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永保寺 (紀行文2007.03.15) 多治見市虎渓山町 多治見は盆地だ。 夏は蒸し暑く、冬は厳しい寒さの土地柄だ。 前に訪ねたのは、暑い時期であった。 今回は3月、春とは言え寒い日の拝観となった。 永保寺は臨済宗南禅寺派の修行道場でもある。 厳しい禅の修業には適した環境なのかも知れぬ。 平成15年9月10日夜、永保寺は火災にみまわれ、本堂、大玄関、庫裡を全焼した。 現在、庫裡の再建工事が進められており、建設中の内部を見せて頂いた。 238坪に及ぶ大寺院建築の凄さを見せ付けられた。 庫裡のかまどは、特注で大口が3つ、小口が2つあってそれは大きなものであった。 釜は焼け残り使用されるとの説明であった。 幸いにも、観音堂と開山堂は難を逃れ無事であった。 観音堂 桧皮葺の屋根の反りが目に留まる。 のびのびと伸びた軒下の反りは、刀のごとく鋭く切れ上がっている。 上の屋根と裳階の屋根との反り具合もバランス良く、どっしりした安定感が出ている。 観音堂の左手奥は岩山の崖で、前方は池となって広がっている。 池の真ん中を丸味を帯びた橋が架けられていて、渡ることができる。 無際橋と書かれた橋亭が途中にあり、観音堂と相まって美しい景観だ。 観音さまを祀るに相応しい霊場の雰囲気が出ている。 観音堂は「水月場」とも「観音閣」とも呼ばれている。 夢窓国師が、正和3年(1314)に建立したとある。 入母屋造りの、鎌倉末期の唐様建築の代表作である。 重層のように見えるが裳階付きの一重層の建物である。 堂内には若い雲水が控え、観音堂について説明をされていた。 雲水の清楚さが、この観音堂の有り様をさらに引き上げているように思えた。 建物の造り全体が簡素ながら、重厚さを感じる。 内陣の床は板敷きで、座式礼拝ができるようになっている。拭板敷きと言うそうだ。 天井も大きな一枚板を並べ床と同じ造りで珍しい。鏡天井と言うそうだ。 正面の須弥壇には岩窟式の厨子に聖観音菩薩の坐像が安置されている。 この奇妙な岩窟は、近くを流れる土岐川の流木を集め、漆で塗り固めた物だそうだ。 聖観音菩薩座像は室町初期の作で、桧の寄木造である。 胎内仏が納められていて、「はらみの観音」とも呼ばれているとの案内であった。 温和で優しそうな表情の観音さまである。 南無観世音菩薩 厨子の裏側には、仏画らしきものが描かれていたが、薄くなっていて判別できない。 地蔵菩薩像らしい。 又、裏の棚には多くの古位牌が並べられていた。 歴代の住職や、有力な檀家たちのものなのであろう、立派な位牌であった。 観音堂の建築様式は実に簡素に造られている様に見える。 禅宗仏殿ながら、和様建築の手法を取り入れた折衷型らしい。 庇の軒にも垂木が一本も使用していなく板張りである。 枓栱も結組でなく、単純なものである。 尾垂木も無く、隅には隅木が取り付けられているだけである。 これであんなに旨く「反り」を造り出しているのに感心させられる。 出入り口の扉は観音開きになっており、美しい模様の格子が目を引く。 桟唐戸の上部に花狭間の組子がはめられていて、それは見事なものである。 開山堂 池の周りを回って西の奥まった処に、桧皮葺のお堂が見えてくる。 観音堂と同じように屋根の反りが美しい入母屋造りの開山堂である。 永保寺は正和2年(1313)に夢窓疎石が土岐氏の招きでこの長瀬山に庵居。 「山水の景物、天開図画の幽地なり」と庵を結び、禅寺を開創した。 文保元年(1317)夢窓疎石は永保持を仏徳禅師に託して上京する。 建武2年(1335)夢窓疎石が京都に臨川寺を開山。 