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教会のカルト化・異端問題

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日本のプロテスタント教会の危機 〜エリヤハウスの虚偽の教え「家系の罪」
 
一、エリヤハウスのいう「家系の罪」の間違った教え
 
1、エリヤハウスの教えの影響
 
 「家系の罪」とは、「先祖の罪」「先祖の呪い」という虚偽の教義として近年における霊的ムーブメントの中に見られるものですが、それは自分の家系の中に流れる先祖の罪や呪いの存在を語ることで、そのように家系に流れる罪を悔い改めなければその罪が自分にも及ぶことを教えるものです。また、それは生物学的な意味での「遺伝」現象を通しても、私たちに受け継がれるのだと語ります。
 今日においてはfacebookやblogなどのネット配信を通して、エリヤハウスの学びを受けた人々の多くが先祖の罪と呪いに対する恐怖から「家系の罪を断ち切る」という悔い改めの祈りをしていることがわかります。
この虚偽の教義の恐ろしさは、それがキリスト教系のカルト組織である統一協会の教義とほぼ同じであることです。これはキリスト教会がずっと避けてきた教えであるにも関わらず、エリヤハウスは統一協会の教義を知ってか知らずかキリスト教会に持ち込んでいるのです。
 本来、何らかの形でキリスト教神学の教え全体を学んだり組織神学の手ほどきを受けたりした者であれば、このような教えが間違ったものであることは容易に理解できるはずなのです.。ところが、聖書神学のみで、体系的な神学が抜けていると、ある権威者からの偏った教義理解に疑問を持つことがむずかしくなってきます。
 エリヤハウスの教えは、すくなくとも牧師や教会の教職者であれば決して騙されないはずの基礎的な部分での間違いです。間違っているのを知ってそれを利用しているか、もしくは神学の基礎を知らないかのどちらかです。この虚偽の教えで統一協会が猛威をふるったのですから、これに警戒しつつキリスト教会はむしろちゃんとした教えを語る段階に来ているはずです。
 余計な心配かもしれないのですが、この学びを導入した教会はいまさら引っ込みがつかないのではないかという懸念があります。夫婦の割引でもペアで14万円という高額なお金を受講料としているのですから、エリヤハウスを導入した教会には受講者一人につきいくらかのリペイがあるのでしょう。そうなれば、教会経済的な都合もあって市場がすでにできてしまっているのかもしれません。市場ができれば、そこで生計をまかなう人がでてきます。ここまで浸透してしまったエリヤハウスの学びを完全否定したら、エリヤハウスを導入した教会の経済もプライドも潰しかねません。そこで、エリヤハウスには早急に、虚偽の教えを何とかして良い部分だけを残してくださることを願います。
 
2、根拠となる聖書箇所の論議
 
 このような虚偽の教えは、たいてい旧約聖書の次の4つの聖書個所に由来します。

①出エジプト記20:5節
 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、

②出エジプト記34:7
 恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」

③民数記14:18
 『主は怒るのにおそく、恵み豊かである。咎とそむきを赦すが、罰すべき者は必ず罰して、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす。」と。

④申命記5:9
 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
 
 この聖書個所については、ウイリアム・ウッド氏とパスカル・ズィヴィー氏が『霊の戦い 虚構と真実』(いのちのことば社)の第2章において、そのような虚偽の教義を批判しています。
以下、しばらくは『霊の戦い 虚構と真実』を参考に、この統一協会とエリヤハウスの間違った教えに反論します。
 エゼキエル書の中でエゼキエルは「先祖の罪から呪われる」という教えに対する非難と警告を発しています。
 
エゼキエル18:1−3
 次のような主のことばが私にあった。「あなたがたは、イスラエルの地について、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く』という、このことわざをくり返し言っているが、いったいどうしたことか。わたしは誓って言う。―神である主の御告げ―あなたがたはこのことわざを、イスラエルで、もう決して用いないようになる。
 
 イスラエルの民は「父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く」と言っていたのです。その意味は「父親が酸いぶどうを食べたせいで、そのあまりの酸い味に子どもの歯が浮いた。」ということです。そのような事があるはずがありません。ところが、イスラエルの民は「父親の罪で子が呪われた。」と言っていたということです。これに対してエゼキエルはそのような事が決して言われないようになるとして、次のようにハッキリと語りました。
 
エゼキエル18:19−20
 あなたがたは、『なぜ、その子は父の咎の罰を負わなくてよいのか』と言う。その子は、公義と正義とを行い、わたしのすべてのおきてを守り行ったので、必ず生きる。罪を犯した者は、その者が死に、子は父の咎について負いめがなく、父も子の咎について負いめがない。正しい者の義はその者に帰し、悪者の悪はその者に帰する。
 
エゼキエルは「先祖の罪から呪われる」という考え方に対して警告を与え、ハッキリとNOを突きつけたのでした。エレミヤも次のように言っています。
 
エレミヤ31:29−30
その日には、彼らはもう、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く』とは言わない。人はそれぞれ自分の咎のために死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。
 
申命記にはエリヤハウスと統一協会の教えの間違いを明記しています。
 
申命記24:16
父親が子どものために殺されてはならない。子どもが父親のために殺されてはならない。人が殺されるのは、自分の罪のためでなければならない。
 
エゼキエルやエレミヤが偽預言者や間違った教えを奉じる人たちに警告したことは、モーセの時代からちゃんと警告されていたのです。
以上が、ウイリアム・ウッド、パスカル・ズィヴィー共著『霊の戦い 虚構と真実』(いのちのことば社)の第2章を参考にしたものですが、この後にもウッド氏とズィヴィー氏は「罪」と「咎」についての詳細な検証をしています。ぜひ『霊の戦い 虚構と真実』(いのちのことば社)をご一読ください。
 
