高蔵寺ニュータウンの入居が始まって今年40年になるそうだ。 名古屋市の中心部から北西17kmに位置する、東西約4km・南北約4kmに渡るニュータウンで、名古屋市のベッドタウンとして開発された。 日本で二番目に古い大規模ニュータウンらしい。 この地名にもなっている高蔵寺を訪ねたときの紀行文です。 高蔵寺 (紀行文2006.5.9) 新聞記事で薬師如来座像の御開帳を知る。 薬師堂は17年に1度の開帳だが、天井画の完成を記念して、 今回特別に拝観できるとの案内であった。 雨雲の中、高蔵寺へ出かけた。 寺院には、快晴より曇り空が合うのかも知れない。 時折霧雨が降り、しっとりとした堂宇の佇まいである。 この時期の長雨を「卯の花くたし」と言うらしい。 山門を入って、すぐ右手に薬師堂が見える。 小ぶりな薬師堂だ。 どんな薬師さんかと、わくわくしながらお堂に入る。 薄暗い陣内の奥に、それは立派な仏様が鎮座されていた。 半丈六の如来さんと思われる。 お堂が小さいせいか、思ったより大きな仏様に吃驚させられた。 合掌 失礼ながら仏様の間近まで進み出て拝観させて頂く。 童顔のゆったりした、大らかな感じのする薬師如来坐像だ。 秘仏のせいか、保存状態がよいのだろう。 桧の木造で、彩色はなく素地で木目も実に美しい。 両脇には薬師如来とは不釣合いの小さな菩薩像が安置され、 その左右に十二神将が祀られていた。 薬師三尊とそれを守る神将の形式だが、薬師さんが立派過ぎる。 栞によればこの薬師さんは、 お寺の南東五百メートルの所、玉野川の景勝地、鹿乗ヶ淵から、 白鹿に乗って、お上がりになった霊像だといわれている。 創建は承平3年(933)で開祖は智蔵僧正とある。 従来神祠を守る神宮寺であったが、高蔵寺と言う寺院名に変わった。 むかしは一山十二坊もあったとある。 このあたりを高蔵寺と呼ぶことからも偲ばれる。 名古屋市熱田区に高座結御子神社(たかくらむすびみこ)がある。
このあたりの地名を高蔵町(たかくらちょう)と呼ぶ。 高蔵寺と同じ「井戸のぞき」の祭礼が行われている。 子供にこの井戸を覗かせると「虫封じ」の霊験があるという。 熱田社の摂社で、高倉下命(たかくらじのみこと)を祀る。 高倉下とは、高倉主で字にしめすとおり霊剣を納めてある倉の主と言う意味。 本殿は尾張造りと言う特殊な形式で、なかなか優雅な造りだ。 |
紀行文
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神護寺 (紀行文 2007.5.2) 新緑の高雄山・神護寺を訪ねる。 数年前、紅葉真っ盛りの時訪ねたのを、懐かしく思いながらバス停を降りる。 勿論、高尾山は「錦雲渓」と言う名の通り、紅葉の名所である。 しかし、新緑のもみじ葉も素敵である。 赤いもみじの花が、さわやかな薫風に飛ばされ、舞い散っている。 清滝川に架かる朱の高雄橋を渡ると、そこはすでに聖域を思わせる。 坂道の石段が続き、身を引き締めながら、参道を登らなくてはならない。 新緑と、小鳥のさえずりが心を癒してくれている。 「ホー・ホケキョ」と「ツキ・ヒー・ホシ」と聞えているようだが・・・・・・? 途中、「硯石」のある茶屋で昼食を頂く。 透けたもみじの淡い緑葉が、部分重なり合って色濃く見えたりし、実に美しい新緑だ。 神護寺は、和気清麿が、愛宕五坊の一つとして建立した高尾山寺が前身である。 天長元年(824)に、河内にあった和気氏ゆかりの神願寺と合併して神護寺となった。 正式には「神護国祚真言寺」と言うそうだ。 延暦21年(802)に、最澄が高尾山寺で法華会を行っている。 清麿の長男である和気弘世が、伯母の三回忌に、最澄を呼んで法要を営んでいる。 一躍、好評を得た最澄は、唐への還学生に選ばれることになる。 