉えられています。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　さらに、橋本教授の見解で注目すべきであるのは、長時間労働が「一般的信頼感」を低下させる、というものです。これは、特に情報のない他者一般に対する信頼の程度ということを意味するものであり、高い一般的信頼感をもつ人々は、協調行動をとる傾向が強いとのことです。この点について、橋本教授は以下のように述べておられます。&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;「長時間労働は新中間階級の一般的信頼感を低下させる傾向があるが、その原因のひとつは、おそらく長時間労働のもとにおかれた新中間階級が、家族やコミュニティから切り離されていたことである。自由時間の増加は、これらの人々の一般的信頼感を回復させ、協力行動を可能にする。協力行動をとるようになった新中間階級は、さらに労働時間短縮の流れを確実なものとしていくことができるだろう。」（橋本『階級社会』p203）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　つまり、長時間労働が是正に向かっていけば、新中間階級や労働者階級が協調行動がとれるようになって、階級闘争を繰り広げることができるようになり、さらなる労働時間短縮が期待できるという循環が生じるというような指摘です。これはあまり聞いたことがない指摘であり、どれほど信憑性のあるものかどうかを見極める能力も私にはないのですが、なかなか面白い切り口の指摘だと思います。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　いずれにせよ、労働法制は、労働時間短縮に向かうような制度設計としなければなりません。成果を挙げていないホワイトカラーに対して残業代を払いすぎることに対する経営者の不満があるのだとすれば、割増賃金の在り方についてのみ取り上げて議論すればよいわけであり、ホワイトカラーを労働時間規制を除外することとは本来全く切り離されて議論されるべき問題であり、それがごっちゃになっていることが議論がおかしな方向に向かっている１つの原因となっているのでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　そもそも、労働時間規制は、労働者の過労を防ぐべきものであり、それはブルーカラーであろうごホワイトカラーであろうが、人間である以上共通のテーマであるはずです。ホワイトカラーは過労死してもよいなどという議論が成り立ちうるはずがありません。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　最後に、東京新聞の昨年１２月２８日の社説の重要な問題提起の抜粋を転載しておきたいと思います。&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;労働時間改革　導入する時ではない&lt;br /&gt;
　比較的年収が高く自由に働けるホワイトカラーを対象とする新たな労働時間制度が創設される見通しだ。だが職場では長時間労働がはびこるなど悪化が目立つ。政府は導入を急ぐべきではない。&lt;br /&gt;
（中略）&lt;br /&gt;
　だが日本のホワイトカラーはそんなに怠け者だろうか。&lt;br /&gt;
　日本の長時間労働は世界的に有名だ。総務省調査では週六十時間以上働く労働者が増加している。一カ月で八十時間以上の残業となる計算である。それが過労自殺や労働災害の多発につながっている。有給休暇の取得率も日数も減っている。&lt;br /&gt;
　そもそも個人の権利意識も力も強い米国と違って、日本で労働時間を自由に配分できるホワイトカラーはいったいどのくらいいるのか。&lt;br /&gt;
　一度、制度が導入されたら適用範囲が徐々にひろがり結局は「残業代ゼロのための制度」になりかねないとの労働側の指摘は当然だ。管理職一歩手前の社員は子育て世代。ある程度の残業代は大切な生活給だ。&lt;br /&gt;
　労働時間改革は組合活動が低迷していることの裏返しだ。労働組合の推定組織率は今年六月末で１８・２％と三十一年連続で低下した。連合はパート労働者を含めた組織拡大に、もっと力を入れる必要がある。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;a href=&quot;http://www.tokyo-np.co.jp/00/sha/20061228/col_____sha_____003.shtml&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;東京新聞社説2006年12月28日&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/theodor_w2006/45100889.html</link>
			<pubDate>Sun, 07 Jan 2007 16:13:42 +0900</pubDate>
			<category>その他政界と政治活動</category>
		</item>
		<item>
			<title>八代氏の目指す「全労働者のフリーター化」</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　先般の記事&lt;a href=&quot;http://blogs.yahoo.co.jp/theodor_w2006/44222053.html&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;「労働ビッグバン」には要注意！&lt;/a&gt;で、経済財政諮問会議の八代尚宏委員の目指しているところは、「全労働者のフリーター化」ということに尽きるのだと書きましたが、それを裏付けるかのような記事が毎日新聞に掲載されていました。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;労働市場改革：正社員待遇を非正規社員水準へ　八代氏示す&lt;br /&gt;
　経済財政諮問会議の民間メンバーの八代尚宏・国際基督教大教授は１８日、内閣府の労働市場改革などに関するシンポジウムで、正社員と非正規社員の格差是正のため正社員の待遇を非正規社員の水準に合わせる方向での検討も必要との認識を示した。&lt;br /&gt;
　八代氏は、低成長のうえ、国際競争にさらされた企業が総人件費を抑制している中、非正規社員の待遇を正社員に合わせるだけでは、「同一労働・同一賃金」の達成は困難と指摘。正規、非正規の待遇を双方からすり寄せることが必要との考えを示した。&lt;br /&gt;