二、エリヤハウスの「家系の罪」 論駁
 
さて、統一協会やエリヤハウスの教える「家系の罪」の教義がいかに陳腐なものであるかを私なりの論述でまとめます。

1、エゼキエル18章
 
 まずエゼキエルの18章に戻りましょう。イスラエルの民は捕囚について自分たちの先祖の不義ゆえに自分が苦しんでいると考えて、その責任を先祖たちに帰そうとしていたのです(18:2)。父親が「酸いぶどう」を食べたのに、なぜ食べていない子供の「歯が浮く」ことがあるでしょうか、あるはずがありません。罪というのは遺伝するのでも、血統によるものでも、前世のカルマでもないのです。そのようなことを聖書は完全に否定しているのです。アウグスティヌスの原罪思想が間違って理解されたために、罪が遺伝するなどというまったく聖書とは異なる教えが紛れ込んでいるのを見ます。イスラエルの民がバビロン捕囚の原因を先祖たちの罪のせいにしているとき、自分たちが先祖よりもなお悪いという事実を棚上げにしているだけでした。先祖たちが積み上げて来た不義の土台に乗っかっているのです。先例があればそれに乗っかる人たちが後に続きます。だから悪の前例は3代、4代に及ぶのです。罪が遺伝しているのではありません。彼らの罪は、先祖たちの罪の土台にあるのか、その土台に乗っかっている人にあるのか。もちろん、その先祖たちの罪の土台の上に平気で乗っかっているその人に罪はあります。先祖の土台に乗っかるならばそれが罪であって、その人は罪の土台をつくっている先祖よりもなお悪いのです。だから、その土台から降りよ!と神さまは繰り返し語っているのです。悔い改めはエリヤハウスがいうように、家系に流れる罪を断ち切るというようなものではなく、先祖たちの築いた土台から降りて、本来の位置に立てということなのです。
 
2、ナンセンスな「家系の罪」

エリヤハウスのテキスト『祈りのミニストリー』(基礎課程Ⅰ前期)p.157の「家系の罪からいやされるために」において、テキストは次の事を勧めています。
 
家族の歴史をたどり、明らかに繰り返されているパターンを見つける。
一、家系図を書く
一、成育歴を用いる。
一、聖霊による悟りを求める。
 
 この教えが、統一協会とエリヤハウスでほとんど同じで、また独自の教義をつくりあげる中心的な役割を担っていることに驚かされます。
 内田樹氏が『寝ながら学べる構造主義』(文藝春秋)のp.82-83において、おもしろい記述しています。この理論は、「家系の罪」というものがいかにナンセンスであるかを教えてくれます。
 少々引用は長くなりますが、重要なのでここだけは読んでください。
 
 自分が「誰の子孫であるか」ということは、実はずいぶん恣意的な決定です。というのは、私には四人の祖父母がいるわけなのに(内田、河合の他に服部、榎本の四家があります)、私はそれら四人の祖父母のうち三人を除去し、一人(内田家の祖父)だけを父祖に指名しているからです。その父祖にも、当然母親がいるわけですが、排除された曾祖母については、もう私はその旧姓さえ知りません。
 n代遡ると、私たちには二のn乗数の「先祖」がいるわけです。ですから、そのうちの一人の姓を名乗り、「・・・家の末裔」を称するということは、二のn乗マイナス一人の祖先の姓を忘却の彼方に葬り去ることに同意した、ということを意味しています。
 同じように、私は自分を「純血日本人」であるというふうに思っていますし、他の人からもそのような扱いを受けています。しかし、何代か遡れば、私の祖先の中には間違いなく外国人や日本国内の少数民族が含まれていたはずです。私がある祖先をおのれの「直系」として選択し、「日本人」としての「エスニック・アイデンティティ」を奉じているということは、言い換えれば、膨大な数の血縁者を私の系統から組織的に「排除」したということに他なりません。
 
 系図というのは、そんなものです。もちろん、旧約聖書において系図を見て行くことはより良い理解になることはいうまでもありません。それは信仰における一つの系統をたどる物語をみる必要があるからです。しかし、これと「家系の罪」のいう「家系」を一緒にすることはできません。 
「家系の罪」の教義の土台は、旧約聖書学で教えるところの「系図」のようなものとは異なり、私たちが日常抱いている偏見の上に成立しています。実にいい加減なものです。
 たとえば、私にも父と母の2人がいて、父にも父と母の2人、母にも父と母の2人がいます。一代遡るごとに2の2乗をしていくことになるのですから、2の2乗で4人、次が8人、16人、32人、64人、128人、256人、512人、1024人となり、すぐに1000人を越えます。家系というものは、それを一切無視して一つの系だけを選びとっているのです。
日本人の起源すら、邪馬台国や大和朝廷といったものを経由しているかに言われていますが、彼らが日本列島を西から上ってきている間に、東の方には誰もいなかったかといえばそうではありません。ちゃんと邪馬台国や大和朝廷とはまるで関係ない日本人が普通にいました。その数は、大和朝廷と関係する少数の人々よりも圧倒的に多数のはずです。ところが、日本人の起源といえば大多数の日本人を無視して、大和朝廷が出てきてしまうのです。「家系」をいうものは、その人間がいかに自分のより好みの選択をしているだけであるか、少し考えれば分かってしまいます。つまり「家系の罪」の教義は私ちが知らずと主張している偏見を土台としたいい加減なドグマなのです。
 
