超越論的人生論―いかに生くべきかを問う人生論ではなく

人生いかに生きるべきかを問うのではなく、なぜ私の人生が始まっているのかを問う人生論。

超越論的人生論とは何か

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超越論的人生論とは何か(8)
 
私が死ぬとき世界の中で私が死ぬのか、世界とともに私が消えるのか二通りの考え方があると先に述べた。遺言を書いたり、葬儀のやり方を親族に指示しておくというのは前者の世界像を信じていることになる。この考え方は自分の死も他人の死も世界の中での死であり、その意味では両者に違いはない。どちらも一人の人間の死として捉えている。しかし、私自身の死と他人の死とでは何かが決定的に違うはずだ。同じはずがない。他人が死んでどれほど悲しみに暮れようともすべてが空無になることはない。私は自分の臓器に進行がんがあると知らされたとき、自分自身の死ー他人の死とは決定的に異なる自分自身の死ーを強烈に感じた。
 
私は自分が死ぬことを真剣に考えた。そうして自分自身の死を考えることで、反対に今生きているということが強烈に意識された。死を考えることが生を考えることに反転したのである。世界が目の前に広がっているのは私が生きて存在しているからだ。私がいなくなれば物は見えず、音は聞こえず、匂いも味もせず、身体の感触もなく、何も感じることはないだろう。私が死ねばすべては無になる。そうだとすれば、私は私が死ねば消滅するような世界に生きていることになる。私が存在しているからこそすべてが与えられている。私が存在しているからこそ世界は今目の前に広がっているのだ。今見えている風景や鳥の声や大地を踏みしめる感触も私が生きているからこそのものである。
 
このようなすべての源泉としての私がなぜ存在しているのだろうか? 今まで他の人間たちが何人産まれようとも世界は現れなかった。この私が産まれてきて初めて世界が出現したのである。なぜこの人間が産まれると世界が開闢するのか? なぜ他の人間ではそうならなかったのか? 世界を出現させる〈私〉がなぜ存在するのか? そのような〈私〉はどのようにして〈誕生〉するのか? 超越論的人生論はそれを問う。そしてその答えを必ず見つけようとする。
 
次に問わなければならないのは、世界が出現する源泉としての〈私〉が存在しているとはどういうことか、そのような〈私〉が存在しているということはどのように知られるのか、ということである。そもそも〈私〉なるものは存在しているのだろうか?
 
(終わり)
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超越論的人生論とは何か(7)
 
眠りは経験ではなく、それゆえにその間の記憶がない。この場合の記憶がないというのは単に忘れたということではなく、現在進行中の眠りを経験できないために記憶に残らないと考えるべきだろう。今までに何度となく眠りを繰り返してきたはずだが、一度としてそれがどのようなものであったか覚えていたためしはない。夢は記憶しているとは言ってもそれは眠りそのものではない。だから眠りにおいてはすべては空無であると結論できる。
 
では、眠りを経験できないのに眠りについて語れるのはどうしてなのか。睡眠(無・意識)状態から覚醒(意識)状態へ戻ってくるからである。たとえその間のことを何も覚えていなし何もわからないとしてもそれを語ることができる。死の場合はもはやそこから戻ってくることはできない。戻ってきたならそれは死ではない。それゆえに何事も報告することができない。「死んだことがないのだから死については何もわからない」という考え方があるが、“死の経験”がないからわからないのではなく、死んだ当人が死について語りえないがゆえに何もわからないのではないだろうか。
 
認識する、意識するとは語ることである。語る主体としての私が眠りの中では消えている。眠りの中では何も語れない。目覚めなければ永遠に語ることはできない。それが死であろう。眠りは世界と自分が消えるという超越論的な出来事である。睡眠状態から脱することで、「その間は何もわからなかった、無であった」と語ることができる。眠りという現象が起こらなければ、死について何も推論も想像もできないに違いない。
 
死はどのような状態か語れないがゆえにわからない。眠りは無であったと目覚めた後で語ることでそれがどのような状態か察しがつく。それが死と眠りの違いであるが、眠りについて語ることによって死もまた眠りと同じように無ではないかと推論できる。
 
では死は眠りに似ていると考える根拠は何だろうか。まず他人の眠っている姿と死んでいる(死んで間もなくの)姿が似ているということがある。呼びかけても応答もしないし反応もしない(必ずというわけではないが)から、意識がないという点で眠りと死は共通しているように考えられる。そして自分の眠りを振り返って、その間の記憶がないことから意識はなく、したがってすべてが無であったという推論から、死ぬと意識がなくなりすべてが無になるだろうという推論が成立する。この背後には、意識がなくなれば私も世界も消失するという考え方がある。もちろんこの場合消失するのは客観的実在の消失ではない。現れとしての世界と私の消失である。
 