永保寺は仏徳禅師が開山として改められた。 開山堂には夢窓国師と仏徳禅師のお二人をお祀りしている。 文和元年(1352)夢窓国師の示寂された翌年、仏徳禅師の没20年に建てられている。 当初は、お二人の坐像がある祠堂部分のみであった。 後に礼堂が増築され、祠堂とをつなぐ相の間と、三つの部分からなるようになった。 礼堂の外陣は一重の桧皮葺入母屋造り。 祠堂の内陣は裳階つき一重の桧皮葺入母屋造り。 相の間は両下造りの桧皮葺。ともに南北朝時代の建築物とされる。 やはり雲水が侍り、開山堂を案内しておられた。 堂内は石敷きで、ひんやりとした感触が身を引き締める。 正面の祠堂に、向かって右に夢窓国師、左に仏徳禅師の頂相が安置されている。 禅宗では、僧侶の肖像を頂相(ちんそう)という。 その奥に開山仏徳禅師のお墓である、宝筐印塔がお祀りされている。 屋内にあり風雨にさらされていないので、破損も無くりっぱな墓塔らしい。 雲水に尋ねたところ拝観は出来ないとのことであった。 開山堂の建築様式は観音堂とは違って、禅宗様がはっきり示されている。 礼堂の結組は三斗先組物を組み、軒には扇垂木が施され、派手やかな感じである。 垂木の並び、尾垂木、虹梁、木鼻の装飾、皆きめ細かく美しい。 扉の上部や窓には美しい花狭間の格子が用いられている。 外に回ると、三つの違った建物が全く違和感なく、溶け合っている。 年に一度、虫干しをかねて、寺宝の数々が展示される。 手が届く近さで拝観できたのは、感無量である。 禅僧らの揮毫の掛軸が、何本も架けられていた。 夢窓国師の真筆になる「春帰家」と「仏鑑」と書かれた軸。 仏徳禅師の真筆になる「吹毛不曽動」と書かれた軸と「辞世偈」の書。 圧巻は右の床の間に掛けられた三幅の白隠の「達磨図」。 息のかからんほどの間近で、見られる有難さに感謝の連続であった。 永保寺は観光寺院でなく、今なお修業道場として生き続けている禅寺である。
庫裡に続いて、大玄関、本堂と再建される予定である。 何年後になるのか分からないが、また落慶法要には訪ねてみたい。 |
紀行文
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乙津寺 (紀行文2008.02.21) 岐阜市鏡島 この日はいかにも暖かい陽射しに恵まれた佳き日であった。 乙津寺は鏡島弘法さんとして知られている。 京都の東寺、川崎大師とともに日本三大弘法に数えられている。 乙津寺は、天平10年(738)、行基菩薩が草庵を開創したのが始まりである。 自ら十一面観世音菩薩を彫刻して安置している。 弘仁4年(813)、弘法大師が当地に滞在し、七堂伽藍を造営し乙津寺とした。 よって、乙津寺の開山は弘法大師空海となっている。 弘法大師は嵯峨天皇の勅命により、乙津寺を建立している。 弘仁5年(814)には仏殿、講堂、金堂、宝塔、経蔵、鐘楼等が造営されている。 当時この地は乙津島と呼ばれる滄海であった。 弘法大師が37日間の懇訴によって桑畑になったとの言い伝えが残っている。 大師が宝鏡を龍神に向けて祈祷した処からこの地を「鏡島」と呼ぶようになった。 今日は弘法さんの日で、大師堂への参拝者が後を断たない。 四国八十八箇所巡りの本願達成の額が軒下のいたるところに飾られている。 蝋燭を灯し、線香をたいてお参りする姿が、懐かしく温かい思いにさせられる。 さて、私の参詣の目的は「国宝安置殿」にあった。 安置殿には十一面千手観音菩薩像、韋駄天像、毘沙門天像が安置されている。 昭和20年の空襲で、七堂伽藍のすべてが焼失した。 大師尊像、国宝仏体は住職が担いで、近くの長良川畔に避難し、難をまぬがれた。 