3、罪は遺伝するか

 罪は遺伝しません。原罪(peccatum originate)は遺伝的なものとして理解されることがあるのですが、これについては神学的な理解が必要です。そもそも「原罪」という言葉は聖書にありません。またそれは時に便宜的に「遺伝的な罪」と表現さえることもありました。プロテスタント教会が反発するトリエント公会議において「遺伝」の用語が原罪理解に使用されたのですが、それは生物学的な意味ではありません。それはもっと人間論的・存在論的な意味で受け継いだものとしての意味です。確かに、アウグスティヌスは原罪について生物学的な生殖からの表現を用いているのですが、教会は慎重にそれを退けてきました。そもそもアウグスティヌスの時代に語っている「遺伝」と私たちの時代のミクロ的視点をもつ生物学的な<遺伝>を一緒にすることはできません。「遺伝」という言葉自体で表現したいものはまるで違ってきているはずで、そこには時代考証が必要なのです。 
 原罪というのは、今ある私たちの如何ともしがたい罪の様相の元をたどった時に、人類の祖であるアダムとエバの事件にまでさかのぼって原因を見出すところの帰納的な思想です。人間存在の本質を歪めてしまった出来事をアダムとエバに起源に見出すところに「原罪」の理解はあるのであって、これを頭から「原罪がある」と言って演繹的に適用して他の法則を見出すものではないのです。健全なキリスト教神学は、ある教理の理解について限界を限界として、そのアウトラインを明確にすることでそれ以上発展させずに受け取ることも教えるのです。
 カール・ラーナーはその著書『キリスト教とは何か』において以下のようにいいます。
 
「アダム」という個人、もしくは最初の人間集団のないした行為が、われわれにもその結果を及ぼし、いわば生物学的にわれわれに継承されるという、そのような思想は、原罪に関するキリスト教の教義と全く関係ない(p.146.)
 
「原罪」とは、決して最初の人間のなした行為の倫理的な形質がわれわれに伝えられる、ということではない。神が法的な意味で罪過を課すのでも、また何らかの形の生物学的遺伝によってそうなるのでもない。(p.148.)
 
 キリスト教会の正統教理は「罪は遺伝しない。」です。「原罪は遺伝する」で検索すると、統一協会のサイトばかりがでてきます。
 
4、福音的理解

ヨハネの福音書9:1−3
またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです
 
 弟子たちが、生まれつきの盲人に対して「だれが罪を犯した」ために彼が盲目に生れついたかを尋ねました。するとイエスさまは、この人でもなく彼の両親でもなく「神のわざがこの人に現れるため」だといいます。「親の罪だ!」とか「家系の罪だ!」とかではなく、「カルマだ!」とか「因果律だ!」とかでもなく、「神のわざがこの人に現れるため」と言うのです。つまり、もうそんなレベルの話とは神学が違うのだということです。福音というのは、そういったものとはまったく別次元の問題なのです。キリスト教の福音を前に、統一協会やエリヤハウスの教義はあまりにも俗物的なもので、決してこのようなものを純粋な福音に混入させてはならないのです。
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プロテスタント教会における霊的な混乱は、「聖書的な教え」と称してもたらされる間違った教えに原因があります。
その意味でも、プロテスタント教会の弱点は「聖書的な教え」というフレーズです。
「聖書的」という言葉を使えば、プロテスタント教会のフィルターは意外にも簡単にすり抜けてしまえるのです。
聖書釈義を第一とするプロテスタント教会にとっては、意外なる盲点です。 
そのような「聖書的な教え」と称する間違った教えは、聖書解釈が許容せねばならない「微妙な幅」を最大限に活かして、自分の都合のよい教えを刷り込みます。
そこに斬新さや目を見張る刺激を与えることができれば、それは聖書が許す魅力的な教えに見えるようです。
 
エリヤハウスのテキスト『祈りのミニストリー』基礎課程1前期 P153−163において、『家系の罪』についての教えがあります。
問題に思えるところは、下線を入れます。
 
家系の罪についてのテキストの解説は以下の通りです。
「祈りのミニストリーをする中で、その人個人に関しては、ありとあらゆる罪を取り扱ったものに関わらず、依然その人やその人の家族に多くの問題に苦しんでいる、ということがあります。その場合、問題はその人個人としての罪や罪深い性質からでなく、家系を通して流れている場合があります。これを、家系の罪といいます。」(p153)
 
テキストでは『家系の罪』の学びに次のように受講者に問いかけます(p153)。
「あなたは、家族から受け継いだ特徴はありますか?お母さんの目や、お父さんの歩き方、あるいは遺伝性の疾患、また才能や賜物などは?」
 
エリヤハウスは「家系を通しての影響に苦しむ大勢のクリスチャンのためにミニストリーを行っている。」(p154)として、ミニストリーの目的を明らかにしています。
 
また『家系の罪』の定義を「罪の結果と影響が後に続く世代に流れること」として次のように教えます。
「・この原因はもしかすると・・・
―隠している罪、あるいは気づいていない罪。
告白されていない罪によって汚された血筋。
―神との歩みにおける他の多くのこともそうであるように、家系の罪からの解放もプロセス(課程)である。」
 
家系の罪の例として以下のものがあげられています(p156)
「親族全体に起こる問題でよくあるものは・・・
・女性が父親によって性的悪戯を受ける。
・アルコール依存症
・離婚
・悲劇的な病気と若死
・流産の繰り返しや不妊
・経済的困難や事業の失敗
・オカルトへの関わり」
 
先祖によって蒔かれた種を「祝福」、あるいは「害」として刈り取る3つの方法(p155)
1、遺伝  2、模範  3、神の法則
 
テキストは「家系の罪から癒されるために」ということで「家系図を書く」(p157)ということも示唆しています。。
かつて、私が統一統一協会の施設にもぐって学びを受けていたとき、施設の所長はしきりに家系図を書くことを勧めてきました。
キリスト教会で統一協会と同じような発想を採用しようというわけです。
 
