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「信仰義認の教理」の受容過程
後にルターの信仰義認の教理が教理史的に重要なものと言われるようになったとしても、今日、別の角度からこの教理を見ていく必要がある。事実「ヴィッテンベルクの神学生の数はそれほど多くなく、ヴィッテンベルクはおそらくヨーロッパの大学のうちで〈重要でない〉大学のトップに位置していた」 のだった。つまり、「重要でない」大学においての神学部の教授科目の変更があったのだし、教会的にも社会的にも「重要でない」教理であったということである。これはプロテスタンティズムの起源を問う上でも問題とされるべきだし、今日ある信仰義認の教理の位置づけ自体を問い直さねばならない必要もでてくる。
ルターの信仰義認の教理は、後にルターの協力者であるフィリップ・メランヒトンによって受け継がれ、今日「法廷的義認」として知られている理論を展開することになった。アウグスティヌスにとって「罪人が義とされる」とき、メランヒトンにあっては罪人が「義と宣告される」。アウグスティヌスが義認をもたらす義を〈分け与えられた〉とするとき、メランヒトンにあっては〈転嫁された〉とする。メランヒトンは義と宣告される出来事と義とされる過程をはっきりと分けて、前者を義認と呼び、後者を聖化と呼んだ。しかしアウグスティヌスにとっては同じ事柄の二つの側面であったし、アウグスティヌスの時代以降もそうであった。メランヒトンの法廷的義認の考えは、アウグスティヌスから極端に逸脱したものであったといえる。この法廷的義認の考え方が、信仰義認の教理として知られるようになった。指摘すべきは法廷的義認がルターの思想をさらに発展したものであったということである。宗教改革の第一世代では「義認の教理」一つとっても多様な意見が存在していたが、ルター派教会や改革派教会などがそれぞれ内部での論争を経て次第にカルヴァンとメランヒトンの意見が優勢になっていった。後に1545年カトリック教会はトレント公会議を召集するが「ローマ・カトリック教会の決定的応答であるトレント公会議は、義認の性格についてのアウグスティヌスの見解を再確認し、メランヒトンの見解を非常に不適切だとして非難」 することになり、分裂は深まった。しかしトレント公会議は特にルターのものとして知られていたメランヒトンの法廷的義認に対して対抗し、また批判がなされたのだし、さらにカルヴァンの脅威については全く気づいていなかった。
1540年代から1550年代に宗教改革内で優勢となってきた義認のモデルは特にカルヴァンのものであった。カルヴァンは、信仰こそが神と人間を「神秘的一致」において結び付け、この一致は「二重の恩恵」を持っていると考えた。「一致」はまず直接的に人間を義認に導く。さらにこの一致のゆえに(義認のゆえではない)、再生を通してキリストのようになる過程をスタートする。ブツァーは義認が再生を起こすとするのに対して、カルヴァンはそれを「神秘的一致」の結果であるとしたのだった。
以上のように、プロテスタンティズムにおける重要な信仰義認の教理であっても、宗教改革者たちの考え方は異なっており、むしろ様々であった。
信仰義認の教理が受け入れられる過程をみると、多くの人々はこの教理を誤解していたようである。端的に言えば、当時、信仰義認の教理が支持されたのではなかった。「聖書に戻れ」というルターの呼びかけは道徳的なものとして理解されたのだし、聖書には神が喜ぶ「行動」について書いてあると大勢の人々は考えた。これは道徳主義に向かう方向であり、ルターが信仰義認の教理にあって意図したこととはまるで違っていた。実は、宗教改革を支持した人々は、必ずしも自分自身の立場を理解していたわけではなかった。事実、ルターは1528-29年にザクセンのルター派教会を訪問し、ほとんどの牧師と信徒たちがキリスト教の教えを知らないことがわかり衝撃を受け、キリスト教の一般的な知識を増すための策として『ドイツ信仰問答』を用意することとなった。 「当時の民衆に突きつけられていたのはその難解な神学理論ではなく、そこから演繹されるわかりやい行動であった。贖宥状の販売は中止すべきこと、聖画像の寄進や敬愛はやめること、修道士制もやめること、聖職者も結婚すべきことなどである。これらの行動課題を、宗教改革派は、当時確立の域に達していた印刷物メディアを用いて大々的に民衆に宣伝した」 のだった。
さらにルター自身においても批判されるべき点があった。ルターは自分の周りの状況をキリスト教教会全体の状況であると考えてしまった。中世における大学と学校の拡張は知的多様性を生んだが、その結果、神学的な意見と信頼できるカトリック教理との区別が困難であった。そのため当時は、個人的意見と公的政策が混同されていた。また教皇は、教会の公的な教えが何であるかを明確に打ち出せなかったし、それを守らせることはできなかった。「いみじくも歴史家たちが指摘しているように、ルターは中世の教会を完全に異端的教理に満ちた教会、あるいは新約聖書から完全に離れてしまった教会であるとみなしたが、それは真実ではなかった。そのことからルターの要求になぜヨーロッパ全体が呼応しなかったのかを理解できる」 。