安置殿の内はそんなに広くなく、奥の須弥壇の上に一列に諸仏が祀られていた。 有難いことに仏さまの真近くで拝見させていただいた。 十一面千手観音像は内陣の中央、厨子の中に安置されていた。 平安前期の作とされ、元の本堂の御本尊であろうと思われる。 優しいまなざしの観音様だ。 南無大悲観音菩薩 十一面のお顔を持つ菩薩、いろいろな人々を救うため化身して現れる。 千本の掌にはそれぞれ一つの眼があり、正式には千手千眼観音菩薩と呼ぶ。 すべての民衆を漏らさず救済しようとする、観音の慈悲の大きさを表わしている。 胴回りの衣に彩色がかすかに残っており、当時の華やかさを感じさせる。 光背が無く、四十二臂の塊がバランス悪く見えるのが気になった。 以前光背はあったが、空襲の際紛失したらしいとのお話であった。 この菩薩像のように千手観音像は、千本の手を四十二臂で表すことが多い。 観音像の右手に韋駄天像が安置。 なかなか立派な韋駄天像で、木像漆箔造りである。 兜が別木で、取り外しが出来る様に精巧な作りで、鎌倉時代の秀作である。 韋駄天は仏教界の天部に属し、四天王である増長天の部下の主将である。 足が速いので知られており「韋駄天走り」として有名である。 禅寺などの厨坊によく祀らている。 食事の準備のため、一日中忙しく駈ける回る厨坊の守護神として祀られた。 観音像の左手に、大振りの毘沙門天像が大きく構えて立っている。 毘沙門天も天部の守り神で、四天王としては多聞天として北方を守護する。 独尊としては毘沙門天として祀られる。 甲冑に身を覆い、右手を腰におき、左手に鉾を持つ堂々としたお姿である。 右側の翻った衣の一部が欠損しているのも、空襲の折に脱落したらしい。 素晴らしい仏たちを拝観する事ができた。 感謝 大師堂に向かって左前に梅の木があり花を少しつけていた。 弘法大師空海が杖を地面に差し込んだところ、梅の木となり花を咲かせたとある。 別名この寺を「梅寺」と呼ばれる由縁である。 乙津寺の北側から西側に長良川が曲流している。
昔から、老若男女の大勢の信者がお参りしたことであろう。 弘法さんには、川に「小紅の渡し」が設けらおり、たいそう賑やかになるそうだ。 |
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鉈薬師 (紀行文2007.2.21) 名古屋市千種区田代町 日泰寺の弘法さんの縁日、鉈薬師の医王堂が開帳される。 弘法市の雑踏から離れ、西門を北にしばらく行くと鉈薬師の門前に出る。 山門の両脇に中国風の石造の人物像が立っている。 門扉には葵の紋の装飾がつけられている。 何やら謎めいたお寺だ。 さほど広くない境内の奥に、こじんまりとしたお堂が建っている。 瓦葺の簡素なお堂で、医王堂の額が掲げられていた。 「今日は暖かで、お参りには最適ですね」地元の信者が言葉を交わしている。 堂内に入って、びっくりである。 中央須弥壇には5体の仏さまが、両脇には円空仏の勢揃いである。 須弥壇中央には薬壺を持った丈六の薬師如来坐像が安置。 目の大きい顔をされた薬師さんで、鎌倉時代の作とされている。 南無瑠璃光 本尊の薬師如来像の両脇には日光・月光両菩薩像が安置。 その両脇に、本尊と同じ大きさの阿弥陀如来座像と観音菩薩座像が安置。 これらの仏さまはみんな笑ってござる。 円空の作である。 日光・月光両菩薩の衣は大柄な渦模様で素朴さのある観音さまだ。 雲形模様の中に、それぞれ太陽と月を表現している。 何やら怪しげな微笑みで語り掛けてきそうだ。 阿弥陀さんはどんぐり型の丸顔で、木肌も美しいく、ホッとできる仏さんだ。 