このようなオカシナ教えに夫婦で14万円も払ったという報告を聞きました。
私が見る限り14万円の価値はありません。
また、ある信仰者が私の教会を訪ねて来た時、自分の不幸を嘆いて言いました。
「どうして私に先祖の呪いが来るの?なぜお姉さんでなくて、私に先祖の罪が集まるの?
でも、それを私の代で断ち切らないといけない。それが私に与えられた神の使命なんですよね?」
この問いを受けて、私は何を言っているのかサッパリ理解できませんでした。
しかし、しばらくして彼女の語っていたことが「家系の罪」という間違った教えから来ていることに気づきました。
 
『家系の罪』という発想は、おおむね「原罪思想」の間違った理解が背景にあるのではないかと思います。
「原罪」とは、今日の私たちの罪の元をたどった時、人間存在の根本を変質してしまった根源的な出来事をアダムとエバの事件に見るものです。
要は、私たち人間は人間として生まれるとき、否応なしに罪の世のなで罪に汚染されずには生きられず、生まれながらに罪の中にあるところの自覚から出発して、その原因を人間の堕落の最初にまでさかのぼって見るのです。
それ以上に、家系図を書いたり、先祖たちの罪の犯した罪の清算をせねばならないとなってくると、どこまでもオカシナことになっていきます。
キリスト教神学はいたずらに「原罪思想」を展開するのではなく、その限界とアウトラインを明確にしていくことこそ必要です。
 
エリヤハウスが依拠する聖書の言葉
申命記5:9、出エジプト20:5「あなたの神、主であるわたしは、ねがむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い・・・」
出エジプト34:7「父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」
レビ26:39「あなたがたのうちで生き残る者も、あなたがたの敵の地で自分の咎のために朽ち果てる。さらに、その先祖たちの咎のために朽ち果てる。」
民数記14:18「 『主は怒るのにおそく、恵み豊かである。咎とそむきを赦すが、罰すべき者は必ず罰して、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす。」
 
これらの御言葉はみな「罪」ではなく「咎」について語っています。
イスラエルの民の中には、バビロン捕囚のときも、自らの不幸を先祖たちの罪のせいにしている者がいました。
しかし、先祖たちの「咎」という土台が悪いのか、その「咎」(=土台)に乗っかっている本人が悪いのか。
神さまはその土台から降りよ!と言っているのです。
神さまは先祖たちの土台に乗っかっていることを「罪」として叱責しているのであって、まさか土台が遺伝しているといっているはずがありません。
 
アウグスティヌスにおいては生物学的な遺伝の要素にからめて「原罪」を教えています。
そのために、かつて「原罪」を「遺伝的罪」と便宜的に表現していたこともあります。
しかし、そもそも「罪」とは、神への反逆であり、目に見えないもっと霊的なものです。
原罪思想が明確に教会の理解として表現されたのはカトリック教会の「トリエント公会議」ですが、その「トリエント公会議」においても「遺伝的罪」との表現されているのですが、カトリック教会が「生物学的」な意味として理解したということではありません。
それは「人間論的」もしくは「存在論的」な意味での表現と理解されています。
 
ヨハネ9章をごらんください。
生まれつきの盲人に対して、弟子たちがイエスさまに問います。
「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」(2)
イエスさまは答えて言われました。
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」(3)
イエスさまは、親の罪とか先祖の罪とかではなく、カルマだとか因果律だとかではなく、「神のわざがこの人に現れるため」と言うのです。
つまり、もうそんなレベルの話とは神学が違うのだということです。
まったく別次元の問題なのです。
 
『家系の罪』についての私の論駁は以下の記事でしているのでご覧ください。
http://blogs.yahoo.co.jp/theology_hp/54938256.html (← とくにこちらで詳しく反論しています。)
 

 
 
 
 
 
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浅見雅一、安延苑 共著 『韓国とキリスト教』 中公新書
 
教会のカルト化問題で働かれている方から薦められたことがあったので、『韓国とキリスト教』を購入しました。
アマゾンの古本を利用したのですが、書斎の本棚にもかつてBOOK・OFFで購入したものがありました。
韓国のキリスト教を知る上でとてもよい資料です。
このテキストを読んで、私の内にある疑問でかなり納得できるものがありました。
韓国のキリスト教が私には独特の体質に根差しているもので、カルト化教会を多く生み出している温床となっているのではないかという疑問です。
しかし、韓国のキリスト教に対してちゃんとした理解がなければ、誤解はさらに深まってしまいます。
やはり、異端問題やカルト問題を扱うならば、より幅広い理解とキリスト教文化に対する理解も深めねばなりません。
その意味でも、『韓国とキリスト教』は私にとって、よき刺激になりました。
 
また、カルトおよびカルト化問題で失墜したキリスト教会に対する信頼の回復のためにも、韓国のキリスト教が持つ問題をある程度認識したうえで対処していく必要があります。
 
韓国のキリスト教会、とりわけ後述する通りプロテスタント教会は、その大半が「カルト的」あるいは「異端的」教会なのではないかと思い込んでいる日本人は少なくないであろう。韓国の実体が説明されていないのであるから無理もないことである。(『韓国とキリスト教』はしがき)
 
実は、上記のように私自身、韓国のキリスト教会を少しずつ疑うようになっていました。
 
韓国ではプロテスタントを中心に多くのキリスト教団が先を争うように海外宣教を行っているが、この事件のように言質の状況を把握せず、現地の文化や慣習を無視して行われることが問題視された。(P31)
 
おそらく、韓国教会の失敗と誤解される多くの原因は、「現地の文化や慣習を無視」して、自国のキリスト教をそのまま持ってきてしまうことなのでしょう。
すでに骨身に染みている自分の文化ですから、その振る舞いや言動に自分自身が違和感を持つことはほとんどないでしょう。
ですから、自分が自然体で振舞ってキリスト教を語っているときに、違うことを語られたら双方に軋轢が生じるでしょう。
 
『韓国とキリスト教』の著者は次のように言っています。
海外宣教の障壁として、教会によって程度の差こそあるが、韓国のキリスト教が民族宗教化している側面が挙げられる。韓国化したキリスト教を、海外にいる外国人に布教したところで、はたしてどれほどの成果を上げられるかは疑問である。(p35)
 