一方、空海は同じ遣唐使集団の中に、一留学僧として唐に渡っている。 大同4年(809)、帰朝した空海は高尾山寺に入山し、その後14年間住持している。 高尾山寺は、空海が真言宗立教の基礎を築いた由緒ある寺院である。 弘仁3年(812)、最澄がここで空海の灌頂を受けている。 最澄と空海、ときの傑僧二人が、ここ神護寺で合間見えていたのだ。 その後、仲違えをする二人であるが、当時を偲ぶに感動を禁じえない。 最澄は「阿闍梨灌頂」の儀式を頼むが断られる。 「理趣釈経」の経典を借りる書状を送っているが、これも断られている。 二人は夫々に、最澄は天台宗、空海は真言宗の宗祖となって活躍するのである。 茶屋から楼門まではまっすぐで急な石段が続く。 息を切らしてたどり着くと、四天王の持国天と増長天が迎えてくれる。 門を潜ると、山寺と思えないほどの広く、平らな場所に出て、明るさが増していた。 すぐ右手に和気公霊廟。 奥に進むと、五大堂、毘沙門堂、大師堂、さらに右手には金堂らの堂宇がならぶ。 神護寺では毎年5月1日から5日まで、虫払い行事が行われている。 この期間、各お堂がそれぞれ開けはなたれ、新しい空気を入れるのかと思っていた。 残念ながら、虫払い行事は寺宝の中でも仏像は対象外であった。 従って、五大明王像、毘沙門像、板彫弘法大師像は拝見できなかった。 そして、多宝塔の五大虚空菩薩坐像は、前もっての拝観依頼が必要であった。 神護寺は平安時期に2度の災害で、堂塔のほとんどを焼失している。 寿永3年(1184)文覚上人が後白河法皇の勅許を得、源頼朝の援助にて復興している。 応仁の乱で再び兵火を受け、大師堂を残し焼失。 元和9年(1623)、龍厳上人のとき、楼門、金堂(いまの毘沙門堂)、五大堂、鐘楼を再建。 大師堂は空海の住居「納涼坊」で、その佇まいはひっそりと落ち着きのある風情である。 入母屋造り、杮葺きの住宅風の仏堂である。 空海がここで真言密教の基礎を築いたのであろうか。 金堂へは、さらに整然と積み上げられた石段を登らなければならない。 金堂は、多宝塔と共に昭和10年に再築された新しいお堂で、堂々とした佇まいである。 堂中に入ると、内部は広く、しかも薄暗い。 中央厨子の中に薬師如来像が立っておられるのだが、ぼんやりとしてよく判別できない。 正座して薬師さんに合掌。 目が暗闇に慣れるにつれ、徐々に薬師さんの輪郭、姿がはっきりしてくる。 南無瑠璃光 金堂本尊薬師如来立像。 威風堂々として、周囲を圧するような精神性を感じさせる。 ありがたいといった感謝の気持でなく、まやかしの無い厳しさを求められている。 目を細めた森厳な表情、ボリューム感のある体躯は、親しみやすさより威圧感さえある。 平安初期の作とされ、高さ約170センチの一木造である。 唇に朱が塗られ、眉、瞳に墨を入れる以外は彩色がなく、素木仕上げで美しい。 肉桂が高く、螺髪がはっきり渦巻いている。 への字に結んだ唇、力強い眉と鼻の彫り、引き締まった頬の張り。 重量感のある筋肉質な体躯は、胸部から腹部にかけ、はち切れんばかりの緊張感がある。 衣を波立たせている太ももや、ずっしりと立つ両足にも、威厳が漂っている。 甘えを許さない厳格な「慈」の愛を感じさせる。 仏の愛は「慈悲」の愛。 観音が「悲」の愛で、如来は「慈」の愛だ。 母親が持つやさしい愛が「悲」で、父親が持つ厳しい愛が「慈」である。 この仏さんは、見上げるのではなく、同じ高さでお参りしたい方が相応しい気がする。 もとの金堂(いまの毘沙門堂)ではどんな様子であったのであろうかと想像してしまう。 両脇陣には、日光・月光菩薩、十二神将像、四天王が祀られ、瑠璃光浄土を守護している。 神護寺宝物虫払行事 毎年5月1日から5日の間、書院にて数々の宝物が展示される。 