キリスト教神学のブログ

東京キリスト教神学研究所は、毎月第3水曜日に神学研究会を開催しています。キリスト教の基本的なクレドをしっかりと学びましょう。

福音仲介(聖書&メッセージ)

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全1ページ

[1]

ずっとヤコブ書を1章ずつ見てきました。
イメージ 2
 
ヤコブ5:1
聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫ってくる悲惨を思って泣き叫びなさい。
 
この御言葉は私に語られていた言葉として私は受け取っています。
「金持ちたち。」というのは、まだ私が主任牧師として立つ前です。
先代の主任牧師がいて、私はその下ですでに牧師として立っていたのですが、経済的にとても楽な牧会でした。
ある国の大統領の秘書をしていた人、病院の院長、ある大手スパーの創設者、旦那が医者のご婦人などが来ていて、たくさんの献金が集まっていたので、とにかく我が教会はこの上なくリッチでした。
でも、そういった教会が潰れて今の何も無い教会があるワケです。
あのとき、私に対してこの聖書の言葉が語られていたのだと思います。
 
今日、K兄がリンゴを持ってきてくださいました。
先週は柿を、水曜日はバナナを持ってきてくれました。
決して裕福ではないK兄は、なぜそのような捧げ物をしてくださるか。
神さまを愛して、教会の兄弟姉妹を愛して、その心を捧げてくださったのだと思います。
かつてリッチだったときには、この捧げ物の意味が分からなかったと思います。
余分な贅肉でダブついていた私にはこの捧げ物に託されたK兄の心が見えなかったと思います。
 
神さまが火で焼いてくださったとき、燃え残ったモノが今の教会です。
実は永遠につながるものだけが大切なんです。
多くの事は関係ないんです。
「あいつにこんな事をされた、あんな事をされた。」なんて、結構どうでもいいのです。
私は神学校に送ってもらいたくてある教会の門を叩きました。
何度も神学校の話を持ちかけたのですが、結局5年間も囲われてしまいました。
ショックだったのは、そこに5年いた後で、「教会の目標として7年後には神学校に神学生を送れる教会にしよう!」というビジョンを教会が掲げたときです。
「ええっ!?最初からオレを神学校に送る気がなかったのか!」と何とも言えない喪失感がありました。
その後に一カ月ほどしてその教会を出たのですが、その時に気づきました。
そんなことはどうでもいいのです。
キリストにあって一緒に笑ったこと、喜んだこと、同じ価値を共有できたこと、それだけが「神さまのぬくもり」として残りました。
そして、今、私を生かしているのは、その「ぬくもり」です。
そういったものは永遠につながっています。
皆さんが、天の御国へ行って、「お前のせいで、傷ついた!」とかやらないんですよ。
そんなことは、地上の金銀とともにこの世に置いて、天の御国では「あの時、一緒に賛美をしたね!」「持ってきてくれたあの柿やバナナは美味しかったね!」と語り合うのです。
そういったものは、永遠につながって天の御国へ持って行くことができます。
イメージ 1
ヤコブ5:11
見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。
 
聖書の釈義と離れて、申し訳ないのですが、私の想像をお許しください。
ヨブ記では、サタンの訴えに対して神さまはヨブに恐ろしい試練を与えてしまいます。
ヨブ記は人類で最初の『不条理文学』とも言われています。
確かに、不条理です。
私は勝手な想像をするのです。
もしかしたら、ヨブは「私の信仰を純金のようにしてください!」と祈ったのではないかと。
本気でそう祈ったから、神さまはそれに応答したのではないかと。
だったら分かるような気がするのです。
最初の韓国系の教会では多くの人が「私の信仰を純金ようにしてください!」と祈って、「うおお!!」と勢い、力の伝道をしていました。
でも、本当に信仰を純金にするのであれば、神社仏閣を破壊するほどの力の伝道では対立や憎しみしか生まれないのです。
神さまはそのような信仰を当然、火で焼くでしょう。
ちゃんと火で焼いて、ただ純粋に神さまの愛するものを愛し、人間にとって本当に大切なものは何かを知って、その人自身が神にあって純金になるように、余分な不純物を炉で精錬してくださるでしょう。
そして大きな者の大きな声ではなく、小さき者の声なき声を聞けるようにしてくださるでしょう。
永遠につながるものだけが真実なものとして私たちに残るんです。
そして、それに気づくと、実に、本当に人間にとって大切なもの、私たちを本当の意味で生かしているモノは何かに気づきます。
 