有る程度の成長を経た韓国キリスト教会は、自国における国内宣教が行き詰ってきました。
そのとき宣教市場の未開拓地を求める対外宣教は国内に対しても自分の教会をアピールするよい宣伝効果となるようです。
とくに反日思想が根強い韓国の人々に対して、日本における韓国人宣教師の宣教の成功は大きな名誉となっているようです。
ビュン・ジェーチャン氏の国際福音教団が日本の福音宣教において中心的な役割を担っていたことは、韓国内におけるビュン氏の名声を高めたことでしょう。
しかし、独自に発展した韓国化したキリスト教が、日本という精神風土にあっているかは、実は私も疑問に思っています。
ビュン氏と非常に親しい高麗神学校の校長の昔元太(ソク・ウォンテ)氏が講義に来たとき、アメリカ軍のイラク侵略を神の摂理によるものだと主張し、ブッシュには信仰あるクリスチャンのブレーンが祈りを持っていると正当化していました。
おそらく日本の国民性を知って配慮できる人であれば、たとえ思っていてもそのような事は決して言いません。
私はこんな事を言えてしまえる人間を校長にする神学校とはいかなるものかと、恐ろしく思いました。
そのような中で、韓国のキリスト教が内に抱えた問題が、日本においても表面化しているのが、カルトおよび教会のカルト化問題といえるでしょう。
 
長老派やメソジストなど教派を問われず、韓国教会はその後も長く分裂の道を歩んでしまった。とりわけ長老派は、統合・合同・高麗・基長のほかに、いくつもの教団を生んだ。そのために不健全な教団も長老派という看板に隠れてしまうことが多くなっている。韓国でカルトが身を隠すために最も好む名前は「大韓耶蘇教長老教会」であるという皮肉な結果になっている。(P115)
 
韓国のキリスト教が間違っているのではありません。
そうではなく、正しくは非常に韓国化したキリスト教であるということなのでしょう。
 
多くの日本人が韓国のキリスト教会に抱いているのも、韓国のキリスト教は欧米のキリスト教とは異質なのではないかという印象であろう。キリスト教がその土地の風習を取り入れることは往々にして見られるが、韓国ではそれが著しいように感じられる。(P133)
 
韓国教会が主催する伝道集会では、俳優や歌手などの著名人を使うことがあるが、このことも著名人を広告塔に仕立てて宣教活動を行なおうとするカルトの方法と印象が重なってしまう。そもそも、日本には韓国のキリスト教会に関する情報がほとんどないのである。たとえカルトであったとしても、自らそう標榜するわけがないので、大抵の日本人には、外見からは区別がつかない。そういう状況で、韓国系の教会に足を運ぶ人が数多くでるとは考えられない。(P133)
 
『韓国とキリスト教』においては、韓国におけるキリスト教の歴史と発展について、分かりやすく記載されています。
韓国における原始アニミズム的巫教、父系社会性、儒教、東学党、天主教、日本の統治と迫害、またアメリカ軍による解放と民族意識など、その観察は多岐にわたります。
最後に、外来宗教にすぎないキリスト教が民族宗教となった最大の要因を、著者はキリスト教の教えの中に見ています。
それは、選民思想です。
 
韓国教会は、イスラエルの民が神から選ばれたとする「選民思想」を韓国人に当てはめた。すなわち、特に優れた能力があるわけでもない韓国人を、神は自らの民としてお選び下さったというのである。それによって、韓国人は、神と契約を結んだことになる。初期の段階で、朝鮮の奇蹟的成長に感激した外国人宣教師たちは(Chosen(朝鮮)の表記に神から選ばれた人々、すなわち「選民」の意味を与えていた。1919年の三・一独立運動以前に『選民』という雑誌が刊行されている。韓国教会では、植民地時代に「民族的苦難」という意識から内面的信仰を重んじる神秘主義的傾向が強まり、それが当時の日本教会からは「ユダヤ的・旧約的」キリスト救と見られていたことが指摘されている。そして、その傾向は現在も変わってはいない。韓国人が自分たちにイスラエル的選民思想を当てはめることによって、キリスト教を民族宗教と見なすことが可能になったと言えよう。(P154)
 
統一協会が韓国に対する「選民思想」に基づいていることはよく知られています。
日本にもたらされた韓国のキリスト教会がもつ文化的歴史的な問題が、宣教熱とともにどっと流入したとき、整理されずにそのまま持ち込まれた形となってしまったようです。
 
韓国のキリスト教は独自の体質を持っていることは、ある程度理解したうえで、カルト化問題も理解する必要があるようです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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「エリヤハウス」http://www.ehj.jp/
 
プロテスタント教会が、オカシナ教えを広め始めた現状に強くプロテストする必要を感じ、私はあえて「エリヤハウス」のオカシナ教えをここでとりあげています。
なぜこのようなオカシナ教えをプロテスタント教会の多くが受け入れてしまっているのだろうか。
サッと一読するだけで、明らかにオカシイことは牧師であればすぐに理解できるものです。
分かっていて採り入れたのであればその理由を知りたいし、分からずに採り入れたのであれば相当恥ずかしい話しです。
ある教会で勧められ、このような学びのために夫婦で合計14万円も支払った人たちもいます。
これが日本のプロテスタントの現状ということなのでしょうか。
こんな代物がまかり通るようでは、日本のプロテスタント教会は物笑いの種にしかなりません。
数ある牧師さんたちは、どうして「オカシイ」と声をあげず、むしろ受け入れる人が増えているのでしょうか。
日本のプロテスタント教会にカルト化教会がはびこるのも道理です。
統一協会のカルトが大手を振って歩くのも、理解できたような気がします。
 