いったん楼門を出て、左手の書院に向かう。 広い境内と違って、書院内は見物人でかなり混雑していた。 三部屋ある中、一番奥の間に今回の旅の目的の一つである宝物が展示されていた。 源頼朝の人物画像である。 素晴らしいの一言に尽きる。 思ったより大きな作品で、143センチ×112センチの一枚絹に描かれているとある。 釈迦如来画像を中心に、左に源頼朝画像が、右に平重盛画像が架けられていた。 頼朝像は美男子で、強い意志と剛健さがみごとに描かれている。 あの澄んだ瞳は猜疑心にさいなまれた頼朝の表情がよく表現されている様に見えてならない。 一方、重盛像は剥落が目立つが、やさいい顔立ちでの人物像である。 全体に、ほのぼのとした暖かみを感じる画像で、頼朝像とは対照的な雰囲気である。 藤原隆信の筆とされ、世界最高峰の優秀な人物画である。 フランスの文化相マンドレ・マルローは「祈りなき至高の精神性」と絶賛している。 神護寺略起によれば、後白河法皇はここに仙洞院・別荘を開かれおられる。 法皇を中心に、二人と藤原光能、平業房の画像が取り囲んで掲げられていたとある。 六十三点に及ぶ宝物が陳列されている。 「灌頂暦名」は弘法大師の実筆で、メモのような走り書きで興味をそそる。 灌頂に出席した僧の名前を記したもので、最澄の名もある。 「釈迦如来像」は平安末期の画で、衣、光背、台座などに繊細な切金文様と彩色で飾る。 赤い色相がよく、衣の模様が細かく美しい。、赤如来の名も持つ。 数々の宝物が所狭しと並べられ、時代を超えて拝見できる素晴らしさに感動である。 今回は虚空菩薩には会うことができなかった。
艶麗な密教彫刻の粋を誇る仏像であると聞いている。 事前予約をして、紅葉の頃また尋ねてみたいものだ。 |
毎年4月22日、23日、城崎では「温泉まつり」がおこなわる。 稚児行列や露店が立ち並び、地元の人や観光客で賑わう。 この両日、温泉寺の本尊十一面観世菩薩像がご開帳される。 温泉寺 (紀行文2007.4.22) 兵庫県城崎町 千年の歴史を誇る城崎温泉。 大谿川に沿って柳並木が続き、川に架かる石橋が情緒をかもしだす。 この温泉地を見守ってきたのが、温泉寺である。 今日、明日は「温泉寺まつり」で、温泉街には屋台も出店され賑わう風情である。 この両日、温泉寺のご本尊である十一面観音菩薩像がご開帳される。 温泉三昧とご開帳をかねて尋ねてみた。 温泉寺は温泉街通りが終わる辺りの山麓に建立されている。 麓の入り口には、山門と薬師堂、それに続く参道。 中腹には、本堂と多宝塔。 山頂には、奥の院がある。 それぞれを、山腹を走るロープウェイが結んでいる。 山門から徒で登ってお参りしたい気もあったが、ロープウェイを利用した。 登るにつけ、眼下に温泉街がよく見え、円山川が入江の海のように望まれる。 その先には、半島の山と日本海が薄っすらとひらけている。 中腹の駅で降りると、目の前にお堂が建っている。そこが温泉寺の中心になる。 本坊のお堂の脇から、案内されて本堂の内陣へお参りする。 中央の大きな厨子の中に観音さまは、堂々としていらっしゃった。 量感に満ちた、素晴らしい観音さまだ。 全体に鑿の跡が細かく残っており、それが又このふっくらした観音さまを印象付けている。 けっして荒彫りといった感じでなく、気取らない木彫りの良さを充分に表現している。 優しいお顔立ちで、親しみやすい観音さまだ。 幅広い宝冠台、両眉から大きめの鼻、厚ぼったい瞼、花弁様の唇、すべて愛らしい。 合掌 厨子を開いていても大きな観音さまの上半身しか拝めない。 高さは195.4cm。それ以上の大きさを主張して、どっしりと立っておられる。 33年ごとの本ご開帳には、観音さまは厨子からお出になり全身を拝む事ができるそうだ。 