超越論的人生論―いかに生くべきかを問う人生論ではなく

人生いかに生きるべきかを問うのではなく、なぜ私の人生が始まっているのかを問う人生論。

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哲学メモ144

哲学メモ144

自分が死んだらどうなるのか。これは哲学を学んだから問うようになる問いというわけではない。ある時期になると子供でも自然に問うようになる。そして成人した後も何度も折に触れてこの問いがよみがえってくるだろう。つまりこの問いに対して納得のいく答えがずっと見つからないままであるということだ。この問いについて考えてみたい。

私が死んだらどうなるのか。これは私が死んだ後この肉体がどうなるのかを問うているのではない。それがどうなるかは察しがつく。それでは何がどうなるのかを問うているのか。そう問うている私というこの魂がどうなるのかという問題だ。

魂としての私自身は両目の奥、両耳の内側のあたりに”いる”のを感じる。ただしそれは脳という物質ではない。それは物質ではなくものを見、音を聞き、体に痛みを感じ、うれしさや悲しさを感じ、ものを考える生き生きとした主体、つまり意識主体である。

意識主体は意識にのぼることを言葉によって知る。つまり意識主体とは言語主体である。言語主体は感覚、知覚、記憶や想像にもアクセスできるから、言語主体は感覚主体、知覚主体、記憶主体、想像主体でもある。一言で言えば魂とは言語主体である。

私が死ぬとどうなるのかという問いは、私という肉体が生物学的に死ぬと言語主体である私はどうなるのかという問いである。しかし言語主体であるところの私は存在者ではない。「わたくしといふ現象」(M・K)である。

言語主体(=意識主体)としての私は生命体ではない。「有機交流電燈のひとつの青い照明」(M・K)のようなものである。だから生物学的な意味で死ぬということはない。何も意識にのぼらないなら私なるものは浮上してこない。他人がそれを死と呼ぼうが眠りと呼ぼうが当の私はそれを区別できない(そもそもその時点で私なるものは消えている)。私の肉体が死ぬと、もう何かを意識する内なる声(=言葉)は消えたまま私なるものは再び浮上してくることはないだろう。





哲学的な思いつきを文章にまとめずに、思いついたまま、閃いたままをそのまま書きます。その背景や脈絡の説明なしにただ断片的に書く。読んでくださる方には不親切な書き方ですが、文章にまとめないことによってかえって断片は広がりをもちうるのではないか。各断片には後で言及するのに便利なように投稿順に通し番号を付けます。
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偶然ですが、考えている領域が同じような気がしてます。

2018/3/5(月) 午後 2:52 [ Wonderer MICHAEL ]

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Wonderer MICHAELさん、コメントありがとうございます。

この記事では「言語主体(=思考主体)」などと書いていますが、それは私という主体ではないというのが最終的な主張です。この主張も常識的社会的には私の主張ということになりますが、原理的には私が言わされているだけです。

2018/5/8(火) 午前 11:30 [ チー吉 ]


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