このテキストは巧妙なトリックが仕掛けてあります。
これはカルト化教会の牧師がよく使う手法ですが、自分に都合の悪いことを言う相手を、「神の敵」「サタン」もしくは「サタンに利用されている者」と位置づけます。
この手法がエリヤハウスのテキストの最初にも見られます。
 
まず、最初にエリヤハウスのスタッフがあいさつ文を見てみましょう。
とくに見てほしい部分は、下線を引いておきました。
 
エリヤハウスの訓練プログラムにようこそ!主がこのコースを受けるように召してくださっている人全員がここに集うことを、私たちは祈っています。皆さんの中で、この訓練を始めることを決心するにあたって、厳しい敵の攻撃にさらされた人もいるでしょう。私たちが健康や健全さを求め、また御国の拡大を求めていく時、敵は直ちにその計画を邪魔しようとしてきます。しかし、勇気を出してください。あなたを責めるために作られる武器は、どでも役に立たなくなるのですから!皆さんが真理の御言葉を的確に用いる働き手としてふさわしい者となるために訓練を受けていく時、神は必ず健康も、旅も、ビジネスも、家族や持ち物まで守ってくださるということに、私たちは信頼を置いています。
 
つまり、この学びを受講することに反対するものは、往々にして惑わす者であり、「敵」の位置に立たされることになります。
 
さらにもう一つカルトがマインドコントロールで使用する手法なのですが、まずは相手を安心させて、信じ込ませてから独自のオカシナ教えを注入していきます。
おそらく受講者はこのテキストを学び始めて、まずは安心するのではないかと思います。
なぜなら、このエリヤハウスのテキストの「基礎課程Ⅰ前期(第1週)」は、後半部まで通常の学びであって、オカシナ教えは見られないからです。
エリヤハウスの学びに反対した者たちが間違っていたと思い込むには十分です。
すっかり安心して、エリヤハウスの学びに心を開いたところから、オカシナ教えが入り込みます。
オカシナ教えは、基礎課程Ⅰ前期の後半部分より導入されます。
そして次のテキスト、基礎課程Ⅰ後期(第2週)のテキストでは、前回の記事でも紹介した妊娠中のセックスに関するページで、「胎児の否定的反応」として以下のことが書かれています。
 
胎児の否定的反応
男性生殖器に対する理由なき恐れ。
― 性行為によって親が傷ついたことによる反応。
― 男根的な形のものに対する恐れが伴うことも。ナイフなど。
 
妊娠中のセックスによって、胎児は「男根的な形のものに対する恐れ」を抱くようで、次に何をいうかと思えば「ナイフなど」といいだします。
男性の生殖器でナイフを連想するとは、下ネタというよりもギャグです。
この学びは、「真理の御言葉を的確に用いる働き手」によって作成されたものではないことが明らかです。
かつて、統一協会に潜り込んで『原理セミナー』を受講したとき、教区長が「朝鮮半島は日本に向かって突き出しているから韓国は男性側で、日本は女性側になる。」と語っていたのを思い出しました。
「男根的な形のものに対する恐れ」=「ナイフなど。」というのは、これと同じレベルです。
 
エリヤハウスのテキストは最初の方は安心させるために無難な学びが書かれています。
ところが、しばらくして安心させた後、「基礎課程Ⅰ前期」の最後の方のページP153からは「家系の罪」というオカシナ教えが入り込みます。
 
P159の「家系の罪のための祈り」をご覧ください。
 
主よ、____さんの人生にある問題は、家系を通してきたものです。私たちには、家系を通して受け継がれた罪のパターンをどうすることもできません。だから今、十字架のもとに持って行きます。
 
どうか、____さんの家族と、その家系に連なるすべての人々とのあいだに、イエスの十字架を置いて下さい。____の罪(具体的に)の影響から、守ってください。御言葉には、イエスはサタンの業を打ち砕くために来られた、とあります。サタンがこの家族に働いてきたこれらのパターンを、どうか打ち砕いてください。
 
主よ、あなたの清めの血潮によって、この血筋をさかのぼって洗い清めてください。____さんがこの罪に加担した部分を赦して下さい。(具体的に、どのように関わったかを告白する。)そしてどうか、敵の足場を取り除いてください。イエスの血潮によって、この家族が覆われますように。私たちは悔い改め、あなたのいやしを感謝します。
 
主よ、この罪にまつわる構造を、どうか打ち砕いてください。イエスの御名によって、これまでこの家族をこの罪に誘惑してきた、親族に働く霊を縛ります。 以下省略
 
次のブログには、この「家系の罪」の学びを受けてしまった信徒が喜んで証ししている様子が書かれています。
>最後の時間に「家系の罪」がとりあげられていたことには驚きました。欧米発のこうしたトレーニングプログラムでは見落とされてきた領域だと思っていたからです。さらに、幼少期に形成される「基本的信頼感」にヒビが入ってしまうことが神様を見る目を曇らせ、神様からの祝福の水をせき止めてしまうことにも「なるほど」と思わされることしきりでした。

「家系の罪」などというオカシナ教えを語り出したら、もはやキリスト教ではありません。
そして、愚かにも、真理の御言葉を的確に用いる働き手」であれば決してやらないことまで、免疫のない信徒にやらせます。
P157の「家系の罪からいやされるために」では、「家族の歴史をたどり、明らかに繰り返されているパターンを見つける。」といって、
一 家系図を書く。
一 成育歴を用いる。
一 聖霊による悟りを求める。
 
一体、家系図を書いて何をさせたいのでしょうか。
かつて、統一協会のビデオ学習施設に潜り込んだとき、その施設の所長に「家系図を調べましょう。」としきりに誘われたのを覚えています。
なぜ、キリスト教会で同じことをさせられるのか、不思議です。
 
