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ルターのintellectus
ルターにおいては「隠されたる神」に対する「知解」(intellectus)は、聞く信仰によって(ex auditu fidei)もたらされることになる。ローマ書三章一一節「悟りのある者はいない」についての講義で、ルターは次のように述べている。
「なぜなら、神の知恵は隠されていて、この世には知られていないからである。『ことばは肉体となっており』、また受肉した知恵、したがって隠された知恵は、ちょうどキリストが啓示によってのみ認識されるように、悟りによってのみ、わがものとすることができるのである。」
「知解」(intellectus)によってのみ「受肉した知恵」(sapientia incarnata)は「わがものとすることができる」というとき、ルターはintellectusを、独自の意味合いを持たせた神学用語として用いている。これに続く『ローマ書講義』「補遺」の冒頭において、ルターは「ここに語られているこの悟りとは信仰そのものであり、あるいは、見ることができないもの(invisibilia)・信じるうるものについての知識である。」 と説明している。つまりルターにおいては「見ることができないもの」(invisibilia)という形而上学的概念は、「受肉した知恵」(sapientia incarnata)と同一視されており、それをわがものとするための「知解」(intellectus)とは「信仰そのもの」であるとされている。このことは、ルターが信仰義認の教理を得た後、その神学的確信に立ってヴィッテンベルク大学で最後に講義した『第二回詩篇講義』(Operationes in Paslmos 1519-1521)の中で繰り返し語られている。
「ここでいう理解とは、哲学者たちが思い込んでいる理解ではなく、幸福においても不幸においても見えないものを見る事ができる信仰そのものである。それゆえ何を理解すべきかを彼は明言せず、絶対的に《他の言語と関わらずに》『理解せよ』と言う。というのは信仰が理解するものは、名も形ももたないからである。なぜなら目の前にある順境や逆境は、見えないものを信仰によって理解しないすべての人間を、完全に破壊するからである。というのはここで言う理解は信仰から来るからである。『あなたがたが信じないなら、理解しないであろう』(イザヤ七章九節)と言われているとおりである。そして信仰から来る理解とは、あの闇に入ることである。その闇の中に、人間の感覚、理性、精神、知性がとらえうる全てがのみこまれる。というのは信仰は魂を、みえない、語りえない、名付けえない、永遠の、考えることもできない神の言葉と結び付け、また同時に、すべての見えるものから切り離すからである。」(WA.5,107-108)
ルターがこのように「哲学者たち」というとき、決まって神学にアリストテレスを用いたスコラ神学者たちを指しているのであるが、その中でもルターは特にトマス・アクィナスを念頭に置いているのが常である。トマスの神の存在証明はキリスト教的な洞察というよりもアリストテレスの自然哲学の原理に基づき、「人間理性」(ratio humanae)が神認識に重要な価値をもっている。しかし「人間理性」が真理を探るためには、それのみでは不可能であることをトマスも認める。トマスが『神学大全』において「理性の確実性は知性より来るが、理性の必要性は知性の欠陥に基づく」(quod certitudo rationis est ex intellectu,sed necessitas rationis est ex defectu intellectus.) と述べるとき、トマスにとって「理性と知性とは異なった能力ではなくて、言わば、完全なものと不完全なものとの相違が、その両者の間に存在するのみ」 である。「理性」は神の「恩寵」(gratia)によって助け深められ「知性の欠陥」(defectu intellectus)は取りのけられ、不完全は完全へと高められる必要がある。「知性の欠陥」のためにこそ「理性の必要性」(necessitas rationis)があり、「理性」は神の「恩寵」により深められ「知性の欠陥」を除くのであるが、あくまでも「理性の確実性は知性より来る」(certitudo rationis est ex intellectu)のである。これに対してルターは「理解は信仰から来る」ということで、トマス的なintellectusを退け、カンタベリーのアンセルムスのテーゼ「理解するためにわたしは信じる」(credo ut intellegam)を対置している。しかし、単にアンセルムスのテーゼを持ちだすだけではない。