　また、八代氏は現在の格差問題が規制緩和の結果生じた、との見方を否定し「既得権を持っている大企業の労働者が、（下請け企業の労働者や非正規社員など）弱者をだしにしている面がかなりある」と述べた。&lt;br /&gt;
　八代氏は、労働市場流動化のための制度改革「労働ビッグバン」を提唱しており、近く諮問会議の労働市場改革の専門調査会の会長に就任する予定。【尾村洋介】&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;a href=&quot;http://www.mainichi-msn.co.jp/keizai/seisaku/news/20061219k0000m020089000c.html&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;12月18日MSN毎日インタラクティブ&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　この記事だけでは、正確にどのような発言があったかは定かではありませんが、「正社員待遇を非正規社員水準へ」という標題のような発言がおおむねあったのでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　労働者の権利まで「既得権」がとする論調は、はっきり言って尋常ではありません。八代氏は、全労働者を原子(アトム)のごとくバラバラな存在として、団体としてのパワーを無力化することをイメージしているのでしょう。大企業経営者にとって、こんなにありがたいことはないでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　そういえば、先般、液晶ディスプレイについての国際カルテルに関する記事が出ていました。&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;液晶、国際カルテルの疑い…シャープ、サムスンなど&lt;br /&gt;
　テレビやパソコンに使われている液晶ディスプレーの販売価格を巡り、日本や韓国、台湾の主要メーカーが国際カルテルを結んでいた独占禁止法違反（不当な取引制限）などの疑いがあるとして、日本と韓国の公正取引委員会が調べていることが分かった。&lt;br /&gt;
（中略）&lt;br /&gt;
　液晶ディスプレーは高画質化が進み、携帯電話やデジタルカメラなどの小型画面から大型液晶テレビまで需要が広がっているが、主力の液晶テレビは競争が激化。背景には、韓国や台湾メーカーの低価格攻勢があるといい、モデルによっては価格が前年比３割下落するなど、各社の収益が圧迫されている。&lt;br /&gt;
（以下略）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;a href=&quot;http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20061213it01.htm&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;12月13日YOMIURI-ONLINE&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　少し前までは産業の国内回帰の象徴として大きな注目を浴びてきた液晶テレビも、今や、国際競争の激化の中で価格が大きく下落し、収益が圧迫されているようです。各家電メーカーが液晶やプラズマの工場建設に莫大な投資を行っていることは周知のとおりですが、コストを回収することは相当至難の業であることは、傍目にも明らかです。上記記事が事実であるとすれば、背景にそうした事情があることは否定できないと思われます。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　こうした中で、各メーカーにとっては、国際競争を勝ち抜く上で、人件費の削減が大きな経営課題となっていることは言うまでもありません。大企業の側としては、コストのかかる正規社員よりも、非正規社員を好むのは、ある意味、当然の行動であるわけです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　先日、経団連も&lt;a href=&quot;http://www.keidanren.or.jp/japanese/policy/2006/091.html&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;2007年版 経営労働政策委員会報告&lt;/a&gt;を取りまとめているようですが、この中でも、&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;パートタイマー・契約社員等の非正規従業員については、長期雇用のいわゆる正規従業員との均衡処遇が問題になるが、仕事、役割、貢献度を一時点でなく、将来に亘る活用の仕方（配置、貢献度、育成など）を踏まえて、個別に適切に評価し、公正・公平な処遇を図るべきである。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

として、非正規従業員の活用を強く滲ませているとともに、格差問題についての批判に対しては、&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;　近年、正規と非正規従業員間の所得格差、成果主義の導入による従業員間の給与格差、所得格差の大きい高齢者世帯の増加、中央と地方との景気回復力の差等々、さまざまな局面に着目しての格差論が台頭している。&lt;br /&gt;
　規制改革が格差を拡大させているという意見もある。しかし、規制改革は、多くの意欲ある人々が市場に参入できるように競争条件を公正・公平な形に整えること、換言すれば機会の平等や選択肢の拡充を目指して行なわれる政策であり、チャレンジを奨励する政策とも言える。&lt;br /&gt;
格差問題に対する考え方のポイントは、格差がもたらされる事由が合理的なものか、その事由の回避が可能であるか否かにある。&lt;br /&gt;
　公正な競争の結果として経済的な格差が生じることは当然のことである。所得格差は個々人の能力や仕事・役割・貢献度の差異等の合理的事由による場合が多い。&lt;br /&gt;
　しかし、所得格差が固定化する、あるいは、必要な教育の機会がすべての人に開かれていない、一度失敗した者、機会を逃した者が再び挑戦する機会を得られないということであれば、それは問題とすべきである。格差の固定化をもたらさないためには、公正な競争、機会の平等を促進し、何度でも再挑戦の機会が与えられることが重要である。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

