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紀行文

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妙行寺

妙行寺 (紀行文2007.7.24)  名古屋市中村区

虎退治で有名な加藤清正公を祀る妙行寺を訪ねる。
清正公の法要が清正堂で大勢の信者を集めて行われていた。
旧暦の6月24日は生誕日であり、享年50歳でなくなった日でもある。

妙行寺はもと「本行寺」という真言宗の寺であった。
永仁2年(1294)日像菩薩によって日蓮に改宗される。
天文年間(1532-55)に中興の日勢上人によって、正悦山妙行寺と改称された。

慶長15年(1610)加藤清正は名古屋城築城の際、余材で妙行寺を再建した。
生誕地であるここに妙行寺を移し、先祖の菩提をとむらった。

門をくぐると、左右にそれは大きい立派な石灯籠が立っている。
左手に清正公を祀る、清正堂があり、法要の真っ最中であった。
お堂の左手に生誕地との標があり、奥に「清正旧里之碑」がひっそりと立っていた。

境内の中央奥に加藤清正の銅像が見える。
陣羽織姿で、長い烏帽子を被った堂々とした風貌である。

加藤清正は、母が秀吉の母と従姉妹関係にあり、5歳のとき秀吉の膝下となる。
14歳で長篠の戦いに初陣、15歳に元服し虎之助清正と名乗る。
備中冠山城攻めでは先陣をとり、「本能寺の変」後は秀光軍を破る。
秀吉と柴田勝家との「賤ヶ岳の戦い」では、七本槍の一人として活躍した。

天正14年(1586)秀吉の九州征伐に従う。
その功績により、肥後の半国25万石を与えられ、熊本城を居城とする。
秀吉の死後は、家康に従う。
「関ヶ原の戦い」では、九州にとどまり西軍勢力を次々と討ち破っている。

二条城での秀頼と家康の会見には、秀頼の後見として和解を取り持つ。
同年、慶長16年(1611)帰国途中発病し、熊本にて亡くなる。

清正は築城の名手としても名高い。
熊本城、蔚山倭城、江戸城、名古屋城など数々の城の築城に携わっている。

イメージ 1

犬山城

犬山城 (紀行文2005.7.7)

イメージ 1 

個人が所有する国宝として有名なお城。
今は財団法人「犬山城白帝文庫」が管理している。
国宝である松本城・彦根城・姫路城らと比しても最古の城である。

木曽川を背に断崖の上に建つ、見栄えのある城だ。
3層の城郭はそんなに大きくはない。
唐破風の屋根と、白壁が美しい。
犬山城は日本の白帝城とも呼ばれている。
中国の白帝城は李白の「早発白帝城」の詩で良く知られている。

一階は石塁上にある為、くぼみを設けて、
ここから階段を上がって城内に入る様に造られている。
薄暗い空間に、石積みが目の前に迫っている。
急坂な階段、軋む板張り、古城の風格がある。
天守閣の最上階は高欄の間と呼ばれ、四方は回廊になっている。
半間ばかりの幅の回廊で、風も強く、一歩出ると足がすくむ。
係りの人に、小牧城の位置を問う。
やや霞がかかり、眺望はきかなかったが、うっすらと小牧山が見られた。
小牧長久手戦の折、徳川家康の本陣が小牧城におかれ、
ここ犬山城には豊臣秀吉が入城し合い対峙した。

信長の叔父に当たる織田信康が木ノ下からこの地に城を移したのが始まり。
戦乱の世、城主は幾度も代わった。
中仙道、美濃街道の要所であるこの地は常に戦いの場でもあった。
関が原戦後、尾張藩主の付家老であった成瀬正成が城主になり、
その後、現在に至るまで代々成瀬氏が引き継いでいる。

天守閣入り口の横に「大杉様」という杉の大木がある。
長年この杉が天守閣を風雨から守っていたが、
落雷にあい枯木となって根元の方しか残っていない。
その枯れ杉に、ノウゼンカズラの蔓が巻きついて繁っていた。

朝辞白帝彩雲間
千里洪陵一日還
両岸猿声啼不住
軽舟己過万重山


イメージ 2
 
如庵
犬山城の東隣に「有楽苑」と言う庭園が広がっている。
その一角に国宝の茶室「如庵」がある。
織田信長の実弟である有楽斎が建てた茶室である。

茶心ない私であるが、旧正伝院書院の庭先で「お薄」を頂く。
庭先の庭園を見ながら、いっぷく。
心落ち着き、優雅な気分にしたれる。
係りの人から「如庵」の特徴について説明を聞く。