そもそもアンセルムスの「基本洞察は、信仰が理解に先行するのであるが、それでも信仰内容は合理的であることにあった」 。またアンセルムスにあっては、「信仰対象の認識の確証は、信仰対象それ自身に固有な根拠の承認において成立して」 おり、これはルターも同意するところである が、さらにこの客観的な信仰対象に固有な「必然」(nesessitas)を「理性」によって読み取ろうとするところに、アンセルムスの神学的な合理性がある。そのようにしてスコラ神学の伝統は、哲学的推論、自然神学、啓示神学に一連の合理性と連続性を認めるものであった。『神学大全』第1部第1問第8項のトマスの言葉にあるように「恩恵は自然を破壊せず、むしろこれを完成する」(gratia non tollit naturam, sed perficit.) のである。しかし、あくまでもルターの理解は「《他の言語と関わらずに》『理解せよ』」なのである。ルターのintellectusは、神学的な合理性を「完全に破壊する」ところに成り立つ。つまり、「闇の中に、人間の感覚、理性、精神、知性がとらえうる全てがのみこまれる」のである。よって、哲学的推論も自然神学も成立しない。ルターにおいて成立するのは、啓示神学のみであり、それも聖書のみ、十字架のみであり、総じて「闇」の中に「隠されたる神」の中に啓示されているものなのである。
ルターの初期の著作である『第一回詩篇講義』(1513-1515年)において、すでにこのようなintellectusについての理解がある。
「知解(intellectus)とは、聖書では哲学に反してというよりもむしろ逆に、能力よりはむしろ対象からその名称を得ている。なぜなら、知解とはキリストの意味の認識あるいは知識であり・・・異邦人には愚かさ、ユダヤ人にはつまずきであるキリストの十字架を知ることにほかならず、言いかえれば、神のみ子がわれらのために受肉し、十字架にかけられ、死して甦りたもうたことを理解することである・・・神のみわざは理解されるもの、換言すれば、理解力と信仰(intellectu et fide)によってのみ、見える事柄においてではなく、希望において知られるものである。ただ自分の志向するところに従ってキリストの十字架や教会の意味を追い求める者は、つまずかされること必然といわねばならない。なぜなら、十字架において人の見るところは、罰とこの世の生活の剥奪にすぎないからである。かくて、キリストの十字架は、このような人にとってはつまずきとなる。それゆえ、神の知恵がわれらにとって愚かさとならぬために真の悟りが必要である。」(WA.3,176)
ルターの十字架の神学にあっては「哲学に反してというよりもむしろ逆に」(contrario quam ill philosophia)、すべてのことが理解されていくことになる。なぜなら、intellectusは「異邦人には愚かさ、ユダヤ人にはつまずきであるキリストの十字架を知ることにほかならない」(nihil aliud nisi sapientia crucis Christi,que gentibus stultitia et Iudeis scandalum est,)からである。ルターにあって神啓示は受難と十字架のキリストであり、それもChristusをChristus crucifixusとしてのみ信仰することなのである。このようにしてルター神学にあってはintellectusだけにとどまらず、中世において重要な神学用語のほとんどすべてに独特の要素を加えてその意味自体を転換させようと試みる。これが最も明確な形で打ち出されたのが、「神の義」(iustitia Dei)であった。
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2017年08月21日
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「信仰義認の教理」の受容過程
後にルターの信仰義認の教理が教理史的に重要なものと言われるようになったとしても、今日、別の角度からこの教理を見ていく必要がある。事実「ヴィッテンベルクの神学生の数はそれほど多くなく、ヴィッテンベルクはおそらくヨーロッパの大学のうちで〈重要でない〉大学のトップに位置していた」 のだった。つまり、「重要でない」大学においての神学部の教授科目の変更があったのだし、教会的にも社会的にも「重要でない」教理であったということである。これはプロテスタンティズムの起源を問う上でも問題とされるべきだし、今日ある信仰義認の教理の位置づけ自体を問い直さねばならない必要もでてくる。