顔が大きめで、腹が少し出て、ずんぐりむっくりな阿弥陀さん。 衣の線は素直ですっきり、どっしりと座禅している。 観音さんは細長のどんぐり顔で、優しい感じがする。 大きめの顔で、スマートな八頭身美人ではなく、ずんぐるむっくりな観音さま。 かわいらしい蓮を持った手が愛らしい。 観音さんの笑顔は一段と楽しく、みんなの笑いを引っ張っているようだ。 合掌 仏像の背後の壁面には、田中納言の竜虎の図が描かれている。 なかなかの画だが、仏たちの魅力に負けてしまっている様だ。 医王堂の仏像は、薬師如来以外は円空の造作によるものである。 みんなみんな笑顔で、信徒を和ませてくれている。 10万体以上彫ったとされる円空仏。 荒削りの木肌の中に、不思議な微笑みをたたえた仏さま。 じっと傍にいるだけで、親しみが湧き出でてくるような魅力的な仏さまである。 圧巻は両側の脇檀に祀られた十二神将像である。 高さ1メートル強の一枚板に彫られた、何とも異形な趣の円空仏である。 各像の額には十二支の字が刻まれていて、順番に安置されている。 重々しさと、魔力的なものを感じさせる十二神将である。 「辰」と「申」の像はエイリアンさえ感じさせる。 円空38歳の作で、名古屋城築城の際の余材で作成したとされている。 鉈で彫ったとされ、鉈薬師の名の由来になっている。 左側の脇檀の一番手前に合掌している童の像がある。 十二神将に混じって祀られているが、実にかわいらしい姿の像である。 前かがみになり、一生懸命に手を合わせている。 こちらも合掌 鉈薬師は、寛文9年(1669)に張振甫によって建立された寺院である。 張振甫は明国からの亡命帰化人で、王侯の一族であった。 尾張藩の庇護を受け、この地に住み、庶民の医療につくした。 明朝皇族の霊を弔う為、上野村からお堂を譲ってもらい鉈薬師を建立した。 ここの町名は田代町だが、北西となりに振甫町という地名がある。 彼の名前が町名として残っているのは、彼の功績がものがたっているのでは。 振甫の名からは連想する事がある。 何故か小さい頃より「振甫プール」の存在と名前はよく知っていた。 名古屋ひろしといえども、当時はそんなにプールが沢山無かったのであろう。 張さんは、庶民に慕われる生活を送っていたのであろうと思われて仕方が無い。
素朴で親しみのある仏を作る円空さんに、作成をお願いしたのであろう。 鉈薬師に参拝すれば、いつでも笑顔の円空仏にあえるのだ。 |
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熊野速玉大社 (紀行文2008/01/18) 熊野三山の一つで、本宮から熊野川を下った千穂ヶ峰に鎮座する。 もとは、ここから南にある神倉山に祀られていたが、現在地に遷された。 神倉山の「旧宮」に対して「新宮」と呼ばれた。 参道の脇に梛の大樹が葉を繁らしている。 平重盛の手植えと伝えられ、樹齢1000年の大木、天然記念物に指定されている。 梛は熊野権現の御神木で、葉は笠にさして道中の魔除けとして使われた。 梛の葉は見ると面白く、主脈がなく葉脈が縦に平行に走っていて不思議だ。 やや厚味があり、縦には裂けるが横には枯れても千切れない葉っぱだ。 縁結びの守りとしたり、財布に入れて散財しないようにとの風習があるそうだ。 私もみやげ店で、一枚頂いて財布に入れましたが・・・・・・ 千早ぶる熊野の宮のなぎの葉を かわらぬ千代のためしにぞ折る 藤原定家 「日本第一大霊験所 熊野権現」と書かれた幟のある神門をくぐる。 鮮やかな朱の社殿が眼を見張る。 全体にこじんまりとしていて可愛らしく、色彩も美しくミニチュアを見るようだ。 