として、しっかりとエクスキュースすることも忘れていません。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　そういえば、だいぶ以前の記事&lt;a href=&quot;http://blogs.yahoo.co.jp/theodor_w2006/26157489.html?p=7&amp;pm=l&amp;t=1&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;大企業政治～外国法人の政治献金緩和&lt;/a&gt;で取り上げましたが、経団連会長の企業であるキャノンが政治献金を行えるようにする政治資金規正法の改正も、１２月１３日に国会で成立しています。大企業がいよいよ政権与党に対する献金を強化していけば、政策が大企業の思惑どおりに傾いていく可能性が当然予測されるわけです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　いろいろ述べてきましたが、今動きつつ労働政策は、労働者１人１人の生活に直結する極めて重大な問題です。しかも、労働者の権利を「既得権」と称する人物によって、その方向性が大きく決められようとしている現実はもっと広く知られてしかるべきでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　企業の競争力が高まったものの労働者の生活がぼろぼろになった、ということにならないよう、こうした動きをしっかりとウォッチしていく必要があると思います。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/theodor_w2006/44608826.html</link>
			<pubDate>Thu, 21 Dec 2006 04:56:39 +0900</pubDate>
			<category>その他政界と政治活動</category>
		</item>
		<item>
			<title>「労働ビッグバン」には要注意！</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　経済財政諮問会議の民間議員が「労働ビッグバン」を打ち出して以降、この問題が政治も巻き込んでにわかにあわただしくなってきました。１１月３０日に開催された同会議においても、この問題が取り上げられたようです。大田大臣の「諮問会議レポート」には、次のように書かれています。&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;　…労働ビッグバンはまさに今日がスタートで、民間議員ペーパーのポイントは、専門調査会をつくって、民間議員のペーパーにあるような点について、これから議論をしていきたいということです。　これに対して、柳澤臨時議員（厚生労働大臣）からは、以下のような発言がありました。&lt;br /&gt;
□労使自治という言葉があるけれども、労使は対等ではないというのが労働法制の基本の考え方。&lt;br /&gt;
□諮問会議や専門調査会で議論するというのはもちろんいいけれども、労政審では、労使公の三者で審議する仕組みがあり、そこでエンドースしなければならないという点は十分に配慮してほしい。&lt;br /&gt;
　その他の意見としては、以下のような議論がありました。&lt;br /&gt;
□中途採用を進めるために「転職秋の陣」のようなことを考えるべきではないか。&lt;br /&gt;
□派遣の期間制限というのは本当に必要なのか。規制のマイナス面もあるのではないか。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;　労働市場改革に関する私の取りまとめは、以下のとおりです。&lt;br /&gt;
□これから専門調査会を設置して議論していきたい。そして、制度改革のあり方について議論を深めて、随時諮問会議に報告をお願いしたい。&lt;br /&gt;
□その際、公労使三者協議の審議には十分配慮して連携をとっていきたい。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;　総理の締めくくりは、以下のとおりです。&lt;br /&gt;
□終身雇用が崩れたり、共働きが増えたり、フリーターやニートが増える、こういう中で人材が生かされて再チャレンジできる社会をつくる労働市場の改革というのは、内閣の非常に大きな課題である。専門調査会を活用して、精力的に御検討いただきたい。厚生労働省などの関係省庁ともよく調整・連携して、検討成果を関連する制度改革や来年の「骨太方針」に盛り込んでいただきたい。&lt;br /&gt;
（略）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;a href=&quot;http://www.keizai-shimon.go.jp/minutes/2006/1130/report.html&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;平成18年会議結果 第27回会議 会議レポート:内閣府 経済財政諮問会議&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　直近の新聞記事を見ても、様々なプレーヤーがこの問題について議論を展開しているようです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;派遣の直接雇用義務の撤廃、規制改革会議も答申へ&lt;br /&gt;
　政府の規制改革・民間開放推進会議（議長・草刈隆郎日本郵船会長）が今月末まとめる最終答申の原案が５日明らかになった。派遣労働者を巡る規制の抜本見直しが主眼で、企業が派遣労働者に直接雇用を申し込む義務を撤廃するよう提案、０７年度中の実施に向け検討を急ぐよう求めている。また、労働組合の団体交渉権を、組織率が一定割合以上の組合に限る考え方を初めて打ち出している。 &lt;br /&gt;
（略）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;a href=&quot;http://www.asahi.com/politics/update/1206/006.html&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;asahi.com2006年12月6日&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;自民、労働調査会復活へ　「雇用・生活調査会」に衣替え&lt;br /&gt;