ルターの信仰義認の教理は、後にルターの協力者であるフィリップ・メランヒトンによって受け継がれ、今日「法廷的義認」として知られている理論を展開することになった。アウグスティヌスにとって「罪人が義とされる」とき、メランヒトンにあっては罪人が「義と宣告される」。アウグスティヌスが義認をもたらす義を〈分け与えられた〉とするとき、メランヒトンにあっては〈転嫁された〉とする。メランヒトンは義と宣告される出来事と義とされる過程をはっきりと分けて、前者を義認と呼び、後者を聖化と呼んだ。しかしアウグスティヌスにとっては同じ事柄の二つの側面であったし、アウグスティヌスの時代以降もそうであった。メランヒトンの法廷的義認の考えは、アウグスティヌスから極端に逸脱したものであったといえる。この法廷的義認の考え方が、信仰義認の教理として知られるようになった。指摘すべきは法廷的義認がルターの思想をさらに発展したものであったということである。宗教改革の第一世代では「義認の教理」一つとっても多様な意見が存在していたが、ルター派教会や改革派教会などがそれぞれ内部での論争を経て次第にカルヴァンとメランヒトンの意見が優勢になっていった。後に1545年カトリック教会はトレント公会議を召集するが「ローマ・カトリック教会の決定的応答であるトレント公会議は、義認の性格についてのアウグスティヌスの見解を再確認し、メランヒトンの見解を非常に不適切だとして非難」 することになり、分裂は深まった。しかしトレント公会議は特にルターのものとして知られていたメランヒトンの法廷的義認に対して対抗し、また批判がなされたのだし、さらにカルヴァンの脅威については全く気づいていなかった。
1540年代から1550年代に宗教改革内で優勢となってきた義認のモデルは特にカルヴァンのものであった。カルヴァンは、信仰こそが神と人間を「神秘的一致」において結び付け、この一致は「二重の恩恵」を持っていると考えた。「一致」はまず直接的に人間を義認に導く。さらにこの一致のゆえに(義認のゆえではない)、再生を通してキリストのようになる過程をスタートする。ブツァーは義認が再生を起こすとするのに対して、カルヴァンはそれを「神秘的一致」の結果であるとしたのだった。
以上のように、プロテスタンティズムにおける重要な信仰義認の教理であっても、宗教改革者たちの考え方は異なっており、むしろ様々であった。
信仰義認の教理が受け入れられる過程をみると、多くの人々はこの教理を誤解していたようである。端的に言えば、当時、信仰義認の教理が支持されたのではなかった。「聖書に戻れ」というルターの呼びかけは道徳的なものとして理解されたのだし、聖書には神が喜ぶ「行動」について書いてあると大勢の人々は考えた。これは道徳主義に向かう方向であり、ルターが信仰義認の教理にあって意図したこととはまるで違っていた。実は、宗教改革を支持した人々は、必ずしも自分自身の立場を理解していたわけではなかった。事実、ルターは1528-29年にザクセンのルター派教会を訪問し、ほとんどの牧師と信徒たちがキリスト教の教えを知らないことがわかり衝撃を受け、キリスト教の一般的な知識を増すための策として『ドイツ信仰問答』を用意することとなった。 「当時の民衆に突きつけられていたのはその難解な神学理論ではなく、そこから演繹されるわかりやい行動であった。贖宥状の販売は中止すべきこと、聖画像の寄進や敬愛はやめること、修道士制もやめること、聖職者も結婚すべきことなどである。これらの行動課題を、宗教改革派は、当時確立の域に達していた印刷物メディアを用いて大々的に民衆に宣伝した」 のだった。
さらにルター自身においても批判されるべき点があった。ルターは自分の周りの状況をキリスト教教会全体の状況であると考えてしまった。中世における大学と学校の拡張は知的多様性を生んだが、その結果、神学的な意見と信頼できるカトリック教理との区別が困難であった。そのため当時は、個人的意見と公的政策が混同されていた。また教皇は、教会の公的な教えが何であるかを明確に打ち出せなかったし、それを守らせることはできなかった。「いみじくも歴史家たちが指摘しているように、ルターは中世の教会を完全に異端的教理に満ちた教会、あるいは新約聖書から完全に離れてしまった教会であるとみなしたが、それは真実ではなかった。そのことからルターの要求になぜヨーロッパ全体が呼応しなかったのかを理解できる」 。
ヴィッテンベルク内においても、カールシュタットはルターを妥協家とみなし、「ルターが神学的度胸に欠けるというカールシュタットの批判はその後プロテスタンティズム内の諸々の運動においても繰り返し共鳴者を見出すことになる」 。また同じくヴィッテンベルクのトマス・ミュンツァーは、聖書が正当化する社会行動および実践こそ改革であると考えた。しかしルターの慎重さは非聖書的であるよう思えた。ミュンツァーの思想は1525年の農民戦争で重要な役割を演じたが、ミンツァーを支持する民衆はルターよりも彼を選んだ。ミュンツァーはフランケンハウゼンの戦いで農民たちを指揮し、彼らは虐殺されミュンツァー自身は斬首刑となった。マクグラスは以上のことを評して次のようにいっている。「最も根本的なことは、彼らが非常に違っていたという事実である。単一のヴィッテンベルク計画があったのではないし、聖書の解釈と応用についても単一の方法があったのでもない。ルター個人の改革の幻が最終的には勝利したという事実も、歴史家の目には根本的に神学的必然ではなく、歴史的偶発事であって、権力闘争の力学と政治的駆け引きを反映していることに過ぎない」 。