最後にヤコブ書は祈りについて書かれています。
 
ヤコブ5:15−16
信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は許されます。ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。
 
うちの教会に欠けているのは祈りです。
兄弟姉妹のために祈り合う祈りです。
ちなみに、私が祈っても全然ダメです。
「牧師が祈るとその祈りは効く」というこの世の肉的な発想が一般にあります。
だいたい、牧師なんて、その教会で一番デカイ存在でしかないのです。
神さまは最も小さな羊の祈りを聞かれます。
牧師はその反対です。
マタイ17章には「からし種ほどの信仰があれば、山をも動く」とあります。
からし種の信仰というのが、最も小さい者へ向けられた最も小さい者の信仰であれは、よく理解できます。
神さまは、一匹の羊を助けるためであれば、山の一つや二つ、いつだって動かします。
日本をスペインのイベリヤ半島の先にくっつけることだって、されるでしょう。
一匹の羊を救うためになら。
でも、デカイ人間がいくら祈っても、山はビクともしません。
山を動かすほどの祈りのキーワードは「一匹の羊」です。
 
 
福音に生きる
 
<はじめに>
エペソは古代地中海の大商業都市です。
パウロは第二次(使徒18:19-21)と第三次伝道旅行(使徒19章)にてエペソ教会に滞在しました。
パウロが最も長く滞在した教会はこのエペソ教会です。
ここにはいかに教会がキリストにあって歩むべきかが書かれています。
エペソ書の1章から3章までは、比較的に福音を知ることをテーマに書かれています。
神を知るための知恵と啓示の御霊によって、また神の全能の働きによって、私たち信じるものが豊かに知ることができるようにと願っています。
これに対して、4章以降は私たちがいかに生きるべきかを豊かに語っています。
私たちの教会は、マタイ18章の「一匹の羊」の教えをとおして、弱さ、貧しさ、低さ、小ささから福音を教えられてきました。
ここからは、福音に生きる(エペソ4章)を通して、成長していくことを願います。
 
<召しにふさわしく> エペソ4:1−16
エペソ4:1
さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。
 
「召されたあなたがたは」というのは、神さまによって救われた信仰者のことです。
召した方は神さまであって、ただ単に召したのではありません。
エペソ2:10には「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」とあります。
つまり、私たちはみな個性ある「神の作品」であり、その人でなければ語れない福音があります。
その福音を語って行くことが私たちの召しであり務めです。
パウロはエペソ3:8−10において次のように語っています。
 
エペソ3:8−11
すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現が何であるかを、明らかにするためです。これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた神の永遠のご計画によることです。
 
パウロこそ、自分自身の召命が何であるかをよく知っていました。
私たちにも召しが与えられています。
パウロは「その召しにふさわしく歩みなさい。」と言っているのです。
神の召しを知らない人は、ふさわしく歩むことなどできません。
神の素晴らしさや福音の奥深さを知らない人は、ふさわしい歩みなどできません。
 
<ふさわしく歩む>
エペソ4:2−3
謙遜と柔和の限りをつくし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。
 
どのように召しにふさわしく歩むかをパウロは語っています。
パウロは「御霊の一致」を求めます。
この「一致」というのは、人間的な一致ではありません。
私たちが同じ御霊を持つ者として「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ」であり、「父なる神は一つ」であるところの「一致」です。
パウロは「謙遜」「柔和」「寛容」「愛」「平和」を挙げています。
もちろんこれは、ガラテヤ5章22−23節にある御霊の実です。
御霊とは、御霊の実そのものの方です。
そのような方を拒絶しておいて、「聖霊さま、来てください!」というのは酷い矛盾です。
 