ウィリアム・ウッド、パスカル・ズィヴィー著『霊の戦い 虚構と真実』のP53-62には、この「家系の罪」というオカシナ教えの間違いを丁寧に解説しています。
 
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要は、エリヤハウスはキリスト教の基礎養育を受けた者であれば、転ばないであろう基礎的な教えで転んでいるのです。
『霊の戦い 虚構と真実』では、このようなオカシナ教えの聖書的根拠として用いられてしまうのが、出エジプト20:5、34:7、民数記14:18、申命記5:9であると解説しています。
そこで、もう一度、エリヤハウスのテキストを見ると、いやはや全く同じです。
P155の「1:遺伝 DNAを通して、私たちは肉体的・科学的に先祖の一部である。私たちが受け継ぐのは」という箇所では、「出エジプト記20:5、34:7、民数記14:18,33」とあります。
まるで同じです。
申命記5:9は、このオカシナ教え「家系の罪」のタイトル横にデカデカと掲載されています。
 
『霊の戦い 虚構と真実』においては、この「家系の罪」の間違いを<「先祖の罪」・「先祖の呪い」の虚偽の教義>として紹介しています。
たとえば、出エジプト20:5を見てみましょう。
 
それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
 
ここには、「父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼしとあります。
出エジプト記34:7、民数記14:18、申命記5:9もそうです。
『霊の戦い 虚構と真実』には、これは「咎」であって「罪」との違いを理解する必要があることが書かれています。
そして、「私たちの罪は一度赦されたのです。それなのに、一度赦したはずの神が再び私たちに向かって『父母、祖父母、曾祖父母の罪を背負いなさい』などとおっしゃるでしょうか。決してそんなことはありません。」と、実に正しくもっともなことを伝えています。
一方で、エリヤハウスは自らを真理の御言葉を的確に用いる働き手」と自認しているようですが、一体これはなんでしょうか。
『霊の戦い 虚構と真実』にはこのオカシナ教えの虚偽について、もっと詳しい解説がなされていますが、私なりの言葉で別の角度から「家系の罪」の間違いを解説したものを以下に掲載します。
 
これは、私が今年2月2日の主日礼拝でメッセージした内容の抜粋です。
 
エゼキエル18:2
「あなたがたは、イスラエルの地について、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く』という、このことわざをくり返し言っているが、いったいどうしたことか。
 
さて、イスラエルの民は捕囚について自分たちの先祖の不義ゆえに自分が苦しんでいると考えて、その責任を先祖たちに帰そうとしていたのです(2)。
父親が「酸いぶどう」を食べたのに、なぜ食べていない子供の「歯が浮く」ことがあるでしょうか、あるはずがありません。
罪というのは遺伝するのでも、血統によるものでも、前世のカルマでもないのです。
そのようなことを聖書は完全に否定しているのです。
アウグスティヌスの原罪思想が間違って理解されたために、罪が遺伝するなどというまったく聖書とは異なる教えが紛れ込んでいるのを見ます。
とくに、最近、プロテスタントの大きな教会で「家系の罪」などというものを教える学び(エリヤハウス)などを採りいれているところがあります。
イスラエルの民がバビロン捕囚の原因を先祖たちの罪のせいにしているとき、自分たちが先祖よりもなお悪いという事実を棚上げにしているだけでした。
先祖たちが積み上げて来た不義の土台に乗っかっているのです。
先例があればそれに乗っかる人たちが後に続きます。
だから悪の前例は1000代に及ぶのです。
彼らの罪は、先祖たちの土台にあるのか、その土台に乗っかっている人にあるのか。
もちろん、その先祖たちの土台の上に乗っかっているその人に罪はあります。
先祖の土台に乗っかるならば、その人は先祖の土台よりもなお悪いのです。
その土台から降りよ!と神さまは繰り返し語っているのです。
だから悔い改めて土台から降りる必要があります。
 
 
 
 
 
 
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日本のプロテスタントの比較的大きな教会で取り入れられて始めた「エリヤハウス」のテキストです。
その内容は尋常ではない教えが溢れています。
なぜこのようなテキストが受け入れられてしまうのか、私には理解できません。
健全なキリスト教会で、ある程度の基本的な教えを受けた人ならば明らかに異常であることはすぐに分かるはずです。
ところが、かなりの教会がこのテキストを用いての学びを教会に取り入れています。
この学びを取り入れた教会の教職者たちは、おそらく組織運営のためだけに取り入れたとしか考えられないのですが、どれだけ大変な事をしてしまったのかをよくよく認識して、すぐにでも正常な感覚を取り戻す必要があります。
とくに、この教えが「聖書的」な教えと受け入れられてしまうならば、まさに「聖書的」というフレーズ自体が罠です。
「聖書的」といってしまえば、その釈義に大きな幅があって、見事に誘導されてしまいます。
たとえば、電車の中でお婆ちゃんに席を譲るという道徳行為だって、広く解せば「聖書的」です。
ハリーポッターのような魔術を使う映画を見ないことも、広く解せば「聖書的」です。
「聖書的」という言葉を用いて、たとえば「聖書的ではないからハリーポッターは見ない方がいい。」「聖書的ではないからテレビや雑誌は見ない方がいい。」というならばどうでしょう。
それが積み重なって行くとき、判断の自由が奪われて不自由になっていきます。
エリヤハウスはこのレベルの「聖書的」で人間をただ不自由にしています。
そのような洗脳プログラムが何に有効かといえば、「教会組織の運営」という一点のみです。
さらに、「家系の罪」を持ち出す時点で、キリスト教の教えからして完全にアウトです。
 
本来、牧師としての基礎養育をうけた人間であれば、あのような基礎的な間違いはすぐに気づけるものです。
ところが、牧師でありながら、このような教えを神の聖なるキリスト教会に導入するのであれば、その目的はまさに「聖書的」ではありません。
 