　自民党は、活動実績がないことから昨年廃止された労働調査会を、「雇用・生活調査会」に名前を変えて復活させる。政府の経済財政諮問会議が労働市場の規制緩和「労働ビッグバン」を検討していることに対し、党内からは「経済界の論理が強すぎる。働き手に果実を分配するべきだ」などの意見が続出。来年の国会では労働関係の大型法案が多数審議されることから、非正社員の処遇改善など党主導で労働政策の見直しを進める考えだ。 &lt;br /&gt;
（中略）&lt;br /&gt;
　一方、経済財政諮問会議も専門調査会を新たに設置し、派遣契約の期間制限の延長や、企業に課している直接雇用の申し込み義務の撤廃などを検討する。自民党とは主張が真っ向から対立しそうだ。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;a href=&quot;http://www.asahi.com/politics/update/1203/001.html&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;asahi.com2006年12月3日&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;自民雇用調査会「時宜を得てる」　柳沢厚労相&lt;br /&gt;
　自民党が党主導で雇用政策などを検討するため、労働調査会を「雇用・生活調査会」として復活させることについて、柳沢厚生労働相は５日の閣議後会見で「経済財政諮問会議でもいろんな論点の提示があったが、より国民の生活実感や労働事情について現実的なことをよく知っているのが国会議員だ。非常に時宜を得た調査会のスタートだと思う」と述べ、党の議論に期待感を示した。 &lt;br /&gt;
（略）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;a href=&quot;http://www.asahi.com/politics/update/1205/006.html&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;asahi.com2006年12月5日&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;労働ビッグバンに連合会長が懸念　首相と会談&lt;br /&gt;
　安倍首相と連合の高木剛会長との「政労会見」が５日、首相官邸で開かれた。高木会長は、政府の経済財政諮問会議が検討している労働市場の規制緩和「労働ビッグバン」について、「新自由主義経済を進めていけば、非正規労働者が増え格差が固定化しかねない」と懸念を示した。 &lt;br /&gt;
（略）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;a href=&quot;http://www.asahi.com/politics/update/1206/001.html&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;asahi.com2006年12月6日&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　そもそも、この「労働ビッグバン」が何を目指そうとしているかはややはっきりしないところがあるのですが、経済財政諮問会議における資料においては、次のように記述されています。&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;１．複線型でフェアな働き方に（労働ビッグバンの3つの目的）&lt;br /&gt;
． 働き方の多様性&lt;br /&gt;
 -労使自治に基づく多様な雇用契約で雇用機会の拡大&lt;br /&gt;
 -仕事と育児の両立&lt;br /&gt;
 -時間に縛られない働き方 など&lt;br /&gt;
． 労働市場での移動やステップアップのしやすさ&lt;br /&gt;
 -スムーズな職探し、転職の容易さ&lt;br /&gt;
 -効率的な人材育成・職業訓練&lt;br /&gt;
 -グローバル化に対応する労働市場のあり方など&lt;br /&gt;
． 不公正な格差の是正&lt;br /&gt;
 -雇用形態による格差&lt;br /&gt;
 -女性・高齢者・若者等の低所得層に対する対応 など&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;a href=&quot;http://www.keizai-shimon.go.jp/minutes/2006/1130/item4.pdf&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;平成１８年１１月３０日の会議に提出された伊藤隆敏、丹羽宇一郎、御手洗冨士夫、八代尚宏連名の資料&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　ここから読み取れる方向性としては、再チャレンジを阻害したり、労働者の格差を生み出しているのが長期雇用制であり、これを打ち破るのだ、ということに尽きるように思います。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　この「労働ビッグバン」の真意を探るためには、１１月１５日の朝日新聞の八代尚宏委員のインタビューが参考になります。&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;　―労働法制上、何が障害になっているのか。&lt;br /&gt;
　派遣労働の規制だ。労働者派遣法では派遣社員は正社員になるための前段階と位置づけているが、間違いだ。派遣法は契約期間を３年などと制限し、引き続き働いてもらうには正社員としての雇用申し込み義務を企業に課している。だが、企業は規制から逃れるために２年で辞めさせている。&lt;br /&gt;
　派遣を含めた非正社員は１６００万人おり、全員を正社員化できるはずがない。非正社員なりに雇用を安定させることが大事だ。対象業種の制限、事前面接の禁止など非現実的な規制をなくすなど、派遣法を抜本改正し、純粋は「派遣労働者保護法」にしたい。&lt;br /&gt;
　―正社員の雇用保障も見直すべきだと主張されているが。&lt;br /&gt;
　低成長で正社員の雇用を守るために、非正社員がより多く必要になった。正社員の過度の雇用保障が若者や主婦の参入を妨げている。…&lt;br /&gt;
 ―一定の年収以上の人などを労働時間規制の対象から外す「ホワイトカラー・エグゼンプション」は必要か。&lt;br /&gt;
