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ルターのintellectus
ルターにおいては「隠されたる神」に対する「知解」(intellectus)は、聞く信仰によって(ex auditu fidei)もたらされることになる。ローマ書三章一一節「悟りのある者はいない」についての講義で、ルターは次のように述べている。
「なぜなら、神の知恵は隠されていて、この世には知られていないからである。『ことばは肉体となっており』、また受肉した知恵、したがって隠された知恵は、ちょうどキリストが啓示によってのみ認識されるように、悟りによってのみ、わがものとすることができるのである。」
「知解」(intellectus)によってのみ「受肉した知恵」(sapientia incarnata)は「わがものとすることができる」というとき、ルターはintellectusを、独自の意味合いを持たせた神学用語として用いている。これに続く『ローマ書講義』「補遺」の冒頭において、ルターは「ここに語られているこの悟りとは信仰そのものであり、あるいは、見ることができないもの(invisibilia)・信じるうるものについての知識である。」 と説明している。つまりルターにおいては「見ることができないもの」(invisibilia)という形而上学的概念は、「受肉した知恵」(sapientia incarnata)と同一視されており、それをわがものとするための「知解」(intellectus)とは「信仰そのもの」であるとされている。このことは、ルターが信仰義認の教理を得た後、その神学的確信に立ってヴィッテンベルク大学で最後に講義した『第二回詩篇講義』(Operationes in Paslmos 1519-1521)の中で繰り返し語られている。
「ここでいう理解とは、哲学者たちが思い込んでいる理解ではなく、幸福においても不幸においても見えないものを見る事ができる信仰そのものである。それゆえ何を理解すべきかを彼は明言せず、絶対的に《他の言語と関わらずに》『理解せよ』と言う。というのは信仰が理解するものは、名も形ももたないからである。なぜなら目の前にある順境や逆境は、見えないものを信仰によって理解しないすべての人間を、完全に破壊するからである。というのはここで言う理解は信仰から来るからである。『あなたがたが信じないなら、理解しないであろう』(イザヤ七章九節)と言われているとおりである。そして信仰から来る理解とは、あの闇に入ることである。その闇の中に、人間の感覚、理性、精神、知性がとらえうる全てがのみこまれる。というのは信仰は魂を、みえない、語りえない、名付けえない、永遠の、考えることもできない神の言葉と結び付け、また同時に、すべての見えるものから切り離すからである。」(WA.5,107-108)
ルターがこのように「哲学者たち」というとき、決まって神学にアリストテレスを用いたスコラ神学者たちを指しているのであるが、その中でもルターは特にトマス・アクィナスを念頭に置いているのが常である。トマスの神の存在証明はキリスト教的な洞察というよりもアリストテレスの自然哲学の原理に基づき、「人間理性」(ratio humanae)が神認識に重要な価値をもっている。しかし「人間理性」が真理を探るためには、それのみでは不可能であることをトマスも認める。トマスが『神学大全』において「理性の確実性は知性より来るが、理性の必要性は知性の欠陥に基づく」(quod certitudo rationis est ex intellectu,sed necessitas rationis est ex defectu intellectus.) と述べるとき、トマスにとって「理性と知性とは異なった能力ではなくて、言わば、完全なものと不完全なものとの相違が、その両者の間に存在するのみ」 である。「理性」は神の「恩寵」(gratia)によって助け深められ「知性の欠陥」(defectu intellectus)は取りのけられ、不完全は完全へと高められる必要がある。「知性の欠陥」のためにこそ「理性の必要性」(necessitas rationis)があり、「理性」は神の「恩寵」により深められ「知性の欠陥」を除くのであるが、あくまでも「理性の確実性は知性より来る」(certitudo rationis est ex intellectu)のである。これに対してルターは「理解は信仰から来る」ということで、トマス的なintellectusを退け、カンタベリーのアンセルムスのテーゼ「理解するためにわたしは信じる」(credo ut intellegam)を対置している。しかし、単にアンセルムスのテーゼを持ちだすだけではない。
そもそもアンセルムスの「基本洞察は、信仰が理解に先行するのであるが、それでも信仰内容は合理的であることにあった」 。またアンセルムスにあっては、「信仰対象の認識の確証は、信仰対象それ自身に固有な根拠の承認において成立して」 おり、これはルターも同意するところである が、さらにこの客観的な信仰対象に固有な「必然」(nesessitas)を「理性」によって読み取ろうとするところに、アンセルムスの神学的な合理性がある。そのようにしてスコラ神学の伝統は、哲学的推論、自然神学、啓示神学に一連の合理性と連続性を認めるものであった。『神学大全』第1部第1問第8項のトマスの言葉にあるように「恩恵は自然を破壊せず、むしろこれを完成する」(gratia non tollit naturam, sed perficit.) のである。しかし、あくまでもルターの理解は「《他の言語と関わらずに》『理解せよ』」なのである。ルターのintellectusは、神学的な合理性を「完全に破壊する」ところに成り立つ。つまり、「闇の中に、人間の感覚、理性、精神、知性がとらえうる全てがのみこまれる」のである。よって、哲学的推論も自然神学も成立しない。ルターにおいて成立するのは、啓示神学のみであり、それも聖書のみ、十字架のみであり、総じて「闇」の中に「隠されたる神」の中に啓示されているものなのである。
ルターの初期の著作である『第一回詩篇講義』(1513-1515年)において、すでにこのようなintellectusについての理解がある。
「知解(intellectus)とは、聖書では哲学に反してというよりもむしろ逆に、能力よりはむしろ対象からその名称を得ている。なぜなら、知解とはキリストの意味の認識あるいは知識であり・・・異邦人には愚かさ、ユダヤ人にはつまずきであるキリストの十字架を知ることにほかならず、言いかえれば、神のみ子がわれらのために受肉し、十字架にかけられ、死して甦りたもうたことを理解することである・・・神のみわざは理解されるもの、換言すれば、理解力と信仰(intellectu et fide)によってのみ、見える事柄においてではなく、希望において知られるものである。ただ自分の志向するところに従ってキリストの十字架や教会の意味を追い求める者は、つまずかされること必然といわねばならない。なぜなら、十字架において人の見るところは、罰とこの世の生活の剥奪にすぎないからである。かくて、キリストの十字架は、このような人にとってはつまずきとなる。それゆえ、神の知恵がわれらにとって愚かさとならぬために真の悟りが必要である。」(WA.3,176)
ルターの十字架の神学にあっては「哲学に反してというよりもむしろ逆に」(contrario quam ill philosophia)、すべてのことが理解されていくことになる。なぜなら、intellectusは「異邦人には愚かさ、ユダヤ人にはつまずきであるキリストの十字架を知ることにほかならない」(nihil aliud nisi sapientia crucis Christi,que gentibus stultitia et Iudeis scandalum est,)からである。ルターにあって神啓示は受難と十字架のキリストであり、それもChristusをChristus crucifixusとしてのみ信仰することなのである。このようにしてルター神学にあってはintellectusだけにとどまらず、中世において重要な神学用語のほとんどすべてに独特の要素を加えてその意味自体を転換させようと試みる。これが最も明確な形で打ち出されたのが、「神の義」(iustitia Dei)であった。
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