身を清めた若衆が数人で観音さまを担ぎ、天蓋の下に安置するとの話であった。 桧の一本作りで、平安時代の作とされている。 温泉寺縁起図によると 奈良時代の仏師稽文は大和長谷寺の二丈六尺の十一面観音像を造った時、 もう一体の観音像を造らんとしたが完成せず、そのまま海中に投じたが、後に 稽文が湯治のため当地を訪れたとき、円山川河口近くの田結庄にこの像が漂着 していたのに出会う。像を完成し、道智上人を迎えて温泉寺を開創した。 寺の説明では、この観音像は大和と鎌倉の長谷寺の観音像と同木で造られたという。 温泉寺の観音像は幹の一番先のほうの材で造られたそうだ。 だから「木の先」から城崎になったとか・・・・・・。 本尊の両脇に、小振りな四天王が祀られている。 素朴で愛らしい四天王たちである。 150センチ位の一木造で、平安末期の作とされている。 本坊に戻って、持仏堂の十一面千手観世音菩薩像を拝見する。 伏し目がちで、整った端正な顔立ちである。 撫で肩のやさしい姿態で、穏やかながら凛々しくたっておられる。 無数の脇手が、円形にまとまりこの像に柔らかさを与えているようだ。 もとは、山頂にある奥の院に祀られていた観音さん。 高さ144.7センチの桧の一本造り。 平安時代特有の温雅で穏やかで柔らかい作風である。 合掌 温泉寺は、城崎温泉を開いた道智上人より創建された。 養老元年(717)上人はこの地に来て当所鎮守四所明神に祈願し神託を得る。 1千日の間、八曼陀羅の修行をなし温泉寺を開いたとされる。 稽文から託された観音像をお祀りする霊場にふさわしいこの地に伽藍建立を大願した。 天平10年(738)時の帝聖武天皇より末代山温泉寺の号を賜った。 平成30年に本ご開帳がある。
蟹と温泉と観音巡りの旅もいいものかもしれない。 |
美江寺は岐阜市の官庁街に建っている古刹である。 ここに、奈良時代の作とされる、本尊十一面観音菩薩立像が安置されています。 秘仏で、年に一回4月18日に御開帳されます。 美江寺 (紀行文2007.4.18) 美江寺の本尊十一面観世音菩薩像をおまいりする。 いい仏さまを拝見させていただいた。 主張しなくても存在そのものが有難く思える仏さまだ。 合掌 等身大で、すらっと立つ姿態が、美しい。 童顔で、目、鼻、口がこじんまりとまとまっていて、顔を少し上に向けている。 口を少し「へ」の字にまげ、いたずらっ子のような可愛らしさがある。 全体に温和な感じで、おおらかな表情がよく出ている仏さまである。 胸には見事な瓔珞が乾漆で盛り上げてつくられ、細かい模様が美しい。 ところどころ金箔が残っていて、往年の姿が偲ばれる。 左手には水瓶を持ち、右手は垂れて大きな数珠を持つ。 この観音さまは、もと伊賀国名張郡の伊賀寺に安置されていた。 その後、西暦700年代に、美濃本巣郡美江寺の里に移されたとある。 この地は木曽、長良、揖斐の三大川があり、常に洪水に悩まされていた。 その為、霊験あらたかな本尊を移し、治水の祈願をしたのである。 養老3年(719)元正天皇の勅願により、長屋王によって七堂伽藍が建立した。 同8年(724)元正天皇は行幸され落慶供養がとり行われたとある。 荒れ果てた川床も清流と化し、美しい長江の意味から美江寺と名づけられた。 現在の地に移ったのは、天文10年(1541)である。 斉藤道三が岐阜城を築くに当たって、城下の繁栄を願いここに移築したのである。 寺の話によれば、多くの堂宇が立ち並んでいたが、戦災で焼かれてしまった。 今や、官庁街の一角に追いやられてしまったのである。 この仏さまは脱乾漆造りで、木像より軽く出来ている。