　いまの労働時間規制は時間と賃金が結びついている工場での働き方が前提だ。だらだら働いて残業代をもらう人がいる一方、子供を抱える母親が効率的に働き、早く帰宅しても残業代がない。労働時間規制がなくなれば過労死につながるという批判もあるが、過労死するほど働かせる会社はやめられるよう、労働市場の流動性を高めることが必要だ。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　八代氏は、非正社員の人たちに対しては「あなたがたの雇用を妨げているのは正社員のせいなのですよ。」「派遣労働の規制がなくなれば、もっと長期間雇用してもらえるのですよ」と囁き、他方、正社員の人たちに対しては「あなたがたが過労に陥るのは、長期雇用のせいなのですよ。辞めたければ辞められるような制度になれば、自由に転職できるのですよ。」と囁いているわけです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　このインタビューから分かったことは、八代氏の目指している姿は、つまり&lt;br /&gt;
&lt;pre class=&#039;wiki&#039;&gt;「全労働者のフリーター化」
&lt;/pre&gt;

ということに尽きるのだと思います。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　このことによって誰が一番得をするかといえば、大企業経営者であることは言うまでもありません。労働規制がなくなれば、企業は自由に雇用したり、解雇したりできるからです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　経済財政諮問会議の民間委員四者は経済学者と大企業経営者のみであり、この中に労働者を代表する立場の者がいないというところに最大の問題があるといえるでしょう。そもそも経済財政諮問会議には、労働者や中小企業経営者を代表するような立場の民間委員がいません。つまり、この会議からは大企業の利益に反する見解が示されることはおよそ期待できないということです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　しかし、八代氏は、「労働ビッグバン」によって大企業が得るであろう利益については、一切口にせず、「労働ビッグバン」があたかも労働者全体のためのような論理を展開します。しかし、労働者にとってみれば、結局、全労働者のフリーター化を意味するにほかならないわけです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　「労働ビッグバン」が、あたかも「労働者の目線」から提言されたものであるかのような印象を与えようとしているところが大きな落とし穴となっています。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　確かに、派遣法に問題がないわけではないとは思いますが、八代氏のいうように派遣法を見直した上であらゆる労働者をフリーター化するような方向に向かうのでは、問題はむしろ後退していくばかりでしょう。やはり、労働法制は、非正社員が現在の正社員と同等の待遇を受けられるような形で雇用の安定化を図る方向に向かうべきであり、そのためには、労働規制の一層の強化は不可欠だと思います。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　また、一部の労働者たちが長時間労働を強いられている実態に対しては、労働時間規制をさらに強化する必要があるのであり、長時間労働がいやなら辞めればいいという八代氏の発想は全く本末転倒だと思います。辞めた後に再就職できることを一体誰が保障してくれるのでしょうか？&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　この点、労働法学者の濱口桂一郎先生がブログで次のように指摘されているのに大変共感します。&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;残念ながら規制改革会議の累次の答申を見ても、この規制をなくせ、あの規制をやめろというものしかなくて、具体的にどのような保護を加えるべきというようなご提案は見当たらないようです。もっとも、経済学者としては、余計な規制をなくせばマーケットメカニズムで自動的に派遣労働者は正社員並みに保護されるようになるはずだというご趣旨なのかも知れませんが、産業革命以来の2世紀の歴史は必ずしもそうではないことを物語っているように思います。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;a href=&quot;http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post_9ae6.html&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;EU労働法政策雑記帳&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　とにかく、「雇用の流動化」とかいう甘い言葉に騙されてはならないでしょう。「雇用の流動化」を企業経営者の側から見れば「首切りの自由化」でもあるわけです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　「労働ビッグバン」の動向から目が離せません。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/theodor_w2006/44222053.html</link>
			<pubDate>Thu, 07 Dec 2006 23:34:28 +0900</pubDate>
			<category>その他政界と政治活動</category>
		</item>
		<item>
			<title>憲法と「日常性」</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;１１月２０日の東京新聞朝刊の「試される憲法」というコーナーに、哲学者の多木浩二氏が憲法について発言をされており、少々興味深いコメントが含まれていたので紹介します。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　多木氏の発言の中で注目すべき視点は、憲法を文化的視点で捉える必要性を説いていることです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;「現在の国際関係の単位は国家です。だが国家をめぐる議論を聞くと、人間の生活、人間が人間であることはどういことかを考える文化的な視点を喪失していることが多いのです。文化的な視点はまず日常性を考えます。日常性をはぎ取られたときに人間は人間でなくなる。危険です。」&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　この文章は、かつて社会学者のアルフレッド・シュッツが提唱し、バーガーとルックマンが発展させた「現象学的社会学」の視点を彷彿とさせます。&lt;br /&gt;