(つづく)
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超越論的人生論とは何か(6)
 
眠りは経験ではない。経験はどのようなものであれそれがなされるとき、世界と私が出現している。だが、眠りにおいては世界と私は消えてしまっている。では、私は眠りを経験していないにもかかわらず、自分は眠っていたとなぜわかるのだろうか。そして眠っている間、世界と私が消えていたとなぜわかるのだろうか。
 
〈私は眠っていた〉は一見したところ、〈私は散歩をしていた〉や〈私は食事をしていた〉と同じように経験を語っているかのように思われるが、実は、〈私はたぶん眠っていたのだろう〉という推論である。一方〈私は散歩をしていた〉は推論ではない。散歩をしていたのだという経験の記憶である。自分の経験は記憶されうるから、経験であれば自分が何をしていたかは、推論せずとも、記憶によっておのずと明らかになる。ところが、私の眠りは経験ではないないからその記憶はない。しかし、目覚めればそれまで眠っていたのだとわかるのはなぜか? それはほとんど自覚しないまま推論しているからである。
 
その推論はどのように行われるのだろうか。例えば、ふと気がつくと私は本の上に顔を乗せている。最後の記憶をたどると、私は本の上に顔をのせていたのではなく、本を読んでいたことを思い出す。それからどうしたかまったく記憶はない。本を読んでいたという最後の記憶から、本の上に顔を乗せているという今現在の状態との間がまったくの空白であるということ、つまりその間の記憶がないということから〈本を読んでいる間に恐らく眠ってしまったのだろう〉と推論する。
 
しかしその間の記憶がないとなぜ眠りだったと推論されるのか。それは経験の記憶が欠如している間を「眠り」と解釈するからである。するとこれは推論というよりも定義である。持続している状態が知らぬ間に途切れ、新たな状態が突如そこに接続される。その間は空無であり、それが眠りだとされるのである。
(つづく)
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超越論的人生論とは何か(5)
 
私の死
 
私の死を考えるとき二つの相反する世界像が出現する。ひとつは私の死後も世界は何事もなかったかのように持続していくという客観的世界像である。もうひとつは私の死とともに世界は消滅するという主観的世界像である。
 
日常の中では世界は客観的な実在だという世界観(世界像)が優勢である。世界とは〈私に現れている私の世界〉であるという世界観は背後に引っこんでいる。そのような世界観では人々と世界を共有するということはできず、何事かについて話をすることもともに行動することもできない。世界は客観的的な実在だという存在観、言い換えれば人々と世界を共有しているという信念によって人々と共にあるという実感をもつことができる。人と共にあるとき私は一人ひとりが別々の主観的世界に属しているとは考えない。人々と共にある日常の中では、世界は私が知覚しようとすまいと無関係に客観的に実在するという信念が強い。それが日常というものである。
 
そのような世界観で自分の死を考えると、私の死はチー吉という一人の人間の死であるという捉え方が優勢である。私の死は世界の中での出来事だ。私が死んだとしても世界はびくともしない。 しかし死を覚悟するとき、他の人間たちの死と自分自身の死はまったく違うことを鋭く意識する。他人の死はある意味でみな似ている。だが、人の死であっても私の死だけが特殊である。それまでは私の死も他人の死も一括して人の死だと思っていたというのに。
 
自分の死が目前にあると覚悟するとき、どういうわけか客観的な実在としての世界が後ろに退いていき、替わって〈世界とは私の世界だ〉という思いが強くなってくる。それは人々とともにある世界ー客観的世界ーに別れを告げるということを実感するからではないか。私の死を覚悟するとき、他の人とともにものを見、音を聞き、味を感じ、匂いをかぐということはもはやなくなるということを鋭く意識する。人々とともにあることが客観的世界像を支えてきたのである。死ぬ私は人々に別れを告げる。するともはや人々とともに見る実在世界は縁遠いものとなることを強く意識せざるをえない。それまで確固として実在していた客観的世界像はしだいに影が薄くなっていくことだろう。
 
他人が死んでも世界が消滅するわけではない。しかし私が死ねば世界は消える。私が死ねば永遠の無が始まる。死を覚悟するとこのことが強烈なリアリティをもって迫ってくる。
 
自殺する人間は最後に何を信じているのだろうか。自殺する人は何を信じて、あるいは自分の死に何を期待しているのだろうか。自殺する人はさまざまな理由で自分を死に至らしめるのだろうが、いずれにせよ幸福の絶頂で自殺するとは考えにくい。生活苦、苦痛、絶望、無意味さ、虚無感などのマイナスの状態の最中の自殺であると考えらる。このような状態に置かれるとなぜ自殺する人があるのだろうか。ひとつ考えられるのは、死ねばこのマイナスの状態もろともすべてが消えるという信念があるからではないかということだ。死ねばすべてが消える。自殺をするほとんどの人が信じているのはこの命題なのではないだろうか。
 
