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哲学メモ145
たとえば癌であることが医師から告げられたとき、多くの人が「なぜこの私が癌になったのか?」という思いにとらわれるらしい。今や癌は珍しい病ではないと頭ではわかっていたとしてもである。
「なぜなのか?」と問う疑問文は純粋にその理由を問うているとは限らない。何か不可思議なこと、納得のいかないこと、受け入れられないことが起きたときにも発せられる。癌患者が発するこの表面的な疑問形は実は癌になった疫学的な理由をたずねているわけではない。これはある種の哲学的な叫びなのである。
自分が癌になったとしても統計的に考えればそれほど不思議なことではない。毎年新たに癌になる人は何万人もいるのである。癌は珍しい病気ではない。だが自分がいざ癌になると「なぜ私が」と驚愕する。それは<私が癌になった>という事態は統計上の問題ではないからである。問題は<私>にある。
私は無数にいる人間のうちのひとりにすぎない。その人間が癌になったとしてもそれはたくさんの癌患者のうちのひとりにすぎない。驚くには値しない。しかし見方を変えれば、私とは唯一無二の存在である。たとえ何十億の人間がいようとも私であるのはそのうちのたったひとりである。人間としてはありふれているが、私となるものは同類を持たない唯一者なのである。癌になったことによって普段は忘れている<私の唯一性>があぶり出されたのである。
「なぜこの私が癌なのだ」という驚愕は日常の深淵から発せられた哲学的な叫びなのである。だがそれはすぐさまひとりの癌患者としての日常的な闘病に変じてゆくのであるが。
哲学的な思いつきを文章にまとめずに、思いついたまま、閃いたままをそのまま書きます。その背景や脈絡の説明なしにただ断片的に書く。読んでくださる方には不親切な書き方ですが、文章にまとめないことによってかえって断片は広がりをもちうるのではないか。各断片には後で言及するのに便利なように投稿順に通し番号を付けます。
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