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このところ、はまっているのが森絵都さんと梨木香歩さんの本。
とりあえず、はまっている間にいっぱい読んでみようと、図書館から借りて読み漁っている。
森さんの本はまた今度にゆずるとして、先ほど「春になったら苺を摘みに」を読み終わった。
小説ではなく、梨木さんの本では初めて読むエッセイ。
このエッセイの前に「村田エフェンディ滞土録」を読んだばかりだったのだけれど、
この本の下地になっているのが、梨木さん自身の体験だったことがよくわかった。
「村田エフェンディ滞土録」は、明治維新直後のトルコに滞在する日本人の考古学研究者の話で、
滞在中の宿の国際色あふれる人たちとの日々をつづった不思議な話だった。
梨木さんの本はこれまでに、「からくりからくさ」、「西の魔女が死んだ」、
「沼地のある森を抜けて」を読んでいたのだけれど、どの本にも不思議な雰囲気が漂っている気がする。
「土着的」というか「どろどろ」したというか、人の生命の根本的な不思議さ、というか、
うまく説明できないけれど、人というのは表面上キレイに見えても、
実は内部では臓物がうごめいている、というのと似ている感じ。
「春になったら苺を摘みに」にも、そういった深い部分での生きる感じが漂っていた。
エッセイの中心は、彼女がイギリス時代に下宿していた家のウェスト夫人をめぐるお話で、
このウェスト夫人というのが、本当に一度会いたいくらいに素晴らしい人なのだ。
「理解はできないが、受け容れる」という大切な姿勢を持っている人。
そして梨木さんが出会う人や出来事、風景の数々とそこから垣間見える彼女の思考。
一番深く心に残っているのは、梨木さんの心の旅する方向性だ。
時々本を読んでいると、その作者と思考回路が似ているなと思うことがあるけれど、
梨木さんのはそれとは少し違う。
確かに似ているのだけれど、まだ私はそのレベルには達していない。
登山中に同じ山を登っているのだけれど、相手ははるかかなたの上にいる、という感じ。
同じような体験をしていても、彼女のほうが芯が強く、
人とのかかわりにおいても、もっと安定しているような気がする。
だから読んでいると、目指す方向性を示唆されたようで、視界がひらいたような広い気持ちになった。
心に残った言葉。
「日常を深く生き抜く、ということは、そもそもどこまで可能なのか。」
「相反するベクトルを、互いの力を損なわないような形で一人の人間の中に内在させることは可能なのだろうか。その人間の内部を引き裂くことなく。豊かな調和を保つことは。」
「二つ以上の相反する方向性を保つということは、案外一人の存在をきちんと安定させていくには有効な方法なのかもしれなかった。コツさえ見いだせば。」
「私はまださっきの波立った気分を引きずっていた。通じ合えるはずだ、と思った。この感情を彼に伝えたいと思った。」
「ディベートという名のスポーツを私は信じない。ああ、でも彼らがアルコールの場を離れて真摯にそのことについて考え合おうというのなら、私も語りたいことはある。」
「吃音のある人と話すのは好きだった。一つの言葉がその本質を露わにしていくような空気の振動のようなものが感じられるから。」
「理解はできないが受け容れる。ということを観念上だけのものにしない、ということ。」
「けれど、できないとどこかでそう思っていても、諦めてはならないこともある。」
それにしても最後の2ページが気になる。
いったい何が not capable なんだろう。
彼女の目指す方向性はなんだろう。
これからも作者の方向性を見つめていたいと思わせる、そんな本なのだった。
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