&lt;a href=&quot;http://ec1.images-amazon.com/images/P/4788508397.09._AA240_SCLZZZZZZZ_.jpg&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://ec1.images-amazon.com/images/P/4788508397.09._AA240_SCLZZZZZZZ_.jpg&quot;&gt;http://ec1.images-amazon.com/images/P/4788508397.09._AA240_SCLZZZZZZZ_.jpg&lt;/a&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　この学問を端的にいえば、「日常」に着目して、人間と社会との関係を弁証法的な過程として捉えて考察するものです。「日常生活」というのは、私たちが日々の生活を繰り返し送っている世界で、普段はあまり意識されることはありませんが、その重要性は、「日常生活」が崩れる危機が訪れて初めて考えさせられることになります。「日常生活」というのは、我々のアイデンティティを考える上で、極めて重要なファクターであるといえるわけです。「日常生活」において、人間と社会との間において「外在化」「客体化」「内在化」という３つの契機からなる弁証法的過程が繰り広げられ、人間のアイデンティティが形成される、というのが、バーガーとルックマンによる理解です。こうした社会の捉え方は、社会学に対して大きな批判的影響を与えたわけです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　「日常性」を重視する多木氏の言葉も、おそらくこの「現象学的社会学」の背景を踏まえたものと思われます。この「日常」という視点に着目して憲法というものを考えたとき、憲法の新たな一面が浮かび上がってくるというわけです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　多木氏が「日常性」の視点を持ちだしておっしゃりたかったことは、おそらく、我々の社会というのは「日常性」という我々が普段意識していない側面によって支えられており、そして、憲法が“日常性を担保する”という重要な役割を実は担っているのだ、ということなのだと思います。憲法がこうした役割を果たしているからこそ、我々は平穏な日常生活を送ることができるわけで、あるいは、思想や芸術も実はこうした日常生活があるからこそ生み出されているともいえるわけです。そして、とりわけ、憲法９条というのは、こうした“日常性を担保する”という役割の中で大きな意味を占めるように思われます。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;「文化を考えることは、国家のさまざまな政策や社会的な制度からどこかで意識的な距離を取り、次の時代を探す、別の文脈を探すことで、そこに意義があります。九条の問題はそこまで根本的な意義を含んでいます。&lt;br /&gt;
　現実主義者と称する人々は、文化的な視点をあざ笑うかもしれません。平和とは容易なものではありません。しかし、戦争とは暴力で日常生活を破壊するものです。もし思想や芸術を作り出す能力、日常生活を維持していく知恵がなければ、人類はとっくに滅亡していたに違いないでしょう。」&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　私は、現実主義者がしばしば批判するように、単に「護憲」や「絶対平和主義」さえ唱えていれば平和が実現するものではないと思いますが、しかし、昨今の北朝鮮情勢の緊迫化などを受け、人々の戦争に対する恐怖感というか緊迫感が薄れてきているのではないかという気がします。最近、政治家が、安全保障に対する「安易」ともいうべき軽い発言をするようになってきたり、安易に北朝鮮船籍の船に対する船舶検査を唱えたりするような風潮を見るにつけ、この多木氏の指摘する日常性の重要性という視点が大きな意味を持ってくるような気がします。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　もちろん、「日常性が大事だ！」と叫んだところで平和が守れるわけではありませんが、ただ、このように日常性の重要性について着目するという視点は、人類にとっての平和の意味を改めて考えさせられる契機となるのではないかと思います。そうした意味で、多木氏の発言は大変意義深いものでありました。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/theodor_w2006/43703700.html</link>
			<pubDate>Mon, 20 Nov 2006 23:48:38 +0900</pubDate>
			<category>その他政界と政治活動</category>
		</item>
		<item>
			<title>江戸東京探訪記（７）「霞が関」</title>
			<description>&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-c4-8f/theodor_w2006/folder/1394872/81/43655481/img_0?1164242177&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_387_580&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　今回は、職場のある「霞が関」について取り上げてみたいと思います。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　「霞が関」は今では官庁街一帯を指す地名であるわけですが、かつては、現在の外務省と国土交通省との間の坂を指していたようです。『江戸名所図会』の「霞関の旧蹟」の項には、&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;「桜田御門の南、黒田家と浅野家との間の坂をいふ。」（ちくま学芸文庫『新訂　江戸名所図会３』）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