利休好みの草案茶室と異なり、武家風好みの端正な造りである。
特別の拝観日以外は、垣間見ることしか出来ない。
杮葺きの落ち着きのある茶室。
床脇に三角形の板が敷かれていて、うまく空間をつっている。
床柱は手斧で削ったままの野趣を残した趣向である。

「如庵」は3度引越している。
有楽斎は京都建仁寺の塔頭である正伝院に隠居し、茶室を作った。
明治になって、三井家に買い取られ、東京麻布に移築された。
昭和11年国宝に指定され、災害等への考慮から大磯の別邸に移した。
昭和45年名古屋鉄道の所有になり、ここ「有楽苑」に引越した。
有楽斎の生まれ故郷、尾張の地に落ち着いた訳だ。

利休の「待庵」 京都山崎 妙喜庵
小堀遠州の「密庵」 京都大徳寺 龍光院

清洲城

清洲城 (紀行文 2005.6.22)

JR東海道本線・東海道新幹線の車窓から良く見られる。
桜で有名な五条川を渡るところ、清洲城跡地を2分して走り抜けている。
勿論、この天守閣は新しい物で、平成元年に再建されたものである。
本来の天守閣は五条川を挟んだ反対側の小高い丘に、その跡を残している。
現在そこには、織田信長の祠がひっそりとあった。
合掌

清洲城は室町時代、尾張の守護職であった斯波氏が築いた城で、
守護代として織田敏定が支配していた。
織田一族の闘争の末、織田信長が那護野城から移り入城した。
信長は、この清洲城から、桶狭間の合戦に出陣したのである。
この時の様子が、郷土館「清洲城天守閣」の2階にジオラマとして展示されいる。

JRを挟んだ南側は公園になっており、本丸があった所と推定されている。
中央の小高い所に、織田信長の銅像が建てられている。
桶狭間の出陣の姿と説明があった。
首から下がった長い数珠が気に掛かった。
この後、比叡山を焼き討ちするにいたる信長公の一姿なのか。

本能寺の変の後、信長の後継者を決める会議がここ清洲城で行われた。
秀吉は信長と一緒に討たれた嫡男信忠の子三法師を、
宿老の筆頭であった柴田勝家は信長の三男信雄を推挙した。
主君信長の仇討ちをした秀吉が、優位に立ち天下を手中にすることになる。

家康の「清洲越え」が実施されるまで、
鎌倉街道・伊勢街道の合流地点として、又中山道にも連絡する要所として、
200年間尾張の中心と栄えた清洲である。

人間五十年、下天の内をくらぶれば
夢幻の如くなり
ひとたび生を得て 滅せぬ者のあるべきか

那谷寺

那谷寺 (紀行文2007.06.08) 石川県小松市

粟津温泉の帰路、那谷寺に寄る。
那谷寺は粟津の温泉とともに僧泰澄が最初に開かれたお寺である。
養老2年(717)泰澄は、霊夢に現われた千手観音の姿を彫って岩窟内に安置する。
「自生山・岩屋寺」と名付けたのが始まり。

泰澄は「越の大徳」と呼ばれ、白山信仰の開祖である。
白山は、清らかで優麗な女神が住む山として神聖化され、信仰の対象となっていた。
泰澄は白山に登り、修行し、女神が十一面観音と同じであると感得する。
「自然智」の教えをもたらし、白山信仰が始まったのである。

寛和2年(986)に花山法皇が那谷寺に行幸されている。
法皇は、岩窟内で光り輝く観音三十三身の姿を感じられ、
観音霊場三十三所がすべてここにあると思われたのである。
那智山と谷汲山の「那と谷」をあわせて那谷寺と改め、自ら中興の祖となった。

イメージ 1

山門をくぐると、参道がまっすぐ伸び、数百年たった杉椿の樹林が見事だ。
森厳さ感じながら、静寂に身を包まれている。
参道の左手には小川が流れ、回り一面が苔で覆われている。
躑躅が見ごろで、華やかさを演出している。
こんな時、お寺っていいなあと思う。

イメージ 2

参道をすこし進むと右手に休息所のお堂が見える。
お堂の中をのぞくと、立派な大日如来さまが安置されていた。
現在、三重塔が改修中で、本尊の大日さまがここでお休みになっておられるだ。
宝冠をかぶり、凛々しい姿の大日如来座像である。
法界定印を結んでいるので、胎臓界の大日如来である。
合掌

イメージ 3

参道をさらに進むと、左手に池が見え、その向こう岸に大きな岩石が現れる。
声を呑まんばかりの光景である。
奇岩遊仙境と名付けられたこの岩肌にはいくつもの洞穴があり、石仏が祀られている。
洞穴の間を、岩を削って小規模な階段が巡らされている。
これが正しく、観音菩薩の住む補陀落浄土を髣髴とさせる世界なのである。