これはルターを一躍有名にした1519年のライプツィヒ討論においてもそうであった。この公開討論会におけるルターの論敵インゴルシュタットの神学者ヨハン・エックは、巧みな弁論によってルターに教皇無謬説を否定させ、ボヘミヤの改革者ヤン・フスの処刑は不当なものであったと主張させた。明らかにエックが優勢であったはずのこの討論会は、全く逆の効力を生んだ。ルターが教皇の権力に対して批判したことは人文主義者たちの中では好評であり、彼らはルターを自分たちの仲間だと考え、ルターはカリスマ的な存在にまでなるに至った。これはマクグラスの言葉を借りれば「建設的誤解」 であった。「ルターが人文主義そのものにいかなる関心を持ったという証拠も実在しない。彼は人文主義の成果を自分の目的のために利用しただけである。・・・ルターとその仲間たちは人文主義の原典批判と言語学的技術だけを使い、人文主義的態度には敵意をもちつづけたのである」。後に1518年ルターはハイデルベルク討論において、極端な反人文主義的であり反スコラ主義的神学を展開したのだった。人文主義者たちの「建設的な誤解」がルターを宗教改革の旗印にまで祭り上げたのだった。
大きな帝国自由都市ストラスブールの宗教改革運動は1520年代に各地で起こった改革運動の中でも政治的知的にも重要なもので、その指導者にはヴォルフガング・カピト(1478/72-1541年)、マテウス・ツェル(1477-1548年)、カスパル・ヘディオ(1494-1552年)、そしてマルティン・ブツァー(1491-1551年)などがいた。これらの人々は聖書に戻れというルターの呼びかけに呼応したが、彼らが抱く改革の幻はルターの信仰義認の教理の影響よりもエラスムスに負うところが大きく、教会の制度や道徳を変革することに関心があった。「ブツァーもルターが信仰義認の教理を強調することを知っていたが、ブツァーはこの教理を微妙に、しかし明確に修正した。それは神に受け入れられた後に道徳的に再生することの重要性を強調するためであった」 。
ライプツィヒ討論の後、ルターは大衆に対して影響力を持つようになるが、この影響力こそが教会の体制を変えるために不可欠なものと考えていた。1520年にルターは印刷媒体を使ってドイツ国民に直接訴えることを始めた。この年、矢継ぎ早に出版されたのが『ドイツのキリスト者貴族に与える書』『教会のバビロン捕囚』『キリスト者の自由』であった。ラテン語を用いると一般大衆を相手にしないことになるが、ドイツ語は改革の議論を民衆のものとすることができた。このルターの戦術はヨーロッパ全域で取り入れられた。 これに対する中世末期の民衆の反応は矛盾と逆説に満ちていた。宗教改革以前には、教会堂や祭壇の建立、聖画像の寄進、近隣の聖地教会への参詣などがブーム化していたのに、宗教改革が始まると、民衆は手のひらを返したようにこれらに敵対的になった。特に聖画像に対する敵意は激しかった。また聖画像破壊の支持者は必ずしも貧しい人々だけではなく、カトリック聖職者の現職にあった司祭や、市参事会員など裕福で権勢のある人々も見られた。そのような事情を解釈して歴史家の永田諒一は「近年の歴史研究者たちは、宗教改革直前の『信仰ブーム』と、宗教改革がはじまってからの聖像破壊は、実は同一の信仰熱意から発しているのではないかと考えはじめている。」 という。
つまりこれは、カトリック教会が聖画像の寄進や参詣を推奨するとそれに従い、今度は宗教改革者たちが聖画像は神の意志に反していると説くと、一転してそれに従ったという解釈である。民衆の行動の方向性は指導者の示唆や説教しだいでいくらでも変わりうるものであったことになる。
このような歴史的偶発事や政治力学、民衆の熱狂的恣意性の結果が、プロテスタンティズムの固有の要素や決定的要素とみなすことはできない。当時、中世教会の内部にも様々な改革案や計画があったのであり、歴史の激動期にあって実現したものがいくつかあったということである。
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「新しい道」(via moderna)
スコラ主義時代の初期(およそ1200-およそ1350年)は実在論が支配的であり、主要な学派としてはトマス主義とスコトゥス主義であった。この2つの学派は宗教改革に与える直接的な影響はなかったが、後期スコラ主義(およそ1300-1500年)には2つのタイプの唯名論的神学が支配的であり、これは宗教改革に大きな影響を与えることとなった。この2つは「新しい道」(via moderna) と「新アウグスティヌス学派」(schola augustiniana moderna)である。これは「唯名論」と「アウグスティヌス主義」の衝突というものではなく、ともに「論理学と認識論においては唯名論的立場」をとり、「反実在論」であった。ただ「神学的立場は全く異なっていた」。それは「唯名論の多様性」というようなものではなく、実際には「新しい道」(via moderna) と「新アウグスティヌス学派」(schola augustiniana moderna)と今日呼ばれるようになった2つの学派が存在していたのであった。