と書かれています。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　「霞が関」という名称がなぜ付けられたかについては、てっきり、江戸時代に関所のようなものが置かれていたのではないかといったくらいに思っていたのですが、実際は、もっとずっと古い由来がある地名ようです。これも『江戸名所図会』の中で次のように書かれています。&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;「往古の奥州街道にして、関門のありし地なり…。『武蔵野地名考』に云く、ある古記に曰く、荏原郡霞関、大和武尊蝦夷の儲関なり。爾来、連綿としておほいにこれを置かる。挙国の勝景にして、しかもその遠眺雲霞を隔つ。ゆゑに霞関の号あり、云々。」（ちくま学芸文庫『新訂　江戸名所図会３』）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

　つまり、「霞が関」というのは、日本武尊が蝦夷に備えて設けた関所であり、しかも、その眺望は雲霞のごとく素晴らしかったということだったようです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　江戸時代における眺望は、歌川広重の『名所江戸百景』の「霞がせき」を見ればよく分かります（添付画像参照）。&lt;br /&gt;
　この絵の右側に見えるのが松平美濃守（黒田家）の屋敷であり、左側に見えるのが松平安芸守（浅野家）の屋敷のようです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　何とも驚かされるのは、霞が関から築地本願寺や、さらにその向こうの海が一望できたということでしょう。今では、官庁のビルが建ち並び、しかも、海の埋め立てが進んだことから、霞が関の坂の上から海を見ることは想像することすら困難です。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　さらにいえば、今の霞が関の大半は、江戸初期においては海の中にあったわけです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　以前&lt;a href=&quot;http://blogs.yahoo.co.jp/theodor_w2006/26844465.html&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;日比谷公園に関する記事&lt;/a&gt;の中でも紹介しましたが、日比谷という地名は海中に海苔を付着させるための竹や木の枝（これが「ひび」と言われる。）を立ち並んだ様子から「ひびや」と言われるようになったようです。かつてこの辺は、日比谷入江が入り込んでおりすぐそこまで海でだったのすが、これでは江戸城のすぐ近くにまで外国船が入り込んできてしまうため、防衛上の配慮から江戸時代初期に埋め立てられたものですが、埋め立てにはもう１つの理由があったようで、その理由とは「城下の宅地不足の解消」です。鈴木理生氏編著『東京の地理がわかる事典』によれば、実際の埋立工事は、埋立前からそこに宅地を割り当てられた大名たちが負担したとのことです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　今では殺風景な建物が建ち並ぶ霞が関の官庁街ですが、わずかな想像力を少し働かせるだけで、そうした光景におもむきが加わるような気がしました。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;pre class=&#039;wiki&#039;&gt;補記：鈴木理生氏編著『東京の地理がわかる事典』の中で「霞が関が官庁街になったワケ」が書かれていました。かつてこの地域は大名藩邸ばかりの場所であり、大名藩邸の構造は、ほとんど手を加えることなく官庁に転用できたことから、財政事情の厳しい明治政府が旧大名の藩邸を接収して利用したというものです。興味深かったので、補記しておきました。
&lt;/pre&gt;

&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/theodor_w2006/43655481.html</link>
			<pubDate>Sun, 19 Nov 2006 14:56:40 +0900</pubDate>
			<category>その他文化活動</category>
		</item>
		<item>
			<title>労働を苦役と思わぬＤＮＡ</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　１１月１２日の朝日新聞の広告ページに、中沢新一氏が「労働を苦役と思わぬＤＮＡ」というコラムを書かれていたのを興味深く読みました。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　中沢氏は、人類学者のレヴィ・ストロースがかつて日本人の労働観に感銘を受けたことを紹介しつつ、近代以前の日本人の労働観の見直しを主張されています。&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;「…日本人にとっては、農民から職人、町工場の技術屋さんからサラリーマンまで、働くことは一種の自己実現であり、創造なんですね。心の奥底にそういう労働観が存在しています。近代になると、目標達成のために懸命に働く産業労働が入ってきたけれど、それでも日本人自身は、欧米人が感じるほど労働が苦役ではない。自分たちのことをワーカホリックなどとは思っていないでしょう。」&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

（朝日新聞１１月１２日より）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　人々の精神の奥底に潜む痕跡を探求し続けてこられた中沢氏とすれば、日本人の労働観が表面的に失われたように見えたとしても、精神の奥底にはそれがまだしっかりと残存しているという見方を採られているわけです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　おそらく、少し前の時代の日本人には、かつての労働観がまだ残っていたのだと思います。しかし、９０年代以降の日本社会を見る限り、かつての日本人の職人的な労働観、自己実現のための労働観を見出すことは極めて難しくなっているように思えます。現代社会はますますそうした働き方を許さない風潮を強めているのではないか、そんな気がします。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　人類学においては、かつて「経済人類学」という分野が大いに注目を浴びていました。その代表格がマーシャル・サーリンズといえるかと思いますが、彼の最大の功績は、それまでは貧しいと見なされていた狩猟社会が、実はわずかな労働で想像以上の豊かさを享受していたことを論証した点にあるといえます。これは大きな「発見」だったわけです。&lt;br /&gt;