一番奥の大きな岩石のところに本殿がある。
一枚の大岩壁に沿って、懸崖造りの拝殿が建てられている。
四棟舞台造りで、京都清水寺の縮小版だ。
拝殿に登り、唐門から本殿、大悲閣に参詣する。
本殿は岩窟内に建てられていて、中の厨子に本尊千手観音像が安置されている。
薄暗いお堂の中、お前立ちが祀られていた。
南無観世音

本堂の岩窟の中を一周する「胎内めぐり」がある。
全ての災い、汚れを洗い流し、新しく生まれ変わるという信仰である。

改修中の三重塔、つづいて護摩堂、鐘楼堂と回る。
那谷寺は南北朝時代、兵火によって一山堂宇ことごとく灰塵と帰した。
寛永17年(1640)、三代加賀藩主前田利常が、後水尾院の命を受けて再興している。
岩窟本殿、拝殿、唐門、三重塔、護摩堂、鐘楼、書院を造営している。

三重塔と護摩堂との間にある楓月橋の展望台からの眺めは素晴らしい。
奇岩遊仙境が一望でき、楓と松の新緑が目に鮮やかである。

元禄2年(1689)松尾芭蕉が、ここ那谷寺をおとずれている。
「奥の細道」の道中、門人の曾良と中山温泉を尋ねている。
8月5日、曾良と別れ金沢の門人北枝と一緒に那谷寺に参詣している。
楓月橋を降りた平地に、芭蕉の句碑がある。
  「石山の 石より白し 秋の風」

山門近くまで戻り、特別拝観されているお庭をめぐることにする。
金堂華王院は朱の柱と白壁が鮮やかで鎌倉時代の和様建築様式である。
華王院は平成2年の再建で、堂内には丈六の十一面観音菩薩像が祀られている。
木肌がそのまま、まだ新しい綺麗な観音さまで彩色も美しい。
合掌

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華王院から書院に渡り、縁側から庭を拝見する。
前田利常が、小堀遠州の指導仰ぎ、別部ト斉に作らせた名園とある。
対面には如是庵の茶室が設けられ、寺院茶庭として有名らしい。

書院から奥に広がる庭園は、回遊式で種々の庭木が目を楽しませてくれる。
岩石の一部が露出し、深山幽谷の面影も感じられる。
普門閣に寄り、寺の宝物を拝見し、那谷寺を後にした。

墨俣一夜城跡

墨俣一夜城跡  (紀行文 2006.5.25)

秀吉が一夜にして城を築いたと伝えられ、全国的に知られている。
当時は木下藤吉郎と名乗り、まだ足軽頭にすぎなかった。
信長は美濃攻め・稲葉城攻略のため、この地に砦を築く必要があった。
有力家臣の佐久間信盛、後に柴田勝家に命じたが、失敗に終わっていた。
軍議の折、藤吉郎がこの砦造りを買って出た。

藤吉郎は、蜂須賀小六や前野小左衛門らの加勢を得る。
この土地の豪族である「川並衆」を上手く活用したのである。
材木は木曽川の上流域の山から切り出し、寸法に切りそろえる。
それを筏に組んで運搬し、墨俣で陸揚げして、一気に組み立てた。
藤吉郎は、一夜にして砦を築くことに成功したのである。

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現在この跡に、城郭天守の形で「墨俣一夜城」が建設されている。
4層5階建ての鉄筋コンクリート造りで、歴史資料館となっている。
5階の展望室からは、長良川・犀川・五六川の流れが見える。
堤には桜の並木が続いている。春には見事な眺めになるのだろう。
北側には金華山が望まれ、岐阜城がはっきりと見える。

イメージ 2
昭和43年の伊勢湾台風の災いで、旧家前野邸の土蔵が壊れた。
この折、「前野家文書」「永禄州俣紀」らの古文書が見つかった。
これらの史料により、墨俣一夜城の全貌が明らかになった。
前野家の御子息が、整理解読し「武功夜話」として著された。

永禄九年(1566)10月12日早朝、馬柵を築き、夜間に城を建造。
13日夕方には場柵と櫓が完成。
15日に信長が入城している。
東西120間、南北60間。2階建て高櫓5棟、平櫓3棟の砦であった。
功により、藤吉郎は墨俣城主となり、天正元年(1573)まで居城した。

墨俣の地名は「洲の俣」からきている。
多数の河川が合流して州の俣の形状を呈している所から付いた。
長良川と支流犀川などの合流点、西南岸に位置する。
室町期以降、墨俣の宿として、鎌倉街道の要地であった。

城郭が立つ広場の奥に神社がある。
その横に小さな祠があり、豊国神社とあった。
秀吉を祀り、出世を夢見る人の参拝で人気だそうだ。

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