新宮の主神は熊野速玉大神と熊野結大神の二神です。 それぞれ第一殿、第二殿に祀られでいます。 熊野結大神は熊野那智大社の主神でもあり、夫婦の神で一緒に祀られています。 二礼二拍一礼 熊野三山はもともと別々の神を祀っていたと考えられています。 この地は、奈良時代には山伏や修行者のたむろしていた聖地であった。 平安期以降、本宮、新宮、那智が三所権現と呼ばれ一本化されるようになった。 社殿構成も三神を相互に祀り合う形式になったと考えられます。 ここでは早くから神仏習合がすすみ、平安末期には本地垂迹説が広まった。 日本の神々は、実はいろいろな仏が化身として現れた権現だとする考え方だ。 本宮大社の家津御子大神の本地仏は阿弥陀如来で西方極楽浄土の仏さま。 速玉大社の速玉大神の本地仏は薬師如来で東方瑠璃浄土の仏さま。 那智大社の牟須美大神の本地仏は千手観音菩薩で補陀洛浄土の仏さま。 熊野三山、全体が極楽浄土の聖地として信仰されるようになった。 ここの「牛王宝印」は有名で48匹の烏文字で書かれていてる。 災厄除の護符として、また起請文の用紙として昔から使われている。 熊野信仰を説き広めた熊野比丘尼たちによって全国に知れわたった。 旧社の神倉神社は速玉大社の摂社になっている。
ゴトビキ岩がご神体で、2月6日の火祭り「熊野御燈祭り」がよく知られている。 |
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熊野本宮大社 (紀行文2008/01/18) 熊野三山の一つで、熊野川と音無し川の合流地点に鎮座する社。 もと熊野坐(くまのにます)神社といって、三山の中心的お社である。 全国に3000社ある熊野神社の総本山である。 表参道の大鳥居の横に大きな八咫烏の図柄の御神旗が立っている。 八咫烏は三本の足を持つ、神の使いの烏で熊野三山のいたるところで見られる。 日本サッカー協会のシンボルマークにも使われている。 鳥居から奉納旗がびっしり並んだ石段を登ると、熊野本宮大社の境内に出る。 大注連縄の張った神門と、その奥に落ち着いた雰囲気の社殿が見える。 神門をくぐると、檜皮葺きの古色蒼然とした社殿が建ち並ぶ。 社殿は入母屋造の相殿と正面切妻造向拝付き背面入母屋造りの2棟が並ぶ。 朱のあでやかな社殿ではなく、趣のあるお社で風格を感じさせられる。 相殿に第一殿、第二殿が、続いて第三殿、第四殿と続く。 主神は家津美御子大神で、中央の第三殿にお祀りされている。 二礼二拍一礼 二礼二拍一礼、二礼二拍一礼、二礼二拍一礼 降臨神話によると 崇徳天皇65年、大斎原の大きな櫟の木に、三体の月が降りてきた。 熊野連が不思議に思い尋ねると、真ん中の月が答えて曰く。 我は證誠大権現、両側の月は両所権現である。社殿を創って斎き祀れ。 これが熊野本宮大社の始まりとされる。 明治22年(1889)の大洪水で、大斎原にあった旧の社殿は流されてしまった。 熊野川、音無し川、岩田川に囲まれた中州から今の高台に移された。 現在、大斎原には大きな鳥居と、石の社殿が一部ひっそり残っていた。 熊野詣は900年代に宇多天皇、花山法皇の参詣から始まっている。 11世紀には貴族の間に熊野信仰が広がり始めている。 承久の乱以降、上皇、女院の参詣が途絶え、貴族の参詣も衰退している。 変わって、地方の武士の参詣が鎌倉後期に盛んになった。 室町時代に至って、民衆の参詣がピークになり「蟻の熊野詣」といわれた。 同時期、西国三十三ヵ所観音巡礼と連動して参詣するようになった。 参詣後、石畳の脇にある茶店で、「もうで餅」を買う。
多くの人々がここで茶を飲み、参詣の疲れを癒した事であろう。 |