 
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高いお金を払ってまでしてこの学びを受講する理由の多くは、「勧められたから」でしょう。
教会が受け入れているのですから、その教会に集いたいと願っている人は必然的にエリヤハウスの学びを受け入れる他ありません。
組織の流れに逆らう方向で、「キリストにのみ立つ」ということが、はたしてできるでしょうか。
たとえ、かつての私のようにそれができた人間がいるとします。
でも、多くの人がそうかといえば、違います。
 
 
 
エリヤハウスのテキスト『祈りのミニストリースクール』「基礎過程Ⅰ後期」P97-102を見てみましょう。
 
「このレッスンでは・・・
私たちに備わっている性的な性質は、幼少期から注意深く訓練される必要があります。このレッスンでは、幼年期と思春期によくある性的体験、例えばおむつとトイレのしつけ、生殖器をいじること、ポルノ、マスターベーション、デートなどについて見て行き、親としてこれらの問題を取り扱う上で必要な、健全な聖書的味方を学びます。」
 
妊娠中のセックス
・夫婦間のセックスは神聖なものであり、妊娠中であっても、害を及ぼすことはない。
・妊娠中のセックスが罪深い形、あるいは情欲的、無神経、賢明でない形で行われた場合、胎児によくない影響を与えることもある。
 
胎児の否定的反応
男性生殖器に対する理由なき恐れ。
― 性行為によって親が傷ついたことによる反応。
― 男根的な形のものに対する恐れが伴うことも。ナイフなど。
・セックスが汚れたもののように感じられること。
― 母親の環状に対する反応。
― ポルノ的影響に対する反応。
・生まれた時から情欲の霊、また肉における情欲の習慣を持っていることもある。
― 婚前交渉、売春、父親や母親が情欲的 (第一コリント7:14)
 
性的な面での傷のための祈り
祈りのミニストリーをしている人
 (ポルノに関して) 父なる神さま、あなたこそが、すべてを造られたお方です。あなたの御業はすべてのよきもので、益となるものです。ポルノは、どのような形式であっても、あなたの造られたものを汚し、冒涜するものです。それは自分自身と人、そして何よりあなたご自身に対する罪です。
 
祈りを受けている人
 主よ、私はポルノがやめられません。ポルノを偶像としてしまいました。それが罪であることを、認め告白します。このため、私は婚姻の契約を汚し、私の伴侶を欺いてしまいました。私たちの結婚を、あなたのご計画以下のものとしてしまいました。また私は、自分自身とわたしの家族を暗闇の力にさらしてしまいました。自分自身と家族、そしてあなたとの関係を傷つけてきたことがわかりました。私は罪を犯しました。どうか、_____(具体的に挙げる)を赦して下さい。
 
祈りのミニストリーをしている人
(マスターベーションに関して)主イエス様、_______さんを素晴らしい賜物として造ってくださったことを感謝します。けれども今、あなたが本来与えてくださった素晴らしい目的が、歪んでしまっています。イエス様、今、心合わせて祈り、あなたをこの状況にお招きします。緊張感を解消するために始まったことがやめられなくなり、今では家庭や仕事などに問題をもたらしています。緊張感の解消が必要となった原因の傷を理解すると同時に、今、あなたの赦しといやしをもたらしてください。
 
祈りを受けている人
私は______が________したことを赦します。主よ、私自身の罪深い反応と、心に抱いた裁く想いを赦してください。(具体的に挙げる。)
 
祈りのミニストリーをしている人
イエスの御名によって、あなたが赦したように、あなたも赦されたことを宣言します。_____、あなたは赦されました。主よ、この衝動を取り除き、十字架に釘づけにしてください。その駆り立てる力を殺し、______が、行きぬきをするための新しい行動を身に付けられますように、自分の思いとからだを制していく力を与えてください。主よ、汚れを洗い清めてください。罪悪感と恥意識を洗い清め、彼を回復させてください。これからも、あなたとあなたの道を選びとっていけるよう、霊を建てあげてください。必要な時には、助けを求める勇気をお与えください。
 
 
 
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私にはギャグにしか思えないこのような学びを真剣に受講している人たちがいます。
そして、マスターベーションをしている男性諸君のために祈りまで始めます。
そのことを一生懸命にイエスさまに祈っている姿はもはやキリスト教ではありません。
 
エリヤハウスのいう「聖書的」というのは、初めから終わりまでこのレベルでの話です。
そして「性の問題」に対してここまで教会が露骨に介入して指導してしまえるのは、統一協会くらいのものです。
 
本来、人間の心には「闇」の部分があります。
人には決して見えない部分です。
そこでは人間的な思いがたくさん存在して、対立したり、葛藤があったりして、矛盾したりもしています。
でも、その「闇」でこそイエスさまと対話する必要があるのです。
人間の心の大切な機能です。そこにはイエスさまだけが入ることができます。
ところが、エリヤハウスのテキストは「イエスさまの教えだ」というような感じで、人間が介入してしまいます。
人間が触れてはならないもの、人間が入ってはならない場所、イエスさまだけが触れることができるもの、入れる場所というのがあります。
その場所にイエスさまをお招きできるように、私たちは労苦する務めがあるのでしょう。
エリヤハウスの教えは、「聖書的」だと言いつつも、まるで反対のことをしています。
 
さらに、「家系の罪」という教えについていは、教理的にも完全にアウトです。
後にこれもとりあげます。
本来、牧師であればそのくらいの教理の間違いは簡単に理解できるはずです。
もし、それができないのであれば、残念ですが牧師としての最低限のキリスト教理解もないということです。
 
本当に残念ですが、このようなテキストを用いていることは恥ずかしいことです。
 
教会に蒔かれた毒麦「エリヤハウス」 2
日本のプロテスタント教会の危機 〜エリヤハウスの虚偽の教え「家系の罪」

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