唯名論的両学派はともに普遍概念の必要性を否定していたが、神学的にはほとんど一致していなかった。特にその違いは「新しい道」はペラギウス的であり、「新アウグスティヌス学派」はアウグスティヌス的であった。ここにいう「ペラギウス的」とは当時、ペラギウスの異端と重ねて用いた蔑称であり、人間の能力に対する極端な自信と、神に対する信頼に欠けていることを意味していた。ルターに大きな影響を与えたガブリエル・ビールのような神学者が「罪に抵抗し、正義に向かう能力」を肯定するのに対して、リミニのグレゴリウスは「そのような資力はすべて人間性の〈外〉に見出され」、「正義に向かう能力すらも神の業によって生まれ、人間の業によってではない。」と主張したのだった。ルターはリミニのグレゴリウスの系譜の中に整理されることがあるが、「これまでの追跡研究からは、ルターへの影響関係はいまだ判然としていない」 。というのもルターの初期の著作には「新アウグスティヌス学派」に結び付く急進的アウグスティヌス主義の痕跡はない 。ただ、ヴィッテンベルク大学はその教授陣の多くをアウグスティヌス会から採用する傾向があり、ヴィッテンベルクの宗教改革者たちがアウグスティヌスの反ペラギウス的著作を強調していることからも、アウグスティヌス会の学問的伝統が再発見されて、新しく活動力を与えたと考えられる。後に、一五一七年ルターは「新しい道」を代表する人物としてガブリエル・ビールを槍玉にあげて批判するに至る。しかしこの時、ルターは自分の周りの状況をキリスト教教会全体の状況であると考えてしまったことは非難されてしかるべきである。確かに、中世における大学と学校の拡張は知的多様性を生み、その結果、神学的な意見と信頼できるカトリック教理との区別が困難であった。そのため当時は、神学者の個人的意見と公的教えが混同されていた。また教皇は、教会の公的な教えが何であるかを明確に打ち出そうとも、それを守らせよともしなかった。「いみじくも歴史家たちが指摘しているように、ルターは中世の教会を完全に異端的教理に満ちた教会、あるいは新約聖書から完全に離れてしまった教会であるとみなしたが、それは真実ではなかった。そのことからルターの要求になぜヨーロッパ全体が呼応しなかったのかを理解できる」 。
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ルターが『九十五箇条の提題』として一般に知られている『贖宥の効力を明らかにするための討論』(Disputatis pro declaratione virtutis indulgentiarum.1517)を公にしたのは一五一七年一〇月であるが、その翌年一八年四月にルターの所属していたアウグスティノ修道会の教区会議が、ハイデルベルクにある修道院において開催された。この会議は三年に一度開かれる総会であったが、ここにおいてルターは前年における贖宥に関する論題によって引き起こされた事件について、何らかの形で弁明する必要があった。修道会のはからいによってこの会議そのものとは別に、ルターの立場と主張を表明する討論会が彼自身の司会のもとに持たれることとなった。討論の論題は、兄弟たちに対する混乱を招かないように贖宥の問題を避け、前年に提出した『スコラ神学反駁』討論において論じられた罪、自由意志、恩恵などについての討論に限られたものであり、当時の形式に従いルターの提出した二十八の神学的提題と一二の哲学的課題に基づいて進められた。この二十八の神学的提題と一二の哲学的課題とその他に神学的提題のための短い証明や討論に備えて準備されたルターの原稿もあり、それらをまとめたものがいわゆる『ハイデルベルク討論』(Disputatio Heidelbergae habita. 1518.)である。 ここにおいて、ルターは初めて要請された形で公に彼自身の神学的な主張と態度を問われることとなったのだった。ルターは『ハイデルベルク討論』において次のように述べている。
19. Non ille dingus theologus dicitur, qui invisibilia Dei per ea, quae facta sunt, intellect conspicit.(神の『見ることができないものが』『造られたものによって理解されると認める』者は、神学者と呼ばれるにふさわしくない〔ローマ一章二〇〕。)