ヴィッテンベルク内においても、カールシュタットはルターを妥協家とみなし、「ルターが神学的度胸に欠けるというカールシュタットの批判はその後プロテスタンティズム内の諸々の運動においても繰り返し共鳴者を見出すことになる」 。また同じくヴィッテンベルクのトマス・ミュンツァーは、聖書が正当化する社会行動および実践こそ改革であると考えた。しかしルターの慎重さは非聖書的であるよう思えた。ミュンツァーの思想は1525年の農民戦争で重要な役割を演じたが、ミンツァーを支持する民衆はルターよりも彼を選んだ。ミュンツァーはフランケンハウゼンの戦いで農民たちを指揮し、彼らは虐殺されミュンツァー自身は斬首刑となった。マクグラスは以上のことを評して次のようにいっている。「最も根本的なことは、彼らが非常に違っていたという事実である。単一のヴィッテンベルク計画があったのではないし、聖書の解釈と応用についても単一の方法があったのでもない。ルター個人の改革の幻が最終的には勝利したという事実も、歴史家の目には根本的に神学的必然ではなく、歴史的偶発事であって、権力闘争の力学と政治的駆け引きを反映していることに過ぎない」 。
これはルターを一躍有名にした1519年のライプツィヒ討論においてもそうであった。この公開討論会におけるルターの論敵インゴルシュタットの神学者ヨハン・エックは、巧みな弁論によってルターに教皇無謬説を否定させ、ボヘミヤの改革者ヤン・フスの処刑は不当なものであったと主張させた。明らかにエックが優勢であったはずのこの討論会は、全く逆の効力を生んだ。ルターが教皇の権力に対して批判したことは人文主義者たちの中では好評であり、彼らはルターを自分たちの仲間だと考え、ルターはカリスマ的な存在にまでなるに至った。これはマクグラスの言葉を借りれば「建設的誤解」 であった。「ルターが人文主義そのものにいかなる関心を持ったという証拠も実在しない。彼は人文主義の成果を自分の目的のために利用しただけである。・・・ルターとその仲間たちは人文主義の原典批判と言語学的技術だけを使い、人文主義的態度には敵意をもちつづけたのである」。後に1518年ルターはハイデルベルク討論において、極端な反人文主義的であり反スコラ主義的神学を展開したのだった。人文主義者たちの「建設的な誤解」がルターを宗教改革の旗印にまで祭り上げたのだった。
大きな帝国自由都市ストラスブールの宗教改革運動は1520年代に各地で起こった改革運動の中でも政治的知的にも重要なもので、その指導者にはヴォルフガング・カピト(1478/72-1541年)、マテウス・ツェル(1477-1548年)、カスパル・ヘディオ(1494-1552年)、そしてマルティン・ブツァー(1491-1551年)などがいた。これらの人々は聖書に戻れというルターの呼びかけに呼応したが、彼らが抱く改革の幻はルターの信仰義認の教理の影響よりもエラスムスに負うところが大きく、教会の制度や道徳を変革することに関心があった。「ブツァーもルターが信仰義認の教理を強調することを知っていたが、ブツァーはこの教理を微妙に、しかし明確に修正した。それは神に受け入れられた後に道徳的に再生することの重要性を強調するためであった」 。
ライプツィヒ討論の後、ルターは大衆に対して影響力を持つようになるが、この影響力こそが教会の体制を変えるために不可欠なものと考えていた。1520年にルターは印刷媒体を使ってドイツ国民に直接訴えることを始めた。この年、矢継ぎ早に出版されたのが『ドイツのキリスト者貴族に与える書』『教会のバビロン捕囚』『キリスト者の自由』であった。ラテン語を用いると一般大衆を相手にしないことになるが、ドイツ語は改革の議論を民衆のものとすることができた。このルターの戦術はヨーロッパ全域で取り入れられた。 これに対する中世末期の民衆の反応は矛盾と逆説に満ちていた。宗教改革以前には、教会堂や祭壇の建立、聖画像の寄進、近隣の聖地教会への参詣などがブーム化していたのに、宗教改革が始まると、民衆は手のひらを返したようにこれらに敵対的になった。特に聖画像に対する敵意は激しかった。また聖画像破壊の支持者は必ずしも貧しい人々だけではなく、カトリック聖職者の現職にあった司祭や、市参事会員など裕福で権勢のある人々も見られた。そのような事情を解釈して歴史家の永田諒一は「近年の歴史研究者たちは、宗教改革直前の『信仰ブーム』と、宗教改革がはじまってからの聖像破壊は、実は同一の信仰熱意から発しているのではないかと考えはじめている。」 という。
つまりこれは、カトリック教会が聖画像の寄進や参詣を推奨するとそれに従い、今度は宗教改革者たちが聖画像は神の意志に反していると説くと、一転してそれに従ったという解釈である。民衆の行動の方向性は指導者の示唆や説教しだいでいくらでも変わりうるものであったことになる。
このような歴史的偶発事や政治力学、民衆の熱狂的恣意性の結果が、プロテスタンティズムの固有の要素や決定的要素とみなすことはできない。当時、中世教会の内部にも様々な改革案や計画があったのであり、歴史の激動期にあって実現したものがいくつかあったということである。
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