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国道1号線を南下したのはキムチパパに乗せてもらってフォークーン第一小学校に行った帰り道で、おしゃれな建物と白い女性の立像を見つけていたからでした。 キムチパパはいまだに軍の嘱託で、小学校へ行った日の午後は出勤しないといけないことを知っていたので何も言わず、このチャンスを待っていました。 『村立病院ダン・トゥイ・チャム』と書いてあります。 病院にしてはずいぶん瀟洒な建物、ベトナムではまずあり得ないと思いました。 これは残念、カブに跨ったまま病院なら見学はできないだろうと思っていたら、駐輪場整理の方が笛を吹いて手招きします。 「私は健康です」 そう言うと外国人だとすぐに分かったらしくて、カブのキーを抜いて私に返し整列駐輪してくれました。 「あっちに、博物館がある」 指さす方向はまるでリゾートホテルみたいに瀟洒な建物の中央、病院とは入口が同じです。 この方がダン・トゥイ・チャムさん、あとでタンさんに聞くと『従軍女医』だったそうです。 いっぱい当時の写真や日記などの資料があって、これは博物館ではなく記念館だと思いました。 胸像で見た通りの美しい人、『戦場の天使』と称された理由がよく分かります。 日本のマスコミだと、きっと『美しすぎる…』などと書くでしょうね。 1942年11月26日、ハノイのトゥリエム郡スアンフォン生まれ。 ハノイ医療大学の学生となり、1966年の卒業からすぐに軍医に志願して南部戦線に赴任されたとか。 赴任先が激戦地だったクアンガイ省デュックフォーで、多くの負傷者を治療しました。 1970年6月22日、米軍による病院攻撃によって27歳という若さで亡くなります。 こちらのHPから引用させていただきます、途中意味不明な箇所がありますが原文のまま。 『彼女が27歳で亡くなる直前、爆撃で彼女の患者5人が亡くなる事故があった。チャム医師は、残りの患者とスタッフを安全な場所に移動する手伝いをし、二日後、彼女は当時人のいなくなった病院を破壊していたアメリカ地上軍と戦った。「彼女は遺体を撃ち抜かれた。彼女には降伏するように説得したが、発砲してきた」とホワイトハースト氏は語った。彼女は、患者と看護婦を守りながら、中国の旧式のSKSという単発式のライフル銃で、重装備のアメリカ軍に応戦し殺された。ダン・トゥイ・チャムは、額を撃ち抜かれ即死して倒れた。 彼女のリュックサックは遺体のそばにあった。中から、小型のソニーのラジオ、包帯、局部麻酔薬、スケッチと彼女が治療した傷に関するノートが出てきた。北ベトナム兵大尉に書いたいくつかの詩の束と大尉の写真も出てきた。彼女の日記となる2冊のノートは、ジャングルの中の近くの道に落ちていた。ダン・トゥイ・チャム医師の長くて危険な戦争は終わった。27歳だった』
わけあって35年の間、アメリカ情報士官の手元に眠っていた日記がベトナムに返還され、2005年に出版されると40万部を売り上げる大ベストセラーになりました。 もちろん家内たちも回し読みをしたそうです、当時はそれほど入手困難だったらしい。 今では『決してお辞儀をしない人』とあまり評判はよろしくないけれど、この当時は若手政治家のトップスターでした。 オールバックに替えたのは首相になってから、個人的にはこの髪形の方が好感をもたれると思います。 日付は2005年8月、ダン・トゥイ・チャム病院建設の政府決定を伝えたシーンだとありました。 2006年2月にベトナム人民武装英雄勲章授与、同年3月24日病院起工と、あわただしく時は流れたようです。 敷地面積は3900平方メートル、外科・内科・小児科・産科の診療科目と10数床のベッドを保有する病院として建設されました。 今も彼女の思いはスローガンとなって、地域住民の健康と安心に寄与しています。 この橋は水道管を渡してあるだけで、バイクでは通行不能でした。 文明の利器にも、落とし穴があるようです。 でも、午後2時過ぎから降り出した雨がまだやまないので、残念ながら中止と決定。 これで5年連続、中秋節は雨。 |
ちょい旅
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