20. Sed qui visibilia et posteriora Dei per passions et crucem conspecta intelligit.(だが神の見ることのできるものと神のうしろ姿〔出エジプト三三章二三〕とが、受難と十字架によって認められると理解する者は、神学者と呼ばれるにふさわしい。)
21. Theologus gloriae dicit malum bonum et bonum malum, Theologuscrucis dicit id quod res est.(提題二一 栄光の神学者は悪を善と言い、善を悪と言う。十字架の神学者はそれをあるがままに言う。)
「十字架の神学」とは、真の神学と神の認識(vera Theologia et cognitio Dei)を語るものとして、「栄光の神学」(theologia gloriae)に対立させて表現したことによる。その意味するところは、キリストの受難と十字架を通してしか神は認識することができないことを真の神学者は認め、それゆえに「十字架の神学者」(Theologus crucis)と呼ばれるということである。これに対して、受難と十字架なしに語る神の「栄光」(gloria)は実質のない虚しいものであって、そのような神学を語る者をルターは「栄光の神学者」(Theologus gloriae)と呼んでいる。ここにおいて、ルターは「十字架の神学」と「栄光の神学」を対立させる。ルター神学全体にもこの対立があり、この二つは常に逆の相を見せている。
キリストは神の「栄光」が剥ぎ取られた弱く辱められた神の人性における姿である。この姿は神の「うしろ姿」(posteriora)でしかない。ところが人間は神を真正面から見ることはできない。つまり、人間は神の「うしろ姿」であるキリストの受難と十字架を通してしか神を見ることができない。しかし、キリストは神の「うしろ姿」であるが、それでもキリストは神そのものである。それゆえ人間は神の「うしろ姿」であるキリストの受難と十字架を通してのみ、神を見ることができるのだという。その意味で、神は人の目の「栄光」からは「隠されたる神」(Deus absconditus)なのである。
ルターにとって神は常に生きた実在の神であり体験的に感得しうる神であるが、しかし神の超越性ゆえに直接的な「裸の神」(Deus nudus)は人間理性の限界を越えて存在し、むしろ人間の認識で知ることができるものは、神の「うしろ姿」(posteriora)でしかない。ここにおいて神の「見ることができないもの」(invisibilia)は、決して人の目に見える栄光によって、つまり「造られたものによって」(per ea, quaefacta sunt)は見ることができない。神にあって「見ることができるもの」(visibilia)とは神の「うしろ姿」(posteriora)でもあり、それは受難と十字架につけられたイエスであった。つまり、神は自らを啓示したとき、私たちにキリストの弱さと愚かさ、苦しみ、さらに死を通してご自身を啓示されたのであり、これを語る者がルターのいうところの「十字架の神学者」(Theologus crucis)なのである。神がご自身を受難と十字架によって示すゆえに、神は受難と十字架においてのみ見出されうる。ルターにとって、正しい神学は啓示の神学である。だから「十字架が焦点とならない教義学上の問題は考えられない。このような意味で、ルターの神学は、十字架の神学であろうとする。」 のである。これに対して、受難と十字架を通して語らぬところの「栄光の神学者」(Theologus gloriae)は、華麗な神学的体系をもった思弁であり、みせかけの栄光を語り、「悪を善と言い、善を悪と言う」(dicit malum bonum et bonum malum)間違いを犯しているのである。ルターにとって、神の啓示は受難と十字架を通して(per passions et crucem)かたられたのであり、ゆえにそれなくして神の「栄光」(gloria)を語ることはできないのである。
しかし、そうであれば人間に与えられた神の啓示は、神の「うしろ姿」でしかなく、また、啓示はあくまでも間接啓示でしかないことになる。ところがルターはそれを認めた上で神学を始めようとするのである。ルターにとって、これは神学の限界ではなく始まりである。
そこで「十字架の神学」の要点は以下のようになる。人間は決して直接的に神の顔を見ることはできない。見ることができるのは受難と十字架という「うしろ姿」なのである。ところがキリストは神の「うしろ姿」であるとしても、それでもキリストはまさしく神そのものである。そのためにキリストをただ彼の十字架を通してのみ見つめようとするのである。神は神の「うしろ姿」であるキリストに隠されている。ここからルターは彼自身の神認識に至るのである。
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