空襲の折、住職が一人でこの像をおぶって避難させたそうだ。 今は、本堂の裏側に厳重な耐火造りの蔵が造られ、その中に安置されている。 重いコンクリートの扉を閉じれば、暗黒の世界だが、火災等の難は一切ない。 |
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岐阜城 (紀行文2007/04/07) 時はまさに春爛漫、桜を愛でながら岐阜城を訪ねる。 岐阜城は標高328.9メートルの金華山の頂にそびえ立つ。 この城は古くは稲葉城と称した。 鎌倉時代の政所の執事であった二階堂山城守行正が砦らしきものを構えていた。 その後、一時的に荒廃していたようである。 斉藤道三が、戦国大名として名を馳せ稲葉城を築いた。 永禄10年(1567)、織田信長が斉藤龍興を攻め、稲葉城を落とし岐阜城と改めた。 信長の天下取りの始まりである。 信長はここに、熱田神宮の大工職、岡部家の手になる確固たる城を築く。 後に安土城を建築するが、その先駆となった城で、豪華さを誇ったようだ。 ルイス・フロイスの書簡に、岐阜城と多聞山城は別格であったと記されている。 大正3年(1575)信長は安土ヘ移り、長男の信忠が岐阜城主となる。 本能寺の変の後、三男の信孝は秀吉軍と合流して明智光秀打倒の旗頭になり討ち破る。 しかし、清洲会議によって、織田の後継者は信忠の長子三法師(秀信)に決定。 信孝は三法師の後見役として、美濃国を与えられ、岐阜城主となる。 信孝は秀吉に対立する柴田勝家に接近し、秀吉を打倒仕様とするが失敗に終わる。 天正13年(1585)秀吉は、池田恒興の家督を継いだ輝政を岐阜城主とする。 天正19年(1591)には、秀吉の養子である豊臣秀勝が岐阜城主となる。 秀勝は信長の子で、秀吉の養子になった人物である。 朝鮮の役に出兵し戦死している。 秀勝の死後、信忠の子秀信が城主となる。 徳川家康と石田三成との天下分け目の戦いが始まる。 織田秀信は、家臣の反対を押し切って石田三成方についてしまう。 徳川方の福島正則、黒田長好、池田輝政の軍が、岐阜城を攻略。 秀信は投降し、上加納の浄泉房(円徳寺)で剃髪した。 家康は関ヶ原の戦勝後、大阪方の防衛の為、加納に築城を命じた。 本多忠勝築城奉行は、短期間の築城の為、岐阜城の石垣、木材を多用した。 その折、岐阜城の天守は加納城の「御三階櫓」として移築された。 ここに岐阜城は名実とともに廃城となったのである。 明治43年(1911)加納城に移築された天守の姿をここに建立された。 昭和18年に放火にあい、現在の天守閣は昭和31年の再建による。 天守閣からの展望は360度見渡せ、素晴らしい眺めである。 春霞で遠景はぼんやりとしおり、東には伊吹山、養老山脈の陰影が見える。 近くには、長良川の流れと岐阜の町並み、桜の木々がところどころに花を咲かせている。 信長も見たであろう景色に、感慨ひとしおであった。 常在寺 岐阜城のある岐阜公園から、斉藤道三ゆかりの寺である常在寺に徒で参詣する。 折りしも「道三まつり」の日で、寺では斉藤道三の追善供養が行われようとしていた。 寺には関係者が三々五々集まっていたが、時間まで拝観は自由であった。 栞によれば、当山の創建は室町期の宝徳2年(1450)とある。 美濃国の守護代、斉藤妙椿が京都の妙覚寺から日範上人を迎え開山した。 妙椿は深く日蓮宗に帰依し、自分自身の菩提の為に当山を建立したのである。 第四世の日運上人と道三は妙覚寺で共に机を並べて修行した仲であった。 斉藤道三は、日運上人の計らいで、斉藤家への出入りが可能となったのである。 これより道三の「国取り物語」が始まったのである。 本尊は日蓮上人。
追善供養のため、本堂には座布団や椅子が準備されて、慌しさがあった。 什宝の道三と息子の義竜の画像を拝観して、早々に退散した。 |