ガラテヤ6:4
だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもなるかのように思うなら、自分を欺いているのです。おのおの自分の行いをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることはないでしょう。
 
私たちに誇れるものなどありません。
他者を裁く資格すらもありません。
自分がどれほどダメで、偽善で、卑劣でもあるかを知るならば、他者を裁くことはしません。
むしろ柔和を身につけ、自分のダメさ加減を知るゆえに、他者の弱さに対して寛容になれます。
人は裁かれると思うと緊張します。
しかし、人の弱さと痛みをわが身の事として知っている人間には、安心します。
また、一つであることについては、私たちは神が「一つ」であるゆえに、私たちもまた「一つ」となることが大前提です。

<成長する>
エペソ4:12−13
それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全なおとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
 
私たちが一致するためには、成長していく必要があります。
「私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みが与えられました。」(7)とパウロはいっています。
これは能力の事ではなく、むしろキリストにある働きと関係しています(11節参照)。
とにかくキリストにあって成長が必要です。
 
エペソ4:16
キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。
私たちは、キリストの体として大切な存在です。

私にとって兄弟姉妹が大切なように、私自身も兄弟姉妹にとって大切な存在であることを知ります。
これは愛のうちに建てられることなくしてありえないし、また私たちの歩みです。
キリスト教会はすぐに別の方向に流されます。
ムーブメントに乗ることが、他教会へのアピールであったり、最先端にいる自覚だったりします。
しかし、人間にとって本当に大切なことは、しっかりと根を張り、福音の土壌から水と栄養を吸収し、またたくさんの光を浴びることによって、幹を太くし、実を成らせることです。
これは派手なアクションを伴わない、地味な作業かもしれません。
しかし、人間にとって本当に大切なことは何かを教えます。
私たちは何かすごいことをすると、人々から認められ、価値あるものと見なされ、認められると考えてしまいます。
しかし、人間の命にとって本当に大切なことは、子供の無邪気さやちょっとした語りかけ、労わりや手助けであったりします。
私たちが救われてきたのは、何か立派な人々による立派な行いによってではなく、小さな隣人の存在でした。
この小さな隣人との間に愛を置くことが、福音の実践です。
イエスさまは繰り返しパウロを通してこのことを語っています。

<異邦人の歩みから離れること> エペソ4:17−32
エペソ4:17−20
そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行いをむさぼるようになっています。しかし、あなたがたはキリストを、このようには学びませんでした。
 
「異邦人」とはここでは神を知らない人々のことを言っています。
神を知らない者にとって、召しにふさわしく歩むことなど関係ありません。
「知性において暗く」なれば、「かたくなな心」となり、「神のいのちから遠くに離れて」いきます。
イエスさまは「互いに愛し合うこと」を繰り返し語っています。
私たちは福音を実践する中で体験し、自分たちのものとしていきましょう。
実践のともなわない御言葉とはなんでしょうか。
また、福音に生きんとするからこそ、御言葉が必要になってきます。
キリストが愛を繰り返し語っているのに、キリスト者は「リバイバル!」と叫んで猛々しいのです。
しかし、私たちは「キリストを、このようには学びませんでした」。
どのように学んだかと言えば、聖霊が「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」であるということです。
親切にして、心の優しい人となり、そして赦し合うこと、これがキリスト者の歩むべき道です。
この時代にあって、本当の意味で福音宣教を成功させる道はただ一つです。
それは私たち自身が徹底して福音に生きることを持ってです。
福音に生き、そこで体験し、私たち自身の経験そのものとなることで培われた福音を語るのです。
そのために私たちが学ぶべきことがエペソ4:25−29に書かれています。
私たちは福音に生きることを始めます。
 
<聖霊を悲しませない>
エペソ4:30−32
神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。
 
神の喜びに生きることが、私たちの生き方です。
聖霊は、御霊の実である聖霊に従う時に私たちの内なる人を強め、力強く働いて下さいます。
聖霊を拒絶して悲しませつつ、「聖霊さま、満たして下さい!」という古い人は終わりです。

全1ページ

[1]


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!
ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事