しかし死んだこともないのになぜそう言えるのだろうか。それは毎晩死の予行演習のようなことをやっているからである。私が眠ると、世界も私もすべてが消える。目覚めると、世界と私が突如現れる。昔から死とは永遠に目覚めない眠りだと言われてきた。私の眠りと死とは私には識別不能である。眠りと死が識別されるのは、目覚めた後である。目覚めた後に、「ああ、死ではなく眠りだったのだ」と事後的に自分が眠っていたことを知る。もしも目覚めることがなかったならば、眠りか死かは永遠にわからないままのはずだ。
 
(つづく)
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超越論的人生論とは何か(4)
 
自他の根源的相違
 
私の感覚するものごとだけが真に存在するものであるという存在観に立脚すると、自分と他人の根源的な相違が立ち現われてくる。この原始的な存在観によると他人の感覚や感情は私には感覚できないから〈ナイ〉ことになる。直接感じられる私の感覚や感情だけが〈アル〉のである。私だけが喜びや悲しみを現に感じるのだ。他人にはそれがない。この違いこそが私と他人を分ける根源的な相違となる。哲学者の永井均は「私」と「他人」との違いを異様な表現で次のように述べている。
 
「人間」として一括される存在者のなかに、まったくその存在の仕方の異なる二種類のものが含まれている――すなわち、私と他人。これほどそのあり方を異にするものを、どうして一括して扱うことができるだろうか。私と他人は、ある意味からいえば、富士山と蛇が似ていない以上に似ていない。(『魂に対する態度』 永井均 勁草書房)
 
私と他人との根源的な違いの対比によって、私なるものの特殊性、唯一性が浮上してくる。このような私なるものの独自性の発見が、「一体、なぜ、私などというものが存在するのか?」という驚きと不可思議さを生む。もし私が子供だったら、「どうしてぼくは生まれてきたの?」と問うたことだろう。「なぜ私の人生が始まっているのか?」という問いも本質的にまったく同じ意味である。
 
しかし、何十年生きようと、どんな人生経験を積もうと、子供のこの問いに答えられるようになるわけではない。そんな問いに答えはないと悟るだけだ。それならまだよい。世間のなかに長く身を置いていると、この問いの意味さえわからなくなってくるのである。
 
その理由は私と他人との根源的な違いがわからなくなってくるからである。なぜなら感覚の存在観よりも信念の存在観が優勢になってくるからだ。そうして社会の中で他人たちとさまざまな場面で関わり合ううちに、他人にも心がアルという信念は疑いえないものとなり、他人の心の実在性と私の心の実在性とは全く同等になる。そうして私と他人との根源的な相違は隠蔽されるのである。このとき私は、他人たち、というよりも、人々のなかに融け込んで「私たち」の一員として存在している。先ほど引用した永井均の言葉を借りれば、私と他人は「人間として一括される存在者」になるのである。人々とともにこのような生活(これは健全な生活である)を日々重ねるうちに、私はたくさんの人間のうちのひとりの人間にすぎず、それ以上でも以下でもなくなってゆく。
 
社会の中で暮らしていくうちに、私と他人の相違はチー吉という人間の身体的・人格的な特徴と他の人間のそれとの違いということになる。いわゆる個性の違いが自分と他人との違いだと考えるようになる。「君はオンリーワンなのだ。世界に二人といない、かけがえのない存在なのだ」などという言葉を真に受けてはいけない。この「オンリーワン」は他人から見た場合の唯一性である。これは他人がこの人間(私)と他の人間とを見分けるための特徴にすぎない。この人間が私であるということを決めるのは、この人間の個性や「オンリーワン」の唯一性ではない。
 
私の個性こそが私の唯一性だという考えは、私と他人とを分かつ私の根源的唯一性を隠す。私の根源的唯一性は、個性のオンリーワン性に取り違えられてしまうのである。私の根源的唯一性とは、何度も言うが、喜びや悲しみが直接的に生じるということである。
 
人々と共に日常のなかに融け込んでいる私は、自他の根源的相違を忘却している。そのような私は現に生じている痛みも、私にだけ起こる特別な出来事ではなく、誰もが経験する平凡な出来事だと捉えるのである。私は自分が存在していることに驚きもしなければ不思議にも感じない。それは考えるまでもないあたりまえのことになっている。そんなことを考えるよりもどう生活してゆくか、高級な言い方をすれば「いかに生くべきか」こそが問題になるのである。このような態度は信念的存在観によって導かれるのである。
 
しかし、自分自身の死を考えるときに自他の根源的な相違が再び浮上してくる。自分の死を考えることは感覚の存在観を賦活させるからである。
 
(つづく)
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