　しかし、そもそも「労働」というのは一体何なのかというテーマについては、「経済人類学」においても残されたままのテーマであったわけですが、中沢氏が上記コラムで紹介されていたレヴィ・ストロースは、日本人の労働を見ながら、このテーマについて考えたわけです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　レヴィ・ストロースによれば、西欧社会における労働の観念は、労働は神の力によって人間に課せられた「罰」であるとするユダヤ＝キリスト教的な伝統と商業経済・資本主義の観点という２つの要素によって規定されています。そこでは、あらゆる種類の労働は市場の機能を通していわば等質化され、混ざり合っているわけです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　ところが、日本人の労働は西欧社会のそれとは異質なものとしてレヴィ・ストロースの目には映ったのです。輪島で蒔絵を製作している漆職人の仕事場を見学したレヴィ・ストロースは、次のように述べています。&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;「…われわれ西欧の人間にとっては、労働一般という考え方があるわけですが、travail（労働、仕事）というフランス語、あるいはそれに該当する他の西欧諸国のことばを、一つの日本語の単語だけで統一的に訳すのは実際上不可能に近いということを、日本の方と話していてはからずも知りました。そうだとすれば、われわれとしては、もう一度、労働の観念について考えなおしてみる必要があるでしょう。西欧社会とはきわめて異質な、商業経済と無縁な社会においてはなおさらです。人類学者たちが自分たちの母国において「労働」ということばで表している観念は、これらのさまざまな社会において、はたして一つの同じ現実に対応しているのでしょうか。」&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

レヴィ・ストロース『クロード・レヴィ＝ストロース日本講演集　構造・神話・労働』ｐ８８）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　レヴィ・ストロースがこのようなことを講演で述べたのは１９７７年のことでした。もしレヴィ・ストロースが今日の日本に来日していたら、上記のような印象を持つでしょうか。おそらく、今の日本社会における労働は、より西欧社会における労働に近づいてしまっているのではないかと思います。レヴィ・ストロースが西欧的な労働観に批判的であり、当時の日本人の労働観にシンパシーを抱いたことは間違いないでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　日本社会もつい最近までは、労働に生きがいを求めることはそれほど苦痛でない社会だったような気がします。かつては多くの職人たちや中小の自営業者たちは、自らの仕事に誇りを持って仕事に打ち込んできたわけですし、戦後の長期雇用下のサラリーマンたちも、やはり「会社」という場において自己実現ができたわけです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　ところが、９０年代以降の日本社会では、規制緩和の進展によって職人や自営業として生計をたてることがより一層難しくなり、また、長期雇用制が崩れたことで、サラリーマンたちは「会社」で仕事に打ち込むことによって自己実現することが難しくなってきたのではないかという気がします。日本社会における労働はますます無味乾燥で歯車的なものへと向かっているのではないかと思います。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　つまり、日本社会は、働くことで自己実現することがより一層困難な社会に向かっているわけです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　これは、社会の在り方を根幹から打ち崩すような大きな変化ではないかと思います。「働くこと」の意義が近年盛んに問われていることは、そうした状況の表れといえるでしょう。しかしながら、その解はいまだ得られていないわけです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　こうした時代において、我々は労働観をもう一度よく考えてみる必要があるのではないかと思います。中沢氏が次のように述べておられるのには、極めて共感します。&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;quote&#039;&gt;「日本人はいま、労働観も含めて根本的なものの考えを作り直していかなければならない時期に差し掛かっています。そのためには、日本人の自然な心性に残っている原型に戻ってみなければならないでしょう。近代の労働倫理は日本人の中で変容が始まっていますが、しかし権力に近い人たちは相変わらずの近代価値観にしがみついていて、それが時代錯誤になりつつあることに気づいていない。ニートの若者たちが表明しているものは何か、それに目を凝らす時が来ています。」&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;

（朝日新聞１１月１２日より）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　現代社会に生きる我々は、「働くことで自己実現しにくい世の中において、働くことの意義を考え続けなければならない」という重い課題を背負っているような気がします。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/theodor_w2006/43489720.html</link>
			<pubDate>Tue, 14 Nov 2006 05:29:22 +0900</pubDate>
			<category>その他政界と政治活動</category>
		</item>
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